山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

馬骨の老世代小論(その3)

2016-01-30 07:16:39 | ジジババ世代の話

7.老人各世代の特徴と課題

 (1)準老世代(65歳まで)【生きているのは当たり前の感覚の時期

 [特徴] 

一般的に還暦を過ぎると老の世界に踏み込むと考えられているが、今の時代はサラリーマンの定年は60歳を超える傾向にあり、国民年金の支給もその開始が65歳となった。それゆえ、未だ現役で活躍している人も多く、65歳の頃までは自分を老人と認識している人は少ない。

この世代の特徴的なこととしては、心理的な面では「老」を意識している部分はわずかであり、現実の中では殆どが「老」とは係わりなく生きていると考えており、したがってまだ老人とは言えず、老人に準ずる世代である。

身体的な面に関しては、時に多少の衰えを感ずることがあるものの、そのために自信をなくすというほどではなく、まだまだ体力も大丈夫との認識の中にいる。但し、生活習慣病などの病に係わる人の多い世代でもあり、それらの病などが引き金となって、体力を損傷・減退する人も多くなりはじめる。

 [課題]

老に準ずる世代であると共に老に対する準備をする世代でもあり、現役をリタイアした後の老計・死計をしっかり確立することが肝要。

 

(2)順老世代(65歳~75歳)【生きる難しさに気づく時期

[特徴]

65歳を過ぎると、多くの人が現役を退いての暮らしに移ってゆくことになる。当初は戸惑いながらも、仕事を抜きにした暮らしの中で、次第に老が身近になってくるのを様々な場面で実感するようになり、やがてそれを思い知らされ、次第に馴れるようになる。

心理面では、古希を迎える辺りまでは、高齢者呼ばわりされることには抵抗があり、なかなか素直に老を認める気にはなれないのだが、75歳に近づくにつれて己の老を認め、それに従わざるを得ないことを実感するようになる。

身体的な面では、身体のいろいろな部分が己の意思どおりには動かなくなって来ているのを実感するようになり、やがて老の身体になってゆくのを認めざるを得なくなり、それに従うことを決意せざるを得なくなる

[課題]

老の準備期間中に立てた「老計」を具体的な目標(指標)を決めるなどして、着実に実践することが求められる。死計は老計の中にあり、この時期の老計の実践が無いと死計は成り立たない。(死計は老計の中にあり)

 

(3)真老世代(75歳~85歳)【生きながらえる難しさに気づく時期

[特徴]

75歳辺りになると、日々の暮らしは完全に毎日が休日となり、自ら何らかの目標や計画を持たない限り、その休日の中に埋没してしまうこととなる。時間の流れのままに無為に過ごす環境こそが真の老人の置かれる状況であり、老計の実践が強く問われる世代である。

この世代の精神面の特徴としては、老に馴れて逆らわず、穏やかさが増すけれど、時に生き長らえる難しさに気づいて、抵抗と諦念が錯綜する。

身体的な面では、体力も様々な運動能力も明らかに減退しているのを否応なしに思い知らされる。もはや無理の利かない身体となっていることを自覚しながらの暮らしとなる。

[課題]

老計のきめ細かな見直しと日々の実践の積み上げが求められる。それによって、活き活きと生きる日々がどれくらい実現できているかが、死計に直結することになる。

 

(4)深老世代(85~95歳)【生かされていることに気づく時期

[特徴]

85歳を過ぎる頃になると、生きることへの執着も次第に薄れて来て、生きるという意識よりも生かされているという受け止め方が次第に強くなりだす。生かされていることへの感謝の気持ちが少しずつ高まり出す。

身体的には、運動能力の減退は一層進んで、自力で自己を保全することを、より一層心掛ける必要が増す。これを怠ると、次の世代まで進むことが困難となる。

[課題]

生かされているという認識のもとに、感謝の思いを込めた余生を楽しむための具体的目標を幾つか用意することが必要となる。無為無策では生かされているという恵を享受することはできない。

 

(5)超老世代(95歳~)【生かされているのを楽しむ感覚

[特徴]

95歳を超えて尚心身の健康が確保されている場合は、もはや「老」などにこだわることはなくなり、生死に捉われることも薄れるようになり、日々が自然体の生き方となる。

[課題]

もはや格別の課題など無く、自然体のままに日々を送るのみである。

 

