山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

人類最大の敵は悪魔ウイルス

2021-05-10 05:34:32 | つぶやき

何時まで経っても新型コロナ終息の兆しが見えない。当面はワクチン接種が最後の頼みとなっているものの、その製造も輸入もそしてその後の接種計画も実行も、全ての面で全ての人びとの思いを裏切り狂わせている感じがする。この恐るべき悪魔ウイルスは、次々と新手の異種株を送り出して、あくまでも人類のゆく手を抑え込んで滅亡への処置を強化しているかの如くである。

80年余の人生経験の中で、これほど人類の脅威となる感染症の有り様を目の当たりにしたことは無い。100年ほど前に同様の感染症が世の中を狂わせていたということなど全く知らなかったのだが、今度の新型コロナウイルスによる感染症は、過去の人類に対す警告を、より強力なウイルスが気合いを入れて思い起こさせるかのようである。

今までは、いわゆる病気というものは癌などの悪質なものを除けば、手術や薬品を用いて治癒が可能なものだと安易に考えていたところがある。感染症といえばインフルエンザや風邪の類でそれほど重大な病であるとは思わなかったのだが、今回の新型コロナによるパンデミックによって、感染症が人間のみならず全ての生き物に対して最大の脅威であることを思い知らされた。動物も植物も、細胞を以て成り立つ生き物は、その生命の発生以来ずーっと感染症との闘いに明け暮れていたということに初めて気づかされた。

生き物同士の争いから生き物自体が生命を落とすという現実が、文明や文化の進歩などとは無関係に、現在の世界にも蔓延しているのは、ある種の生存競争に対する動物の本能であり、その愚かさは拭えないものなのだろうと、この頃は思うようになっていたのだが、今回のコロナ禍の現実を見て、生き物同士の殺し合いなどは問題にならないほどの次元で感染症というものを引き起こしている悪魔のウイルスが存在することを思い知らされている感じがする。

今、世界中がその悪魔によって大混乱を来しているのだが、しかし、しかし人間は、その本当の怖さを身に沁みては感じていないようだ。この日本国に於いても、第1、第2波と感染の有り様を体験しながら、今なお第3波がそれらを超えて拡大・伸長しようとしている。人々はどうすれば拡大しない様に出来るかということを知っており、更にワクチンなどの防御ツールも開発されてきているのに、それらを無視するかのように第3波が膨らみ続けているのは、一体どういうわけなのだろうか。

あれこれ考えてみたけど、この感染症に対する抜本的な対策は、究極のところ、この国に住む全ての個々人が感染症の本当の怖さを自覚し、一部の油断も隙も無く防御のために為すべきことを確実に実践することに尽きるのだろうと思う。第3波が拡大しているのは、多くの人びと即ち個々人の多くが。何時まで経っても自粛の束縛感から抜け出せない現実に、溜まったストレスに耐えられずに、甘えの気持ちで防御の垣根を崩しているからなのではないか。しかし、これもまた人間という生き物が持つ本性の一つなのだから、むげに批難することは出来ない。コロナという感染症は、人間の心理の弱点を巧みに衝いて、攻めて来ている感じがする。だから、一人ひとりのゆるぎない防御への対応が完遂されない限りこの感染症が終息に向かうことは無いのだと思う。政治の責任などを云々する向きもあるけど、抜本は一人ひとりの取り組み姿勢なのだと思う。

結局、時間をかけて自然治癒の免疫を多くの人びとが保有するまでは、この感染症の終息は来ないのだと思う。ワクチンがそれらの時間をどれくらい短縮してくれるのか。そう簡単なことではあるまいと思っている。今為すべきことは、感染予防のために効果があると言われているいわゆる三密を避けることは当然として、その前に外出時のマスクの着装を初め、外出先や戻った際の手洗い、洗顔、うがい等々の基本事項を徹底して実践すること、そして何よりも大切なのは、不断の健康保持のための必要事項の実践なのだと思う。

自分は既に傘寿に達しており、天命も近づいているのだと思うが、コロナなどによって失うものが天命だなどということにならないよう、努めてそう思い、為すべきことを実践している。


ふざけた立候補者

2020-11-08 06:10:23 | つぶやき

 

 

 守谷市に住んで間もなく20年近くになる。この間何度か選挙を体験している。市議会議員選挙、市長選挙、それに国政選挙等だ。今回は4年が経って市長の任期が終了し市長選挙が行われることになった。

