山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

イワン・ノット

2017-02-21 05:14:04 | 宵宵妄話

妙なタイトルとなった。ノットというのは結ぶという意味で、イワンというのは、多分どなたなのか人の名前なのだろうから、合わせて言えば「イワンさんの結び方」とでもいうことになるのだろうか。要するに靴紐の結び方なのである。

このところ頭の回転は絶不調で、何をする気にもなれない。気が動かないというのは困ったもので、行動も減退することになる。ブログなども無理して書いている感じがあり、それを知っているかのごとくにアクセス数は急激に減って来ている。ま、このブログは、そもそも旅に出ないと本来の姿に戻らないので、しばらくはじっと我慢するしかない。

そのような中で、毎日確実に果たしている勉めといえば、歩くことだけである。早朝の歩きは歩行鍛錬と位置付けており、現在は負荷をかけることは止めて、スピードに重きを置く歩きに力を入れている。これがほぼ2時間余り、およそ9km前後の距離を稼いでいる。午後の歩きは鍛錬ではなく散策である。気の向くままに好きなコースを1時間ほどの歩きを楽しむ。これらを合わせると万歩計は2万歩を少し超えるレベルとなる。1月は正月の外出があったりして、少し低調な歩きとなったが、2月に入ってから盛り返して、毎日2万歩超。現在は今年に入って50日間の平均歩数が18,273歩となっている。この数は、今月末までにはもう少し上げて1万9千歩台に届くようにしたいと思っている。頭が動かない時は、身体を動かすことが肝要と心得ている。今の内に歩数をうんと稼いでおこうなどという妙な気分となっている。

ところで歩く時は当然ながら靴を履く。歩行鍛錬の時は登山靴を常用。短靴なのだが、がっちり作られているように見えても、年間500万歩以上を歩いていると、3年も持たない。靴の表側の方は何でもないのに、靴底の特に踵の端の方がすり減って穴があいてしまうのである。皮靴と違って補修が効かないので買い替えることになる。ということで、昨年の秋に靴を新調した。ところが、使い始めの登山靴というのは、なかなか足に馴染んでくれない。特に右足の方に問題があり、親指の上部辺りにこぶ状の物が出来てしまう。これは靴に問題があるのではなく、足の方に過去の事故の後遺症があるからなのである。止むを得ないことは解っているので、痛さを我慢しながら足が靴に馴染むまで歩き続けなければならない。今はもう4カ月も経っているので、その問題は解決している。

もう一つ問題がある。それは歩いている途中で必ず靴紐が解けてしまうという出来事なのだ。随分と力を入れてしっかり結んだ筈なのに、1時間も歩くといつの間にか緩んで来て解けてしまう。その都度もう一度締め直すことになる。特に登山靴の紐は太めで硬く作られているので扱いにくい。ぶつくさ言いながら立ちどまり、屈んで靴紐を締め直すことになる。これは歩行鍛錬の際には大きな障害となる。何とかならないものかと思いつつも、その対策を考えるところまでは行きつかず、紐が馴染むまでは仕方がないと諦めていたのだった。

数日前、TVドラマの「相棒」を見ていたら、右京さんが妙なことを言っていた。「‥‥どうも細かいことが気になって仕方がない性分でして、」といういつものセリフを言いながら、玄関先に置かれた靴を指さし、手にとって、「この靴のひもの結び方なのですよ、‥‥」とイワン・ノットの結び方を実演していたのである。何だ、それは?と思いながら見ていたのだが、解けにくい結び方の一つであるという説明に、俄然興味関心が膨らんだ。今まで、この歳になるまでの70年間以上、靴紐の結び方に、いわゆる細(こま)結び以外のやり方があるなどということを、全く知らなかったのである。

それで、早速ネットでそのやり方がどんなものかを調べてみた。今頃は本当に便利である。辞書や百科事典にも載っていないようなことが直ぐに判るのである。親切な図解や実際の画像までが示されていて、それを習得するにも大いに役立つのである。そのイワン・ノットという方法を実際にやって見ると、最初はどうも要領を得なかったのが、しばらく試している内に、どうやら上手くゆくようになった。なるほど、このような結び方があったのかと感心した。

しかし、まあ、紐は結べても実際に歩いてみないと本当かどうかは判らない。それで、その後数日試してみたのだが、確かに解けなかったのである。歩きというのには、ある種のリズミカルな動作が必要で、それにうまく乗った時に気分よく効率よく身体を運ぶことが出来るのだが、途中でそれを狂わすものに出くわすのが障害となる。靴紐が解けるというのは、それらの障害の中でもかなりの上位にあるように思っていたので、この結び方を知ったのは大いなる助けとなった。

それにしても、紐にはいろいろな結び方があるものなのだと改めて思い知った感がある。たかが靴紐の結び方なのだが、今まで考えてもみなかったやり方なのである。このようなところまで人間の知恵というのは行き渡っていたのかと、改めて己の油断というのか、迂闊さを思い知らされた感じがした。調べてみると、イワン・ノットの他にも、より解けにくい結び方があるようで、今の世の解けない靴紐の結び方のニーズの大きさを知った次第である。相撲以外の殆どのスポーツ競技では、靴を履くのが当たり前であり、競技の最中に紐が解けてしまっては、場合によっては結果に重大な影響を及ぼすこともありうるのであり、その分だけ知恵が磨かれているということなのであろうか。

この老人は単純な者なので、今は紐を結ぶ必要のある他のどの靴もイワン・ノットのやり方に切り替えることにしている。でも更に上級の結び方については、もはやそれほどのニーズは無いので、チャレンジするつもりはない。やたらにやり過ぎるとイワンのばかではない、本物のノットばかになりかねないからである。

退屈な日々を過ごしている。直ぐそこまで憂鬱な黄色っぽい季節がやって来ている。既に目も鼻もその到来を感じ始めている。それでもイワン・ノットにこだわりながら、歩きに出かけなければならない。これはPPKを目指す老人の執念なのである。死計は老計の実践の中にあるのだから。

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「また、遊ぼうね。」

2017-02-12 05:40:40 | 宵宵妄話

孫は可愛いい。上の孫は2歳10カ月となり、この4月には幼稚園に入ることが内定している。昨年の秋の始まりのころは、自分語が殆どで、あれこれと話しかけられても、ジジババは戸惑いながらいい加減な応答しか出来なかった。こんな調子では、幼稚園に行っても先生や皆と一緒にやってゆけるのかなという心配が、ジジババの心をかすめたりしていた。けれども、今年に入ってからは、自分語を卒業し始めて、今頃はかなりのスピードで時分以外の人にも通ずることばを獲得し始めている。どうやらそのような心配は杞憂にすぎなかったようだ。

