山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

近江商人の一方良し

2018-02-12 00:33:09 | 宵宵妄話

 今年の北海道行の準備の一つとして、松浦武四郎のことをもう一度振り返っておこうと考え、図書館から取り敢えず3冊ほど本を借りて来て読むことにした。当初は北海道の名付け親といわれるこの人物の軌跡を辿るのも良いかななどと軽い気持ちで考えていたのだが、何冊かの本を読むにつれてだんだん己の軽薄さを恥じるようになってきた。松浦武四郎の軌跡を辿るなどという大それたことができる筈もないのを思い知らされる気持となった。何というエネルギーを持つ人間なのだろうか! 蝦夷地探索にかけるその情熱、そして何という健脚なのだろうか。読めば読むほどその超人ぶりに驚かされ、その人間の持つ思いの深さに打たれた。

その感動の中で、最も思ったのは、この人の、先住民であるアイヌの人たちに向けられた眼差しの優しさと、その反面にある和人(シャモ)の暴虐極まりなき苛政への憤怒だった。北海道というのは、アイヌの人たち無しには考えられない場所である。

この地の旅に係わる人物としては、松浦武四郎の他に菅江真澄、間宮林蔵などが有名だが、これらの人々もアイヌの人たちの協力なしでは旅は成り立たなかったのだ。北国の原生林の中を渡ってゆくには、今では到底想像もできない悪条件の中を生きる知恵が必要であり、それはアイヌの人たちの力を借りない限り不可能だったのである。それぞれの旅の記録を読んでいると、その苦労の部分の記述は案外にあっさりと表現されていることが多いのだが、現実はもっともっと厳しい、命がけの日々だったに違いない。これらの探検家は、いずれもアイヌの人たちのことを温かい眼差しで見ているのが判るのだが、その中でも特にその暮らしぶりや生きざまに深い関心を寄せたのは松浦武四郎という人だった。

幕末の蝦夷は、徳川幕府の中に組み入れられた幕藩体制の中での松前藩の治める世界だった。この藩は江戸幕府270余藩の中では最低、最悪の政治を行っていたと思われる。北の真反対の南にある薩摩藩の、琉球に対する侵略も目に余るものがあるが、松前藩のアイヌに対する対応は、それを遙かに凌ぐ悪逆非道の限りを尽くしたものであったといえる。

その治世の内容は、先住民であるアイヌの人たちからの暴虐極まりない収奪だけであり、それ以外の政治は皆無だったと思えてならない。アイヌの人々を人間として考えてはおらず、土人として使い捨ての存在にしか扱っていない。ひたすらに収奪の限りを尽くしており、武四郎の記録からは、そのことを激しく厳しく非難し憤怒しているのが判る。人別帳の調査などから見ると、その酷薄さは明確だ。人別の表向きの記録と実態の乖離は大きく、アイヌの人たちの人口は半分以下に激減しているのである。その支配内容についても述べられているが、それらは現在の日本人のプライドの全てを破砕して捨て去るほどの残虐非道ぶりである。

松前藩が他の藩と根本的に異なるのは、往時の米を中心とする日本国の経済体制の中で、米の生産のない領地だったということであろう。このために家士に対する俸禄は米ではなく、商場(あきないば)知行という、蝦夷地を勝手に分割してそこでの交易の権利を配下に与えたのである。その実践に当っては武士たる家臣が直接経営に携わることなどできる筈もなく、結局その経営は商人に委ねざるを得なくなったのだ。それが場所請負制というものであり、これに基づいて各地に運上所とか会所とかいうのが設けられて、そこでの交易の上がりが藩の経営の元となったわけである。

さて、ここで気づいたのがこの場所請負制に深く係わったのが近江商人だったということなのである。実際に誰がどのように松前藩の政策に係わったのかは判らないけど、近江商人の存在が大きかったということである。全国に巧みに商圏を広げていったこの商売の専門家は、自分の住む茨城県にも商売の出先を保有していたし、東北の各地にも進出していたのだから、蝦夷地を逃すはずはなかったと思う。

