山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

クレイジーオールド

2014-04-25 22:16:29 | ジジババ世代の話

 この頃は筑波山の登山に精を出しています。昨日(4/25)は、今年19回目、今月に入って10回目の筑波山登山を終えました。そのことについての老人としての所感を少し述べたいと思います。

昨年の春に、TVで三浦雄一郎さんの80歳でのエベレスト登頂チャレンジの話を聞いて感動しました。その時は未だ三浦さんは登頂に出発する前でしたが、この方は必ず成功するに違いないと思いました。私が感動したのは、チャレンジする意気込みなどではなく、チャレンジのための周到な準備と、とりわけて己に課した鍛錬の厳しさでした。話によれば、彼は毎日20kgもの負荷を身体に課しての歩行訓練をしているとのことでした。スキーなどの冒険を止められて、70歳代になる頃は、一時はメタボだらけの身体になってしまったものを、新たな志を立てられてエベレストの登頂を目指して鍛錬を始められたとのことでした。見事75歳での登頂を果たし、今度は80歳でのチャレンジということです。

感動した私は、その翌日から自分も身体を鍛えようと、リュックなどの他に全部で約15kgほどの負荷を身に付けての歩行鍛錬を始めたのでした。自分はエベレスト登頂など大それたチャレンジはおろか、富士山にさえも登ろうなどとは思っていませんが、老の身体をなるべく長持ちさせるためには、ただ歩いているだけではダメで、負荷を掛けないと心身共に鍛えられないのだということを教えられた気がしたのです。思い立ったらすぐ実行は、我がモットーの一つですが、特に残された時間が少ない今では、考えている暇などありません。

リュックの中に毛布にくるんだ鉄アレイなど10kgほどを入れ、両足にそれぞれ1kgのウエイトの布を巻き、両手に各1kgの鉄アレイを持っての登山靴での歩行から開始しました。毎日早朝に1カ月ほど続けて、身体も慣れて来たので、少し負荷を増やしたりしながらやっていたのですが、何しろ歩くだけでは単調なので、登山を考えるようになりました。40kmほど離れたところに筑波山がありますので、行くとすればここしかありません。そうして登り始めたのが、昨年の5月でした。勿論登山しない日は毎日の歩行鍛錬は日課として続けてきました。昨年は登るチャンスが少なくて、結局12回しか登れませんでしたが、今年は出来れば50回くらいは達成してみたいと考えています。

最初の頃は鍛錬しているとはいえ、歩きと登山とでは身体を使うその内容が違います。登山の後、身体の思わぬ部位が痛くなったりして、必ずしも鍛錬の成果は確認できないものでした。昨年は登山回数も少なかったため、せっかく登山用に筋肉が馴れ出した頃に又しばらく中断が続いたりして、なかなか思う様にはゆきませんでした。しかし、身体の力が以前よりは強くなったのは、例えば登山での呼吸などが殆ど気にならなくなったことでも確認でき、自信は深まりました。

今年は3月に内孫が生まれ、家の中にも賑やかな落ち着きが訪れましたので、4月に入ってから登山を本格化することにしました。初めは登山の日毎に車で筑波山麓まで往復していたのですが、先週からは旅車で行くことにし、泊まりがけで連日の登山にチャレンジするようにしています。こうなると、日に2回の登山も可能になりますし、決まったコースだけではなく、幾つかのコースを組み入れて、登山に変化を加えることも可能となります。ということで、今はその試みを楽しんでいるところです。

先日2泊3日の日程で、4回の登山を行った話を知人にしたら、超人だなどといわれました。また、昨日は別の知人からのメールに、今筑波山麓に居て、明日早朝は暗闇登山をするつもりだと伝えたところ、70歳を過ぎた爺さんが闇の中を歩き回って事故を起こさないかい?などと妙な心配をされてしまいました。これらのコメントをひっくくると、どうやら自分はクレイジー・オールドの部類に入るようです。

