山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

歩くのは楽しい

2017-09-26 20:10:39 | 宵宵妄話

 今月の23日、今年の歩きが500万歩を超えた。一日の平均歩数は18,896歩となっている。

1990年、50歳で糖尿病を宣告され、歩くことを我が身に課してから27年目を迎え、日々を過ごしているのだけど、その宣告を受けて以来、毎日万歩計の歩数を記録している。その記録を見ると過去の最高は1997年の年間6,754,431歩なのだが、今年はこのままのペースで歩くと、その記録を上回りそうなのだ。この歩数というのは、計測する機器の性能や調子にもよるので、数値そのものの正確性は問題外なのだが、トータル的に見れば、歩いた量の大きさは信じても良いのではないかと思っている。

 1997年からは早や20年が経ち、喜寿を迎えているのだが、この歳になって最高記録を更新するというのは、必ずしも良いことではないと思っている。却ってこりゃまずいぞ、歩き過ぎだぞ、と心配になって来ている。何ものも、何事も、調子に乗り過ぎて度を越すと、その先ロクなことが起こりかねない。それは多くの先人や身近な周りの人たちが教えてくれていることでもある。

 それで、何とかセーブしたいのだが、これがもうどうにも止まらない。歩くのが楽しくて仕方がないのである。自分の場合の歩きは早朝主体である。今の季節だと朝5時ごろから歩きはじめ、2時間ほど歩く。3つのコースを決めていて、それを基準に少し変化などを入れながら順番に歩いている。昨年は階段昇降などの鍛錬期間を4カ月ほど入れたが、今年はそれは止め、その分スピードに変化をつけた歩きをとり入れ、歩く時間を増やしている。日中も近所に出かける時は荷物がない限り車は使わない。そうすると歩数は2万歩前後となるのである。

 歩くのが楽しくて仕方なくさせるのには、幾つかの理由がある。大きく言うと第1は「世の中を見る楽しみ」、第2は「考える楽しみ」、そして第3は「自分を確認する楽しみ」である。これらの楽しみは、歩き始めてからずっと持ち続けているのだが、27年の間に随分と変化して来ており、ここに取り上げた三つは、真老(75~85歳)世代となってから、今味わっている楽しみである。

 三つ挙げた中で、第3の「自分を確認する楽しみ」が一番大切ではないかと思っている。第1の「世の中を見る楽しみ」も第2の「考える楽しみ」も、結局は「自分を確認する楽しみ」につながっている。ああ、今俺は目前のこの世の中を、生きて見ているのだ、そう、考えているのは生きているからなのだと、そんな風に思って歩いている。1と2の二つの楽しみを通して、常に自分が今生きていることを確認し、感謝していると言ってもよい。これは歩かないと実感できないように思う。

 「世の中を見る」というのは、無限の広がりのある世界が世の中であり、足元の小さな状況から遠く見える空の様子まで、歩きなが視界に入るものは無限である。どこに目を据えるかで見えるものは千変万化であり、退屈しない。歩きながら見ている世界は、TVや新聞などの報じる世界とは異なり、本物性が高いと思っている。人為的ではなく、在りのままなのだ。例えばその家の中に住む人間が全員インチキまみれの人たちであったとしても、外から見る建物としての家は、本物なのだ。それを只見ているだけで、旅人の気分になれるのだ。家だけではない。目に飛び込むあらゆるものが皆面白い。それを面白いと受け止めながら歩いている自分がそこにいる。これは生きている証の一つなのだと考えながら。

 「考える楽しみ」というのは、目から入って来るものに対してだけでなく、心の中から湧き出て来るものに対して思いを膨らますことの楽しさも含まれる。これ又無限である。遠い過去も、昨日の出来事も、或いは今見ている景色に対しても、巡らす思いは自在である。こんな楽しいことは無い。家の中で椅子に座っている時や寝床の中で夢現(うつつ)を味わっている時間も楽しいけど、歩いている時が一番である。何故なら、まさに生きている自分を確認しながら歩いているからである。死んでしまったら考える楽しみは失せてしまうのだ。生きていればこそ、なのである。歩いているからこその楽しみなのである。歩けなくなっても考える楽しみは残るには違いないけど、恐らく半減するような状態となるに違いない。歩けるというのは本当に嬉しくありがたいことなのだと思う。