実は自分は現役時代に、仕事絡みで近江商人のことを少し調べたことがあり、その商いの考え方について賛同するもの大だったのである。その根幹となっているのが近江商人の「三方良し」という考え方であり、それに基づく実践なのだ。三方良しとは、「自分良し、相手良し、世間良し」というもので、商売というものを、社会全体を含めた総合的、客観的に捉えた発想であり、その考え方は今日の商道にも通用できるものである。

ところが、松前藩に取り入った近江商人は、この精神を大きく違えた外道精神の持ち主だった。「自分良し」だけを貪る奸商だったのである。ただ己の利を貪るだけの外道の商売をしていたのである。彼らにとって、愚かな松前藩を誑かすことなど雑作もないことだったに違いない。ご先祖の立派な商の精神も、状況によっては外道に陥るというのを見せつけられたような気がして、これには大きく失望した

アイヌの人々に塗炭の苦しみを味わわせたのは、もしかしたらこれらの近江商人だったのかもしれない。松前藩が権利者として最大の加害者であったことは言を待たないが、現場での商いを請負っていたのは裏で厳然たる権力を握って振舞っていた商人なのだ。勿論実害を及ぼしたのは、現場の下級即ちチンピラ和人共に違いないのだが、それを取り仕切るのは大商人と結託した連中だったのである。

時代背景を考えずに現代の感覚でこの時代を批判したり非難するのは、お門違いなのとは解ってはいても、どうもこの商人の行動には我慢ならないものがある。近江商人の商いの原点が三方良しにあることについての理解は今でも変わりはないのだが、松前藩に取り入り、一方良ししか眼中になかったこの振る舞いについては、どう受け止め考えたらいいのか。

最早現役を引退し、誰に対してもこのようなことを話す場を持たない我が身なれば、蟷螂の斧にも及ばないことなのだけど、ふと思うのは、商道にまつわる話は不動のものではなく、やはり損得の物差ししか働かない限られた世界の寓話に過ぎないものなのではないかということ。

今日の日本企業が世界の至る所に進出して活躍しているについては、真に近江商人の動きと相似たるものがあるのだけど、未開地といわれる場所などで、アイヌに対したと同じように、一方良しの非行に走った商売をしたりしてはいないか。それが心配になる。どのような時代の、どのような場所においても、日本人として三方良しの精神を一時といえども失わないことを願うばかりである。

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我が畏友糖尿君

2018-02-02 00:04:01 | 宵宵妄話

 久しくブログの投稿を休んでいた。この間、あることに集中していたため、書く余裕がなかったのだが、それが終わって、いつものペースに復帰することにした。この歳になって、一時でも集中できることがあるのはありがたいことだと思っている。それが何かは時期がくるまでは秘密である。

 さて、年が明けて早くも1カ月が過ぎ去って行った。最初の報告事項は、健康に関することにしたいと思う。真老ともなると、誰でも何かしら病の一つや二つは取りついていると思われるが、自分も一つの病に取りつかれている。糖尿君である。この病が取り付いたのは、50歳の時である。それまでの暴飲暴食がたたって、体重が80kg超となり、社会人としてのスタートを切った頃より20kgもオーバーしていた。何かしらの動作の度に「どっこいしょ!」が多くなっていた。そのような暮らしぶりでのある日、突然身体が動かなくなり、出勤もままならぬことが出来した。原因不明で1カ月近く休暇を余儀なくされたのである。この間に判ったのは、検査の結果血糖値が異常値であり、これがこの正体不明の体調不全の原因だということだった。それから糖尿君との付き合いが始まった。今はもう四半世紀を超えるお付き合いとなっている。

 糖尿病というのは、不治の病である。不治というのは一度取りつかれたら決して元には戻らないというものだ。ただ、糖尿病がガンや昔の肺結核などと違うのは、不治ではあるが正しく自身の暮らしの振る舞い(特に食生活と運動)をコントロールしていれば、その限りにおいて健康状態を保持できるということである。しかし、それを少しでもいい加減にすると、たちまち病のレベルに戻ってしまうという奴なのである。