8.おわりに(老を5世代に分けて考える意味)

 

ここでもう一度「老」を5世代に分けて考える意味について強調しておきたいと思います。還暦の60歳を一応の老世代の始まりと考えますと、例えば、超老世代の100歳までには、40年という長い歳月が控えています。これは20歳で就職したと仮定した場合の、還暦に至る40年という歳月にほぼ匹敵する長さとなります。この長い期間をたった2区分の高齢者と後期高齢者などという荒っぽい分け方で考えて対処していいものなのかと思うのです。社会的な視点で見た場合、よりきめの細かな老世代への施策を考えるためにも、2区分以上の世代区分が不可欠であり、それを5世代に分けてしかるべきではないかと思うのです。

国家、或いは自治体の行政は、例えば現在行われている敬老会のような半端なごますり的行事などではなく、5区分された各世代にとってより価値のある施策をきめ細かに行うことが大切だと考えます。例えば現在行われている敬老会などは、老人を祝い慰める内容のものが殆どですが、そのような気休め的なものではなく、各老世代の人たちが、今をよりよく生きるために必要とする情報や方法などを提供、啓蒙するようなものでなければならず、それは例えば、対象者を10年ごとに区切って開催されるようなものでなければならないと思うのです。

 また、個人の立場においても、自分自身の生き方を考えるに当って、「とうとう、高齢者の仲間入りしたか」、とか「いよいよ後期高齢者となってしまった」とかの荒っぽい感慨で済ませるのではなく、5区分の流れと位置付けに従って、それぞれの時点で思いを新たにすることが、老世代としての社会的責任である「加齢につれてそれに相応しい健康を確保し、活き活きと生きることにチャレンジしなければならない」の実践に取り組むことが可能となるのです。

 このように、老の世代を5区分することには、大きな意味と意義があることを強調して、一先ず終わりにしたいと思います。  

 


馬骨の老世代小論(その2)

2016-01-28 06:44:58 | ジジババ世代の話

<前回より>

4.生きる・生きている」とはどういうことなのか

 次に、強調しておきたいことがあります。それは、この世代区分論の前提としているのは、「人間らしく、人間として生きている」という状態にあるということなのです。逆にいえば、「人間らしく、人間として生きている」状態でないのであれば、この世代論は無用であるということなのです。

 老の世代では、身体的な機能の劣化や意欲の減退などに伴い、常に「病」との係わりを持たざるを得なくなります。病との係わりは老の世代に限らず個人差が大きいことですが、老の世代では、個人差はあれ誰でも「病」が何らかの形で付きまとってきます。その中でも悪質な病は、「人間らしく、人間として生きている」ことを断ってしまうものがあります。例えば認知症が悪化してしまうと、そのような状態に追い込まれてしまいます。もしそのような病に取りつかれてしまったなら、私の老の世代論は通用しないことになってしまいます。

 では、「人間らしく、人間として生きている」とは、どういう状態を言うのでしょうか。私は、それは次の二つの要件を満たすことが不可欠ではないかと考えます。

自力で脳を働かせて判断を下せること

自力で自身の身体機能の管理ができること

この二つのいずれもが不可能のレベルとなった時、人は生きているとは言えない(さりとて生物学的には死んではない)存在であると言わざるを得ない状態となってしまいます。これは、厳然たる事実です。

勿論、この二つの条件が満たされなくても、人は己が生きていることを誰からも否定されることはありません。しかし、その双方が満たされなくなった時、人は生物学的には生きていても、社会的な存在として生きているとは言い難いこととなってしまうのです。

この二つの要件を考える場合「自力」ということがキーワードとなります。どんな病に取りつかれ、厳しい状況にあるとしても、「考えること即ち脳の働きが正常」であり「動くこと即ち身体の操縦」のいずれかを自力で出来るのであれば、人は社会的にも立派に「人間らしく、人間として生きている」ことが可能であり、その世代を生きることができるのです。たとえ、我が身を自力で律することができなくても、考えることができるならば他力を活用することができるからです。病などのために身体が自力では動かず、脳の働きも途絶えてしまった状態では、人は他力を借りて生きることは出来ても社会的に生きているとは言えない状態となってしまうのです。

老を考えるに当っての最大の課題が、「病」との係わり合いとなるのは必然で、これとどう向き合って行くのかは、老の5世代に共通する最重要テーマの一つです。

 