 さて、あと3カ月をどう過ごして歩くのを確保して行こうか。先ずは記録への挑戦は捨てることにしよう。この秋には1カ月ほどの旅を計画しているので、旅先での毎朝は少し歩きのペースが落ちるに違いない。長期の旅では、朝の時間が重要で、恐らく今回も毎日ブログの投稿をすることになろうから、歩数はかなり減少することになる。これは仕方がない。とすれば記録の更新は自ずと消えることになる。従って歩く楽しみも減少することになってしまうけど、これは旅そのものが補ってくれて余りあることになるので、大丈夫である。

 と、まあ妙な話となってしまった。同世代の人や或いは順老(65~75歳)や準老(60~65歳)の方の中には、糖尿病やメタボ症候群に脅かされている方が多数いるけど、己れを労わり過ぎて、歩く喜びを忘れ果てているとしたら、それは哀しいことだ。憐れと言っても良いのかもしれない。活き活きと生きるためには人間は動物としての原点、即ち「動く≒歩く」ことを欠かしてはならないのだと思う。PPK(ピン・ピン・コロリ)という死に方は、活き活きと生きることが基本条件となると、自分は思っている。

それにしても、歩くのは楽しい。


ご都合主義に誑(たぶら)かされるな

2017-09-23 06:43:45 | つぶやき

 ご都合主義というのは、定見無しが前提となるようだけど、定見ありのご都合主義もある。己(おのれ)の都合を正当化して主張するというのもその一派ではないか。自分はそう思っている。今はその様なご都合主義が世に蔓延(はびこ)っているのではないか。

 その最も代表的なのが宣伝広告の世界だ。この世界は何をどう吹聴しようと自由自在である。宣伝広告の世界は、ご都合主義無しでは成り立たない。それは当然のことであろう。しかし、その内容がインチキであったとしたら、これは問題だ。宣伝広告は広告主体がその価値を世に伝えようとする行為なのだから、ご都合主義の極みであるともいえる。その価値なるものが本物であるのならば、何の問題もない。それを信ずる者は等しくその効果を享受することができるのだ。しかし、その価値がとるに足らないインチキであったとしたら、これは詐欺に近い犯罪であるともいえる。

詐欺というのは人を騙す犯罪のことだが、この犯罪には必ず前段に餌が用意されている。その餌というのは、必ずしも格別の利益をもたらすものだけではなく、人間の弱点を巧みに突くという手段も弄されている。その極みはオレオレ詐欺とかニセ電話詐欺とか呼ばれているものであろう。高齢化社会を虫食う悪の権化のような存在だ。これは絶対に許してはならないし、摘発した場合は極刑をもって処すべきである。

今の世は宣伝広告の時代でもある。本当に価値のある良いものを世にアピールするのであれば、コマーシャルはそれをアピールする側にとっても又それを享受しようとする側にとっても必要不可欠のものであろう。しかし、実態はどうなのか。インチキが紛れ込み、本物面(づら)をしてまかり通っているものが増えてはいないか。よほど悪質なものでない限り、厳しく取り締まるすべがないために、野放し状態となっている感がする。

特に目立つのは、健康に関する商品だ。その中でも飲料やサプリメントの類はそのほとんどが実質効果のないものが大手を振ってまかり通っている感じがする。極端に言えば、うどん粉の中に少々の砂糖と塩を入れ、それに胡椒や辛子などを微量混ぜて、丸薬風にコーティングしたものを、万病に効くとか、或いは特定の症状の病に効くと言って、大々的に宣伝をすればそれが売れるのであろう。ま、それほどのインチキではないにしても、僅か1%程度の効果であっても、それが化学成分的に証明されていることが判れば、恰も100%効果があるかのようなコマーシャルを打てば、それが本物としてまかり通る。そのような商品が溢れている感じがする。

