優れた作品を書く方法の一つとして、一日に一度は是非自分がその日のうちに死ぬと思うこと、とジッドはいったということであるが、一日に一度ではなくとも、三日に一度は私たちでもそのように思う癖がある。殊に子供を持つようになってからはなおさらそれが激しくなった。親としての作家と、作家としての作家と、区別はないようであるけれども、駄作を承認する襟度に一層の自信を持つようになったのは、親としての作家が混合し . . . 本文を読む
桐壺
紫のかがやく花と日の光思ひあはざる
ことわりもなし (晶子)
どの天皇様の御代みよであったか、女御にょごとか更衣こういとかいわれる後宮こうきゅうがおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵あいちょうを得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に恃たのむ所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより . . . 本文を読む
良人は昨日来た某警察署の高等視察のした話をSさんにして居ました。私は手に卓上と云ふ茶色の表紙をした雑誌を持ちながら、初めて聞く話でしたから良人の言葉に耳を傾けて居ました。
『あの時居たYをね、あれがNさんでせうつて云ふのだよ。』
と良人は私に話を向けました。私は思はず笑ひ出しました。その高等視察が来ました時に私はKさんと云ふ人とやはりこの応接室で話をして居たのでした。私が階下へ降りると直 . . . 本文を読む
檜林のあいだの舗装された細い道が、ゆるやかな傾斜をみせながら、湖にむかって走っている。人影もないが、紙屑ひとつ落ちてもいない道で、歩いてゆくと靴の音が樹間に吸われ、近くの山肌に静かに鳴ってゆく。
この細い道が舗装されているのは、片側にテニスコオトがあって、奥まった山の中腹に小さなホテルがあるためらしいが、コオトで遊ぶ人たちはもういなくなっている。……数日前まで、鮮かな黄金と朱色に染っていた紅葉 . . . 本文を読む
加治木という表札を見つけると初はドキンとして急に体じゅうから汗が吹き出すような気がした。威圧するような門構えに抵抗するように元気よく石段をのぼり玄関の前に立って、ハッキリした声で、ごめんなさい、と叫んだ。
中で何か応(こた)える声がしたように思ったので初が玄関の戸を少しあけてみると立派な――校長先生のような顔をした大人の男の人が懐(ふとこ)ろ手(て)をして立っていた。
「なに?」
「はい――」 . . . 本文を読む
秋の朝だ。私はいま二宮の町を歩いている。私は、まず郵便物を局に持って行き、それから妻の好きな無花果(いちじく)をいくつか八百屋で買い、ついでに薬屋で、ほとんど中毒しかけているアンプル入りの風邪薬を買い、その帰りに、じつはこれはまだ妻の許可を得てはいないが、本屋で『鉄腕アトム』の最新号を買ってくるつもりでいる。
これが今朝の仕事だ。もちろん、これが日課だとはいえないにしても、だいたいこんなことが . . . 本文を読む
なぜ恥ずかしいのか
カルピスという飲料がある。いま、東京銀座の表通りの喫茶店でカルピスを飲ませる店は、ほとんど、ない。あったとしてもカルピスをオーダーするときは、ちょっと気遅れを感ずる。何故か。
カルピスは「初恋の味」だからだろうか。それは、ある。あの黒ん坊のマークと水玉模様の包装紙のせいだろうか。そんなことは、ない。江分利はカルピスに対して、何となく気恥ずかしさを感ずる。それは江分利だけ . . . 本文を読む
平松正四郎が事務をとっていると、老職部屋の若い附番(つきばん)が来て、平松さん田原さんがお呼びですと云った。正四郎は知らぬ顔で帳簿をしらべてい、若侍は側へ寄って同じことを繰り返した。
「おれのことか、なんだ」と正四郎が振向いた、「平松なんて云うから、――ああそうか」と彼は気がついて苦笑した、「平松はおれだったか、わかった、すぐまいりますと言ってくれ」
正四郎は一と区切ついたところで筆を置き、田 . . . 本文を読む
シナ大陸での事変が日常生活の退屈な一と齣(こま)になろうとしているころ、ようやく僕らの顔からは中学生じみたニキビがひっこみはじめていた。大学部の予科に進んで最初の夏休みのことだ。北海道の実家へ遊びに行く同級生倉田真悟の、いっしょに行かないかと云う誘いをことわって、僕はどこへ旅行するわけでもなく、ひまつぶし神田の半分にフランス語の講習会へかよっていた。
その日、教室へはいると僕がいつも座る最前列 . . . 本文を読む
曇った朝、勤め先の某商事会社へ行くつもりで、交差路に立っていた檜(ひ)井(い)二郎は、にわかに気持ちが変わった。
丁度来た逆方向のバスに乗り、いい加減のところで降りて、出鱈目の路をあちこち曲って歩いていると、不意に眺望が拓(ひら)けた。眼下には石膏(せっこう)色(いろ)の市街が拡がって、そのなかを昆虫の触角のようにポールを斜めにつき出して、古風な電車がのろのろ動いていた。
彼はぶらぶら歩いて . . . 本文を読む
初めの間は私は私の家の主人公が狂人ではないのかとときどき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子供が彼を嫌がるからと云って、親父を嫌がる法があるかと云って怒っている。畳の上をよちよち歩いているその子供がばったり倒れると、いきなり自分の細君を殴りつけながらお前が番をしていて子供を倒すと云うことがあるかと云う。見ているとなるで喜劇だが本人がそれで正気だから、反対にこれは狂人ではないのかと思うの . . . 本文を読む
行介(コースケ)はいつもの停留所でおりた。おりるとき、帽子に手をやらなくてはならないほど、風が強かった。
彼は赤っ茶けた風に押されて、歩いて行った。ときどき、紙くずや、こっぱなぞが、トンボがえりをしながら、彼のズボンのあいだをすりぬけて、ころがって行った。
行介はオーバーのえりを立てていたけれども、それでも、カラーの下まで、つめたい空気が流れこんできた。そのうえ、どうかすると、クギでも投げつ . . . 本文を読む