山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

希望は泥舟に乗って沈んでしまった

2017-10-24 10:44:59 | つぶやき

 何だかわけのわからぬままに、あっという間に衆議院選挙は終わり、波乱含みの選挙後が始まっている。先日選挙騒動にうんざりしている旨を呟いたのだが、選挙の結果はほぼ予想通りで、この老人も国民全体の思いと変わらないのだなというのを確認できたように思っている。

 自民・公明の連立与党が勝つのは当然のことであり、これは論外として、希望の党とやらが民進党を飲み込んで、その結果がどうなるのかが関心の的だったのだが、同床異夢大勢の乗る泥舟は、国民の信任を得ることはできず、舟は沈んでしまった。 

 同床異夢というのは誤っているのかもしれない。少なくとも踏み絵まで行っての結束だったのだから、異夢ということは無かったのであろう。しかし如何にもその場しのぎの離合集散は、政党の形すらも固まらぬままに現職の総理に翻弄されて、まんまと作戦に引っ掛かって大敗結果を招来したように思う。

 希望の党と維新の会という政党のなりたちは良く似ている。日本の東西を別ける大都市の東京と大阪を改革しようと立ちあがった志には共通するものがある。しかし、これらの党が国政に進出した結果は、多分にこのままではジリ貧になるだけに違いない。何故なら大都市と地方を含む国全体とでは、中身が違うからだ。都民ファーストのスローガンを国民ファーストに置き換えれば、そのまま考えが通ずるなどというものでないのは明らかだ。

 都市の持つ様々な課題は、地方の抱える様々な課題の裏返しとなっていることが多いのである。この相矛盾する関係を薄っぺらなキャッチフレーズを叫ぶだけで、ことが上手くゆく筈などないのである。都民ファーストというのが、国民ファーストには決してならないのは、田舎に住む者から見れば明白であり、それは掛け声ばかりでさっぱり進展している感のない地方再生、などというタイトルと同じように聞こえるのだ。

 さて、この先はどうなるのだろうか。泥舟はもはや浮上することはあるまい。民進党という半ば壊れかけた政党も同様であろう。占い師ではないけど、これからの野党大集合の実現の核となるのは、第1党となった立憲民主党であることは自明であろう。このようなことは政治通ならずとも誰にも予見できることである。問題はその中身とプロセスの在り方ではないか。

 「安倍政権を倒す」「憲法改正を断固阻止する」などというスローガンを掲げている限り、野党の結集は稔ることはあるまいと思う。安倍政権を倒しても代わりの政権は幾らでも現出するに違いないし、絶対的な平和が幻想であることを証明している現実の世界状況を知ってしまっている限りでは、憲法改正は政治の命題から消え去ることは無いように思う。

 だとすれば、一体何が野党集結のための核となるべきテーマなのか。自分的には、その解は「①政治を国民に取り戻す」或いは「②国民の政治参加度を引き上げる」ことではないかと思っている。現在の政治は、国民一人一人からは離れた世界にあるように思える。今回の選挙でも僅かに50%を超える程度の投票者しかいない。国民が政治に参加していない証であろうし、その原因が政治の在り方の虚しさ、無関心にあるとしたら、①の政治を国民に取り戻すということは決して実現できないのだ。②は本来国民一人一人の責務であり、政治家の云々すべきことではないと考える政治家がいたとしたら、それは政治家ではない。何故なら虚しさや無関心をつくっている最大の要因は政治家の織りなす政治のあり方にあるからである。

 選挙後の各政党の動きに注目したい。最も期待するのは野党第1党の立憲民主党だが、決して泥舟などを造らないようにして貰いたい。そのためには軽々に動くのは止め、慎重に着実に結集の核となるものを育てながら前進して行って欲しいと思う。泥舟でない舟をつくり、異夢だらけの仲間を選ぶことなく、着実に立憲の大義が実現できるように、信頼できる仲間を増やして、全力を挙げて邁進して欲しいものだ。

 自分は本来政治には距離を置いて生きて来た人間なのだが、今回の様な政治状況を見ていると、その危うさは政党や政治家よりも、むしろ我々国民一人一人にあるのを痛感するのである。国民の政治への関心が高まり、政治への参加レベルが向上しない限り、この国に二大政党は決して生まれないのではないか。あと何年生きられるのか判らないけど、本当に二大政党なるものが誕生するのを見てみたいものだ。


悪相の車が増えている

2017-10-21 03:17:57 | つぶやき

 この頃の車を見ていると、新しいものほど悪相の車が増えている感じがする。車には前と後ろに面相があるように思っている。全体のデザインとかスタイルもあるのだろうけど、走っている車をパッと見た時の一番の印象は、やっぱり人間と同じように顔なのだ。人間には無数の顔があるけど、車の顔が人間と違うのは、走り去った後にも後部の顔があるということか。この両方が気になるのである。