5.老計をどのように立てて行くべきか

さて、それでは社会的責任を果たすために、すなわち、加齢につれてのそれに相応しい健康を保持し、活き活きと生きるためには、「一体どのような考え方」で、「何を行えばよいのか」ということを考えなければなりません。ただお題目を掲げただけでは、何事もどんな責任も果たすことは出来ないのです。そこで私が提言したいのは、老の世代を一からげにして捉え、考えるのではなく、還暦を過ぎたあたりから段階的に老の世代を区分し、その段階に相応しい老の捉え方をし、それに相応しい課題を見出し、生き方を考える必要があるということなのです。

現在の世の中の老の捉え方は、簡単にいえば65歳からを高齢者とし、75歳を境として後期高齢者という2段階の括り方で扱っています。これはあまりにも大雑把な捉え方であり、きめ細かな老の世代への対応を考えるには不十分過ぎると思うのです。老というのは、一気に進行するものなどではなく、個人差はあれ精神的にも身体的にも段階的に進んで行くものだからです。そこで、私は老世代を5区分して捉えることを提言したいと思います。

 

6.老人世代を5つに区分する

 その区分というのは、次のようなものです。

(1)準老世代 ‥‥ 65歳まで

(2)順老世代 ‥‥ 65歳~75歳  

(3)真老世代 ‥‥ 75歳~85歳  

(4)深老世代 ‥‥ 85歳~95歳  

(5)超老世代 ‥‥ 95歳以上 

 これらを簡単に説明すると、準老世代というのはいわゆる還暦を過ぎて高齢者と呼ばれる65歳までの世代で、老に対する準備をする、或いは老に準ずるという意味でこのように名付けました。次の順老世代は65歳から75歳までの世代で、老に対して自身がそれを認め馴れてゆく世代という意味です。更に真老世代というのは、まさに本物の老を自覚しながら生きる世代であり、この世代が本来の老の姿であり、老計実践の核となる世代だという意味です。そして深老世代は、真老が更に深まりを見せて老を味わいながら生きてゆく世代であり、最後の超老世代というのは、文字通りもはや老ということなどに捉われない、老を超越した自然体の生き方の中にある世代です。以下、これらの世代について少し詳しくその特徴や課題等について述べます。

<以下次回へ>


馬骨の老世代小論(その1)

2016-01-26 18:21:14 | ジジババ世代の話

<今回から3回に分けて小生の老世代小論を掲載します>

1.  はじめに(「老」についての現状認識) 

 「老」というものを少しずつ自覚するようになってから、かなり時間が経ちました。この間、ずっと自分が今辿っている「老」とは何なのか、これをどう生きなければならないのか、などということについて考え続けて来ました。個人の立場でも又社会という視点でも「老」というのは、何の思いも持たぬまま自然の成り行きに任せておけばいいのか、という疑問がずっとくすぶり続けて来ました。

今、そしてこれからも、老人の溢れる世の中となりました。65歳以上の高齢者といわれる人口は、すでに3100万人を超え、来る2042年にはピークを迎え、その数は3800万人を超えると推計されています。これは全人口の3分の1を超え、何とその占有率が34%を超えてしまうのです。明治に至るまでの江戸時代のわが国の総人口が3000万人ほどだったことを考えると、この数字は恐るべきものであり、明治以降200年足らずの間にこの国が老人で埋め尽くされてしまうという現象を示しています。

シルバーデモクラシーなどということばが生まれて来ているようですが、果たして今までのデモクラシーの考え方でこの国が成り立つのか、という疑念も生じてきています。老人の一人として、既得のデモクラシーが壊れることのないように願うのは当然なのですが、しかし、そのためにこの国の経営が成り立たなくなり、子や孫の未来に暗雲を投げかけるとしたら、老人の勝手な我欲を満たすだけの願望には問題があると考えざるを得ません。さりとて生産への貢献が閉ざされている老人世代には、既得のデモクラシーへのこだわりを無くすことは困難で、自己保持のためのシルバー民主主義は現存することになりそうです。