 事前の予想では現職に対立候補は無いようで、無投票で決まるのではないかとのことだった。ところが立候補の締め切り間際になって、唐突にも立候補者が現れ、無投票の話は消え去った。

 どんな人物が対立候補なのかと、選挙公報を待っていたのだが、届いたそれを見てなんだこれは!と思った。そこには公約として「税金を安く」とだけ書かれていて、その他には氏名・年齢の他ツイッタ―やメール、携帯電話のアドレス等だけが記されていた。経歴も自己紹介も無く、一体どのような人物なのか見当もつかない貧弱な情報しか記されておらず、これで本当に市長にチャレンジするつもりなのか、その意図など欠片(かけら)も感じられないお粗末な内容だった。どのような人物なのか何を考えているのかを知るために新聞の記事を見てみたら、この人物の職業は家庭教師だという。立候補の動機としては、告示日の前日に市長選の新聞記事を見て急遽立候補を決めたとのこと。何故守谷市長選に立候補したかについては、直近の選挙が守谷だったから、と話したという。

 これを見て呆れかえると同時に無性に腹がたった。いやしくも守谷市という7万人弱の人が住む自治体の長となるかも知れぬ人物が、このような軽薄な思いつきで立候補するとは、まさに守谷市民を愚弄しているのではないか。ふざけるな!と怒りが湧いてくる。無投票を妨害するための思いつきとしか思えない。この人物のおかげで無駄な税金が使われることになるのだ。税金を安くするなどという公約にも反するのではないか。税金を安くするなどと聞いた風のことをぬかしているが、市長が税金を安くできる範囲など皆無に等しいのではないか。バカにするのも甚だしい。当人は守谷からは少し離れている土浦市在住であり、一体守谷市とどんな関わり合いを持っているのか。こんな調子で選挙が行われていいものなのだろうか。如何に民主主義で立候補は自由とは言え、立候補の地にゆかりも無く、何の信念も施策も無い者が、冷やかし半分の気持ちで立候補するなんて、愚の骨頂だ。このような愚者を抑えるような仕組みが必要なのではないか。バカバカしいと思いながらも、このような者が蔓延(はびこ)り出すと、この世はオチャらかでふざけたものとなってしまうのではないか。それともこのようなことはある種の社会に対する反動現象なのか。守谷市に住む一住民として、今回の選挙大勢の善良な市民が振り回されることを思うと、改めて怒りが湧き立ってくる。もし。こんな奴に一票でも投票する市民が居たとしたら、この先この街に住み続けることを考え直す必要があると思っている。とんだ出来事だった。


屑人間のこと

2020-04-16 09:16:43 | つぶやき

 世の中には無数の屑がある。屑というのは、一般的には使用済みで、もはや用が無くなって廃棄するものを指す言葉ではないかと思う。ま、その代表的なのがゴミということであろう。今の世は、利便性を満たす欲求の陰で、負の遺産としての屑やゴミが溢れて、環境を破壊しており、これをどう始末し、解決してゆくかが重要な課題となっている。

 屑の中で最も困るのは、プラスチックや排ガスなどではなく、人間の屑、屑の人間がいるということではないか。どのような人間にも人間としての尊厳があるという理屈は立派だが、人間だけが尊厳があるなどという考えは、人間の思い上がりに過ぎないのではないか。屑の類の人間には、尊重すべき尊厳などどこにもないように思っている。さりとて、処分してしまえ、などと主張するつもりはない。

屑人間にも様々な種類やレベルがあって、これを仕分けするのは難儀だが、最近耳にしたこの国最高レベルの屑のことを怒らないわけにはゆかない。それは国会の議員になりすましている屑人間のことである。

自分は政治向きの話を取り上げるのを極力避けるようにしている。一国の経営には、多種多様で複雑な要素が絡み合っており、表面に浮上している問題だけを取り上げてその是非を決めつけたり、評価するのは危ういのではないかと思っているからである。マスコミなどは、どの時代にあっても常に正義漢を自認しているようだが、報道の事実は違いないとしても、その解釈や評価が本当にそうなのかは鵜呑みにしてはならないことだと思っている。今度の新型コロナウイルス禍における政治家の対応についても、いろいろ議論や評価が飛び交っているようだけど、しばらく静観するに止めることにしている。