自分は四半世紀に亘る糖尿病患者なのだが、この1千万人を超える患者のいるマーケットを狙った商品やサプリメントは多いようだ。お茶を飲めば効果があるとか、何やらの成分を多く含む丸薬を飲めば血糖値が改善されるとか、いかにも効果抜群の様な効能をうたい、元々患者とは無縁と思える有名人や一般人をダシにして、ニコニコ顔を見せるといったコマーシャルを流せば、多くの人がそれに飛び付くといった手法が目立つ。

糖尿病はそのようなもので治る病ではない。1型でないものは殆ど全てが長期の暴飲暴食と運動不足の結果で招来されるものであり、お茶を飲んだり薬を飲んだりして治癒するようなものではなく、根本原因である飲食を改善し運動を加えた摂取エネルギー(=カロリー)をコントロールしない限り正常には戻れない病なのだ。しかもこの病は不治なのである。即ち一度罹病したなら、二度と治らない病なのである。唯一救いがあるのは、うまくカロリーのコントロールをしてさえいれば健康レベルを維持できることであり、少しでも不摂生をすれば忽ち病のレベルに落ち込むのである。薬を飲んだりインシュリン注射を打っているから、普通に好きなものを好きなだけ飲食したり、甘いものを食べなければ大丈夫などというものではないのである。

派手にコマーシャルを流している商品にも多少の効果はあるのかもしれないけど、恰もそれを飲んだり食べたりしていれば糖尿病が直るなどというのは断じてあり得ない。時々医療の専門家や栄養管理の専門家などを引っ張り出して効果を煽ったりしているけど、針小棒大の口説に加担するとは、何だか専門家のその人物がインチキに見えてならない。

このようなことをいくら主張しても蛙に小便かもしれない。この世はいずれの時代も騙し騙されて成り立っているようなものなのだから、結局騙される奴がバカなのだ。ということになる。しかしまあ、騙される奴が何とまあ多いことなのか。そして、ぬけぬけと騙す奴も又何と多いことなのか。狐や狸に誑かされる人は今の世にはいないと思うけど、TVや電話などを通じて蔓延るご都合主義の餌食とならないよう、特に同世代の老人の皆さまにはご注意あれ。誑かされるのを防ぐ手立ては只一つ。それは自分自身の心の持ちようと行動だけなのだから。


新しい風はどこ吹く風(我が町の市政)

2017-09-17 04:09:03 | つぶやき

   明日(18日)は敬老の日だ。喜寿となった自分は、敬老などからは無縁のところにいる。世の多くの心ある老人(心ない老人は少ないと思うが)は、敬老の日というのを、果たしてありがたいと受け止めているのだろうか。受け止めている方がおられるのならば、その人は真におめでたい幸せな人なのだと思う。

 昨年の秋、守谷市長選挙が行われ、新しい市長が選出された。若手で元県議会議員だった人と市議会議長経験のベテラン市議との二人が立候補した。二人とも当然のことながら守谷の市政に新風を吹かせる様なことを公約に掲げて運動を行っていた。特にベテランの方は、自分自身が先日まで属していた新風が必要だった古い議会にいたことも忘れて、守谷に新しい風をというのを盛んに強調しながら、走りまわっていた。若手が新風ならわかり易いのにと思いながらそれらを見ていた。選挙の結果はさかんに新しい風を強調していたベテランの方が当選となった。

 その出来事があってから間もなく1年が近づいている。今、守谷市に新しい風は吹いているのだろうか。探して見てもどこにもそのような風は見当たらないようだ。古い者が新しい風を吹かせるなんて、土台無理な話なのであろう。今吹いているのは、どこ吹く風である。それどころか、そのどこ吹く風は、退行現象をもたらそうとしているかの様である。何もしないという現状維持の姿勢が退歩につながるというのは、現代では常識と言っていい。守谷市の現状はその退歩現象から更にズレてしまって、退行現象化しているかの如き印象がある。

 冒頭に敬老の日のことを掲げたのは、この守谷市のどこ吹く風の退行現象と深く結びついているからだ。いずれの自治体でも敬老の日には、対象となる世代の人たちを一堂に集めて、何やらのイベントを開催してるのだが、最近はその対象者が増える一方なので、その扱いを持て余して、取りやめたり変更したりしているところが多いようである。守谷市もその例に漏れない。