シルバー民主主義の問題点は、選挙に絡む政治家の思惑が、老人世代の安定した票を獲得するために、老人世代に媚びる形で老人世代が生み出す社会的コストを扱いかねているところにあるということなのでしょうが、果たしてそのようなことだけなのかどうか、老人を生きる世代の一人として疑問を感じます。その最大のものは、老人が己の社会的責任を自覚しておらず、果たそうとしていないということではないのかと密かに思っています。そして、政治家も社会もそのことを放置して、あるがままの成り行き任せにしているのではないかという問題です。老人の社会的責任を促すようなことをしたならば、票が崩れて政治家が困惑するというような悪循環が、却って国の未来と老人の未来を危うくしているような気がしてなりません。(これは己の首を自らの手で絞めるような発想なのですが、重要なポイントと思えるので思いきって取り上げました)

老人は「老」をどう生きるべきかについて、もっともっと賢くなる必要があると思います。加齢のままに幾つもの病を取り込み、病に為されるがままに医療に依存し、自助努力を忘れている老人の如何に多いことか。最も多いのは、そのことを自覚しながら流れのままに昨日と同じことを繰り返している人の存在です。この現状の根底には、「老」をどう生きるかについての自覚と行動の貧困とそれを許している環境があるように思われてなりません。

この問題は、現代社会とそれを生み出してきた過去の様々な要素が複雑に絡み合っており、突き詰めた個人のあり方の問題だけではないことは承知していますが、それにしても「老」を生きる人間としての責任の欠如は、拭い去れるレベルではないように思います。老人のもたらす社会的コストを減らし、正しいシルバーデモクラシーを醸成するためには、何よりも老を生きる個々人が老人としての社会的責任を果たすことが重要ではないかと考えます。

 

2.  老人の社会的責任とは何か

 老世代の社会的責任などという話を持ち出すと、我々はリタイアするまでの長い間を、家族と世の中のために尽くしたのだから、もう社会的な責任など何も負わされる話ではない。医療などの社会保障制度の恩恵を受けるのは当たり前のことだ、と声を荒げる人が圧倒的に多いのではないかと思います。確かにその通りであり、私自身もそれを否定するつもりはありません。しかし、それに甘んじるだけで本当にいいのでしょうか。老人といえどもれっきとした社会の一員なのですから、何らかの社会的責任というものがある筈です。社会保障制度にすがって生きるだけで本当にいいのでしょうか。

 このことについてあれこれと思いを巡らしました。一体、老人の社会的責任とは何なのか。その結果辿り着いたのは「老人世代は、加齢につれてそれに相応しい健康を確保し、活き活きと生きることにチャレンジしなければならない」ということでした。これは一個人としての理想の姿でもありますが、世の中の老人世代の皆がこれを志向し、その実現に取り組むならば、それは一個人だけのことではなく社会全体のコストを大幅に下げることにつながり、現役や若者世代にも大きく貢献することになります。

例えば、人口の3000万人を占める老人世代が、健康管理に真剣に取り組み、年間の医療費を一人月1千円少なくする努力が実ったとすると、それだけで年間3,600億円の国家予算を若者世代に回すことができるのです。別の言い方をすれば、老人世代が元気で活き活きと暮らす時間を増やすことができれば、その分だけ社会的コストは削減され、世の中に貢献することになるのです。

 老人世代にとって、病と死は身近で切実な問題ですが、これを為す術もなく成り行き任せにしているのではなく、しっかりと老計、死計を立て、その実現のために毎日を確実に生きてゆくことがこの世代に課せられた社会的責任なのだと思うのです。老計とは如何に老をつくり上げ、過ごしてゆくかということであり、そして死計とはその結果として、己の人生をどのように終えるかということです。この二つは不即不離の関係にあり、現実としての重要性は、老計の中にあるように思います。老計こそが老人世代の最も重要な課題であり、それを実現・実行することが老人世代の社会的責任を果たすことになるのです。そして、それは前述の「老人世代は、加齢につれてそれに相応しい健康を確保し、活き活きと生きることにチャレンジしなければならない」という生き方につながるのです。私は老人世代の社会的責任をこのように考えています。

 

3.  「人生五計」のこと

 前項で、「死計」とか「老計」ということばを用いていますが、このことについて少し述べます。この人生計画の考え方は、南宋の官吏だった朱新仲という人の唱えたもので、人生をよりよく生きるためには、5つのはかりごと(=計画)が必要だということで、それは次の5つであるとされています。