2歳になっても「ママ」などということばをあまり発しなかった孫なのだが、秋の頃からは妙にはっきりと母親のことを「お母ちゃん」などと言い出すようになり、階下からバタバタ走りまわる足音と一緒に盛んに「お母ちゃん、お母ちゃん」と呼ぶ声が聞こえてくるので、ありゃりゃ、茨城弁が身に沁み込み出したのかな、とちょっぴり複雑な気持になったりした。自分も子どもの頃は茨城弁で「母ちゃん」と言っていたのを思い出したのである。しかし、1カ月くらいでお母ちゃんは卒業して、あっという間に「お母さん」と呼ぶようになった。同時に、何でもかんでもお母さんではなく、必要な時にだけ、母親をお母さんと呼ぶようになっているのが判るのである。

子どもがことばを獲得し始めるのは3歳頃からだというから、孫は標準的な成長の中にあるのだなと納得する毎日である。それにしても、日々に新しいことばを発するのを聞いていると、人間の成長の不思議さを思わずにはいられない。昨日まで孫の傍を通り過ぎても、「アっ、ジイジ」という他は、自分の考えらしきことを自分語でモゴモゴと話しかけてくれていた孫が、今日はいきなり「ジイジどこへ行くの?」などというものだから、「あれ?ええっ、今のは孫のセリフなの?」と驚くばかりなのである。

思うに、今、孫の頭の中は、自分語を世の中に通ずることばに切り替える面白さ、楽しさで満ちているのであろう。一つ切り替えるのを覚えると、ジジババがびっくりするので、それが嬉しくて仕方が無いようなのだ。ジジババとの、ことばを通じた本物のコミュニケーションが出来たことに自信を持てるようになると、この切り替え作業は面白くて、もう止まることが無くなるのであろう。勿論、ジジババとの前に、両親とのたゆまざる切り替えの修練が積み上げられていることは言うまでもない。

階下に住む孫たちと毎日逢っているわけでもない。ジジババが孫たちの住む空間を訪れるのは、親に頼まれてちょっとの間孫たちを預かる時くらいで、普段は孫たちがやって来るのを待つだけなのである。孫が可愛いからと言って、孫を独占して猫可愛がりするような真似は決してしない、そういう考えがジジババにはある。孫たちの暮らしはその親と一緒にあるのが一番なのだと思っている。つまり「子どもは、親ファースト」なのである。今流行りの○○ファーストなのである。世の中の多くのジジババが、孫たちと逢えるのは年に1~2度だけという中で、このジジババは逢おうと思えばいつでも逢えるという恵まれた環境の中にあり、それを思い上がって受け止めたりしないようにするのがジジババの心得だと思っている。

なれども、孫と逢えるのをいつも心待ちしているのは、やっぱりジジババの本音なのだ。

今日も下の方(階下階段)が何やら騒がしくなったと思ったら、「上へ行く!」などという声と一緒に「ジイジ~」と言いながら孫たちが階段を上がって来た。上の子は手すりを持ちながら、下の子はハイハイをしながら「しっ!しゃ!」などと気合を入れて上がってくる。2階の廊下に到達すると、「ジイジ、バアバ~」といいながら上の子は、近くに置いていた拡大鏡を手に持って、周辺の物を覗き始めた。下の子は、兄のそれの仕事が終わるまでは、古い携帯電話を箱から持ち出し、「モシモシ~」のゼスチャ―を始めたりしている。勿論電話器の向きなど反対であり、そんなことなど全く意に介さない。これらの作業はこの頃の彼らのルーティーンとなっているようで、それが終わると、上の子はメインの関心事であるコーヒーミルの作業に取り掛かる。この器具は少し重くて、自分で取り運ぶのは無理なので、ジイジがテーブルの上へ置いてやると、「コーヒー」と豆を要求する。最初、うっかり10粒ほど持ってきてやったら、「多すぎる」などと言われてしまった。2~3粒でいいのだ。この豆を、ハンドルを回しながら下の引き出しを開け、覗きながら挽くので、テーブルの上も下も粉だらけになってしまう。それを指先でいじりまわして感触を楽しむのが面白いらしい。文句を言いたいバアバも、もはや諦めて見守るだけである。この間、妹の方は兄が放置した拡大鏡を手に持って、横綱歩きをしながら周辺を調べていたのだが、直ぐに飽いて、今度はお菓子の空き缶の類を持ち運びする作業に取り掛かっている。お菓子には興味はないようで、何個かあるディズニーの絵模様の缶の運搬に余念がない。横綱歩きで運び終わると、今度はそれを元に戻す作業に取り掛かる。

孫たちがやってくると、ま、今のところは、ざっとこのような動きの繰り返しであり、ジジババは只管(ひたすら)に彼らの安全確保に神経を集中する。階下には溢れるほどの玩具が散在しているのだが、ジジババの部屋にはそれとは別の、普段は触(さわ)れない物が幾つもあるので、孫たちにはそれが楽しみなのであろう。

しばらく遊んで、やがて飽きてくると、自ずと潮時を覚えているるのか、ドアの方へ歩いてゆき、下へ行くと言い出す。その時のセリフが「ジイジ、バアバ、また遊ぼうね」となる。上の子は、3日ほど前から帰り際には必ずこのセリフを言うようになった。手すりをしっかり持ちながら下りてゆく。もう階段の上下は大丈夫となったようだ。下の子は未だ横綱歩きなので、下りるのはとても危険。ジイジが抱っこして慎重に送り届けることとなる。階下のドアの前で、下の子も「バイ、バイ」の挨拶をしっかりしてくれて、今日の孫嵐は終わりとなる。明日も嵐が再来してくれることを願いながら、ジイジはゆっくり階段を上るのである。「また、遊ぼうね」と何時まで言ってもらえるのかなあ、ずっと言って欲しいなあと思いながら。

 

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四寒三温の感あり

2017-02-09 05:40:15 | 宵宵妄話

待ち兼ねるほどに春遠し。蝋梅の花の盛りは早や終わりを迎え、梅花は増えつつあるのに、日々西風や北風が強く吹き続けて、土埃りが空を染める毎日。旅への思いは膨らみ、真老はこの冬が終わるのを天に祈るのみ。

 

先日のクイズの答です。

① ハライッパイ(腹一杯)

② ウップンバラシ(鬱憤晴らし)

③ ニッシンゲッポ(日進月歩)

④ パイナップル

⑤ ピンピンコロリ

(相棒は②と④がギブアップでした。しかし「―」が入っていないのは違反ではないかと指摘されました。もうこの話は終わりです。)

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頭の体操の話

2017-02-05 21:09:47 | 宵宵妄話

先月末のある日、知人から突然メールが届きました。何だろうと見てみると、そこには「寒中の戯言へのお誘い」とあり、中にはクイズのような問題が5項目ほど書かれていました。それらは毎日新聞に掲載されていたもので、彼のチャレンジでは少ししか正解を得られなかったとありました。

知人のSさんは、同じ高校出身の同じ学年で、大学も学科も同じなのですが、殆ど面識は無く何となく名前は知っている程度の記憶しかなかったのです。それが、数年ちょっと前に共通の知人を介しての出会いがあり、それ以降親近感が膨らんで、時々会ったりメールでやり取りをする間柄となりました。