ところで、31回の登山を通して感ずるのは、筑波山には自分以上に、この山の魅力なのか、或いは妖力なのか、何ものかに取り付かれたように登っている人が何人かおられるということです。今朝(4/25)は4時少し前に登山を開始し、7合目辺りで夜が明けて来たのですが、4時45分のその頃に、早や下山をして来る老人に出会いました。密かに今日は自分が一番乗りかもしれないと思っての登りでしたが、この方の存在には驚くばかりです。老人と言いましたが、自分とほぼ同じ世代の方ではないかと思います。この他、飛ぶように登ってゆく自分よりも歳上に違いない老婦人や腰の曲がった80歳代と思しき爺さま等など、様々な高齢者の存在に驚くばかりです。自分は毎回登山の記録をまとめて、ブログなどに掲載しているのですが、今年に入ってたった19回の登山などは、これらの先人の方々から見れば、真にチャンチャラ可笑しいということになるに違いありません。恐らく今年に入ってほぼ毎日登っている方もおられるでしょうし、日に二度ならず三度登っているという方もおられるのかもしれません。あれほどの速さで登り降り出来るというのは、週一程度の登山では出来ないように思えるからです。

これらの方たちは明らかにクレイジーオールドだと思います。しかし、クレイジーの中身は健康のコンセプトに包まれているように思います。私なんぞは、まだまだその仲間入りには遠い存在のように思えます。大いなる憧れですね。これからチャレンジを重ねて、筑波登山の本物のクレイジーオールドになれることを目指したいと思っています。

     

今朝(4/25)筑波山女体山脇からのご来光。これは、男体山へ登る途中に撮ったもの。この季節のご来光は霞の中にあって、朧に染まっている。

 


春の味を楽しむ

2014-04-13 20:53:57 | 宵宵妄話

 春の味といえば、何だろうか。人によって様々なのだろうけど、自分としてはやはり山菜だと思う。山菜にもいろいろあって、東北地方を旅する時などは、その豊かさに感嘆したりしてしまう。地元で売られている山菜は、都会のスーパーに並ぶ季節外れのそれとは違って、山や谷の香りや水音さえも伴っているような新鮮さと力強さがあるように感ずる。しかし、それらはあくまでも地元に行かないと手には入らない。ここ数年春の東北への旅の機会を失しているので、今年は是非実現させたいと思っている。

 ところで、東北へ行かなくてもとって置き、とびっきり珍味の山菜が守谷市の自分の住まい周辺にもあるのである。土筆(つくし)やヨモギなどではない。もっと上を行く珍味なのである。それは、アケビの新芽なのだ。アケビといえば、山の中の樹に絡まって育ち、秋になって紫色の実をつけるあれなのだが、何もそのような山の中に入らなくても、よく見ると、道路脇の金網の塀などに絡みついて、至る所に自生しているのに気が付く。コンクリートづくめの建物や舗装道路ばかりの都心部では見つけるのが難しいと思うけど、少しでも田畑があるような場所なら、必ずどこかに自生している筈である。

 今年はそのアケビの新芽が出るのが何時もよりもかなり早かったようだ。数日前、朝の散歩コースを歩いていたら、既に花を咲かせているのに気づいた。例年だと、五月の連休の少し前の頃なのに、今年は桜が咲いている頃に一緒に花を咲かせるといった早さである。やはり少し季節の運行が異常だなと思った。花が咲けば、当然蔓の新芽が出ていることになる。さすがに未だ芽が出始めてそれほど時間が経っていない感じの大きさだったが、これくらいの時の方がアクが少なくて食用としてはベストなのである。

         

 アケビの大株。これは高速道の遮音用壁に取り付いている。黒っぽいのが花。又青空に向かって伸びているのが新芽の蔓。この蔓の先端10cmほどを摘んで食用にする。

 せっかく芽を出したのを摘んで食べてしまうなんて残酷だなどと思ったりする人がいたら、それはカマトト人間だ。食うために人間は鶏や豚や牛、それに馬までさえも平気で殺し、美味い不味いなどと味の評価等しながら食べているのである。アケビは、芽を摘まれたくらいでへこたれる植物ではなく、相当にしたたかな奴なのである。一度裏庭に作った野草園に、春蘭にくっついてやってきた小さなアケビを育てた時があった。棚を作ったりして一時は楽しんだのだけど、数年経ってそのあまりに獰猛な繁殖力というか、なりふり構わぬ蔓の伸び具合が嫌になって、取り去ったのだった。しかし、その後も元株から何本もの蔓を出して、うっかり気づかずにいたりしたら、たちまち隣の生け垣を侵略するといった塩梅で、手に負えるものではないなと、しみじみ思ったのだった。

