山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

誰が尾畑さんの夢を壊したのか

2019-03-07 04:45:46 | つぶやき

 このところ一頻(しき)りTVで話題を賑わした一人のボランティア、世にスーパーボランティアと呼ばれる尾畑春夫さんが、子供たちの幸せな生育を願っての東京から大分までの歩いてのアピールの旅を、途中でご本人が断念されたとのニュースがあった。これを見ていて、ああ、やっぱりか、と思った。

 変な世の中だ。何か少し変わったことをやると、忽ちマスコミやSNSに取り上げられて、大騒ぎになる。そのスピードは、30年前に比べて段違いだ。かつて2~3日かかった情報は、今は1日もかからない。変わった行為が認められると、それが善であれ悪であれ、1日以内には有名人となってしまう。しかし生身の生き物である本人や当事者は、そのあまりにもの急変に臨機に対応などできる筈がない。忽ち過酷な環境に陥れられることとなってしまう。

 尾畑さんは自分よりも一歳先輩の方の様である。来年は傘寿を迎えられるということだから、その体力、気力はまさにスーパーと呼ばれるに値するものだ。自分も年間600万歩近くを毎年稼いで歩いているけど、尾畑さんには遠く及ばない。第一その歩きの質が違う。彼の歩きには、世の中・人のためという大きな目的が掲げられ、それを実行、実現するための歩きなのだ。自分の歩きは、ただ自分の心身をほんの少し健康にするだけの慰めのようなものに過ぎない。比較などできるものではない。

 さて、その尾畑さんが、静岡県まで歩み進んで、その旅を断念されたという。如何にも残念だったに違いない。思うに、尾畑さんは当初はこれほどの騒ぎになるとは思わず、純粋な気持ちで子供たちの未来が良いものとなるように願って歩くことを決心されたに違いない。多少は世の中にも注目して欲しいと考えたから、何かアピールの印にと旗などを掲げて歩くことにしたのであろう。

 しかし、世の中ではもはや尾畑さんは、周防大島の迷子探しで一躍名を知らしめた有名人なのである。これをマスコミが放っておくわけがない。忽ち専任のスタッフまで付けて取材に取り組んだ局もある。一回放送するだけでも一目見たいと考える人は多いのに、毎日追いかけて放映しているのだから、野次馬が爆発的に増えるのは、まさにSNSの炎上のようなものだろう。

 一体どうすればこの炎上を止めることができるのか。唯一可能なことといえば、それは尾畑さん自身がこの旅を止めることしかない。マスコミの取材攻勢が終りになったとしても、旅を続けている限りは、火のついた噂は広がり、善意の野次馬は増え続けるに違いない。プレゼントを持って待ち構える人もどんどん増えて行くことであろう。

 尾畑さんを見ていると、最初は小さな物運びの車だったものが、プレゼントが増え出して、猫車に変化し、数日の内に今度はリヤカーへと運ぶものが増え出していた。これを見ていて、ああ、これではもう尾畑さんの決心は固まるなと思った。

 この方は、善意に対しては善意で応える方なのだと思う。プレゼントを断固お断りするなんてことは、とてもできない優しい心根の人なのだ。だから、荷物はどんどん増えて行く。旅をする場合に、荷物という奴は、いわば天敵みたいなものなのだ。旅が長期であればあるほど、荷物の扱いは厄介になる。それはくるま旅であっても変わらない。極力増えないように努めなければ、旅自体がパンクしてしまうのだ。それはタイヤがパンクする確率よりも遥かに大きいものなのである。

 しかし、善意の人々の何か役立つものをこの人に贈りたいという気持ちは、旅人である尾畑さんの厳しい事情などを考えるはずもなく、どんどん膨らんでゆく。この問題を解決するのは至難のことであろう。善意がその人を包み過ぎて、あたかも金縛りをかけるようにその人の夢を阻んでゆく。尾畑さんを巡るこの事件の顛末は、傍から見ていると、そのような感じがしてならない。

 よく考えてみると、世の中ではこれに似たような現象がしょっちゅうどこでも起こっている感じがする。お節介というような行為もその一つなのかもしれない。多くのお節介は多分善意に基づくものであろう。しかし、その相手がそれを求めていなければ、何の役にも立たない。要は相手の本当の気持ちや考えをしっかりつかめているかどうかなのであろう。病気で悩む人などに掛けることばは慎重でなければならない。善意の働きかけが結果的に相手を苦しめることになりかねないからである。

 今回の尾畑さんを巡る一連の騒ぎは、何故かもの哀しさを覚える事件だったように思う。一老人の感慨である