Sさんは硬骨漢と言っていい人物だと思います。いわゆる水戸っぽという奴です。それは斯く言う私も同じであり、時代が江戸であったなら、同じ水戸藩の領地に住んでいて、同じ精神構造を培っていたに違いないように感じています。一見は温厚そうに見えても、いったん事が生じて対処しなければならない状況に面したら、断じて己の信念を枉げない頑固さを、どうしょうもないほど抱えているのが水戸っぽなのです。

端から少し脱線しますが、世に三ポと呼ばれる、似たような精神構造を持つ人たちがいて、水戸の他には薩摩っぽ、土佐っぽと呼ばれているようです。これらの垢抜けない田舎者の精神が、実は幕末の日本のあり方を大きく変革するパワーの源泉となっています。それがどんなものであったかを簡単に言えば、先ず水戸は幕末を動かす思想・理念の理論的ベースを提唱したこと。それを実際行動に移して、明治時代を開くに至ったのが土佐と薩摩であり、その中で土佐は諸難事の仲介者としての役割を果たし、薩摩は長州と組んで武力進攻のリーダーを務めたということになるのではないか。私はそのように思っています。勿論その他の様々な要素が絡んでいるのは当然のことですが、三ぽについていえば、我が結論はそのようになるのです。

この三ぽに共通しているのは「田舎者」というコンプレックスの裏返しの矜持・プライドではないかと思います。この「田舎者」という意識は、どんな時代にも重要であり、それは主体側に対する抵抗エネルギーとして、強大なパワーを秘めているような気がします。江戸の人間が、田舎者を垢抜けてないなどとからかう話は、掃いて捨てるほど多くありますが、嗤う側の力は乏しく、田舎者のパワーの方が強大なのは、多くの歴史の示す通りです。私は、田舎者であることに、死ぬまでこだわり続けたいと思っています。

<閑話休題>

 Sさんの話からとんだ飛躍をしてしまいました。クイズの話に戻りたいと思います。水戸っぽのSさんが、戯言とは言えこのような問題提起(?)をされるとは想像外でした。彼はエッセイストでもあり、又大へんな読書家なのですが、いつもだと、新作のエッセーが出来上がる度にまとめて送ってくれて、それを読んでコメントを書くのが楽しみなのですが、今回は思いもよらないクイズなのでした。面白い男だなと、改めてSさんへの親近感が膨らみました。

 さてその問題なのですが、次のようなものなのです。

◇下記の文字を並び替えて言葉にしてください。半濁音(パピプペポ)は ○だけしか書かれていません。

例題: ○―コ  答は コピー、又はコーポ、コープ

問題1 シジ○ョン

問題2 ゴシッ○ヘリ

問題3 スットノ○ン

問題4 イステトト○―

問題5 イナ○フ○――

正直言って私はクイズというものがあまり好きではありません。答えがあるものを追求して解を求めるという作業は、どうも苦手なのです。それは例えば数学の数式の解を求めるのと本質は同じことであり、そのような作業は好きになれないのです。何故なのかは自分にもよく解りませんが、多分横着なのだと思います。数学に拠らず正解があるものをわざわざ考えるというのが好きでないのです。クイズというのは、敢えてそのような答のあるものを解くわけなので、そのようなことは、好きな人に任せておけばよい、俺は知らんよ、というのが横着の理由なのです。

 ところが我が相棒と言えば、数独を始め少し難度の高いクイズ形式の問題を考えるのが大好きなようで、退屈を覚えているらしき時には、何やら補助ペーパーに書き込みなどをしながら、一人、何時間でも取り組んでいるというのですから、呆れ返るばかりです。ま、人間面白いことには集中できますので、そんなバカげたことはやるな、などとは決して言ったりはしません。

 それで、送られてきた問題は先ずは相棒に振ることにしました。しかし、丸投げではSさんに対して礼を失することになるので、問題4と問題5だけは、自分が担当することにしました。問題を眺めてみていて、これは要するに○に隠された半濁音(=パ・ピ・プ・ペ・ポ)を含む組み合わせのことばだなということが判ります。

先ず問題4ですが、イ・ス・テ・ト・ト・○・-をしばらく眺めながら、○を除く6文字の中から、何かキーワードが見つからないかを探すことにしました。各文字を頭にしていろいろな組み合わせが出来ますので、それらの思考錯誤を続けました。15分ほどあれこれやっていると、「スイート」ということばが見つかりました。これが見つかれば、あとは簡単です。「ポテト」を見つけるに手間取ることはなく、答えは「スイートポテト」であるのを見つけました。

問題5の方は少し厄介な感じがしました。○が二つとーが二つも入っているのです。これは単純に眺めていただけでは無理だろうと思いました。それで、パソコンの画面を使うことにして、○に該当する「パ・ピ・プ・ペ・ポ」を二つ並べた組み合わせ一覧を作ることにしました。15通りの問題が並びました。しかし、どうもキーワードらしきものを見つけることができません。少し休んで、○以外の三文字を並べてみたら、「ナイフ」というのに気づきました。なあんだ!と思いました。あとはナイフのいろいろを思い浮かべるだけですので、たちまち「ペーパーパーナイフ」が正解であるのを気づいたというわけです。合計で30分くらいかかったと思います。

 相棒の方は、問題1から問題3まで皆同じタイプの問題なので、解を見つけるのは早く、問題2などは2分もかからないで「ヘッピリゴシ」に気づいたようです。己自身のことを言っているのだから、直ぐに気づくはずだと言ったら、叱られました。問題1の解は直ぐに「ポジション」というのに気づくことができましたし、問題3も「ノンストップ」であるのに気づくにそれほど手間はかからなかったようです。

 翌日早速Sさんにメールで報告しました。一応お褒めを頂きましたが、偶にはこのようなことも頭の体操にはなるのかなと思った次第です。それで、思いついたのは問題を作って見るという作業です。半濁音を含む言葉はかなりありますので、問題作りは解くよりは遥かに簡単です。

以下に5問を提示します。興味と暇のある方はチャレンジしてみてください。出題者から見ると簡単ですが、毎日新聞のよりは少し難しいかも?  (ジジイの悪趣味ですネ)

問題1:ライ○ハッイ

問題2:ウンバ○ラッシ

問題3:シニゲッ○ンッ

問題4:ナ○ッル○イ

問題5:リンコ○ンロ○

 

 ※:回答は近々のブログに掲載します

 

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77回目の立春を迎える

2017-02-04 06:32:48 | 宵宵妄話

昨日節分が終わって、早くも今日は立春となった。今年の10分の1近くがが過ぎようとしている。まさに光陰矢のごとしである。特に老の世界に入ってからの時間は、加速度的に早やまっているような気がする。若い頃には「あと何回桜が観られるのかな?」などという老人の独り言を、それなりに理解したつもりで同情などしていたのだが、今、この歳になると生きている喜びが、死への恐怖や虚しさと綯い交ざって実感できるのである。

