死者は生きのこった人の記憶のなかにしか生存できないという。人の記憶は時とともにうすれて、やがて死者も生きのこった人の記憶に存在することが難しくなるであろうし、生きのこった人自身、この世を去ってしまう時が来るが、その時死者がこの世にかけた願望や精神はどうなるのであろうか。
和田稔君。
君の戦死したのは廿年七月廿五日で、君の死を知ったのはその年の暮のこと、ちょうど二年前である。出陣の前月まで月に . . . 本文を読む
洗面道具をかかえたまま、通りの途中ですばやくあたりを見回すと、知子は行きつけの銭湯とは反対の方向の小路へ、いきなり走りこんだ。
住宅の建てこんだせまい道には、表通りよりも濃い闇がよどんでいた。たちまち知子の姿をつつみこんでくる。一気に闇の中を小一町も駆けぬけて、ようやく息を入れた。
ビニールの風呂敷でつつんだ洗面器の中には、はじめからタオルで小道具をくるみこんでいて、こんな走り方の時にも、不 . . . 本文を読む
「おふゆさん、私が死にましたら、必ずおほねを海に捨てて下さいよ。お墓をたてて下さることはいりません。」
旦那様はここ一二年、くりかえし繰りかえし、こうおっしゃいました。子供が母親にこうして欲しい、あれを頂戴、とねだるような言い方でした。
「はい、そうして差しあげますとも。」
その度に、私は本気で、そうお約束いたします。
「わたしは浦島太郎さんですからね。死んだら自分で亀になって、きっと竜宮に帰 . . . 本文を読む
ジャック・ルクリュの家が、郊外の並木路にそった古い二階家であったことは、兄(けい)も知っていられる。二階家といっても、木造のようで四家族住んでいたから、現在の東京の場末のアパートのように粗末なものだ が、ジャック一家はその二階の右側の四部屋を占領していた。
家の前の並木路には、あの頃(1930年前後)、東京の都電そっくりな、古風な郊外電車が走っていた。パリのオルレアン門から四、五十分、停留所か . . . 本文を読む