①  生計

②  身計

③  家計

④  老計

⑤  死計

 この五計の解釈にはいろいろあるようですが、私は昭和時代の陽明学者、正岡正篤先生に倣って、次のように理解しています。

 生計とは、如何に生きるべきかを考え、為すこと。

 身計とは、如何に身を立てる、すなわち社会に対処するかということ。

 家計とは、如何に家庭を営むかということ。

 老計とは、如何に齢をとるかということ。

 死計とは、如何に死すべきかということ。

これらのすべては人の一生に係わる重要なテーマですが、老の世代に於いて特に重要なのは、「老計」と「死計」であることは明白です。そして、私の理解としては、前述のように、老計と死計とは別々のものではなく、これらは不即不離の関係にあり、「老計の中に死計がある」と考えます。すなわち、この二つは同時進行であり、老計をどう考え、どう実践するかが直接どう死ぬかに係わってくるというということなのです。

<以下次回へ>


歩きのための三種の神器

2016-01-16 05:10:25 | ジジババ世代の話

 昨年の歩きの実績は、私の万歩計では6,216,551歩でした。私は毎日万歩計の記録をしており、年始めの日からの累計と1日の平均歩数を記録するようにしています。この記録は歩きを始めた頃(1990年)には、面倒くさくてしていなかったのですが、2~3年経って、糖尿君とのお付き合いのためには、これからは一生歩かなければならないのだと覚悟を決め、それならば覚悟の証に記録をとることにしようと決めたのでした。ついでに年間の歩きの目標を決め、それを月ごとに割り振って、歩きがいい加減にならないようにコントロールしてゆこうと考えました。今、PCの中の記録としては、1994年からの分が残されていますので、22年分のデータを見ることができます。1999年に退職したのですが、それまでの年間目標は600万歩で、僅かに未達だった年がありましたが、概ね目標は達成していました。2003年以降の年間目標は、480万歩(毎月40万歩)でやって来ていますが、これらも概ね達成して来ています。特にここ3年は、500万歩を大幅に超えて、昨年は600万歩を超えてしまいました。

 620万歩というのは、月51万歩強、毎日約1万7千歩を歩いたという計算となります。この記録は、万歩計を装着した毎日の数値をそのまま記録しており、自転車に乗った場合もそのままに扱ったりしていますので、かなりの誤差があると思います。仮にその誤差が40%あって、実質は372万歩だったとして、1歩の長さが60cm平均だったとしますと、年間の歩行距離は2,232kmとなります。これを365日で割ると1日平均が6km強となります。逆の言い方をすると、毎日6km強ほど歩いていると、年間では2,232kmも歩くことになり、これは日本列島を北海道の稚内から九州の鹿児島県枕崎辺りまで歩いた距離となります。たいへんな長行程なのですが、実感としては毎日6km以上歩いているのは確実なので、やっぱり俺は毎年日本列島を縦断しているのだと思うことにしています。塵も積もれば山となるとは、このようなことなのかもしれません。

 さて、どれほど歩いているかを自慢するのが今回の目的ではありません。世の中には、健康のためには何とか歩かなければならない、と思いつつもなかなか歩くきっかけがつかめず、又歩いてはみたけど長続きしないという人が、それこそごまんといるのではないかと思います。そのような方のために、特に順老世代(65~75歳)の方たちのために、役立つヒントになればと、自分の経験を伝えるのが目的なのです。

私は既に順老世代(老に馴れて、老を受け入れる世代)を終わって、真老(75~85歳)世代に身を置く者ですが、老をよりよく生きるために不可欠の要件として、「食」「動」「眠」を巧みに扱うことが重要と考え、あれこれと試行錯誤を楽しんでいます。その中でも歩くことは、「動」の核となるもので、「食」や「眠」とも深く係わるものです。全ての動物にとって、「動」は生命維持の基本となるものだと思うのです。人間以外の動物は、自力で動けなくなった時死を覚悟しなければなりません。自力で動けなくなっても、他力を借りて生きていられるのは人間だけではないでしょうか。これはきわめて重要な認識ではないかと思うのです。

そのような認識に立つ時、歩くことを自ら放棄するというのは、ある意味では自殺行為でもあるといえるような気がします。人間という動物は、知らず知らず自らの命を縮めるような行為を積み重ねる動物なのだと、これは私自身についてもあてはまることなのですが、この頃は天から授かっている自分の命をないがしろにしないように、自殺行為の部分を減らそうと努めている次第です。歩くことへのチャレンジもその一つなのです。