私の小さな書斎には、東京の小平市在住時代に頂戴した、平櫛田中翁(彫刻家で小平市にその記念館がある)の書かれた色紙が、壁の上の方に飾ってある。それには「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」と書かれている。田中(でんちゅう)翁98歳の時の揮毫である。予備校の何とか先生が「今でショ」と話したセリフが有名になる遙か前に書かれたものである。予備校の先生は塾の受講生の若者に向かって話したのだと思うけど、この揮毫のことばは、田中先生が間もなく白寿を迎える時に書かれたものなのだ。田中先生は108歳で天寿を全うされたのだが、このことばには、彫刻の真髄を極めた人の、生き方に対する熱い思いと信念が籠められている。

時々それを眩しく見上げながら、ああ、俺がこれからできるのは、この半分だけだな、と思うようになっている。「わしがやらねばたれがやる」という気概は最早どこかに去ってしまっている。残っているのは、「いまやらねばいつできる」という思いであり、せめて今出来ることを明日に延ばすのは止めようという思いだけだ。もはや先延ばしの許されない世代に入り込んでしまっているのだ。何もせずに先送りしている内に、気がつけばこの世の籍が消えているということになりかねない。

しかしまあ、生きている現実というのは何という愚かさ含みなのであろうか。今やれることを、やるべきことをやると言いながら、実際にやっていることと言えば、「いま、これを食べておかなければ、もう二度と食べられない」とか「今この酒を買わなければ、二度と飲むチャンスはないだろう」とか、真に低レベルの己に好都合の判断と行動ばかりなのである。つまりは田中先生のことばの残りの半分にも届いていないという生きざまなのだ。

77回目の立春を迎えたとき、田中先生にはあと30年の生きる時間が残っていたことになるのだが、恐らく現実の先生は、それ以上の無限とも言える時間が残っているとお考えだったに違いない。残りの時間を数えているような「今」は存在しなかったのではないか。それに比べる我が現実の貧しさを思いながら、この真老も77回目の立春を迎えたのであった。

いつものように早朝の歩行鍛錬の途中、明るくなりだした道の脇に白梅が香りを漂わせているのに気がついた。この季節に相応しい梅花である。どうにか句をこじつけた。

           

                時を今わずかに緩め梅咲けり  馬骨

          真老の白梅に深き思いかな   馬骨

 

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ブログ開設10周年を迎えて

2017-02-01 02:08:00 | その他

今日(2/1)でブログ開設10周年を迎えました。2007年2月にこのブログを開設した時67歳だった私は、今は77歳の喜寿を迎えることになりました。あっという間の10年間でした。この間のブログの訪問者は約41万人、閲覧数は約140万回となっています。

ブログを開設したきっかけとなっているのは、還暦を少し過ぎた頃に、ある会報誌で村山孚(まこと)という方が「午後の喫茶店」というブログを開設しているという記事を読んだことでした。その頃はホームページやブログなどというものがようやく話題になり始めた頃で、まだフェースブックやツイッタ―などが現れる以前のネット社会でした。そのような時代に、今でいうなら後期高齢者のお一人であった村山孚さんがブログを開設されているという記事を読んで、凄いなあと感動したのです。まだ還暦を迎えたばかりの自分でさえもネット社会のツールには取りつき難く、パソコンを活用してはいても、滅多にホームページやブログなどというものは覗かなかったのです。しかし、村山さんの「午後の喫茶店」を読んで、ああ、このような自分の意見発表の場があるのだと教えられたのです。そして、自分もいつか何かを世の中に問いかける、このような場を作りたいと思ったのでした。70代後半に入っている村山孚さんでさえも自在に活用されているのだから、内容やレベルはともかくとして、自分だってその気になれば出来ないことはないという気持でした。(このような比較は村山先生に対してまことに失礼であることは重々承知です)

しかし、直ぐにブログを開設するには至らず、やがて自分のくるま旅が本格化するにつれて、くるま旅というものがもたらす人を活性化する力に気づき、それを確信するにつれて、もっともっと世の中の人々にもその素晴らしさを知って頂こうという思いが強くなり出しました。それで先ずくるま旅くらしのガイド書として、「くるま旅くらし心得帖」を書いたのですが、本だけでは不十分で、旅の実際についても紹介する必要があると考えたのです。そのための方法として、ホームページを立ち上げることにしました。しかし、ホームページはどうしても固定記事の占めるスペースがメインとなり、実際の動きに関する記事を発表するには、ブログの方が遥かに優れていると気づきました。そのような経過を辿った上で、ようやくの開設となったのです。

立ちあげた当初は、くるま旅のことにこだわり、何としてもくるま旅に関係することを書かなければならないと思いこんで、取り組んでいました。しかし、くるま旅に係わる理屈的なことについては、それほど多くのことがあるわけではなく、元々誰でも自由に好きなようにくるま旅を楽しめばいいだけの話ですから、直ぐに書くことが無くなりました。

それで、今までの旅の記録を引き出し、その実態をでこぼこ日記という形で発表することにしました。これには、くるま旅が本格化した頃から記録を残すようにしていたのが役立ちました。これは自身の旅の後楽にもつながり、又新たな旅を作るためにも役立ちました。旅の実態を知って頂くことにより、これから旅を始めようとされる方にも多少はお役に立ったのではないかと思います。

その内に「書く」ということへの興味・関心が高まり出し、くるま旅以外のことについても、自分の考えや思いなどを表現してみようと考えるようになりました。カテゴリーを増やして他の領域を設けて発表することにしました。その中では「宵宵妄話」という、普段の暮らしの中で思ったり、気づいたりしたことを書くのが中心となりました。その他にも写真と句的表現とそれにコメント加えた新しい寸情表現とでもいうべきなのか、そのような表現形式を「ホト発句」と勝手に名付けてトライをしたのですが、これは現在休止状態となっています。一時欲張ってあれこれチャレンジしては見たものの、結局は本物だけが生き残るというのは、誰の人生においても同じことなのかもしれません。今はそのような感慨を持ちながらこの後のブログを続けて行こうかと考えています。

10年という長い間飽きもせずに(正直に言えば、時々飽きたりしていたのですが)続けて来られたのは、何といっても読んで下さる方がおられるという、ありがたい刺激があったからなのだと思います。長文ばかりで写真も少なく、几帳面な性格の方以外には読んで頂けないような記事ばかりのブログを、何年も書き連ねているというのは、今の世では余り賢くないというのは良く承知しているつもりです。

でも、刹那的、デジタル的で感覚的刺激を持ってアピールするだけの表現は、私には好きにはなれないのです。主語と述語があり、それに修飾語が挟まり、更にそれらが過去と現在と未来とがつながっているような表現の仕方こそが、どのような変化の時代においても必要なのだという思いがあるのです。

勿論一番大切なのは、表現のあり方などではなく、ブログのテーマです。くるま旅くらしを通して何をアピールしたいのかということです。それは勿論旅の楽しさであり、活き活きと生きる喜びです。楽しさの中には悲しみや苦しみ、悔しさ、怒りなど、喜怒哀楽に関するすべての出来事が入っているのはいうまでもありません。楽しさというのは快楽含みの安楽な世界を享受するだけでは味わえないものです。何もかも全部ひっくるめて生きているのが素晴らしい、ありがたいという実感です。真老世代に入って、そのことを益々実感するようになりました。くるま旅くらしの中にあるそれらの楽しみを少しでも多く引き出して、世に紹介してゆくのが私の使命なのだと思うことにしています。