 自然界の中では、アケビは鳥などに種を運んで貰って、道脇の至る所に自生している。特に高速道路の脇に作られた遮音用の塀や防護用の金網のある場所などが大好きらしくて、そのような道を歩くと幾らでも新芽を摘むことが出来るのである。今回もその主な採取場所は高速道路脇の金網に絡まった奴だった。

 アケビの花というのはなかなか高貴な感じのする紫色をしている。高速道路脇の壁に大きくもたれかかって花を咲かせてるのを見つけた時は、ああ、今年も本物の春が到来したなと思うのである。春の花といえば、勿論桜だと思うけど、梅や桜や桃などの花は派手過ぎて春に埋没してしまいそうになる。それに食用にはならない。実を食べる頃は夏になってしまう。そこへ行くとアケビの花は、芽という食用付きの存在で、自分にとっては足が地に着く感じの山菜という位置づけなのである。

         

 アケビの花。濃い赤紫の花だが、何処か高貴さを感じさせる趣きがある。葉に隠れて目立たないことがあるので、気づかずに通過してしまう人が多いようだ。

 アケビの芽は、摘んできたものを水洗いして、沸騰したお湯に塩を一つまみ入れてから、さっと1~2分お湯を潜らせて取り出し、それを冷水で粗熱をさっと取り、それを更に冷蔵庫などで少し冷やして、それに白だし醤油やポン酢などを掛けて食べるのだが、独特の食感と苦みが口の中一杯に広がって、何とも言えない大人の味がするのである。勿論、これはご飯のおかずに供するなどというものではなく、一献を傾ける時の肴として、春を味わう最高の山菜の一つではないかと思っている。

 守谷市内を歩いていると、これを摘んでいる先客がいることに気づくことがある。やられたな!というライバル意識が少し働くけど、それよりもこれを味わうことを知っている仲間がいるというのが嬉しい。誰か知らないけど、恐らく自分と同じ世代の人ではないかと思う。若者がこのような山菜珍味のことを知る筈はなく、桜の花の下で乾きモノのツマミなど口にしながら無風流な宴会をするしか能がない者が多いようだから、アケビの芽を食うなどというのは、信じられない外道と思われるに違いない。

 ま、とにかく今年の春の山菜の旬を一つかみ摘んで来て、味わったのだった。まだまだこれからもたくさんこの苦みを味わえるかと思うと、本物の春に感謝せずにはいられない。


播種と植え付けの季節の到来

2014-04-06 09:30:17 | 百姓回帰の話

 大自然を相手に仕事をする農業では、春は新しい生命(いのち)の再生を期す季節です。生命の眠っているいろいろな植物の種を播き、植え付けて育てる時期が来ました。植物というのは不思議な生き物で、どこに生命の本体があるのか見分けがつきません。例えば野草一つをとっても、根に生命の本体があるのか、茎なのか、それとも葉なのか、或いはそれらの全てなのか。人生70年を過ぎても未だにその正体が解りません。しかし、自分でも解っていることが一つだけあります。それは種には明らかにその植物の生命の本体が潜んでいるということです。播種というのは、眠っていたその生命の本体に再生を促すという行為なのではないかと思っています。

 先日菜園を再開することについて書きましたが、4月に入ってその使用がOKとなりましたので、早速畑に出掛けて、最初の種を播いてきました。種を播く前に、今まで作られていた方が耕して下さっていた畑を、再度堆肥を入れて耕し、畝切りをしました。たった20㎡の畑なので、耕す苦労は少ないのですが、何をどう植え育てて収穫を期するかということになると、欲深い自分には大いなる迷いがあり、あれもこれもと決めかねています。迷った結果、取り敢えず今回は一畝だけ作り、そこに小カブを播くことにしました。残りの分にはこれからの苗などの様子を見て何を植えるのかを決めることにしました。5月近くになるとホームセンターには多彩な農作物たちの苗が並びます。それらの中からどれを植えるかを決めるのは、これからしばらくの楽しい悩みです。

    

守谷市の土に親しむ農園の借用菜園。縦・横4m×5mの小さな広さだけど、大地との対話、作物たちとの対話、それに天敵の草や虫たちとの戦いなど、楽しみが一杯詰まっている。一番右側に一畝だけ小カブを播いた。いつ芽を出してくれるのかが楽しみである。

