日大アメフットボール部の起こした事件が大きな社会問題となっている。この一連の動きを見ていると、現代のこの世のご都合主義の厳しさを目の当たりにしているような気がする。自分は、当事者ではない世間の目というのは、恐るべきご都合主義の中にあると思っている。即ち、一旦悪事もしくは善からぬと思われることが世間に明らかになったとしたら、それまで関心などなかった人々が一挙に批判の側に立ってものを考え、申すという振る舞いとなることだ。その多くの場合はマスコミなどが火種をまくのだが、今の世はその前にSNSの果たす役割が大きい。悪事を為す者にとっては、恐ろしい世の中になっている。
悪事千里を走るは随分昔のことわざだが、今の世はそのようなかったるい走り方ではない。悪事は瞬時に幾千万里を走るのである。日大アメフットボール部の引き起こした超反則行為は、これは明らかに悪事であり非難されるべき出来事である。ボクシングのような格闘技でいえば、グローブの中に悪意を込めた凶器を秘め持って相手にパンチを浴びせるようなものだろう。チームスポーツであるフットボールのゲームに於いて、無防備の相手にタックルするというのは、ボクシングのそれ以上の行為なのかもしれない。
それが問題化して、加害者サイドは、対応にあたふたする羽目となったが、それら一連の動きを見ていると、真(まこと)に以って往生際の悪いことここに極まれりの感じがする。事実を事実と認めない行為は政治家の常套手段であり、監督の弁明的責任とりの言を聞いていると、こりゃあ未熟な政治屋と同じだなと思えてならない。文書で回答するなどという振る舞いも官僚のそれとよく似ている。文書ならば、あとで不利となった場合の言い訳を探すことが容易だとでも考えているのだろうか。
いつの間にか自分もすっかり世間の目になりすましている。TVを見ながら素顔を見せて謝罪の会見をしている加害者の学生に、お前は悪者なんかじゃない、勇気のあるいい男だ。だけど監督の勝利のための損得の物差しに乗って言いなりになってはいけない、飽くまでも人生肝心な時は善悪の物差しで行け、と言いたくなる。この青年はこれから善悪の物差しをしっかり使い分けられる人間となるに違いない。そう思った。
一方で監督やコーチの方はどうなのだ。何千万人というTVの視聴者の中に、気のどく・可哀そうと同情する者がいると受け止めているのか。家族の中にだってそれを探すのは難しいのではないか。上に立つ者、強い立場の者の引き起こす事件は、事後の対応のタイミングと内容によって、事の成り行きが大きく変わるものだ。往生際が悪いと、このような有様となってしまう。
世の中というのは絶対的な事実・真実を求めたがるようである。真実が一つとは限らないし、又その出来事を取り巻く諸々の立場、事情が絡んでいることを考えると、世間のご都合主義的正義感ばかりで物事を判断するのは如何なものかという捉え方もある。しかし、問題の核にある人間は、常に人間性を問われるのである。監督やコーチという使命の重要性よりも、その前に人間としてどうかということが問われるのである。
勝つためには手段を選ばないというのは、殺人や破壊を目的とする戦争だけだ。スポーツの戦いは戦争と同類ではない。人間が動物として保有する闘争心を、人間らしく発揮する場としてチームスポーツが生まれ、存在するのである。手段を選ばないのならば、勝利など何の価値もない。目的を取り違えているチームスポーツの指導者は、恐らく日大アメフットボールだけではないと思う。これを機に一つ己の人間性を確認して貰いたい。もしそれでも自分は勝つために手段を選ばないと悪事を為すことを辞さないのならば、即指導者から身をひくべきである。それができないのならば、遠からず今回と同じような事件を引き起こして、世間の曝し者となるに違いない。今は悪事が瞬時に千里以上を走って世に知らしめる時代なのである。
どのような顛末となるのか。事件は未だ収束していないが、関係者はこの出来事から多くを学び、気を引き締めて欲しいと思う。そうでないと、単なる世間騒がせで終わってしまう。本物のスポーツの発展のためにも。