これからは、ブログで取り上げるテーマも変わってくると思います。加齢と共に体調の変化を実感していますが、それに伴って心の方も変化してゆくに違いありません。力任せに動き回る旅のスタイルから、じっくりと場所と時間を楽しむ旅へと向かうことでしょう。只今あれこれと模索中です。一番関心があるのは、日本という国の原点につながるようなものが残っている場所を訪ねることです。この国に生まれた幸運に感謝し、この国がつくり、生み出して来たものを探してみたいと思っています。それが冥土への旅につく前に為しておきたい最大の願いです。

この後も同じようなトーンでこのブログを続けて行くと思いますが、引き続きお読み頂ければこれ以上の嬉しいことはありません。10年の来し方を振り返りながら、その思いを整理してみました。

 馬骨拝

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稀勢の里の優勝を祝す

2017-01-23 04:12:48 | 宵宵妄話

長かった。本当に長かった。31場所も大関に居ながら、何度も横綱へのチャンスを作りながら、一度も優勝が出来なかった。その壁を突破することが出来なかった。ファンから見れば期待を裏切り続けた。何度も何度も裏切り続けた。同世代の外国人力士が次々と横綱昇進を実現してゆく中で、まるでそれは日本人を裏切り続けているような感じさえした。それがついに壁を突破したのである。心からおめでとうと言いたい。優勝、そして横綱昇進(これはもう間違いなし)おめでとう。

3年前の一月場所も横綱へのチャンスを作っていた場所だった。大いなる期待をもって見ていたのだが、躓(つまづ)きは初盤から始まり、中盤を過ぎるとシッチャカメッチャカな状態となり、終わって見れば何と7勝8敗という、それまで一度も無かった負け越しという惨憺たる結果となってしまった。この時にどうしてこうなのかについて、「横綱になれない大関」という記事をこのブログに書いた。(2014.1.25) 期待に対する余りにも大きな裏切りに対して、些か怒りを覚える気持での分析だった。礼を失しているのは十分承知の上で、親方になったような気持での投稿だった。

その記事は、相撲道の目指す「心・技・体」についての論旨だった。今の大相撲界では、「心」の鍛錬が不足しているように思ったのである。数年前には博打に係わる事件が大相撲界を揺るがし、親方クラスまでが関わっていたという、真に呆れ返った状況を呈していた。これは道を忘れた「心」の欠如、歪みがもたらす結果に他ならないと思った。この場合の「心」というのは、「道」とは論外の外道の世界であり、稀勢の里に求められている「心」などとは勿論無関係であることは言うまでもない。しかし、本来の相撲道という「道」の中の「心」と似通うものがあるとすれば、それは「甘さ」というものなのかもしれない。心の甘さというのは、本来の道を忘れ、己の都合の良いような満足を享受しようとする働きであろう。外道というのはその極みに位置している。

相撲道の「心・技・体」を思う時、稀勢の里という人の弱点は、これらの三要件が一点集中的に合致しなかった、させられなかったことにある様に思ったのである。この三要件の中で「心」の占める割合は、番付の位置が上がるほど大きくなる。「技」や「体」が不十分のままでは、上位にあって勝つ、勝ち続けることはできないからである。それは自明のことであろう。

日馬富士や鶴龍が稀勢の里と大して変わらない実力なのに、先を越して優勝し横綱になったのは、「心」が一皮、二皮鍛えられて脱皮していたからなのではないか。別の言い方をすると、彼らは「技・体」と「心」を一点集中的に合致させる力を獲得していたということになる。そこには心の甘さなどが入り込む余地はない。日馬富士が良く言う「全身全霊をかけて」というセリフには、その思いが込められていると思う。見事な信念だ。又鶴龍が稀勢の里を心配してのコメントに「稀勢の里関には何かが足りない」とあったのも、その辺りを指摘していたのではないか。その二人が今場所揃って休場となっているのは象徴的な気がする。「心」の限界が見え出したのかもしれない。「技・体」がかなり傷んでいるというのも間違いないと思うけど、もし「心」が傷み出したなら、その先は引退しかない。それが横綱というものの厳しさであり、それは白鵬にだって同じことなのだ。そのことは重々承知のことだと思うけど、稀勢の里には、これから更に「心」を鍛えて力を発揮していって欲しい。「心」の鍛錬は、むしろこれから始まるのだから。

稀勢の里の出身地の牛久市は、私の住む守谷市からはほんの少しの距離しかない。土曜日には時々牛久市郊外にある「ポケットファームどきどきつくば牛久店」という長い名称のJAの野菜や肉などの大型販売所に買い出しに出かけるのだが、そこの店の壁には稀勢の里の大きな写真が掲げられている。地元の人たちの誇りであり、輝く期待なのである。地元の人たちの喜びは、もしかしたら本人以上のものなのかもしれない。善朴な人たちの住む世界がそこには広がっている。

茨城県はその認知度において全国最下位であるとか、或いは女性の肌の綺麗さにおいても最下方であるとかの、愚劣極まりない怪しげな調査がある。ふざけるなと言いたい。そのようなコメントは、別の視点から見れば茨城県人というのは、この上なきお人好しが多いということなのでもあろう。県北の水戸近くで育った私から見ると、県南(牛久や守谷もその中に入る)の人たちは、より以上にのんびりしたお人好しが多いように感じている。私はそれこそがこの地に住む人の最高の優れた特性だと思っている。いいのだ。目立つことなどどうでもいいことなのだ。

稀勢の里は、長い間辛抱を重ねて茨城県人の、特に県南エリアのど根性を知らしめてくれたのだと思う。人が良いから「心」が「技・体」を思うように動かしてくれなかったのだと思う。多くの茨城県人にとって「心」の鍛錬は大きな課題のような気がする。さりとて悪性の混ざった「心」を目指すわけには行かない。稀勢の里には、この後は一点集中の時だけは、お人好しを放棄して、ひたすらに勝負へのこだわりを厳守して欲しいと思う。

積年の鬱憤から解放された、寒さを忘れる爽快な気分で終わった一日だった。

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バネ指治療行(冬の喜連川温泉)<その2>

2017-01-21 18:36:45 | くるま旅くらしの話

<続き>

そのあとは、今夜はもう一つの浴場の、もと湯の方に入ることにして、移動することにしました。もと湯はお丸公園の南側の下にあって、ここは先年の東関東大震災とその後に襲った集中豪雨のために甚大な被害をこうむり、しばらくの間休業を余儀なくされていましたが、3年ほど前にようやく営業が再開されたのでした。露天風呂とは源泉が異なり、こちらはかけ流し専用とはなっておらず、加水や加熱等が行われたお湯のようで、露天風呂と比べればその分柔らかい湯となっています。こちらに移動したのは、理由があって、どういうわけなのかここの駐車場では地デジが受信OKなのです。今回はパソコンなどを持参していないので、ニュースを見るためにはここへ来る必要があるというわけです。