 普通の病は、不治であれば行く先は、多少の長短はあっても、あの世に直行ということになるのだけど、糖尿の場合は不治であっても、適切に身を処していれば、寿命が来るまで普通の生活が保障されるのである。これは、薬を飲めば治るというような安易な病ではない。糖尿病で薬や注射をしている人は、その処置だけで健康に戻れることはないのである。薬や注射はあくまでも一時の症状の改善に過ぎず、血糖値が下がったからもう治ったと勘違いして、以前と同じ暮らしぶりに戻れば、たちまち病の症状に戻り、一層悪化する羽目となる。適切に身を処すというのは、そう考えるだけではだめで、必ず実行しなければならないという、真に厄介な病なのだ。

 このようなことを何回も書いているのは、病院の待合室で受診を待つ間に耳に入る話の大半が、薬や注射をすれば治るという安易な話しぶりであり、医者の側でもセルフコントロールについてのキメの細かい指導はできていないと感ずるからである。

 ところで我が身のことなのだが、辛うじてセルフコントロールが通用しているようで、薬を飲まないようになってから10年ほどが経過している。現在はおよそ2ヶ月に1度のペースで専門医の診察を受けているのだが、そのセルフコントロールの目安となるのが、ヘモグロビンA1C(HA1C)というものの数値である。これは糖尿病の患者の方なら誰でも知っていることだと思うが、凡そ1~2か月間前の血糖の平均状態を示す数値であると言われており、薬等を使用しない場合は6%台以下ならばまずはOKのレベル、7%台に入ると要注意で、8%台に近づくと薬の飲用等が必要となる。薬を飲んでいる人ならこの数値はそれぞれ1%くらい下げての目安となるのではないか。

 私の場合はこの1年間7%台の下方の数値を辛うじて辿って来ており、薬を飲むかどうかのギリギリの状況にあった。昨年は6月の受診時に6.8というのが一度あったきりで、それ以外は皆7.0~7.5といった状態であり、7.5となった時は大いに反省して秘策を講じて食事のコントロールに取り組み、次回の受診時では7.0まで戻すことができた。このような危ない状態で推移していたので、正月を挟んでの1月末の検査がどうなるのかが不安だった。

正月はどうしても飲食が増える時期なので、HA1Cのデータも上まる傾向がある。恐らく7%台の上の方に行ってしまって、薬を飲まざるを得なくなるのではないかと思いながらの受診だった。ところが、予想に反して、何と今回は6.7という結果だったのである。嬉しいというよりも些かあっけにとられた感じがした。

 これは何故なのかを反省してみた。正月は、酒類はいつもと変わらなかったのだが、食べ物の方は確かにおせち料理などなかったし、もう面倒なものは食べる気もしないので、野菜類中心の粗食の類だったと思う。運動の方は2か月間で100万歩を少し超える程度で、これはいつもと同じペースだった。他に何があるかといえば、そう、集中して書きものをしていたので、エネルギーの大半はそちらに向かっていたように思う。これらが功を奏してちょっぴり改善が進んだのかもしれない。いつも年初めの検査では悪化する傾向ばかりだったので、今年は幸先がいいぞと少しいい気分となっている。

 私にとって、糖尿君は長生き(=本来の寿命の確保)するための畏友である。畏友というのはいつも本当のことを指摘してくれる怖い存在の親友とでもいったらよいのか。糖尿君を欺くことはできない。言い訳も弁明も全く通用しない、真実だけをずばりと指摘してくれる存在なのだ。いい加減な食生活や運動をサボったりしていると、たちまちHA1Cの数値を突き付けて、私の非を指摘するのである。

 ことしは糖尿君との付き合いが順調の滑り出しである。5月の終わり頃から北海道行を予定しているし、旅に出ると益々セルフコントロールが難しくなるので、この滑り出しの調子を持続して旅から戻った時には6%台の下方の数値を目指して、糖尿君との付き合いを充実させて行きたいと考えているところである。

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今年のくるま旅への思い

2018-01-15 04:35:05 | くるま旅くらしの話

 新しい年となって早や半月が過ぎようとしています。昨年年末から思い立って、現在一つのことに取り組んでいます。そのため来月上旬くらいまではブログは休みとさせて頂こうと思っています。何を思い立ったのか、今は秘密です。いずれお話しすることがあるかもしれません。

