小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「ダイヴィング」 舟橋聖一

2010-03-23 01:28:12 | 作家フ
【「ダイヴィング」 舟橋聖一】
 碓氷(うすい)はこの頃めっきり肥えて、女性的に見える肘を立て、のみさしのアイス・ラスベリィのコップの氷 を、ガリガリと匙でつついた。何か言いそうにして、なかなか言い出さない。すると窓を通して、切り込むように光る稲妻が、白いテーブル・クロースの縁をピカリと青く掠めていった。夏の夜の銀座の街には、西の方から雷雨が近づいて来ていた。
「よろしい。それで仕事の内容はまずわかったわけだ――ところで一つききたいことがあるだが」
 と、しばらくして碓氷は口をきった。
「勿論、君がほんとうに腹をきめて、今までのような中途半端な気持でなしに、一人立ちの男のする仕事としてやっていこうというならわたしはそりゃ五万でも十万でも君の必要なだけ金を出しことに、否やはないいんだ。しかしわたしが一番懸念している事は、その仕事が果して君の性(しょう)に合っているかどうかという点だがね。つまりあけすけに言うなら、君は一体文学の方は、どうするつもりなのだ」

【「雪夫人絵図」 舟橋聖一】
 掃くあとから、あとから、すぐ又、散って来た。そのくせ、見上げると、枝々には、一ぱいに、見ごとな黄葉である。そういう見ごとな黄葉が落ち散るので、銀杏の落葉は、よけい、侘しいのでもあった。
 浜子は、箒の手を休めて、その一葉を取って見た。――目に沁みるような黄の色だった。指の先が、黄に染まりそうだった。ところどころに、緑の斑(まだら)になっているのもあった。黄と緑が、だんだら染になっているのや、その境目が、あいまいで、ぼかしたようになっているのもあった。葉の肉の、うすいのもあれば、厚いのもあった。
伊豆の海辺で、銀杏の黄葉するのは、十二月に入ってからである。寒い山国で育った浜子は、はじめて感覚する南国の冬に、目を見はることが多かった。山と海の、季節のずれが、すぐにはのみこめない程であった。