昼食にはまだ少し早い時刻ですが、その準備をすることにしました。ご飯を炊き、味噌汁を作ることにしました。ご飯は持参した米2合を一度に炊くことにしました。余った分はオジヤにして明日の朝に供する考えです。おかずは作るのが面倒なので、近くのスーパーに行き、惣菜を買うことにしました。食べる準備が終われば特にすることも無いので、持参した本を読んでお腹が空くのを待つだけです。適当な時間に昼ごはんでお腹を満たし、そのあとは読書に疲れて午睡となり、目覚めての入浴となりました。指の方は痛さが戻っていましたが、我慢することにしました。

17時過ぎ300円の切符を買って入浴です。ここの浴場は内湯に二つの浴槽があり、外に露天風呂が用意されています。露天風呂と違って、洗い場もシャワー付きです。シャンプーとボディソープが用意されているのは、料金の割には優れたサービスだなと思いながら、身体を洗い洗髪を済ませました。そのあとは露天風呂に浸ることにして、指の療治に努めました。露天風呂の浴槽の囲いの竹垣の向こうが明るくなっているので、何だろうと立ちあがってみて見たら、何と丁度今、雲に隠れていたお月さまが顔を出したところでした。丁度満月らしく、まん丸のお月さまを見ながら、しばらく至福の気分での入浴でした。我が相棒は、今回は家に残っているのですが、それは喜連川の温泉は身体に刺激が強すぎてダメなのだそうです。でもここの湯ならば大丈夫ではないかと思ったりしました。しかし、かけ流しでないのなら温泉じゃないなどと、又偉そうなコメントをするのだろうな、などとも思ったのでした。

その夜は、そのまま駐車場に居座って、再び寒い一夜を明かしました。昨日よりも冷え込みは更に厳しくなったようで、朝起きた時は車内の温度はマイナス1℃となっていました。冷凍庫に近付いてきている感じがします。但し、布団の中には湯たんぽも入れてあり、眠りには何の支障もありません。ただ、眠らなければならない時間が余りにも長すぎるので、一度目覚めてしまうと、次の眠りが来るまでが長いので苦労しました。家におれば起き出して、眠くなるまで何かやれるのですが、ここではそれが出来ないのが何だか勿体ないなという感じです。そうこうしている内に朝になり起き出したのは7時少し前でした。ここのもと湯は朝の7時が営業開始時刻です。大急ぎで準備をして浴場に向かいました。

朝湯は老人には最高クラスの恵みであり、それが温泉というのは贅沢といっていいのかもしれません。もと湯の朝風呂も湯けむりの中でした。昨夜の入浴で洗髪や身体の洗いは済ませているので、最初から露天の方の浴槽へ直行です。昨日の朝の露天風呂と比べてお湯が柔らかいのは、加水の所為なのかもしれません。指の治療にはきつくてもかけ流しの方が良いのかななどと思いながら、とにかく丹念に揉みほぐすことを心がけました。しばらくすると陽が昇って来たのか、湯けむりが薄れて辺りが一気に明るくなり出しました。温泉に入っているのだというのを実感しました。8時過ぎに湯を出て車に戻り朝食です。

朝食は昨日作った味噌汁の中に残っているご飯を入れて、オジヤとしました。少し時間をかけて煮込むと米が柔らかくなって、味噌粥のようになります。これが好きで、寒さのある季節の旅では、前夜にご飯を残すことが大切なのです。2杯ほど腹に入れると身体の芯から温まる感じがして、大満足でした。

朝食の後はしばらくTVを見たりした後、歩きに出発です。今朝の歩きは、すぐ目の前に聳えるお丸山公園の丘の道を上り、公園の周辺を散策することです。お丸山公園は、古城の跡地で、小高い山の上に造られており、そこに上ると喜連川の町を俯瞰することが出来ます。喜連川の藩主は、城ではなく下方に館を造って住まわれていたとのことです。公園には丘の中腹にも幾つもの散策路が造られており、石仏なども数多く並べられていて、それらを見ながら縦横に歩き回るのが好きなのですが、今回久しぶりに歩いて見ると、まだまだ災害の爪跡が残っていて修復が終わっていないのが判りました。一部であるとはいえ、大地が動き崩れるというのは凄いことなのだなと、改めて大自然の怒りのパワーの大きさに恐怖を覚えました。しばらく散策路を歩き回った後に、公園を離れて昨日歩いた荒川沿いの道を道の駅構内の親水公園まで歩き、再度リニューアル工事の状況などを覗きながら、車に戻ったのは11時半頃でした。

さて、少し早目の昼食にしようかと、茹でたうどんを取り出し、準備を始めたのですが、いつの間にか日が陰り出し、何だか急に寒くなり出した感じなのです。外に出て見ると、にわかに暗黒の雲が湧き出して、北の方からこちらに向かって駆け出して来ているようなのです。昨日もそうでしたが、北の方に見えるはずの那須岳は黒い時雨雲の中にあって、それほど遠くも無いのに、そこには別の冬の世界があるように見えました。それが、今は大きな塊となって一気にこちら目がけて襲ってくる感じなのです。こりゃヤバイなと思いながらTVの天気予報を見てみたら、穏やかならぬ状況なのでした。今日から明日にかけてこの地のエリアにも雪が降るなどと言っているのです。

未だ4回しか湯に浸っておらず、予定では今夜と明日の朝との分が残っているのですが、もしこのまま残っていて大雪にでもなったらそれこそ大事(おおごと)です。SUN号は冬タイヤの準備などしておらず、路面凍結への備えなど全くしていないのです。ま、何とかなるとは思うのですが、何よりも困るのは家にいる相棒が大騒ぎをしないかということなのです。とにかくオーバーな心配をする人なので、早目に決断した方がいいのです。ということで、食事の後は一気に退散を決めて、出発することとなったのです。

準備をしている間にも黒雲は更に膨れ上がって迫って来て、ちらほら雪の欠片のようなものも落ちて来てフロントガラスを濡らし始めました。まさかこのような展開になるとは予想もしておらず、バネ指どころではないといった状況となってしまったのです。いやはや。どうも。その後は只管我が家を目指し、15時頃に立ち戻ったというわけなのですが、喜連川を離れて遠くなるほどに天気は何事も無く晴れて、この騒ぎは真に独り相撲そのものではないかと思ったのでした。

 

短い旅の記録を大げさに書き連ねました。バネ指のその後ですが、少しは改善されたようです。靴ひもなどを絞める時に、力を入れると薬指が元に戻らなくなり、戻すのに左手の介添えがいるのですが、その回数がかなり減ってきました。今は家の風呂やわらしべの湯などへ通いながら揉み療治は続けています。又散策時にも意識して手のひらや指の運動を続けていますので、以前よりは大分楽になりつつあり、手術は避けられるかもしれないと密かに思うようになって来ています。雪や凍結の心配が無くなったら、もう一度喜連川の湯に浸りたいと考えています。