 車のデザインというのは、誰がどのように創っているのか解らない。当然その道の専門家がいて、そのアイデアに基づいて決まるのであろうから、当今の車の面相も基本的には彼らの今の世の認識に基づいているのだと思う。つまり、この悪相は彼らが創り出しているのであろう。しかし、そのアイデアを最終的に決定しているのは、メーカーの経営陣となるのであろうから、悪相の最終責任はやはりメーカーにあるということになる。

 一介のジジイが車の面相のことをとやかく言う資格は無いのかもしれない。しかし、70年以上に亘って世の中の変遷と一緒に車の面相も見てきたジジイには、昔との違いが気になるのである。昔の車は性能に自信がなかったのか、或いは改善の余地が多くあったのか、気どった車はあまり出現しなかった。車の使用が大衆化するにつれて、様々の車が生み出されて来たが、スポーツカーなどの様な一部の分野を除いては、車の面相は概して穏やかなものだったと思う。

穏やかというのは平凡ということでもある。つまりあまり目立たない、心を乱すことのない有り様を言うのだと思う。これが変化するのは、目立とうという意欲が増した時からだ。車社会が当然となって、競争が激しくなるに連れて、車は目立つことが重要となって来る。どのメーカーでも目立つ車を生産することを目指すようになって久しいのだけど、面相が崩れることは少なかった。もしかしたら崩す技術が不足していたのかもしれない。それが今は証明はLEDになったりして、ある程度自在に顔貌を造れるようになっているのであろう。

しかし、この頃その面相が悪相となって来ているのは何故なのだろうか。前面だけではなく、後面迄もが尖がった悪相を呈している車も出現している。何であれほどに全体を刻み回した車を造るのか。その真意が判らない。格好いいと若者たちに受けるのだろうか。それとも流体力学とやらの理屈に叶っているから、敢えてそうするのか。たそがれジジイには、そのような車は奇形にしか見えない。

ま、このような所感がジジイの大いなる錯覚や勘違いによるものなら仕方ないなと思うだけだ。だけど、もしかして悪相の背景に世の中に潜んでいる様々な悪意の一つが表われているとしたら、これは要注意ではないかと思う。大衆車の中でも価格の高い高級車クラスに悪相が多いのは、思い上がりを好む人種のニーズに応えるためにではないか、と思ってしまう。もしそうだとしたら、これ以上目立ちたがり屋で、思い上がりを好む人種を育てないようにして欲しいものだ。

特殊な世界を除けば、車はやっぱり穏やかな面相であって欲しいと思う。そう願いたい。それが本物の平和につながるのではないか。そう思っている。


老眼を実感する

2017-10-15 23:20:42 | つぶやき

 目が良いというのにちょっぴり自信があった。目が良いというのは目の格好がいいというのでは無く、勿論視力が良いということである。60代くらいまでは、左右とも1.0~1.2を確保してきた。周囲の同世代では殆どが老眼となって、専用の眼鏡を必要としているのに、どういうわけか自分だけはあまりその必要を感じなかった。遠視が問題となる頃から近視となり出し、それらが上手くバランスしたのか、あまり眼鏡をかける必要がなかったのである。一応50代の終わり頃に老眼向けの眼鏡は作っているのだけど、それを使うことは殆ど無かったのである。ただ、70歳が近づく頃には、夜寝る前には必ず何らかの本を読むので、その際にはさすがに眼鏡は必要となった。あまり明るくすると、隣りの相棒に迷惑をかけるので、減光しなければならないため必要だったのだが、それでも裸眼でも本を読むのが可能だった。

 それが喜寿を迎えるこの頃は、急速に視力が落ちて、先日の糖尿病の定期診断の際の視力検査では、左右とも0.6ほどのレベルとなってしまった。それに毎夜の寝る前の読書の際も老眼鏡は不可欠の用具となっている。ここへ来て初めて老眼とは何かというのを思い知らされている。このままどんどん視力が低下して行くとは思いたく無いけど、くるま旅を88歳迄は続行したいと願っている身には、どこかで歯止めを掛けなければならないと考えている。

 視力を回復するためにどんな方法があるのか。医療の厄介にならずに何とか実現したいと思ったりしたのだが、これは筋力や心肺機能などとは違って、鍛えるというやり方では不可能なようである。サプリメントなどの活用法もあるとは思うけど、あの類は端から信用していないので、とりいれる考えはない。ブルベーリーやアントシアニンを体内に取り込めば目が良くなるなどという話は眉唾物だと思っている。