 守谷市は取止めにはしないけど、一括して行うのは止め、各地区にある自治会の上部団体の地区協議会というのに開催を預けて、予算だけを分配するという形となった。それで、先日敬老会の案内と出席希望者を募る紙が回ってきた。その内容を見ると、従来まで行われていた敬老会なるものと全く同じ内容で、来賓祝辞から始まり老人向けの体操を行なって、その後何やら地域の同好会の発表会みたいなことを行い、弁当を貰って解散といった様なものだった。

 勿論出席するつもりはない。現代の老人を、過去平均余命が70歳台だった頃の老人と一緒に考えている内容の企画なのだ。今の世の老人は、70代に入っても自分が老人なのだなどと自覚している人は少ない。健康障害を持つ人の一部は、老人を自覚せざるを得ないであろうが、元気で過ごしている人にはそのような自覚は不要であろう。何が敬老会だ。何が祝辞だ。というのが殆どの人たちの本心であろう。それで良いのだ。それが当り前なのだと思う。

 しかし、そう考えている人にも落とし穴があるというのが、この世代の弱点でもある。老に伴う健康管理を蔑ろにしたりして、その後の人生に思わぬ苦難を強いられている80歳代の老人は多い。だとすれば、そのような自覚不足の老人に対して早めの準備・啓発を促すような企画を打ち込む必要があるのではないか。市の行政の中にそのような発想は皆無の様である。

 敬老の日というのは、安穏と老人を祝うというようなものではなく、この後の人生を健康で全うするための智慧や覚悟を与える場とすべきではないのか。守谷市の新しい風の中にはそのような考えは微塵も見出せず、行政主体から自治会などという見当違いの団体に丸投げしてお茶を濁している。どこ吹く風なのだ。

 医療費や社会保障費が国や自治体の財政を圧迫していることは周知のことだし、さらなる拡大が懸念されていることも大きな社会問題となっている。大げさに言えば、この国は老人に食いつぶされるという危険に直面しているのである。個々の生き方は自由なのだから、病気になるのも自由、医者にかかるのも自由、保険料を払っているのだから医療費を補助して貰うのも当たり前、ということだけで良いのだろうか。その結果老人が国を食いつぶしても良いのだろうか。

 自分は老人には老人としての自己責任があると思っている。その責任とは、可能な限り医者などに行かず、活き活きとして生きながら、ピンピンコロリとあの世に逝くことだと思っている。生きていることすらも自覚できないような状態であの世に逝ってはならないのだ。その自覚と覚悟が必要なことを、今の世では、誰も、どこも老人に対して求めていない。

 今さら良いッ子ぶりするつもりなど毛頭ないけど、何の自助努力もせずに体調不良を自ら招いて、のうのうと医者通いをしている老人を見ていると、気の毒と思う以上に何だか腹立たしい気持になってしまう。敬老会をやるのならば、老人を甘えさせるだけではなく、厳しさも求めるべきではないか。それこそが老人世代に対する本物のプレゼントとなるのではないか。

どこ吹く風に当りながら、今の様な敬老会などくそ喰らえと思っている。それにしても、このようなどこ吹く風ばかりで、この人口増加中の6万5千人の町が本当に発展してゆけるのだろうか。新しい風はどこへ行ったのだろうか。


大相撲は体制を見直せ

2017-09-15 05:12:59 | つぶやき

 何ということなのだろうか。今年の今場所の大相撲は、端から三横綱が休場し、序盤で大関一人が休場。加えて残っている横綱も大関の一人もこの後の出場が危い状態となっている。その他の将来を嘱望されている力士の何人かは怪我で休んだり、いつ休場となるかわからない不安定な体調で土俵に上がっている。

 これが特別な場所で済むことならそれほど心配しなくても良いことなのかもしれない。しかし、このところ常態化しているように思えるのである。それは力士の健康や体調管理の在り方に問題があるのかもしれない。確かにそのようなこともあるのだろうけど、常態化しているというのは、個人の問題だけでは無いように思える。大相撲の運営体制そのものの中に常態化の真因が潜んでいるように思えてならない。

