小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「恭三の父」 加能作次郎

2011-09-19 14:19:34 | 作家カ、キ
    手 紙  恭三は夕飯後例の如く村を一周して帰って来た。  帰省してから一ヵ月余になった。昼はもとより夜も暑いのと蚊が多いのとで、予(かね)て計画して居た勉強などは少しも出来ない。話相手になる友達は一人もなし毎日々々単調無味な生活に苦しんで居た。仕事といへば昼寝と日に一度海に入るのと、夫々(それぞれ)故郷へ帰って居る友達へ手紙を書くのと、かうして夕飯後に村を一周して来ることであった。彼は以上 . . . 本文を読む

「湖畔」 結城信一

2011-09-19 08:52:54 | 作家ヤ行
 檜林のあいだの舗装された細い道が、ゆるやかな傾斜をみせながら、湖にむかって走っている。人影もないが、紙屑ひとつ落ちてもいない道で、歩いてゆくと靴の音が樹間に吸われ、近くの山肌に静かに鳴ってゆく。  この細い道が舗装されているのは、片側にテニスコオトがあって、奥まった山の中腹に小さなホテルがあるためらしいが、コオトで遊ぶ人たちはもういなくなっている。……数日前まで、鮮かな黄金と朱色に染っていた紅葉 . . . 本文を読む

「山陰」 木山捷平(しょうへい)

2011-09-17 20:53:45 | 作家カ、キ
 パーティー式の宴会ではそうは行かないが、日本式のお膳に出た御馳走のうち、自分の一等好きなおかずを一番初めに食べる子供と、一番終りに食べる子供があるものである。このたびの山陰旅行で私が三朝(みささ)を一番最後にしたのは、あれと同じような気持が、体のどこかにひそんでいたのかも知れなかった。  予定らしい予定はなかったが、下関から逆行して川棚、湯本、玉造、皆生と行き当りばったりにそれぞれ一泊したあと、 . . . 本文を読む

「薔薇いろの霧」 丸岡明

2011-09-16 08:29:36 | 作家マ、ミ
 高原陽子は、やはり沢木修一の彼女だった。そんなことが、今になって、漸(ようや)く明白な事実となった。  沢木自身が云っていたように、生ま身の人間の存在などは曖昧模糊としたもので、死なねば、なにごとも、たしかにならぬと云うことなのだろうか。  陽子を連れた沢木修一に、私が初めて逢ったのは、一昨年の九月の中頃だった。陽子は裾に、白く蘆(あし)を染め抜いた単衣(ひとえ)の着物を着ていた。  暮近くに . . . 本文を読む

「賭金」 藤原審爾(ふじわらしんじ)

2011-09-15 13:57:16 | 作家フ
 わたしは、これから、ある一人の、不幸な男の話をしょう。不幸な、ということばは、わたしたちに同情や好奇心や、共感する用意や公正にたいする感度をよびさます不思議な力があるが、広いごく漠然として意味のものである。その男は、細君もなく、二人の子供を抱えて、病気にかかっているが、そういうふうな不幸だといえば、広い漠然とした不幸という感じが、急速に薄らいできて、別の言葉が必要になる。わたしがその男を不幸なと . . . 本文を読む

「女中ッ子」 由起しげ子

2011-09-15 11:58:51 | 作家ヤ行
 加治木という表札を見つけると初はドキンとして急に体じゅうから汗が吹き出すような気がした。威圧するような門構えに抵抗するように元気よく石段をのぼり玄関の前に立って、ハッキリした声で、ごめんなさい、と叫んだ。  中で何か応(こた)える声がしたように思ったので初が玄関の戸を少しあけてみると立派な――校長先生のような顔をした大人の男の人が懐(ふとこ)ろ手(て)をして立っていた。 「なに?」 「はい――」 . . . 本文を読む

「黄金分割」 石上玄一郎

2011-09-15 10:55:21 | 作家イ
 それはまるで忘れていた債権者みたいに彼のところへやって来た。  その朝、迫水(せこみず)は洗面所で顎(あご)に石鹸をぬりたくっていた。すると目の前が一瞬、白くなった。鏡の面が液体のように細かく波立ったような気がした。握っていた角製(つのせい)の鬚(ひげ)刷毛(ブラシ)が、石鹸の泡をはね飛しながら床へ転げ落ちたが、彼にはその音が耳に入らなかった。  鏡面の動揺は次の瞬間にやんで、その中からうすぼん . . . 本文を読む

「鳳仙花」 川崎長太郎

2011-09-15 03:39:52 | 作家カ、キ
 川上竹七は、満五十歳であった。既に、老衰の徴、歴然たるものあり、眼尻あたりの皺(しわ)は、ひびのいったような工合であった。体中の毛も、下の方から段々白くなり、てっぺんにまで及んでいた。顔面に、しみがふえ、老眼鏡の厄介にならないと、文字が書けぬ仕儀で、早、歯は抜け落ちたもの、残ったもの、丁度半々と云う勘定であった。  十数年来、物置小屋に、ひとり暮していた。小屋も、大正の大震災直後の建物で、屋根の . . . 本文を読む

「落穂拾い」 小山清

2011-09-14 19:00:13 | 作家ク-コ
 仄聞(そくぶん)するところによると、ある老詩人が長い歳月をかけて執筆している日記は嘘の日記だそうである。僕はその話を聞いて、その人の孤独にふれる思いがした。きっと寂しい人に違いない。それでなくて、そんな長いあいだに渡って嘘の日記を書きつヾけられるわけがない。僕の書くものなどは、もとよりとるに足りないものではあるが、それでもそれが僕にとって嘘の日記に相当すると云えないこともないであろう。僕は出来れ . . . 本文を読む