山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

活き活きと生きる

2020-05-27 20:42:30 | ジジババ世代の話

 傘寿を過ぎると、残りの時間を時々想うことがある。人生は有限だ。そう思いながらもそれを実感するのはやはり大きな病や怪我などの障害にぶつかった時であろう。元気を失った時に人は残りの時間を否応なしに実感させられるように思う。

 幸いなことに自分は未だその大きな障害に出くわしたことが無い。順風満帆というわけではないけど、深刻な障害には出会っていない。しかし、生・病・老・死は、お釈迦様のおっしゃる通り人生の必然であり不可避なのだ。病の脅威には出会ってはいなくても、老は身に取りついているし、その先には死がさあ、いつでもお出でと待ちかまえている。

 それで、残りの時間をどう生きるかが今は最大の関心事であり課題である。活き活きといきたいというのが願望である。英語でいえばビビットという奴だ。どうすればビビットに生きられるのか。老計と死計を考えるに当っていろいろ考えた。これには二つあると思っている。その一つは先ず心身が健康であること。もう一つは目的・目標があること。この二つが活き活きと残りの人生を生きる上での必要十分条件だと思って取り組んでいる。

 先ずは心身の健康だが、これは心よりも身体の方が優先するように思う。意思で病を乗り越えるのは超困難だと思う。意思の力で病を押さえつけることが出来る人などいる筈がない。どんなに精神第一を強調しても、身に取りついた病の前では心は折れやすい。だから、先ずは病に取りつかれない身体を保持することが大切なのだと思う。

 自分的には動くことが肝要だと思っている。人間は動物である。動物というのは動かないと生命が絶たれる存在なのだ。自然界の動物たちは動けなくなった時が一巻の終わりなのだ。それは百獣の王ライオンだって同じこと。人間の場合は少し違うけど、本質は同じといえる。だから身体に楽をさせることばかり求めないで、負荷を与えることが大事だと思う。指し当って動くことの基本は歩くことではないか。そう信じて50代に入った頃から歩くことに努めている。それは今でも継続している。

 もう一つ身体面で重要なのは、快食・快眠・快便という三快だ。エネルギーの源を気分よく取り込み、そして気分よく排泄する。疲れを取るためにぐっすり眠る。これが三快の本質だ。そして、これらは基本的には動くことによる影響が大きい。動けば自然と三快を実現できる公算が大となる。これは長年の経験から知り得た知恵でもある。

 次に、精神面での健康に関することだが、これは目的・目標を持つことが重要だ。ビビットの現実というのは、やはり心の動きで決まるということなのだと思う。身体の健康が保たれていても、心の動きが停滞していたのではビビットにはならない。活き活きと生きるためには、目的や目標が不可欠なのだ。しかし、云うのは簡単だけど、これはなかなか難しい。例えば、活き活きと生きるなどという目的を掲げても何の役にも立たない。大切なのは、行動につながる、衝動を起こさせるそのような指標なのだと思う。

 この指標は人によって様々だ。居ても立ってもいられないほど、何かをやりたいという気持ちにさせるものを見つけるのは難しい。だけど探せば必ず自分に合った目的や目標が見つかる筈だ。もっとも簡単なのは、自分が本当に好きなこと、面白いと思っていることを見つけ出し、確認することだと思う。それを見出し追いかけて行けば、必ず死ぬまで退屈しないで済むに違いない。

 世に、認知症という不認知症状を来す老人は多いが、この人たちの多くは、死ぬまでやり続ける面白い、自分の好きな目的や目標が見つからなかった、なれの果てなのだと思う。チコちゃん流に云えば、「ボケーとしていたから」なのだ。自分を見つけられなければ、不認知症状を来すことは当然ではないか。医療の世界では、薬などで認知症を治すという発想があるようだけど、心の世界を薬で治せるものなのか、大いなる疑問がある。老人になる前に、一人ひとりに生きがいを見出させるような施策こそが認知症への道を防ぐ最大のものではないか。

 偉そうなことを云っているけど、今のところ自分は生きがい、やりがいをくるま旅に求め、そこでの出会いや発見を書きとめるという指標があるので、認知症などとは無縁だと思っている。ここ2年間は、旅の実現が叶っていないのだが、旅というのは「前楽」「現楽」「後楽」という3つのステージがあり、旅の実績を重ねていれば、旅に出かけられなくても「後楽」を楽しむことができ、退屈することはない。自分は凡そ20年近く、30回以上の長旅を積み上げているので、後楽の材料が不足することは無い。もはや死ぬまで目標を失うことはないと思っている。


昼夜逆転のくらし

2020-05-15 22:47:20 | 宵宵妄話

 私の暮らし方といえば、現在は昼夜逆転である。昼夜逆転の暮らし方は、サラリーマン時代の後半ごろから始めた。リタイアして、くるま旅をするようになってからは、日の出と共に起き出し、日が沈めば眠りに就くという、縄文時代のようなパターンとなった。勿論形通りではなく、旅の間の起床は日の出2時間以上前となっているし、寝るのも夕食後だから、日が沈んでから2時間くらいは経っていると思う。

