小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「山椒魚」 井伏鱒二

2010-03-20 20:35:26 | 作家イ
【「山椒魚」 井伏鱒二】  山椒魚は悲しんだ。  彼は彼の棲家である岩屋から外に出てみようとしたのであるが、 頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。今は最早、彼にとっては永遠の棲家である岩屋は、出入口のところがそんなに狭かった。そして、ほの暗かった。強いて出て行こうとこころみると、彼の頭は出入口を塞ぐコロップの栓となるにすぎなくて、それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそはな . . . 本文を読む

「氷壁」 井上靖

2010-03-20 20:32:18 | 作家イ
 魚津恭太は、列車がもうすぐ新宿駅の構内へはいろうという時眼を覚ました。周囲の乗客はみな席から立ち上がって、たなの荷物を降ろしたり、合オーバーを着込んだりしている。松本でこの列車に乗り込むと、魚津はすぐ寝込んでしまい、途中二三回眼を覚ましたが、あとはほとんどここまで眠りづめであった。  時計を見ると八時三十七分、あと二分で新宿へ着 く。魚津は大きい伸びをして、セーターの上に羽織っているジャンバーの . . . 本文を読む

「生物祭」 伊藤 整

2010-03-20 19:29:05 | 作家イ
【「生物祭」 伊藤 整】  水が何より旨い。と言って、父はときどき水をもとめるほか殆んど何も食おうとしなかった。手や足に浮(むく)腫(み)が出て来たので、もう何日も持たないだろうと母が私に言った。そう言う時の母の表情が少しも乱れていないのを私は見た。父の病気が絶望的だと解ってからの二年は母の顔から表情らしいものを取り去ってしまった。父の世話をしている母の顔を見ると、病状の変化ということは父の生きて . . . 本文を読む

「歌行燈」 泉鏡花

2010-03-20 19:19:07 | 作家イ
 宮重大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり…… と口誦(くちずさ)むように独言の、膝栗毛(ひざくりげ)五編の上の読初め、 霜月十日あまりの初夜。中空は冴切って、星が水垢離(みずごり) 取りそうな月明に、踏切の桟橋を渡る影高く、灯ちらちらと日の下に、遠近(おちこち)の樹立(こだち)の骨ばかりなのを視(なが) . . . 本文を読む

「若い人」 石坂洋次郎

2010-03-20 19:12:11 | 作家イ
【「若い人」 石坂洋次郎】  間崎が勤めている女学校は米国系のキリスト教会で経営している自由博愛主義標榜のミッションスクールであるが、基金が豊かであることと、創設以来の学長であるミス・ケートの磊落(らいらく)な気性とのお陰で、宗教学校にあり勝ちな偏(かたよ)った冷たい空気もなければ、それが崩れてルーズな下卑(げび)た気風に堕(だ)することもなく、五百余人の発育盛りの女生徒達は、やはりミス・ケートの . . . 本文を読む

「芋粥」 芥川龍之介

2010-03-20 18:40:04 | 作家ア
 元慶(がんぎょう)の末か、仁和(にんな)の始にあった話であろう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めていない。読書は唯、平安朝と云う、遠い昔が背景になっていると云う事を、知ってさえいてくれれば、よい のである。――その頃、摂政藤原基経(もとつね)に仕えている 侍の中に、某と云う五位(ごい)があった。  これも、某と書かずに、何の誰と、ちゃんと姓名を明にしたいのであるが、生憎旧記に . . . 本文を読む

「羅生門」 芥川龍之介

2010-03-20 18:35:04 | 作家ア
 或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。  広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所所丹塗(にぬり)の剥げた、大きな円柱(えんばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。羅生門が、朱雀(すざく)大路(おおじ)にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女(いちめ)笠(がさ)や揉(もみ)烏帽子(えぼし)が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男の外 . . . 本文を読む

「鼻」 芥川龍之介

2010-03-20 18:32:04 | 作家ア
 禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顎の下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっているのである。 五十歳を越えた内供は、沙弥(しゃみ)の昔から、内道場供奉(ぐぶ)の職に登った今日まで、内心では終始この鼻を苦に病んで来た。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔を . . . 本文を読む

「トロッコ」 芥川龍之介

2010-03-20 18:30:04 | 作家ア
【「トロッコ」 芥川龍之介】  小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平が毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を――といった所が、唯トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。  トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇(たたず)んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢纏(はんて . . . 本文を読む