小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「あふれるもの」 瀬戸内晴美

2010-12-12 15:46:40 | 作家ス-ソ
 洗面道具をかかえたまま、通りの途中ですばやくあたりを見回すと、知子は行きつけの銭湯とは反対の方向の小路へ、いきなり走りこんだ。  住宅の建てこんだせまい道には、表通りよりも濃い闇がよどんでいた。たちまち知子の姿をつつみこんでくる。一気に闇の中を小一町も駆けぬけて、ようやく息を入れた。  ビニールの風呂敷でつつんだ洗面器の中には、はじめからタオルで小道具をくるみこんでいて、こんな走り方の時にも、不 . . . 本文を読む

「羽蟻のいる丘」 北杜夫

2010-12-12 12:28:47 | 作家カ、キ
【「羽蟻のいる丘」 北杜夫】  黒土の匂いと草の芽の匂いと、それらとごっちゃになった陽光の匂いがした。その匂いを嗅ぐみたいな恰好で、蟻たちは細い触角をうごかした。目立って大きな羽の生えた蟻、いくぶん小さ目の羽のある蟻、それから羽のない無数の蟻たちも。  女の子は、丘の斜面に顔をつけるようにして、両手を芝と土の上についたまま、おびただしい蟻の群れを眺めていた。こんなに沢山の蟻、群がってひしめいている . . . 本文を読む

「パニック」 開高健

2010-12-12 01:39:00 | 作家カ、キ
 飼育室にはさまざまな小動物の発散するつよい匂いがただよっていた。その熱い悪臭はコンクリートの床や壁からにじみでて、部屋そのものがくさって呼吸をしているような気がした。いくつもの飼育箱は金網やガラス戸がはめられ、鍵がかけられてあったが、動物の尿は箱からもれて床いちめんに流れていた。入口からさした光線と人間の気配に動物たちはいっせいにざわめきだした。どの箱でもとじこめられたけもののたてる足音や金網を . . . 本文を読む

「太陽の季節」 石原慎太郎

2010-12-12 00:00:35 | 作家イ
【「太陽の季節」 石原慎太郎】  竜哉が強く英子に魅かれたのは、彼が拳闘に魅かれる気持と同じようなものがあった。  それには、リングで叩きのめされる瞬間、抵抗される人間だけが感じる、あの一種驚愕の入り混った快感に通じるものが確かにあった。  試合で打ち込まれ、ようやく立ち直ってステップを整える時、或いは、ラウンドの合間、次のゴングを待ちながら、肩を叩いて注意を与えるセコンドの言葉も忘れて、対角に座 . . . 本文を読む

「海の御墓」 曾野綾子

2010-12-11 15:59:08 | 作家ス-ソ
「おふゆさん、私が死にましたら、必ずおほねを海に捨てて下さいよ。お墓をたてて下さることはいりません。」  旦那様はここ一二年、くりかえし繰りかえし、こうおっしゃいました。子供が母親にこうして欲しい、あれを頂戴、とねだるような言い方でした。 「はい、そうして差しあげますとも。」  その度に、私は本気で、そうお約束いたします。 「わたしは浦島太郎さんですからね。死んだら自分で亀になって、きっと竜宮に帰 . . . 本文を読む

「セミラミスの園」 三浦朱門

2010-12-11 12:27:22 | 作家マ、ミ
 バビロンの王宮には、セミラミスの園と呼ばれる庭園があった。これはメデア出身の、伝説的な女王の故郷を偲(しの)ばせるために作られたもので、水の少ないバビロンの宮殿の地盤を深く、地下水の層まで掘り下げて、沼や池や渓流をこしらえた庭園である。掘った土を煉瓦にして、庭園の周囲に建築を構え、その壁面に山肌の傾斜を持たせ、緑色のタイルで表面を覆い、沙漠にも生える植物を植えた為に、この庭園には沼地に生い繁る葦 . . . 本文を読む

「その木戸を通って」 山本周五郎

2010-12-11 00:07:50 | 作家ヤ行
 平松正四郎が事務をとっていると、老職部屋の若い附番(つきばん)が来て、平松さん田原さんがお呼びですと云った。正四郎は知らぬ顔で帳簿をしらべてい、若侍は側へ寄って同じことを繰り返した。 「おれのことか、なんだ」と正四郎が振向いた、「平松なんて云うから、――ああそうか」と彼は気がついて苦笑した、「平松はおれだったか、わかった、すぐまいりますと言ってくれ」  正四郎は一と区切ついたところで筆を置き、田 . . . 本文を読む

或る「小倉日記」伝  松本清張

2010-12-10 23:29:34 | 作家マ、ミ
【或る「小倉日記」伝  松本清張】  昭和十五年の秋のある日、詩人K・Mは未知の男から一通の封筒をうけとった。差出人は、小倉(こくら)市博労町(ばくろちょう)二八田上耕作とあった。 Kは医学博士の本名よりも、耽美(たんび)的な詩や戯曲、小説、評論などを多く書いて有名だった。南蛮文化研究でも人に知られ、その芸術は江戸情緒と異国趣味とを抱合した特異なものと言われていた。こうした文人に未知の者から原稿 . . . 本文を読む

「団栗」 寺田寅彦

2010-12-10 21:51:01 | 作家ツ-ト
 もう何年前にあるか思ひ出せぬが日は覚えて居る。暮もおし詰まった廿六の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天(まりしてん)の縁日へ出掛けた。十時過に帰って来て、袂からおみやげの金鍔(きんつば)と焼栗を出して余のノートを読んで居る机の隅へそっとのせて、便所へはひったがやがて出て来て蒼い顔をして机の側へ座ると同時に急に咳をして血を吐いた。驚いたのは当人ばかりではない、其時余の顔に全く血の気が無くなったのを見 . . . 本文を読む