前回、「老人は妄想を楽しむべし」というようなことを書いたら、そのあとTVで作家の五木寛之さんが、何やらの番組で人生の生き方について話をされているのを見た。家内は五木寛之さんの大ファンで、百寺巡礼や親鸞などの著作や関連番組は欠かさず見ているようなので、これもその一端を垣間見ただけなのである。話というのは、人生のそれぞれの年代での生き方について述べておられていて、その中で最後に「妄想を楽しむ」ことを挙げられていたのが気を引いた。最後というのは90歳台以降の人生の晩年期のことを指している。
これをチラリ見て、オッ、俺の考えと同じようなことをおっしゃっている、と驚き嬉しくなった。五木寛之さんという作家は、頭脳明晰な方で、話すことばと書くことばが寸分の狂いもないほど正確な方である。TVで話をされているのを聴いていると、実に分かりやすく、話ぶりに快適感を覚えながら拝聴している。そのような著名な方が、人生を語る中で、最後の時期には妄想を楽しむとおっしゃるには何か深い意味があるに違いない。その内容を聞いたわけではないので、中身はよく分からないのだが、家内に訊いても、あら、そんな話だったっけ、という具合だから、あとは自分勝手に妄想するしかない。
老が深化するにつれて、未来志向の姿勢が次第に薄れて関心も低くなり、世の中の動向についても、あまりにも過去の自分の記憶に残っている世界とは異なって来ているので、これから何年も先のことなど考えても仕方がないという気持ちになって来る。今の世は変化のスピードがあまりにも早過ぎて、人間としての生き方など知らぬままに落ちこぼれて行く人が多発している感じがする。老人だけが落ちこぼれているのではなく、最先端を行っていると錯覚している若者の中にも己の欲望だけを追っかけている者が多くいて、長い年月をかけてつくり上げて来た人の道などというものを学ぶことなく今日を過ごしている感じがする。コンピュータの異常発達によって、SNSだとかいうものが生まれて常態化し、それらの情報技術に振り回されている人間の何と多いことか。それらの情報に悪が紛れ込んだ時、人の道は破壊されることになるのだが、今の世はその悪が増長しつつある感じがする。
そのような世の中を横目で見ていると、まともに未来のことを考える気持にはなれない。まともに考えたりしたら、まさにお先真っ暗になってしまう。老人に残されている時間は短いのだから、せめて妄想でもして楽しもうという気分になるのだ。妄想の材料は未来にあるのではなく、皆過去の中に埋まっているので、掘り起こすのは自分次第だから、安全安心なのである。
五木寛之さんがおっしゃる妄想というのは、自分などと違ってかなりハイレベルなものだろうから、一緒くたにしてはいけないと思うけど、楽しむという意味では考え方はそれほどズレてはいないのではないか。人は自分の獲得した過去に従って自由自在に妄想を楽しんでいいのだと思う。それが老人の特権なのだと思う。
これからは自信を以て我が身のできごとを拾い上げて妄想を膨らませてみたいと思っている。