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バネ指治療行(冬の喜連川温泉)<その1>

2017-01-20 04:07:22 | くるま旅くらしの話

 正月の騒動(?)が一段落したので、喜連川温泉(栃木県さくら市)に療治にゆくことにしました。というのも昨年の夏の終わりころから、右手の薬指がバネ指の症状を来し、これが次第に悪化して来て、こりゃあもう手術するしかないなと思っていたのです。

何の因果なのか、何年か前にも両手の中指二本がバネ指となり、同時に手術するという荒治療を行い、ようやく元に戻りかけているというのに、今度は右手の薬指が、ということになってしまいました。これはやはり長年居座っている糖尿君の仕業に違いないのでありましょう。

 年が明けたら手術先を探そうかと思っていたのですが、先の手術のことを思うと余り気が進まないのです。というのも、術後の元に戻るまでの時間がかなり長くかかり、未だに右手中指は完全に元に戻らず少し内側に曲がっている状況です。薬指は中指の隣ですから、それが又正常に動かないようなことになったら、これはもう問題となります。手術となると、やはり不安は付きものなのです。

 それで、手術の前に、温泉に浸りながらマッサージをし続けてみたらどうかと思ったのでした。というのも、かなり昔に親指がバネ指になりかけた時、その時は東京に住んでいたのですが、何度か喜連川まで通って温泉に浸っている内に、すっかり治ったという経験があるからなのです。両手中指の時は一度に両手がバネ指となってしまったので、温泉を諦めて病院へ行ったのでしたが、これはもしかしたら早やまった判断だったのかもしれません。

 ということで、4日間の予定で、少なくとも6回は温泉に浸ることにしようと旅車で出かけたのでした。今は合併してさくら市となった旧喜連川町は、足利氏の正統を継ぐ喜連川藩の城下町で、徳川幕府の中でも小藩(1万石未満の実収高)ながら10万石格を与えられていた名門の家柄なのでした。我が家からは車で約2時間と少しで届く距離にあります。

この町が温泉を掘り当てるのに成功したのは、昭和56年(1981)と言いますから、歴史は浅いのですが、良質のナトリウム塩化泉で、湧出温度も50℃と、かけ流しの温泉としては真に適度な条件を備えているのです。斐之上温泉(島根県)、嬉野温泉(佐賀県)と並んで三大美肌の湯と呼ばれている名湯なのです。開発が遅かったせいか、温泉街特有の歓楽街は形成されておらず、普段のままに良泉を楽しめる優れた環境にあると自分は思っています。市の直営する浴場が3箇所あったのですが、先年の東日本大震災やその後の集中豪雨で大被害を受けて、お丸公園の上部にあった浴場は閉鎖されてしまい、現在は2箇所(もと湯・露天風呂)が営業しており、いずれも300円で温泉を楽しむことが出来るのです。

初日は家を11時頃に出発し、道の駅:きつれがわに着いたのが13時半近くでした。ここへ来た時はこの道の駅を基地にして滞在しているのですが、今回来て見ると、何と駅舎のリニューアル工事が行われており、それがかなり大規模なものなので驚きました。この道の駅にも温泉があり、クアハウスも施設されていて、お子さんのいる家族連れにも人気があるのですが、今回は辛うじてそれらの営業だけは継続されているようでした。工事は3月末頃までには終わって、新しい駅舎が現出することのようです。このような状況ではどうも落ち着かないので、ここに泊るのは止め、今夜は露天風呂に入って、その近くに泊ることにしました。

露天風呂は、道の駅からは500mほど離れた、グランドの傍にあります。早速そこへ向かいました。もう何度もお世話になっている場所です。この露天風呂は、まさに露天風呂だけがあり、脱衣所を出ると、もうそこが幾つもの巨岩などに囲まれた露天風呂なのです。剥き出しのカランが数個あって、それは入浴のために身体を洗うだけの場所となっています。勿論源泉かけ流しで、湧出温度が50℃のお湯は、大人が30人くらいは入れそうな大きな浴槽なのですが、全体にまだかなりの熱さで、お湯に馴れるには少し時間がかかることになります。

16時過ぎ、第1回目の入浴開始です。脱衣所を出て身体を洗って浴槽に入ると、ジ~ンと熱さが身体に沁み渡ります。少しずつ身体を沈めて、熱さに馴れながら汗が噴き出るのを待ちます。この間、左手は右手の手のひらと薬指の根元を揉み続けます。バネ指の原因は、指を動かすための腱を包んでいる膜のような組織が、腱に癒着してしまって起こるということですから、バネの現象を来している第二関節ではなく、その指の根っこ辺りを中心に手のひら全体を揉むというのが効果につながるのだと思います。そのような理屈を考えながら、3分も浸っているともう我慢が出来なくなって、傍の石に腰かけての半身浴となりました。外気の温度は5℃以下で、風も吹いているのでかなり冷たくて、恐らくお湯との差は50℃近くあるような感じです。手をお湯の中に入れるようにして、時々休みながら揉み続けて、上半身が冷えてきたら湯に沈むようにして、その繰り返しです。1時間ほどで第1回目は終了することにしました。

浴槽の中はといえば、常連と思しき同世代のジサマばかりで、中には何度も顔を合わせている人が何人か混ざっていました。仕事を引退してからは毎日ここへ通うのが第二の仕事のような人が何人かいるらしく、この近くに住む人たちは真にラッキーだなと、来る度に羨ましさが増します。本物の極上の温泉をたった300円で毎日味わえるなんて、自宅に風呂など無用なのでありましょう。

風呂から出た後は直ぐ近くに留めてあるSUN号に戻り、身体が冷めないうちに着替えを済ませ、夕食の準備です。今夜はここに泊らせて貰うことにしており、予めTVの設定などは済ませています。夕食の後は早めに寝床に入るつもりです。夜になるとかなりの冷え込みが予想されますので、TVは夕食の間だけで十分です。ということで、18時半には就寝となりました。

翌日二日目。長い夜が明けて、6時半頃に起き出すと、何と車内の温度計は0℃を示していました。冷蔵庫の中に居るようなものです。露天風呂の冬期営業開始は9時からとなっており、その前に今日は歩きに出かけることにしました。お湯を一杯飲んで、着替えを済ませて外に出ると、眠気などは一気に吹き飛んでシャキッとなりました。少し明るくなりだした中を、歩きの開始です。今日は喜連川のシンボルのスカイタワーのあるお丸山公園の裾野の道を遠く一回りする予定で、1時間半くらいの歩きを予定しての出発です。

直ぐ傍を流れる内川に沿った道を少し歩いて橋を渡ると、喜連川町の中心街に向かいます。そこを通り過ぎて、左折して坂道を上るとお丸山公園の車道での入り口があり、更に進むと今度は坂を下ることになるのですが、坂を上り始めた頃には既に身体は寒さを離れて、少し汗ばむほどとなりました。人間の身体は、動くことが出来さえすれば、相当に厳しい環境であっても生きてゆくことが出来るようにつくられているのを実感する時です。

