毎朝7~10kmほどを歩いている。桜の花は散ったけど、今は葉桜の緑がまぶしい。八重の桜も終わりに近づいているが、ライラックを初めハナミズキやツツジなどの花が一斉に咲いて民家の庭先や歩道脇を飾っている。今は大自然が眠りから覚めて活動を本格化し始めた最も元気を貰える季節であるのを実感ながら歩いている。5時頃から歩き始めて7時半過ぎに家に戻るのだが、どのコースを歩いても飽きることが無い。目に映る景色も耳に届くウグイスや雲雀などの小鳥たちの囀りも季節の真っ只中にいることを教えてくれる。
そのような歩きの中で、この頃は適当に妄想を楽しむことにしている。妄想というのはありもしないことを勝手に想像して、半分己れの弱さを感じながらも、そのことに思いを馳せるという、恐らく人間だけに与えられた特権なのかもしれない。犬や猫たち、或いは牛や馬たちが妄想するとは思えず、彼らはその分正直に生きているということなのであろう。
自分の妄想は基本的に過去や現実に対する「タラレバ」である。つまり、「○○だったら」 「○○であれば」という奴で、これは素人の下手くそのゴルファー用語の一つでもある。「あそこでOBを出さなかったら、」 「あのパットが入っていたら、」など、実力を忘れて己の失敗を取り繕うとする心の働きがもたらすセリフである。
しかし、自分の妄想は同じタラレバであっても、ゴルフのそれとは違う。より本格的なのだ。少しその妄想ぶりについて書いて見たい。
例えば、現下の政情についてであるが、自分がもし総理の座にいたとすレバ、森友や加計問題それに財務官僚の不始末問題などをどう考え、どう対処するのか。などという妄想である。これを歩きながら延々と楽しむのである。時に正義の味方となったり、或いはその反対に批判される側の立場になって考えたりして、千変万化である。
森友問題については、自分の妻が係わっているとしたなら、国会にサッサと出席して貰って、黒白をつけて貰うし、自分が係わっていたとしたら、当然のことながら妻を国会になどという前に引責辞職するのは当然である。と、まあこれは潔い男の決断となるのだろうけど、実際に妻が森友に係わっていたとしても便宜を図る約束などはしておらず、自分自身も殆ど何も知らないというのであれば、官僚どもが勝手に斟酌してくれてバカ値で土地の払い下げをやってくれたのなら、これはもう知らぬ・存ぜずで通すことにするのは当然。しかし、待てよ?この官僚の斟酌というのは一体何なのだ。総理の意向を斟酌するというのは、本当に自分に対して歓心を買うためなのか、それとも何かの陰謀なのか。ちょいと厄介だ。こりゃあもう長期戦で、収まるところまで行くしかないわい。それにしてもトランプや金正恩や習近平の動向など、国際的に厄介な課題を抱えている時に、このようなことで野党始めマスコミなどが、ガァガァ騒いでくれているのは。真に迷惑千万。政治を私しているわけでもないのに、こりゃァやっぱり誰か、どこかの陰謀なのかな。だとしたら、俺もうかうかしては居られないぞ。さて、どこから手を打って行けばいいのか‥‥。
それにしても財務省というのは少しおかしいな。いや、おかしな奴は一握りなのだろうけど、この際やっぱり膿を出しておく必要があるな。それと、太郎ちゃんで本当に大丈夫なのかな、大臣は。彼の正直で軽いところが好きだけど、強気過ぎるのがまずいな。しゃべらないという芸をもっと磨かないと、この先危ないな。
ところで、加計問題だけど、地元の人たちは皆喜んでいるのに、何で野党やマスコミは騒ぎたてるんだろう。これだって特区で風穴を開けたのだから、多少強引さはあったとしても、世の中人のために役立っているのだから、ツベコベ言われる必要はあるまい。無理やり問題化して自分をおとしめようとしているが、その手には乗らないぞ。それにしても情けない世の中になったもんだ。これじゃあ、思い切った改革などできるもんじゃない。瑣末なことで直ぐに騒ぐというのが、この国の文化になってしまっているのか。戦前の政治家連中が羨ましいね。
‥‥、などなど妄想は果てしない。総理になったつもりでいると、いつの間にか現安倍総理の心境に近付くのが不思議なのだが、決して味方となっているわけではない。いい加減総理の妄想に飽きて来ると、今度は一変してジャーナリストになったり、立憲民主党の党首になったりして、真に果てしなく主人公が変転するのである。
ということで、2時間位はあっという間に過ぎてしまうのだ。しかし、最後の頃になると、妄想は醒めて正気に戻るのである。すると再び小鳥たちの囀りが聞こえ出し、目に繚乱(りょうらん)の花たちが飛び込んでくるのである。妄想は時として楽しい。