小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「こういう女」 平林たい子

2010-03-23 01:25:39 | 作家ハ、ヒ
 温度表の上では「奔馬性(はんばせい)」という言葉そのままに、狂った馬が恐しい勢いで地を蹴って奔(はし)って行くような熱の高低が不揃に毎日繰返された。低い谷では三十六度を割っていることもあり、高い峰では三十九度の線をさえ跨(また)いでしまっていることもあった。
 小さい病院の一室に、平で安固(あんこ)な一畳の寝場所をやっと得ることができた私は、さきのことはともあれ、今はただ真っしぐらにしばしの忙しさで病み足らなかった病気のつづきをいそいで病み継ごうとするかのように病気の中に惑溺(わくでき)して行った。
 阿片やモルヒネは知らないとしても、酒の泥酔や眠の熟睡には比較すべくもない陶酔の境地だった。
ときどき、その裂れ目から冱えた病院の現実とでもいいたいものが覗いた。
否応(いやおう)なしにそのとき目に入るものは、腹掛のようにふくれ上った腹膜炎の腹だった。熱が低いときのこせこせした胸算用から、尿を多く出すことを、金を稼いで貯めるほど律儀に励もうとしてもだんだん便所へ行くのもむずかしくなっていた。