山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

「人は死なない」を読む

2020-07-25 02:25:13 | ジジババ世代の話

 新聞の書籍広告を見ていたら「人は死なない」という名の本が載っていました。矢作直樹という東大の先生が書かれたということで、一体どのような内容なのかが気になりました。というのも、この頃は自分自身、人は死なないということを強く思うようになっているからなのです。若い頃から人間とは何か、生死とは何かいうテーマにとらわれて来ました。より良く生きるために精神と身体を鍛えようと、あれこれと実践にトライして来たのですが、齢傘寿を迎えて死というものが近づいて来ているのを感ずるようになり、自分なりの結論を出さなければならないと思っていたからなのです。

本屋に出向いて、多分在庫はないだろうと注文しようとしたら、何と在庫しているというので直ぐ手に入り、ラッキーさに少し驚きました。早速買い求めて拝読したという次第です。

 このようなタイトルを見ると、多くの場合オカルト的な内容の書物が多く、読んでいる途中からついて行けなくなり、読むのを放棄することが多かったのですが、この本は違っていました。一方的な思い込みや不思議現象の事例ばかりが多いオカルト系の本とは全く違って、医療の現場にも携わっておられる科学者としての見解を述べた、実に解りやすい著述内容でした。ご自分と身近な人々との実体験を元に、誇張も歪曲もなく、それが事実であることが良く理解できる書き方で、その内容が納得できました。

 矢作氏の云わんとする結論は、世の中の究極の不思議を「摂理」ということばとしてとらえ、人間の持つ霊性がその摂理の中で生きていると考えることのようです。摂理とは何かといえば、それはあらゆる存在に対して「なぜ?」という疑問を何回も投げ掛けた場合の最終的な回答がそれに該当するのではないかと思いました。例えば、今世界を揺るがしている新型コロナウイルスについていえば、それがどのような性質を以て活動しているのかという回答が得られたとしても、その仕組みが何故出来ているのか、そもそもそのような微細なものがなぜ生まれるのか、という次の質問に答えるのは難しいと思います。仮にその解が得られたとしても、更にそれは何故と引き続いて問えば、もはや回答は出来なくなる筈です。そこから先はまさに神の創造の世界となり、究極の不思議に至ることになるわけです。このことを「摂理」と呼ぶわけです。この究極の世界で生きているのが人間の持つ霊性なのだと、自分はそのように理解しました。

 霊性とは何かといえば、自分の捉え方では、それは人間の持つ精神即ち魂のことではないかと思っています。人間は肉体と精神で出来ていることは誰でも知っていますが、精神と肉体が不可分と考える人が多いようです。でも我が80年の人生経験では、精神と肉体は必ずしも一体ではなく、むしろ常に別々であり、思いと行動とが不一致の時間の方が多いように感じています。何故精神があるのか?何故身体があるのか?何故それらは同居しているのか?考えてみれば不思議です。

 このような疑問を抱きながら生死のことを考えてみると、思い当たることがあります。それは生というのは精神と肉体が同居している時間であり、死というのはその同居を止めた時ということになります。この時肉体は消滅して無くなります。では、精神はどうなるのか、消滅するのか? 現代科学の力では不明です。でも自分的には肉体と別れた精神は、摂理に導かれて人間の住む現世とは全く次元の異なる世界へと移動するのではないかと思うのです。もし生きものの全てが精神を持っているとしたなら、彼らの全ての精神も同じように次元の異なる世界へと移動しているに違いありません。精神だけが暮らす世界がどのようなものなのかは想像もつきませんが、確かに存在する気がするのです。

 思うにその世界では時間も空間もなく、質量もなく、この世とは全く違った異次元の世界で、現代の科学では究明不可能な絶対的な世界なのだと思います。人間の魂は、その世界の中で他の生あるものたちの魂と一緒に、永遠に存在し続けるものなのではないか。そのように想像します。しかし、そのように想像してもこの世に生きる者にはそれを見ることはできないのです。出来るのは感じることだけです。この感じる力を霊性というのではないかと思いました。