ところが、この政治家の中に本物の屑が紛れ込んでいたという報道があった。この記事を読み、どうにも我慢がならず、怒り心頭に発したという次第なのだ。

立憲民主党所属の高井某という議員が、あろうことにか新型コロナウイルス禍の中で、国や都道府県を挙げて三密の場所を避けるようにと、国民に無理を強いて請願している最中に、新宿の風俗まがいの店にノコノコ出かけて、遊行に耽ったというのだ。しかも、その前には、国会での質問に立って、新型コロナ禍への対応について批難の弁を振るったというのだから、呆れるのを通り越して、腹の底から怒りがこみ上げてくるのを止め得ない。

言行不一致どころか、言行真逆ではないか。こんな屑人間が国会議員というのは真に言語道断であり、許せない。党は除籍処分としたというけど、甘過ぎる処分ではないか。このような屑人間を党に在籍させ、口先紛いの質問に立たせるなど、党幹部の責任も明確にする必要があるのではないか。このような屑人間をそれとも知らずに、政策通などと思いこんで頼りにしたとは、何という軽薄な党運営なのだろうかと思ってしまう。もはやこの党には野党としての信頼も期待も消え去ったと捉える人が急増したのではないか。

長いこと大勢の人間を見て来たつもりだが、自分が一番嫌いで侮蔑する人間は、相手の弱点や非を責めながら,己もその非を喰らい貪っている奴である。善人ぶっている奴が悪行に耽るのは、悪人が善行のまねをするよりも数倍性質(たち)の悪い本物の悪ではないか。それゆえ、自分はこの種の人間を屑人間というのである。

国会にこのような屑人間が議員として存在してはならない。即刻辞めさせなければならない。それは全国会議員の責任ではないか。秘書にカネをバラ撒かせたり、ウグイス嬢に制限を超える報酬を払った、などという問題とは比較できない重大事案と捉えるべきであろう。国会議員全員一致で即罷免の決議をすべきである。それに反対したり無視したりする奴がいたとしたら、全て屑人間と同じだと思ってよいのではないか。従ってそれらの人たちも議員を辞すべきである。

一体何をしているのだ。この老人も、彼の張本大人(たいじん)と一緒に「喝!」と大声を喰らわしたい。


桜咲きそして散る

2020-03-31 05:02:51 | つぶやき

 この頃の桜は開花が早い。例年の町内会の花見の集いは4月の第1日曜日が恒例だったのだが、ここ数年この時期には花は終わって、葉桜にも届かない半端な状態での花見となっていた。これじゃあ、このイベントの時期を見直さなければならない、と話題となっていたのだが、今年は新型コロナウイルスとやらとの、とんでもない侵略者との全面戦争が始まって、花見どころの騒ぎではなくなってしまった。

 今日のニュースでは、お笑いタレントの志村けん氏がこのコロナウイルスにやられて亡くなられたという。70歳と言えば、自分などより一世代若い人なのに、よほどに芸熱心で心身の疲れが溜まっているところを悪魔の菌に侵入されてしまったのであろう。東村山に何年間か住んだことのある自分には、何となく親近感を覚える人物ではあった。ご冥福を祈るばかりである。

 今年の桜は、ことのほか早く咲き始めた。まだ3月が終わらないのに、昨日は何と雪が降り注いで、満開の桜は一挙に花を散らせてしまっている。人間たちの惹き起す騒動の犠牲になっているかのようだ。見残しの後悔いがないようにと、市内の数カ所の花のある場所を毎早朝に歩き回って、それなりにその風情を味わって来たのだが、今年は何だか物悲しい気分になってしまう花見だった。 

 この歳になって、桜を見ながらしみじみと思うのは、良寛さまのあの句である。

「散る桜、残るさくらも散るさくら」

生あるものはいつか必ずこの世から消え去る運命にあるということを、この句は優しく、しかも鋭く教えてくれている。そしてそれ故に生きていること、咲いている時間こそが大事なのだということをも語っているかのようだ。齢八十の真老ともなると、残るさくらの心境がぐっと身にこたえて迫って来る。

 もう既に何人かの知人が散って行った。今のところ、自分は残っている花びらの一つに過ぎないのだけど、散るまでの間はしゃんとした花びらでありたいと、それでも思っているところである

これは日本花の会結城農場(茨城県結城市)にある360数品種の一つ、ここで創り出された[舞姫」という名の新しいさくらの花。散るにはまだまだたっぷりの時間があるようだ。

 