坂を下りてしばらく行くと、今度は荒川の流れにぶつかります。喜連川の町はお丸山公園を挟んで、東側を内川、西側を荒川が流れていて、丁度道の駅がある辺りで、二つの川が合流しています。内川は荒川の支流であり、荒川は更に下って那須烏山市の南部で那珂川に合流します。その荒川の側道をしばらく歩いて、道の駅構内の一部とも言える、二つの川の合流点にある親水公園を一回りして、もう一度市街地を通って露天風呂の駐車場の我が家に戻るという、90分ほどの散策でした。途中の散策の道から眺める景色は皆霜枯れしていて、田んぼも畑も堤防の草たちも、霜に塗(まぶ)されて朝日に輝いていました。昨夜の外気はマイナス5℃くらいにはなっていたと思われます。雪はないけれど、厳しい冬の世界が広がっていました。

車に戻ってTVを見ながら朝食です。パン一切れと即席スープの食事は、惰性の一環のような感じで、大した喜びはありません。TVもこの場所は地デジしか写らず、BSばかりなので、ニュースは殆ど海外のものばかりで、あとはコマーシャルだけの世界です。それにしても、BS放送というのは、地デジとの差別化を間違えているのではないかと、思うばかりです。特に民放に問題ありの感じがします。

陽が昇って、ようやく暖かくなり始めた頃に露天風呂の営業開始時刻が迫って来ました。食事を終え、満を持して入口の方へ向かいます。50m足らずで浴場へ行けるというのは、くるま旅ならではの特権です。脱衣所を抜けて早速浴槽へ。既に先客がいて数名の話声が湯気の中で行き交っていました。朦々とした湯けむりで全く見えません。湯けむりの向こう側に山の端から上った朝日が目映く輝いていて、湯けむりを金色に染め上げている感じがしました。外気は未だ0℃前後でしょうか、露天風呂でなければ味わえない風情に包まれての入浴は格別のものでした。

昨日と同じように右手の手のひらを丹念に揉みながらの入浴は、ややゆったり感を損ねる感じがしますが、この療治のために来ているのですから、疎かにするわけには行きません。朝起きた時の感覚では、いつもよりも痛さが増したように思えて、効果に疑問を覚えたのですが、湯に浸っていると痛さは消えて、心なしか少し楽になって来ているのを感じました。このような痛さと回復感を繰り返しながら少しずつ改善が進むのかなと期待した次第です。昨日と同じように半身浴を繰り返しながら1時間ほどの入浴でした。<つづく>

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第58回新年会に出席する

2017-01-15 21:20:27 | くるま旅くらしの話

 何年か前にも書いたことなのですが、今年も我が高校卒業時同級生のクラス会(=新年会)が、故郷の水戸市の某ホテルで開催されました。出席者は何と20名にもなる大盛会でした。私が幹事の事務局を担当してから10年以上が過ぎましたが、この頃では最多の人数となりました。卒業時50名だった旧友は、亡くなったり所在が判らず連絡が取れなかったり、或いは参加辞退を望む者がいたりして、現在は35名と連絡通信しています。今年は喜寿を迎えることになり、健康上の問題から出席できないという人も多く、果たして予約の15名を確保できるかと、幹事として心配していたのですが、全くの杞憂でした。

高校を卒業したのが昭和34年(=1959年)ですから、その翌年からこの会が同窓会として開催されるようになって、今年はその58回目を迎えたことになります。これほど多くの回数のクラス会を新年会という形で継続して来ている集まりは、世の中にはそれほど多くはないように思います。あと2年後にはめでたく還暦の回数となるのです。

この集まりが継続出来ているのには、二つの理由があるように思っています。その一つは卒業時のクラスの担任だった先生のお力であり、もう一つはクラス会を引っ張って来てくれた何人かの有志の尽力があったからなのだと思います。

斯く言う自分などは、卒業以来このような集まりがあることなど全く知らなかったのです。それが卒業から30年経った時のある日突然、卒業時に皆で作った記念文集が送られて来たのでした。添えられた便りには、往時の担任の先生が自費で復刻版(ガリ版刷り)を作られたとありました。自分は先生のお考えがよく解らなかったのですが、先生は往時このクラスを担当されて、格別な思いを抱かれておられたということでした。それに加えて有志幹事からの新年会への案内状です。これには少なからず心を動かされました。出席しないわけには行かないと思って顔を出したのは、私一人だけではなく30人を超える人数だったような気がします。先生の思いが私たちを動かしたのだと思います。

それ以降支障のない限りは出席するようになりました。そして次第にこのクラスの存在意義を感じるようになったのです。教師(先生)というのは、在学中だけの関係者に過ぎないなどという軽率な考えがあったのですが、その認識が出席の回を増すごとに愚かだったことに気づき、学び舎を去った後でも、もっと大切な教えを頂戴できる存在の方もおられるのだということを思い知らされ、自分にとって年に一度のこの集まりが大切なものとなったのです。

残念ながら先生は10ほど年前に他界されたのですが、その後も我々のこの集まりに対する思いは衰えることなく、毎年15名以上の出席を維持しており、この頃はむしろ増える傾向を示しています。

さて、今年の新年会を振り返ってみたいと思います。喜寿を迎えた老人たちが、一体どんな話をしているのかというのも、興味あることかと思います。話題の中心となっているのは、やはり老化の進捗を心配する病に係わる話です。記憶力の減退、行動力の弱体化等々に関する悩みというか、自覚というか、それらに関する話を多く聞かされました。物忘れというか、とっさに出て来ないことばや名前が増えて来たということなど。それはわが国のトップクラスの大学を出た者であっても、皆同じといった具合の自己認識でした。つまり、老化というのはほぼ平均的に万人に同じような現象を呈するもののようです。

因みに私が話したのは、認知症に対する注意警戒に関することでした。昨年義母を亡くしましたが、亡くなるまでの10年間を通して、義母が教えてくれたことを伝え、この病の怖さと対策について共に理解しようと訴える気持でした。認知症というのは、物忘れから始まり、うつ病 → 記憶の減退 → 運動機能の減退 → 思考力の減退 → 植物化 → 死 というような現象が、前後しながら進展してゆく病のように思えます。しかし、大切なのは物忘れがひどくなる前に見られる現象であり、それはやりがいや生きがいといったものを失ったり放棄したりすることなのです。強い生きがいややりがいを持っている人は、物忘れなどに係わっている暇はないのです。だから、誰氏も生きがいややりがいを確保してこの後を生きてゆこう、というのが話の大要でした。

もはや国情や世情を論ずるというような勇ましい話は出て来なかったように思います。真老(75~85歳)ともなると、まさに我が身の老と正対しなければならず、しっかりと現実の自分を見据えて一日一日を大事に過ごすことが肝要なのだと思います。メンバーの中には杖を必需とする者もいて、何よりも我が身をしっかりと生き支えることが肝要なのだと改めて思った次第でした。来年もまた皆が元気で再会できることを強く思いながら、夕刻の水戸を後にしたのでした。

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