 その真因というのは、場所数が多過ぎるということではないか。現行では本場所が6場所となっており、この他にも地方場所などが行われているのだから、力士は休む暇がないと言ってよいだろう。身体をぶっつけ合うのが仕事なのだから、これくらいのことは当たり前だという考えがあるのかもしれないが、力士は生き物だ。生き物には怪我や病気は当然ついて回る。それを治すのには時間が必要なのである。

 稀勢の里などを見ていると、真にその犠牲となっている。又鶴竜も同じであろう。怪我がロクに治ってもいないのに、無理をして土俵に上がれば良い結果など残せるはずがない。半端な身体状態で上がるのを繰り返せば繰り返すほど、土俵生命は短縮化し、相撲が面白さを失ってゆく。幕の内力士の主力者がそのような状態であれば、大相撲はあっという間に魅力を失ってゆくに違いない。

 これらを解消する一番の方法は、年間の場所数を減らして、治療・快癒のための時間に余裕を持たせることが一番なのではないか。昔のように年に2場所というわけには行かないだろうが、せめて4場所に戻して見てはどうか。その上で、怪我をしてしまった力士に対しては、今の様な曖昧な出場判断をさせているのを止め、専門医の診断に基づいた協会としての出場許可判断を示すべきであろう。身体の壊れている力士に勝負をさせて、相撲が成り立つという甘い考えを改めるべきではないか。

 審議会なるものがあるようだが、彼らは何をしているのだろうかと思う。横綱のコメントなどをしているよりも、もっと大相撲全体に係わる大事なことを審議すべきではないか。

 非常なる危機感を持って今場所を見ている。


呆れ返る町議会の対応

2017-09-14 04:02:41 | つぶやき

 先月国や町の議員さんの行為の中に、真に国や町の行政を愚弄しているかの行為が見られるのを「不可解なことばかり」とつぶやいたのだが、先日TV等を見ていたら、更に不可解な事態に発展しているのを知り驚いた。青森県板柳町の二股議員のその後の扱いについてである。

 TVや週刊誌等で一時の話題をさらった人物については、その後議員としての資質ありやが問われ、辞職勧告等が行われていると聞いていたのだが、町のどのような組織・メンバーで構成されているのかわからないのだが、5名による査問会の様なものが開かれ、その結果3対2で問題なしとの結論を得たとのニュースだった。そして問題議員のご迷惑をかけたとの反省のことばも報道されていたが、ご本人は二股は辞めて、引き続き町の行政に係わる様である。

 これは又どういう判断なのか?理解に苦しむ。つまりこの査問会では板柳町の議員は、今後二股行為を行っても、場合によっては(つまりは、今回の様な問題代議士の政策秘書などというレベルのものでさえも)町の行政には差し障りなしということになるわけである。

 この二股議員さんが、町にとってどれほど有能で不可欠な存在なのかは知らないけど、板柳町というのは随分と寛大というのか、寛大すぎる場所の様に思えるのである。これは別の言い方をすれば、騒ぎになるようなことは、抑えて、抑えてお静かに、という事なかれ主義の極みのように思える。

 気になって町のホームページを覗いてみたら、リンゴ日本一を目指す行政の他は、この二股問題に関しては只の一言、一行の文句も見当たらなかった。11名の議員さんが町を動かしておられるようなのだが、大きく二つの会派があって、問題の二股議員さんだけが無所属となっているようである。今回3対2で問題なしとなったのは、各会派は皆同じような事なかれ主義の考えが多いということなのであろうか。恐らく殆どの議員さんがリンゴ栽培に係わっておられるのだと思うから、リンゴの大切さから考えれば、そのような二股議員がいてもどうってことは無いと思っておられるのかもしれない。

 甘いなあ、と思う。羨ましくなるほどの甘さである。だから間隙を突かれて二股行為などが生まれるのであろう。敢えて波風を立てないという考えも解らないわけではないが、いつかこの町が厳しい事態にぶつかった時には、正邪に対する明確な信念の無い者たちばかりが町を動かし続けていたら、それこそ生き馬の目を抜かれて、没落の道を辿るかもしれない。そう思った。真に不可解の上塗りの話である。