 この世の中にはその霊性の感度が非常に高い人がいて、時にその異次元の世界との交信を可能とする力を発揮されているようですが、自分はまだそのような場を見たことはありません。しかし、見たことがなくても、自分自身の霊性は、かつて自分の身近にいて今は幽界に旅立った人の存在を常に感じることが出来ます。父母を初めとする身内の人達や親しかった知人たちは、今でも自分の中で確実に生きているのを感じています。残念ながら交信はできませんが、時々夢などを通してメッセージを伝えてくれるのを楽しみにしています。

 さて、このように書くとやはりオカルト的だと批判されるのかもしれません。でも、現代科学が証明しているものだけがこの世のすべてではなく、むしろほんの一部に過ぎないと考える方が摂理に叶っているように思えてなりません。自分の持つ霊性を信じてさえいれば、死は怖くはなく、むしろだからこそ生の時間を存分に生きることが大事なのだと知らしめてくれるように思えるのです。

 我が身体はどんなに努力してもあと30年はおろか20年も持つとは思えません。この身体との別れが来た時がこの世からの旅立ちとなるのだと思いますが、それは生きものの必然であり、その先に何が待っているのか、この頃はそれが楽しみとなりつつあります。「人は死なない」という意味を矢作氏の本を読んでこのように感じて安堵しています。


孫の朝顔

2020-07-11 03:27:34 | ジジババ世代の話

自分には、同じ屋根の下に住む二人の孫がいる。上の子は男児で小学校一年生、下の子は女児で幼稚園年中組。二人ともかわゆい。特別に可愛い~。これはもう理屈抜きだ。二人とも毎日大へん忙しそうで、一日の中で会う時間が殆どないのが残念だ。自分たちは2階に住んでいるので、階下から毎日学校や幼稚園に出かける前の大騒ぎが聞こえてくる。今のところ妹の方が何事にも優勢でありたいとチャレンジしているようで、常に兄を凌ぐ大きな声で意見を主張している。「お兄ちゃん」などという意識はないようで、ライバルとして兄の名前を呼び捨てにしている。何時になったら、この呼び捨てが変化するのか楽しみにしているのだけど、さて、その時が来るのか、それまで生きていられるのか、あまり自信はない。

兄の方は今年一年生になった。ジサマから見るとやっと小学生になってくれたという気持ちなのだ。二親とも結婚が遅かったので、子が生まれるのが遅いのは自然の摂理ではある。しかしジサマの年齢では、早や成人を迎えた孫がいるというのが普通なので、やっと小学校という思いには格別のものがある。

その一年生の孫は、何ということなのか、新型コロナ禍のとばっちりを受けて、四月はたった半日ほどの変則的な入学式を済ませた後はず~っと休みで登校なし。二ヶ月も休んだ後ようやく学校へ行けるようになった。新しい世界に飛び込むための準備や心構えをそれなりにつくって来ていただろうに、真に気の毒である。出端を挫かれるというのはまさにこのようなことをいうのであろう。

しかし、本人は至って気にもしていないようで、淡々と日々を送っていたようだ。休校の期間中の宿題なのか、学校から朝顔の種と育苗専用の鉢が配られたようで、どうやらそれを育てることになっているらしい。最初見たこともない鉢が置いてあるので、これは何なんだと思っていたら、間もなく種が芽を出しそれが朝顔なのだと知った次第。本人は時々水やりを忘れたりしているようなので、こっそり水をかけてやったりしている内に、芽を出した苗はぐんぐん伸びて、七月の初め頃の朝大輪の赤紫の花を咲かせた。

開花した時の孫の顔を見ることが出来なかったのが残念だけど、あとで訊いてみるとあまり感動しているようには見えず、少しがっかりした。淡々と育てていたら、淡々と花が咲いて、それだけのことというようなまるで悟りの心境のようだった。勿論悟りなどとは無縁で、ただあまり興味関心は持たなかったということに過ぎないのであろう。まだまだ生命(いのち)を育てることの気づきには遠い感覚のようだ。

ま、今のところはそれでよろしい。草花よりは先ずは団体社会の中での遊びと学びのあり方を知り、一人でも多くの友だちをつくるように頑張ってほしい。その後の朝顔のメンテナンスは、このジサマに任せておけ。

     

孫が育てた朝顔。今日は5輪もの花が咲いた。ジサマはしっかり見ているよ。