小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「共喰い」 田中慎弥

2012-01-28 16:51:43 | 作家タ、チ
 昭和六十三年の七月、十七歳の誕生日を迎えた篠垣遠馬(しのがきとおま)はその日の授業が終ってから、自宅に戻らず、一つ年上の別の高校に通う会田千種(あいだちぐさ)の家に直行した。といっても二人とも、川辺(かわべ)と呼ばれる同じ地域に住んでいて、家は歩いて三分も離れていない。  国道でバスを降り、古い家屋や雑居ビルに挟まれた細い道を抜けると、幅が十メートルほどの川にぶつかる。流れに沿って歩いてゆく。潮 . . . 本文を読む

「蜩ノ記」(ひぐらしのき) 葉室麟

2012-01-24 04:13:59 | 作家ハ、ヒ
 山々に春霞が薄く棚引き、満開の山桜がはらはらと花びらを舞い散らせている。昨日まで降り続いた雨のせいか、道から見下ろす谷川の水量が多い。流れは早く、ところどころで白い飛沫(しぶき)があがっている。  昼下がりの陽光にくっきりと照らされた川辺の木々は瑞々(みずみず)しい葉を茂らせていた。その枝は、川面を覆うように伸び、深緑の影を水面に映し出している。  背に葛籠(つづら)を負った男の檀野庄三郎は谷川 . . . 本文を読む

「坑夫」 宮嶋資夫(すけお)

2012-01-17 12:12:39 | 作家マ、ミ
 涯しない蒼空から流れてくる春の日は、常陸(ひたち)の奥に連る山々をも、同じやうに温め照らしてゐた。物憂(ものう)く長い冬の眠りから覚めた木々の葉は、赤子の手のやうなふくよかな身体を、空に向けた勢よく伸してゐた。いたづらな春風が時折そっとその柔い肌をこそぐって通ると、若葉はキラキラと音をたてずに笑った。谷間には鶯や時鳥(ほととぎす)の狂はしく鳴き渡る声が充ちてゐた。  池井鉱山二号飯場づきの坑夫石 . . . 本文を読む

「鳩飼ふ娘」 有島生馬

2012-01-04 01:04:44 | 作家ア
 三度目に妻が遁(に)げ出した時、もう無駄だと思った。幾歳(いくつ)になってもあの癖は直らない、私は直接男に手紙をやって、今度はもう帰って来られないやうに埒(らち)を作った。  私は名論卓説に耳を傾けるのが嫌になった。役所で其(その)向(むき)の議論が湧いて面倒になる事があっても、黙ってゝ済む事なら、打捨て置いた。さうすると大概は夫(そ)れで片付いて終(しま)った。殊に問題が人生観などといふ雑談に . . . 本文を読む

「雲雀」 藤森成吉

2012-01-03 14:47:49 | 作家フ
 初秋の或る際だって美しい朝、私は今朝着いた註文のはがきを調べて店へ持って行った。暖簾(のれん)を挙げると、街には午前八時頃の日光が黄ろくさしてゐた、私の家の蔭が、街の半分を黒く滲(にじ)ませてゐた、きれいに掃除された店は静にしんとしてゐて、店先きに新吉が唯一人、火鉢にしがみついてゐるようにして坐ってゐた、私が店へおりて行っても、彼は心づかない様子でゐた。私が帳場へ行って坐ると、その気はひに初めて . . . 本文を読む