小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「雁」 森鴎外

2010-03-23 12:17:30 | 作家ム-モ
【「雁」 森鴎外】
 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかと云うと、其頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった。上条(かみじょう)と云う下宿屋に、此話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人であった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。
 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、其外は大学の附属病院に通う患者なんぞであった。大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気(こき)が利いていて、お上さんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。時々は其箱火鉢の向側にしゃがんで、世間話の一つもする。部屋で酒盛をして、わざわざ肴を拵え(こしら)させたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘をするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。

【「高瀬舟」 森鴎外】
 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞(いとまごい)をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上(かみ)へ通った事ではないが、所謂(いわゆる)大目に見るのであった。
 当時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盗をするために、人を殺し火を放ったと云うような、獰悪(どうあく)な人物が多数を占めていたわけでない。高瀬舟に乗る罪人の過半は、所謂心得違のために、想(おも)わぬ科を犯した人 であった。有り触れた例を挙げて見れば、当時相対(あいたい)死と云った情死を謀って、相手の女を殺して、自分だけ活き残った男と云うような類である。

【「山椒大夫」 森鴎外】
 越後の春日を経(へ)て、今津へ出る道を、珍しい旅人の一群が歩いている。母は三十歳を躐(こ)えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十位の女中が一人附いて、草臥(くたび)れた同胞はら(から)二人を、「もうじきにお宿にお著(つき)なさいます」と云って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引き摩(ず)るようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折々思い出したように弾力のある歩附(あるきづき)をして見せる。近い道を物詣(ものまいり)にでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群であるが、笠やら杖やら甲斐々々(かいがい)しい出立(いでたち)をしているのが、誰の目にも珍らしく、又気の毒に感ぜられるのである。
道は百姓家の断えたり続いたりする間を通ってい る。砂や小石は多いが、秋日和に好く乾いて、しかも粘土が雑(まじ)っているために、好く固まっていて、海の傍のように踝(くるぶし)を埋めて人を悩ますことはない。

【「青年」 森鴎外】
 小泉純一は芝(しば)日陰町(ひかげちょう)の宿屋を出て、東京方眼図(ほうがんず)を片手に人にうるさく問うて、新橋停留所から上野行も電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。扨(さて)本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂(おもてざか)上にある袖浦館(そでうらかん)という下宿屋の前を到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
 此処(ここ)は道がT字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道を鉛直に切る処に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造(まがい)である。入口の鴨居の上に、木札が沢山並べて嵌めてある。それに下宿人の姓名が書いてある。
 純一は立ち留まって名前を読んで見た。自分の捜す大石捐(けん)太郎という名は上から二三人目に書いてあるので、すぐに見附かった。赤い襷(たすき)を十文字に掛けて、上り口の板縁(いたえん)に雑巾を掛けている十五六の女中が、雑巾の手を留めて、「どなたの所へ入らっしゃるの」と問うた。