山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

240-4-45

2020-10-25 02:02:33 | ジジババ世代の話

 この数字の並びは何だと思いますか? 解る筈はないと思いますが、実はよくあることなのです。これは、病院を受診した時に使われた時間の内訳なのです。合計が289分となります。病院へ到着して支払を終えるまでの時間なのですが、自分の場合は、これに病院往復の時間を加えると更に40分を加算しなければなりません。すると329分(=5時間29分)となります。1日の寝る時間(≒9時間)を差し引いた15時間の内の3分の1以上を取られてしまうことになります。ま、老人はどうせヒマなのだから、どうってことないという話になるのかも知れません。

 しかし、いくらヒマだといっても日中のベストの時間帯をこれだけ取られてしまうのは、癪な話です。というのも、癪が勢いを増すのは、その中身なのです。240は受付から診察までの待ち時間で、4は診察時間、そして45は診察が終わって支払いを済ませるまでの待ち時間です。何と言っても問題なのは、4という数字です。病院に来る目的はこの4分のためにあるのです。たった4分のために、285分も費やすとは! 幾ら老人でも癪の湧きあがる心を抑えるのが難しくなるというものでしょう。

 それでもじっと我慢しながら5時間29分を耐えたのでした。今日は予約無しの飛び込み受診だったので、実のところ最初から諦めていたのですが、持参したギリシャ神話の1冊は、読み出すと真に解りにくく厄介な本で、途中から読むのを放り出しました。それで、やることが無くなり観察の時間となった次第です。待合スペースで4時間も観察を続けていると、いろいろなことが見えて来ます。感ずることも多くあり、存外退屈ではなくなり、癪な気持ちはそれほど膨らまなかったというのが正直な話です。

 予約の人たちの診察が終わってから飛び入りの人たちの診察が開始されるらしく、それが始まったのは12時を過ぎており、ようやっと自分の番が回って来たのは13時近くでした。自分よりも後に来たどこかのばあちゃんが、市役所へ出向く用事があるから早く診てくれ、と盛んに声を挙げてねじ込んでいましたが受入れられず、とうとう受診を諦めて帰って行きました。こんな所で個人事情など幾ら話しても通ずる筈もないのに、まあ、よく頑張るものだと、半分同情しつつも呆れかえりながらそのいきさつ終始を傍観しました。

 待合室は、本来静かな筈なのですが、ここは半田舎の地であり、病院には地元土着の人の来訪も多く、その多くは老人なので、遠慮などは持ち合わせていない様子。一応コロナ禍はわきまえてマスクはしているものの、知り合いに出会うと、千人の味方に巡り合ったかの如く、辺り構わず大声で普段の会話を始めるのには閉口しました。

 4分間の受診時間の内容といえば、今日のデータでは判断が出来ないので更に詳しい検査をするための日程の予約とその結果の報告日程を決めるというだけのものでした。285分も待つ価値があるのかと思いましたが、対応される医師や看護師の息つく暇もないほどに働く姿を見ていると、とても不平不満をいう気にはなれず、285分をただ観察などというムダをし続ける己を恥じるだけでした。次回は待っている時間を忘れるような1冊を厳選して持参しようと反省した次第です。

 医療の現場は、安易に批判やコメントの出来る状況ではないというのを改めて実感した329分でした。自分は高齢者(=老人)の最大の社会的責任は、生命果てるまで健康であることと考えているのですが、久しぶりに年1回の定期健診の結果フォローのために来院してみて、改めてその大切さを確認した次第です。