 ところで老眼というのは一体どういうことなのだろうか。自分なりに考えてみると、これはどうやら目が光を感知し映像をとり入れる力が弱って来ている証の様な気がする。長年使って来ているレンズ(=水晶体)が疲労して曇りだし、光を感知するのが鈍り出したのであろうし、その情報を受け止める神経や脳の機能も衰え出したということなのであろう。老眼というと遠視が進むことかと思っていたけど、どうやらそのような単純な機能低下現象ではなさそうだ。

 ということで、お手上げ状態でいる。取り敢えずは目医者に行ってしっかり検査して貰い、アドバイスに基づいて最適の対策をとるしかあるまい。そう思いつつも、なかなか目医者に行く気になれないのはどういうことなのだろうか。老というのは真に厄介な、得体の知れないものだなと、この頃改めてそれを実感している。

 夜空を見上げたり、遠くを見たりするのが目に良いのだと聞くけれど、見上げる夜空に星は無く、遠くを見ても視界を邪魔する建物ばかりが目立つだけで、これじゃあ老人は救われないなと、一先ずを愚痴を言うだけである。


第3の人類に想う

2017-10-11 04:53:35 | つぶやき

 人類には二種あって、一つは女類。もう一つは男類である。生物の発生学的には元々は女類だけしか存在しなかったのだと思うけど、動物は高度化するに伴って雌雄を別けて、より生存競争に或いは環境適応に強い力を持つことを追求するようになって来たようだ。野生の小動物たちなどの生態を見ていると、どうやらそのようにして子孫の繁栄には生存力の強い者が優位にあるようである。

 人間の場合はどのような要素で男女が結びついて子孫を残しているのか判らないけど、最近気になるのは二種類しかないと思っていた人類に、もう一種類が加わりだしていると思える現象が見られることである。厳密に言えば肉体的な特徴からは男類なのだが、精神的な言動は女類そのものであるとか、或いはその反対に肉体的には女類なのに、精神的な言動は男類そのものという人種が目立つようになっている。

 TVなどを見ていると、どうやら男類が女類の言動・振る舞いをしているケースが多い様である。勿論、人間としては何の問題もないのだと思うけど、自分の様な男類の老人からはどうも違和感を拭いきれない。世の中ほんとうにこれでいいのだろうかと思ってしまう。男類と女類の間を自在に動き回る第3の人類が現れるのを、ごく当たり前のことと認めるのは到底受け止められないのだ。

 世の中が複雑になるにつれて、性同一性障害なるものが社会的に認知され、男類も女類も人間としては同じなのだということから、差別の対象としてはならないという考え方に異存は無いのだけど、自分的にはこの性同一性障害というのは病の一種だと思っているので、とても健康な人類の状態だとは思えないのである。そう思うことが差別の始まりなのだと言われれば、何の言い訳もできないのだが、それでもやはり疑念は残るのである。

 仮に、であるが、仮に第3の人類が蔓延(はびこ)るような世の中になったとしたら、それは人類の破滅につながって行くように思えるのだ。何故なら、第3の人類には正常に子孫を生み出す力は備わってはいないと思うからだ。もし生み出す力が備わっていたとしても、病が生み出す子孫は健康な存在であるとは思えないのである。

 今の世の中では、何やらこの第3の人類が妙にもてはやされている感じがする。TVなどで、第3人類の人たちが正統な位置を獲得したかのごとく錯覚して振舞っているのを見ていると、羨ましいというよりも気の毒になってしまう。これらの人たちに何の責任もないというのは承知しており、もしこれらが罪なことだというのなら、その責はただ面白半分的にこれらの人たちを弄んで活用しているスポンサーやタレントのオーナーたち、それにマスコミ社会を牛耳っている連中にあるように思う。

 今の世の正義は、歪んでいる。第3人類たるジェンダーの問題を逆手にとってのコマーシャルを打っている企業などの感覚は、到底理解できない。面白そうであれば、その内容も社会背景もお構いなしに、なりふり構わずにそれを利用し、世間の興味を引寄せるという手法がまかり通り過ぎてはいないか。ジェンダーの混乱を世に招くような好き勝手な振る舞いが許されていいのだろうかと思ってしまう。

 人間が心の世界だけで生きてゆけるのであれば、精神力だけで生き物としての子孫を残してゆけるのであれば、このような老人の嫌悪感や疑念は無用だというのだろうけど、TVなどで第3人類のタレントたちが賑やかに振舞っているのを見ていると、真老の域に達した老人には、この先の世の中を憂いてしまうしかないのである。人類というのはどうしてもカオスの方向に進んで行く生きものの様な気がしてならないのである。