今回のタイトルを「歩きのための三種の神器」と名付けました。つまり歩きを長続きさせるためには、手ぶらではなく何かの補助具が必要だということなのです。それを身につけ活用していると。歩くことが楽しくなって来て、歩かずにはいられないというほどのものです。無手でも歩くのが楽しくてしょうがないという心境に達しておられる人もいると思いますが、私の場合は、補助具が重要でした。

最初は携帯用の小型ラジオ(イヤホン専用)からでした。出勤途中の歩きの中でニュースを聞き、音楽などを楽しみました。それにテープレコーダー(ウオークマン)が加わり、著名人の講演テープなどを聞いたり、自分自身の話法の修正などにも活用しました。般若心経を覚えたのも思い出の一つです。更にこれにルーペが加わり、歩きの途中で見かける様々な植物たちの観察に活用しました。その他、双眼鏡や聴診器までもが加わりました。バードウオッチングや樹木の幹を伝わる音を聴くためでした。このような様々なトライは、歩くことを無上の楽しみへと誘ってくれました。そして今は、必携品が三つ、すなわち歩きの三種の神器です。

この22年の間に科学技術は物凄いスピードで進歩し、20年前には普通人には入手困難だった携帯電話や小型のデジカメ、テープレコーダーにとって代わるICレコーダーなどが身近な当たり前のツールとなっています。私の現在の歩きの友は「携帯」と「デジカメ」と「ICレコーダー」です。歩く時は必ずこの三つを携行します。ゆえに三種の神器と呼んでいます。

これらを何に使うかといえば、携帯は真老世代では、危機を知らせる重要なツールです。歩きの途中で体調がいきなりおかしくなることもあるかもしれません。そのいざという時のための連絡用の必携品なのです。デジカメは、何かに気づいた時それを画像で残しておくための用具です。これは携帯にもその機能が付帯していますが、デジカメの方が画像はきれいだし、動画も撮ることができます。私の場合はパソコンの中に画像の日記として保存しています。ICレコーダーは、主に歩いている際に思いついたアイデアやテーマなどを記録するためのものです。予め録音しておいたものを聴くこともできますが、今はそれはやらないことにしています。携帯は別として、これらの情報は全てPCの中に保存しておくことができますので、あとでの材料として活用することにしています。

朝6時近くになると、外出の服装に着替えて、この三種の神器を身に携えて、いそいそと我が家を出発します。今の季節、外はまだ夜が明けてはおらず、かなりの暗さです。明けの明星などを仰ぎ見ながら、最初は寒いので大きく腕を振って急ぎ足で加速するように歩きます。10分も歩いていると身体の芯が暖かくなりだし、歩行が順調になってきます。そうなってきたら、少し歩速を緩め、呼吸を深くするように努めて、あとは淡々と歩くだけです。歩いていると様々な雑念、想念が湧きあがって来ます。時には妄想の世界もあり、これらが実に楽しい。同時に、歩いているという、この生きている現実がまことにありがたいなあ、と実感できるのです。途中に見かけたロウバイの花や道端の凍える草叢の中に花を咲かせているタンポポなどを見つけた時は、思わずカメラのシャッターを切ったりしながらの歩きです。4kmを過ぎた頃になると、晴れた日は、明るくなり出した東のかぎろいの彼方から朝日が顔を出し始めます。荘厳な日の出を拝した時は、なお一層生きていて歩けることに感謝の気持ちが深まるのです。帰宅するのは7時半過ぎの頃で、万歩計は凡そ1万3千歩前後となっています。少なくとも6kmくらいは歩いていると思います。

このような歩きができるまでに22年以上もかかっているのですが、歩きというのは楽しみの一杯詰まったものでなければならないと思います。この後、どんな楽しみが現れ、やって来てくれるのか、毎日歩きながら、更なる妄想を膨らませたりしています。もうしばらくはこの三種の神器が私の歩きを助けてくれるのだと思っています。

     

歩きのための三種の神器。左からカメラ。動画も撮れるレベルのもの。ICレコーダー。これはうっかり洗濯してしまって、本体では再生音が聞けなくなってしまっているけど、PCに入れると聞くことができるので助かっている。右は5年以上は使っているガラケー携帯。いずれも小型であることが重要。