誰が尾畑さんの夢を壊したのか

2019-03-07 04:45:46 | つぶやき

 このところ一頻(しき)りTVで話題を賑わした一人のボランティア、世にスーパーボランティアと呼ばれる尾畑春夫さんが、子供たちの幸せな生育を願っての東京から大分までの歩いてのアピールの旅を、途中でご本人が断念されたとのニュースがあった。これを見ていて、ああ、やっぱりか、と思った。

 変な世の中だ。何か少し変わったことをやると、忽ちマスコミやSNSに取り上げられて、大騒ぎになる。そのスピードは、30年前に比べて段違いだ。かつて2~3日かかった情報は、今は1日もかからない。変わった行為が認められると、それが善であれ悪であれ、1日以内には有名人となってしまう。しかし生身の生き物である本人や当事者は、そのあまりにもの急変に臨機に対応などできる筈がない。忽ち過酷な環境に陥れられることとなってしまう。

 尾畑さんは自分よりも一歳先輩の方の様である。来年は傘寿を迎えられるということだから、その体力、気力はまさにスーパーと呼ばれるに値するものだ。自分も年間600万歩近くを毎年稼いで歩いているけど、尾畑さんには遠く及ばない。第一その歩きの質が違う。彼の歩きには、世の中・人のためという大きな目的が掲げられ、それを実行、実現するための歩きなのだ。自分の歩きは、ただ自分の心身をほんの少し健康にするだけの慰めのようなものに過ぎない。比較などできるものではない。

 さて、その尾畑さんが、静岡県まで歩み進んで、その旅を断念されたという。如何にも残念だったに違いない。思うに、尾畑さんは当初はこれほどの騒ぎになるとは思わず、純粋な気持ちで子供たちの未来が良いものとなるように願って歩くことを決心されたに違いない。多少は世の中にも注目して欲しいと考えたから、何かアピールの印にと旗などを掲げて歩くことにしたのであろう。

 しかし、世の中ではもはや尾畑さんは、周防大島の迷子探しで一躍名を知らしめた有名人なのである。これをマスコミが放っておくわけがない。忽ち専任のスタッフまで付けて取材に取り組んだ局もある。一回放送するだけでも一目見たいと考える人は多いのに、毎日追いかけて放映しているのだから、野次馬が爆発的に増えるのは、まさにSNSの炎上のようなものだろう。

 一体どうすればこの炎上を止めることができるのか。唯一可能なことといえば、それは尾畑さん自身がこの旅を止めることしかない。マスコミの取材攻勢が終りになったとしても、旅を続けている限りは、火のついた噂は広がり、善意の野次馬は増え続けるに違いない。プレゼントを持って待ち構える人もどんどん増えて行くことであろう。

 尾畑さんを見ていると、最初は小さな物運びの車だったものが、プレゼントが増え出して、猫車に変化し、数日の内に今度はリヤカーへと運ぶものが増え出していた。これを見ていて、ああ、これではもう尾畑さんの決心は固まるなと思った。

 この方は、善意に対しては善意で応える方なのだと思う。プレゼントを断固お断りするなんてことは、とてもできない優しい心根の人なのだ。だから、荷物はどんどん増えて行く。旅をする場合に、荷物という奴は、いわば天敵みたいなものなのだ。旅が長期であればあるほど、荷物の扱いは厄介になる。それはくるま旅であっても変わらない。極力増えないように努めなければ、旅自体がパンクしてしまうのだ。それはタイヤがパンクする確率よりも遥かに大きいものなのである。

 しかし、善意の人々の何か役立つものをこの人に贈りたいという気持ちは、旅人である尾畑さんの厳しい事情などを考えるはずもなく、どんどん膨らんでゆく。この問題を解決するのは至難のことであろう。善意がその人を包み過ぎて、あたかも金縛りをかけるようにその人の夢を阻んでゆく。尾畑さんを巡るこの事件の顛末は、傍から見ていると、そのような感じがしてならない。

 よく考えてみると、世の中ではこれに似たような現象がしょっちゅうどこでも起こっている感じがする。お節介というような行為もその一つなのかもしれない。多くのお節介は多分善意に基づくものであろう。しかし、その相手がそれを求めていなければ、何の役にも立たない。要は相手の本当の気持ちや考えをしっかりつかめているかどうかなのであろう。病気で悩む人などに掛けることばは慎重でなければならない。善意の働きかけが結果的に相手を苦しめることになりかねないからである。

 今回の尾畑さんを巡る一連の騒ぎは、何故かもの哀しさを覚える事件だったように思う。一老人の感慨である