選挙騒動にうんざり

2017-10-02 08:42:09 | つぶやき

 現下の話題といえば何と言っても解散国会後の選挙を巡る騒動のことであろう。主力の自民・公明の両党はともかくとして、希望の党と民進党に絡む野党再編の嵐に係わる騒ぎである。長年に亘って燻ぶっている二大政党体制なるものの産みの苦しみの様なものがまたぞろ表面に出て来ているのかとは思うのだけど、この一連の動きを静観していると、何だかバカバカしい気分になってしまう。

 そもそも総理大臣の国会解散の大義とやらが不可解である。増税の上がりの使い道や北朝鮮の脅威対応に関して国民の信を問うというのがその目的ということだが、今、この時期に国民の信を問うほどの問題なのかが判らない。国民の大半は消費税の使い道などを目の色変えて見張っているとは思えないし、北朝鮮の脅威に対する政府の対応に対して、もどかしさはあるものの生ぬるいから宣戦布告をしろなどという過激な考えは無いし、現状止む無しと静観しているのが実態ではないか。それなのに敢えて解散して(660億円+αもかけて)信を問うというのは、税金と時間の無駄遣いではないか。政府が非常事態に陥っている状況ならまだしも、世論の支持率とやらが半分を切っていたとしても、支持の軸は確保している現状の中敢えて選挙に踏み切るというのは、総理の立場にある人物の我がままの思い上がりとしか思えない。

 それにしても平素からあまり存在感のない反対行動ばかり並べ立てている野党の存在には失望感が膨らむばかりである。特に民進党というのは、一度政権の座についてこれからという時に、東日本大震災の煽りを食らって、その対応にモタモタしている間にいっぺんに信頼を失って座を滑り落ちて以来、何の影響力も持たない存在になり果てているのには、失望感を通り越して怒りさえ覚える。それが今度は希望の党にいきなり合流するなどという理由のわからぬ振る舞いに及んでは、あまりにも節操がないのではないか。ちょっと人気が出たばかりの売れっ子芸人にあやかって、自分もその付き人となって売れっ子になりたいとすり寄る素人のような感じがする。

 これは本来ならば逆の話ではないか。曲がりなりにも自民党に対して第二の勢力を確保し、一度は政権をとった歴史を持つ政党とは到底思えない。名を捨てて実をとると言えば格好いいように聞こえるけど、プライドや信念を捨ててしまった者に対して、世の中の多くの人は好感よりも嫌悪感を抱くのではないか。

それゆえに、希望の党はこの合流のあり方次第によっては、同床異夢の泥船に乗ることになって、結果的には希望を失って沈むことになるのかも知れず、慎重な対応が必要なのではないか。小池百合子氏は、庶民の目がいつも同じであると錯覚をしないように、取り巻きの仲間たちに厳しく促すことが必要なのだと思う。

 茶化しながら世の中を見ている限りは、この選挙騒動はドラマを見ている以上に面白いのかもしれない。やれば勝つと判っている選挙を仕掛けるというのは、やはり政権を少しばかり長期に保有している自民・公明党の奢りではないか。対抗者の弱点を攻めるのは戦の常道ではあるけど、戦が必要でもないのにそれを仕掛けるのは、権力者の破滅への一歩のようにも思える。歴史は何度もそのことを証明している。多分にその先の大目的として、憲法を改正することがあるのだとは思うけど、このようなやり方で本当にいいのかどうか、疑問大である。

 それにしても自民・公明党に正対できる勢力が育たないのは、何故なのか。多分にそれをまとめ得る強力なリーダーシップを持った人物が不在だからなのであろう。今のような若者たちの生きざまの世の中では、まだまだそのような人物はこの国には現れないのかもしれない。今の時点で、希望の党にそれを期待するのは無理というものであろう。共産党までをも合流させるほどのパワーを持った人物の出現がなければ、この国に二大政党などは決して生まれない様な気がする。

 今度の選挙で自民・公明党が勝利するのは当然であろう。代わりの政党が育たない限り、現行体制は変わらないと思うし、それを不適と批判することも当を得てはいない。結局はマスコミなどが世間の代弁者となって、ベストのコメントを送り続けるという現行の体制を維持・強化するしかないのかもしれない。

 選挙騒動はこのあとも賑やかさを増すのかもしれない。ま、自分の生きている間にはこのような騒動の繰り返しが何度かやって来るのであろう。うんざりするけど、生きている間は最小限つき合って行くのが義務というものなのであろう。