年毎に彼の身体に悪影響を伝へる初春の季節が過ぎ去った後、彼はまた静かなる書斎の生活をはじめた、去ってゆく時の足跡とぢっと見守ってゐるやうな心地をし乍(なが)ら。木蓮(もくれん)の花が散って、燕が飛び廻るのを見守っては、只悠久なるものヽ影をのみ追った。然(しか)しその影の淡々(あはあは)しいのを彼の心が見た。
前日からの風が夜のうちに止んで、朗らかな朝日の影が次第に移っていった。その時女中が一封 . . . 本文を読む
ガミガム、ガミガム戸を叩き、
「風じゃないよ、風ではありませんよ」
と呼んだ。
おぼろ月夜に風、風が吹いても月はおぼろになるものか。とにかく月におぼろで風も少々吹いていた。ガミガム叩く合間に、風もしきりに戸をゆすぶってくれている。家の入口の、すりガラスの張った格子戸、むかし爆弾の地響に、たびたびゆすぶられたものであるによって、桟はゆるみ、ガラスは神経質となり、戸の足の滑車は動脈硬化となってい . . . 本文を読む
小学三年の三平は獅子(しし)が強いというのである。小学六年の善太は大蛇(だいじゃ)が強いというのである。
「大きな獅子だよ。牛のように大きいんだよ。」
三平が言う。善太も負けずに言う。
「大蛇だって大きいさ。十メートルもあるんだよ。獅子が来たらすぐ木に登るんだ。獅子は登れないだろう。下でウォーウォー言ってる間に、上の枝に尻尾(しっぽ)をかけてさ、ズーッと下にぶら下がって来るんだ。獅子が飛びかか . . . 本文を読む
もう何年前にあるか思ひ出せぬが日は覚えて居る。暮もおし詰まった廿六の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天(まりしてん)の縁日へ出掛けた。十時過に帰って来て、袂からおみやげの金鍔(きんつば)と焼栗を出して余のノートを読んで居る机の隅へそっとのせて、便所へはひったがやがて出て来て蒼い顔をして机の側へ座ると同時に急に咳をして血を吐いた。驚いたのは当人ばかりではない、其時余の顔に全く血の気が無くなったのを見 . . . 本文を読む
勝てば官軍負けては賊の名を負わされて、思い出ずれば去ぬる二月降り積む雪を落花と蹴散らして麑城(げいじょう)を出でし一万五千の健児も此処(ここ)に傷(きずつ)き彼処(かしこ)に死し、果ては四方より狩り立てらるる怒猪(いかりい)の牙を咬(か)んでここ日州永井の一村に楯籠りしが、今は弾尽き糧尽き勢尽きて、大方は白旗を樹(た)てける中に、せめて一期(いちご)の思出に稲麻竹(とうまちく)葦(い)の此重囲(ち . . . 本文を読む
十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日。農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。
百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしてい . . . 本文を読む