亡き妻の記念に
[ 時と永遠の問題は古今を通じて哲學及び宗教の最も重大なる關心事に屬する。それはまた最も困難なる問題の一である。本書は舊著『宗教哲學』において展開されたる解決の試みに基づき、それの敷衍擴充を企圖したものである。尤もここかしこ修正にをはつた處もある。この問題は哲學と宗教とが互の敬意と理解とをもつて相接近することによつてのみ解決されるといふことは著者のかねてより信ずる所で . . . 本文を読む
私の情緒は、激情パツシヨンといふ範疇に屬しない。むしろそれはしづかな靈魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聽く横笛のひびきである。
ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反對する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは裝飾音である。私は感覺に醉ひ得る人間でない。私の眞に . . . 本文を読む
河豚
どんな下手が釣っても、すぐにかかる魚は河豚とドンコである。
河豚が魚の王で、下関がその産地であることは有名だが、別に下関付近でとれるためではない。下関が集散地になっているだけで、河豚は瀬戸内海はもちろん、玄海灘でも、どこの海でもとれる。東京近海にもたくさんいる。ただ、周防灘の姫島付近の河豚が一等味がよく、いわゆる下関河豚の本場となっている。(因ちなみに、九州では、河豚をフグと濁らず、 . . . 本文を読む
第一章 装い
水越麻也子(まやこ)はあれこれとスカーフを選んでいる。
買ったばかりの臙脂(えんじ)のジャケットには、黒いベィズリー模様が似合うような気がしたが、こうして巻いてみるとどうも重たげだ。白いエルメス柄と合わせてみたがしっくりこない。いっそのこと何もつけないことにした。とたんに麻也子の喉がむき出しになる。その方がずっとよかった。濃い色の服の衿(えり)からのぞく肌は自分でも美しいと思 . . . 本文を読む
山々に春霞が薄く棚引き、満開の山桜がはらはらと花びらを舞い散らせている。昨日まで降り続いた雨のせいか、道から見下ろす谷川の水量が多い。流れは早く、ところどころで白い飛沫(しぶき)があがっている。
昼下がりの陽光にくっきりと照らされた川辺の木々は瑞々(みずみず)しい葉を茂らせていた。その枝は、川面を覆うように伸び、深緑の影を水面に映し出している。
背に葛籠(つづら)を負った男の檀野庄三郎は谷川 . . . 本文を読む
私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。恰度(ちょうど)、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小弁の可憐な野趣(やしゅ)を帯び、いかにも夏の花らしかった . . . 本文を読む
私は、分水嶺に、ひとつの感じがあるように思う。
大地が虚空へせりあがった果てには、やはり、こうした場所が出来るのである。
地の果てというと、この大地の上へひとつの物尺をあてて、そのまま真直ぐ気の向いた方へ無限に延長した何処かの果て、荒涼たる氷海に閉ざされた暗澹たる土地を想像しがちであるが、もしこの大地にそって幾日か進めば、すでに私達はその地の果てに達しているのである。そこへ達すると、私達の地 . . . 本文を読む
温度表の上では「奔馬性(はんばせい)」という言葉そのままに、狂った馬が恐しい勢いで地を蹴って奔(はし)って行くような熱の高低が不揃に毎日繰返された。低い谷では三十六度を割っていることもあり、高い峰では三十九度の線をさえ跨(また)いでしまっていることもあった。
小さい病院の一室に、平で安固(あんこ)な一畳の寝場所をやっと得ることができた私は、さきのことはともあれ、今はただ真っしぐらにしばしの忙し . . . 本文を読む
廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらないて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三島神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、かたぶく軒端(のきば)の十軒長屋二十軒長 や、商いはかつふつ((まるでの意))利かぬ処とて半(なかば)さしたる雨戸の . . . 本文を読む
十月×日
一尺四方の四角な天窓を眺めて、始めて紫色に澄んだ空を見た。
秋が来たんだ。コック部屋で御飯を食べながら私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。
秋はいゝな……。
今日も一人の女が来た。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女。厭になってしまう、なぜか人が恋いしい。
そのくせ、どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいゝ私は雑誌を読む真 . . . 本文を読む