 畑をもう少し前に使用するのが許されていたのなら、必ずジャガイモを植えた筈です。私はジャガイモ大好き人間で、日に三度食卓に塩ゆでのジャガイモだけしか出ないメニューでも飽きが来ないというほどです。ジャガイモの植え時も地方によっていろいろあるのだと思いますが、関東のこの辺りでは3月中旬頃が適期になっており、残念ながら今年はタイミングを失いました。

今、決めているのは茄子とトマトを一畝ずつ作ろうと思っています。問題はあとの一畝です。候補としてはピーマン、トウガラシ、ショウガ、花オクラなどがありますが、それぞれ一長一短があって、決めかねています。作る楽しみとしては、やはり花オクラが一番かなと思っています。花オクラというのは、オクラと同じなのですが、オクラは花が咲いた後の実を食べるのに対して、花オクラは何とその花を食べることが出来るのです。オクラの花も美しいですが、この花は大輪で、食べるのがもったいないほど美しいのです。これは苗が販売されていないので、自分で作る必要があります。3年前まで作っていた時の種がまだありますので、何とかなるだろうとは思っているのですが。

     

東日本大震災前まで作っていた畑に咲いていた花オクラの花。直径が20cmほどある大型の花だけど、清楚で美しい。その美しさを堪能した後は、この花を包丁でトントンと細かく刻んで、ネバネバの塊にしたものに白だしやポン酢などをかけると、酒の肴にも十分に対応してくれる珍味となる。

とまあ、このような状態で喜んでいるわけですが、もっと規模の大きな畑をやっておられる方から見れば、笑い話の話題にもならないことかと思います。そのことは承知しながら、百姓の原点としての、大地と作物たちとの対話を味わいながら、これからのその時間を大事にしてゆく積りでいます。


インターネットじいちゃんへの憧れ

2014-04-05 06:19:04 | 宵宵妄話

 先に老人の定義などという大それた話をし、それが未来との断絶度でレベルが決まると書いたりしたのだが、その後も老計とか死計などということにあれこれ思いを巡らしている。そのような中で、先日ネットのニュースを見ていたら、見出しの中に「インターネットじいちゃんが亡くなられた」との記事があり、俄然目を引いた。

これは一体どういう方なのだろうと読んでみた。それはイギリスのピーター・オ―クレイさんという方で、3月末に86歳で亡くなられたとのことだった。

この方は、奥さんに先立たれての一人暮らしの中で、78歳の時に偶然YouTubeという動画サイトに出会い、自らも動画を投稿されたとのこと。その初めて投稿した動画が300万回近い再生回数を超す人気作となり、大変な反響を得たとのことである。一時はYouTubeのチャンネル登録者数1位を記録したこともあったという。その後次々と動画の投稿を続けられて、お亡くなりになるまでに434本もの多くを作られたと書かれていた。

 私はあまり動画には関心がなく、YouTubeを滅多に見ないので、このような凄い方がおられることを全く知らなかった。一体どの様な内容の投稿をされたのかと早速YouTubeを覗いてみた。英語での話なので、残念ながら意味は良く判らないのだけど、書斎らしき場所で、淡々と話されるその語り口からは、誠実さと優しさが伝わってきた。どうやらご本人の過去の思い出などを多く語っておられるようだった。geriatric1927というユーザー名を用いられての投稿だったというから、1927年生まれの老人ということになり、それを強く意識しての投稿内容だったのだと思う。最初の投稿というのが今から8年前の2006年であり、その頃ではイギリス国といえども80歳近い高齢者の投稿は珍しかったに違いない。それは現在でも同じように言えるように思う。ネット社会への高齢者の参加は、まだまだ普通のできごとにはなっていないように思う。

 そのような社会環境の中で、この方が「インターネットじいちゃん」と親しまれ、「あなたが僕のお爺ちゃんであったら良かったのに」とか「あなたのお話は、面白くて気持ちが豊かになって来るんです。頑張って続けて下さい」という様なたくさんのコメントが寄せられて来ているというのは、真に素晴らしく、これからの世の老人の鑑のような生き方だったと讃えたい。

