山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

悪相の車が増えている

2017-10-21 03:17:57 | つぶやき

 この頃の車を見ていると、新しいものほど悪相の車が増えている感じがする。車には前と後ろに面相があるように思っている。全体のデザインとかスタイルもあるのだろうけど、走っている車をパッと見た時の一番の印象は、やっぱり人間と同じように顔なのだ。人間には無数の顔があるけど、車の顔が人間と違うのは、走り去った後にも後部の顔があるということか。この両方が気になるのである。

 車のデザインというのは、誰がどのように創っているのか解らない。当然その道の専門家がいて、そのアイデアに基づいて決まるのであろうから、当今の車の面相も基本的には彼らの今の世の認識に基づいているのだと思う。つまり、この悪相は彼らが創り出しているのであろう。しかし、そのアイデアを最終的に決定しているのは、メーカーの経営陣となるのであろうから、悪相の最終責任はやはりメーカーにあるということになる。

 一介のジジイが車の面相のことをとやかく言う資格は無いのかもしれない。しかし、70年以上に亘って世の中の変遷と一緒に車の面相も見てきたジジイには、昔との違いが気になるのである。昔の車は性能に自信がなかったのか、或いは改善の余地が多くあったのか、気どった車はあまり出現しなかった。車の使用が大衆化するにつれて、様々の車が生み出されて来たが、スポーツカーなどの様な一部の分野を除いては、車の面相は概して穏やかなものだったと思う。

穏やかというのは平凡ということでもある。つまりあまり目立たない、心を乱すことのない有り様を言うのだと思う。これが変化するのは、目立とうという意欲が増した時からだ。車社会が当然となって、競争が激しくなるに連れて、車は目立つことが重要となって来る。どのメーカーでも目立つ車を生産することを目指すようになって久しいのだけど、面相が崩れることは少なかった。もしかしたら崩す技術が不足していたのかもしれない。それが今は証明はLEDになったりして、ある程度自在に顔貌を造れるようになっているのであろう。

しかし、この頃その面相が悪相となって来ているのは何故なのだろうか。前面だけではなく、後面迄もが尖がった悪相を呈している車も出現している。何であれほどに全体を刻み回した車を造るのか。その真意が判らない。格好いいと若者たちに受けるのだろうか。それとも流体力学とやらの理屈に叶っているから、敢えてそうするのか。たそがれジジイには、そのような車は奇形にしか見えない。

ま、このような所感がジジイの大いなる錯覚や勘違いによるものなら仕方ないなと思うだけだ。だけど、もしかして悪相の背景に世の中に潜んでいる様々な悪意の一つが表われているとしたら、これは要注意ではないかと思う。大衆車の中でも価格の高い高級車クラスに悪相が多いのは、思い上がりを好む人種のニーズに応えるためにではないか、と思ってしまう。もしそうだとしたら、これ以上目立ちたがり屋で、思い上がりを好む人種を育てないようにして欲しいものだ。

特殊な世界を除けば、車はやっぱり穏やかな面相であって欲しいと思う。そう願いたい。それが本物の平和につながるのではないか。そう思っている。


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