 サラリーマン時代は、事務作業よりも考える仕事が増え出した頃から、真夜中の方が効率が良いということに気づいた。昼間は雑用(勿論これは不可欠なのだが)が多くて、物事を深く考えにくいのである。自分はいわゆる事務屋だったので、仕事は職場だけでやるものという発想は全くなく、常時24時間で対処するものだと思っていた。思考というのは思考し続けることによって目的が達せられる、という強い信念があったからである。職場にいる時間だけ仕事のことを考え、勤務を終えたらそこで仕切りを下して、あとはプライベートの時間。それが普通なのだと思うけど、自分の場合は、帰宅しても、場を切替えても思考はついて回るのである。帰宅して夕食を済ませて寝床に入り、0時ごろに起き出してから朝まで本当の仕事に取組むという暮らしのパターンを作るまでに半年くらいかかったような気がする。慣れて来ると、丑三つ時(2時~2時半ごろ)は至福の時だということが解った。睡眠時間は4時間もあれば十分だったと思う。

 ま、リタイアしてからはくるま旅が中心の暮らしとなったのだが、旅から戻ると、いつの間にか元の昼夜逆転の暮らしに戻ってしまうのである。自分にはどうやら丑三つ時中毒症のようなものが取付いているのかもしれない。

 さて、現在の暮らしぶりといえば、コロナ禍で外出自粛の非常事態下では、旅に出かけるなどとんでもないことになっているので、とにかく家の中に籠っていなければならない。家内からあなたはマグロ人間だと揶揄されるように、自分は動くことが好きというか、日中はとにかく動きたいのである。生きている間は、動物の特権である動くという行動を存分に楽しみたいのだ。それなのに、旅はおろか日中の外出さえも自粛しなければならないというのだから、マグロ人間にとっては、真に困惑限りない厳しい現況にある。

 で、ただ今は日中の時間は朝に賭けている。動くことの全ては、早朝の歩きに集中することにしている。何故朝なのかといえば、朝の時間帯は人が少ない。三密などという空間からは遥かに遠い宇宙くらい離れている。4時半に家を出発して帰宅するのは8時少し前くらいか。たっぷり3時間は歩く。時速5kmとして15kmだが、この頃は老人並になっているから13kmくらいの歩きだろうか。勿論マスクなどはしない。折角の朝の美味しい空気を濾過するなんてとんでもないこと。前日の喧騒に染まった空気が浄化されて鎮まっている朝は、マスクなど無縁の世界なのだ。コロナ君たちが入り込む余地などないに違いない。

 家に戻ると、これで今日は終わったという気分になる。歩きの間に気づいたICレコーダーやデジカメのデータを振り返り見ながら、気が向いたらメモをしたりして、その内に眠気がやって来るので、寝床に横たわる。その後の日中では、必要最小限の買い物を思いついた時には、マスクをして出掛けて最短時間で済ませて家に戻り、あとはグータラに夜を迎える。

 自分が生き返るのは0時を過ぎてからだ。日記を書き終えてから、仕事に取り掛かる。仕事というのは、現在取り組んでいるのが、一昨年の北海道生誕150年の来し方を訪ねる旅の記録の整理である。111日で1万1千キロの旅の記録データは膨大で、2年越しの整理がまだ終わっていない。179ある市町村の殆どを巡って集めたデータは、半端ではなく、どうまとめるかを思いつくまでに2年もかかってしまった。思いついたのはつい最近なのだ。エッセーを書いてまとめることにした。テーマを拾い上げてみたら、150ほどになった。これを全部書くとなると相当に時間がかかりそうだ。生きている間に終わりそうもない。北海道にばかり係わっているわけにはゆかないという気持ちもある。この2年間で北海道のことは旅の航跡を何度もなぞって来ているので、心の中では書かなくてもいいぞと囁くものがある。それを押しのけようとしているのは、老人の頑固な見栄なのかもしれない。

 あれこれ思いを巡らしている間は、北海道の中にいるのである。つまり、今のところ自分の正気の時間は丑三つ時を中心とした夜の中にあり、この時間帯が最も充実しているのだ。気がつくと4時が過ぎており、外の明るさに気づく。そこで北海道の旅から離れることになる。

 昼夜逆転の暮らしを始めてからは体調も安定して来ているように思う。定着してしまった糖尿君との付き合いも順調だし、風邪をひいて寝込むなどということもない。体調を図るバロメーターだと思っている「快食・快眠・快便」も何の悩みもなく上手くいっている。老化の兆候は、あれこれ血液データなどで指摘されているけど、気にしないことにしている。その様なことでいちいち惑わされると余計病に近づくことになる。かといって無視したりバカにしたりはしない。何ごともほどほどに付き合えばいいと思っている。傘寿になっているのは自覚しているけど、自分がかなりの老いぼれなのだと思ったことは一度もない。死ぬまでは少年のように生きたいというのが今の願望である。これからも気ままに昼夜逆転の暮らしを続けたいと思っている。