 ところで、この方の存在を知って改めて気づかされたことが二つある。その一つは、学ぶこととその実践の大切さということであり、幕末近い江戸時代の大儒佐籐一齊の言志晩録「三学戒」の一項「老にして学べば、死して朽ちず」であり、もう一つは、老人が学ぶ力はその人の持つ過去の中に埋蔵されているということだった。

 最初の一齊先生のことばは、既知のことだったけど、再確認をさせて貰った。オ―クレイさんは、まさに「老にして学べば」を実践されたのだと思う。妻を亡くしてのちの78歳という年齢は、落胆の力が上回って無力・無気力の世界に落ち込むのが普通のように思えるのに、この方はその壁に対してgeriatric1927を堂々と名乗って、見事に乗り越えられたのだった。それは学びと実践のお手本のように思える。ネット社会を趣味で覗くなどというレベルを乗り越えて、自ら実践行動を果たしているのである。その本質は学びにあったに違いない。そうでなければ、世界中の多くの人の共感を得るような話は決して出来ないからである。

 もう一つの学ぶ力のエネルギーは何かということなのだが、私自身はこのことについて、長い間誤解をしてきたことに気づかされたのだった。というのは、老というのは未来からの断絶度が高まることによって深刻化すると考えており、そのためには老人は未来をより以上自分に引き付けておかなければならないと考えていたのである。そしてそのためには、過去を振り返らずきっぱりと忘れ去って、新しい現実の中に生きればよいと思っていたのだった。事実、リタイア後の人生はその考えを中心に過ごしてきたと思う。それは決して誤った生き方ではなかったように思うけど、このオ―クレイさんの生き方を知って、老人の力とは、そのエネルギーの源泉は自分が積み上げて来た過去の中にこそあるのではないかと思ったのである。というのも、YouTubeの動画の中での彼の話は、過去を現在につなげる仕事だったように思えるからである。Geriatric(=老人、おいぼれ)だからこそ価値がある話なのである。1927年からの様々な経験、体験を積み上げたからこそ現在と未来につなげなければならない話が出来るのである。そう思ったのだった。

 これは、今までやや意固地になって過去のことに触れなかった自分にとって、大きな刺激を受けたことだった。自分の持っている過去の中で、過ごした時間が一番大きかったのは、一企業に勤務し、関わった42年間である。この42年間に関して、今まで殆ど触れたことがない。しかし、オ―クレイさんならずともこの42年間には、現在や未来につなげるべき体験や経験が、それこそ山ほどあるのである。これを無理やり閉じ込めておくのではなく、緩やかに開放し、自在に語ってもいいのではないかと気づかされたのだった。

 今まで過去を封じ込めようとしていたのは、そこからの話題は同世代以下の若い人たちには、老人の愚痴や繰りごととして受け止められるだけだという思いがあり、そのような行為は断じて避けようという考えがあったからなのである。しかし、オ―クレイさんの話を聞いて、過去の材料の中にも現在や未来とつながるものは幾らでもあり、むしろそれを為すことが老人の特権と考えてもいいのではないかと思ったのである。改めてよくよく考えれば、若い世代とつながるために老人が出来ることといえば、過去を力とするしかないのであって、若者を凌ぐような未来を語る老人など気持ち悪い存在となるに違いないのだ。そのような老人はインチキに決まっているからであろう。オ―クレイさんからは、そのような大切なことを学んだように思う。と、言ってもさし当たって無理に何やら為すこともない。気持ちの上で、肩の力を抜くことが出来たと感謝している。

 それにしても、偉大なるインターネットじいちゃんだったと思う。もしかしたら、日本国内にも同じような方がおられるのかもしれない。実のところ、私はブログやYouTubeなどの他人様の作品を殆ど読まないので、どこに、どのような方が、どんな作品を作られているのか知らないのである。他人様のことを知るよりも、自分のものをどうするかのほうが気になっており、この習癖はまだ当分続くのではないかと思っている。YouTubeのような動画専門のブログの方が、世界を相手にする場合は、一段と優れていることは承知していても、今のところそれにチャレンジするつもりはない。今までと同じようにくどくて稚拙な文を書き綴ってゆきたいと考えている。とてもオ―クレイさんのような存在にはなれないけど、ずっと彼が残した「朽ちないもの」に憧れて行きたいと思っている。

 お亡くなりになられたピーター・オ―クレイさんに、心から哀悼の念を捧げると共にご冥福をお祈りいたします。