 さて、そのような言い訳めいたことは措くとして、年初なので今年のくるま旅にかける思いなどを述べてみたいと思います。先の新年の挨拶の中でも述べましたが、真老の私にとっては、今年は記念すべき年となります。一つは相棒と暮らしを共にし始めてから50年を迎えること、もう一つは我が旅先で最も愛着を覚える北海道が道制を敷いてから150年を迎えるということです。

相棒との50年の大雑把な所感としては、可もなく不可もなしといったところでしょうか。多少の波風はあっても落ち着くところに落ち着いて、今がある。というのが50年一緒に暮らした夫婦の、世の中の多くの方々の所感ではないでしょうか。私どもも似たり寄ったりだと思っています。少し違う部分があるとすれば、それは20年ほど前からくるま旅を始めるようになって、少し絆が強まっているということぐらいでしょうか。共に野次馬根性大なので、世の中を見聞するにつれてお互いの視野が広がって来ている感じがします。これからもこの野次馬根性を大事にして、くるま旅を介しての人生の宝もの探しを続けて行きたいと考えています。私どもは、くるま旅での出会いを通じてたくさんの人生の宝ものに恵まれ、そこからたくさんの生きる力を頂戴しており、これは生涯大切にしてゆかなければならないと思っています。

というようなことで、今年の旅は北海道を中心に考えています。5月の後半には出発し、秋の紅葉が見られる頃まで滞在して、ここ3年間行けなかった分まで北の大地での暮らしを存分に味わいたいと考えています。その中では、150年という来し方とそれに加えて先住のアイヌの人たちの暮らしの有り様などを訪ねて、今までとは一味違う旅くらしにチャレンジしたいと考えています。

勿論暮らしの中では、今までと同じように原生花園での野草の観察やパークゴルフや釣りなどの遊びも大いに楽しみ、又新たな知人に巡り合うことにも期待を膨らませています。併せて知己の方々との旧交を温めることも大きな楽しみです。

訪問エリアでは、今までは夏期中心だったことから、道東や道北で過ごすことが多かったのですが、今回は道南、道央エリアも少し時間をかけて訪ねてみたいと思っています。特に道南へはこのところすっかりご無沙汰していますので、新幹線が営業されているエリアや日本海側の方も訪ねたいと思っています。これら南部のエリアは前段の訪問となり、その後は少しずつ道東に向かい、6月半ば頃には、今年は何としても霧多布の散布(ちりっぷ)にある原生花園のハクサンチドリの花の群生を見たい、と強く願っています。

暑さが増すにつれて旅くらしは道東や道北中心となりますが、いつもの別海町のキャンプ場のほか、今回は新たな拠点を探すなどして、滞在型の旅を充実させたいと考えています。この間には、その時々の状況に応じて、思いつくままに北の大地を横断したり縦断したりして、150年の来し方を知るための動きを作って行こうと思っています。

それから道東に滞在する間に一つだけ今から決めていることがあります。それは中標津町から弟子屈町迄の牧場の中をつなぎ通って造られている「北根室ランチウエイ」という70km余の遊歩道を歩くということです。これは相棒には無理があって参加できないので、私一人がチャレンジするのですが、できれば往復してみたいと考えています。5~6日あれば達成可能かなと思っていますが、さてどうなるか楽しみです。

お盆を過ぎる頃からは拠点を道北に移し、クッチャロ湖や稚内辺りで秋が近づくのを待ちたいと考えています。秋がどの辺りまで近づいているのか、夏がどの程度終わりかけているのかは、原生花園に行ってそこに居る野草たちの花の様子を見れば判るのです。浜頓別町のベニヤ原生花園にリンドウやサワギキョウなどが目立ち始めると、夏が終わろうとしているのが判るのです。

それを知った後は、少しずつ南下を開始し、9月中ごろには洞爺湖畔近くの壮瞥町の道の駅で、八角モチとうきびを手に入れて食し、その後は恵庭市の道の駅や真狩村の道の駅でジャガイモを手に入れ、これを土産にしてゆるりと南下し、函館から大間行きのフェリーに乗って本州に渡り、その後は東北の秋を楽しみながら10月半ばごろまでには家に戻る、というような凡その旅の筋道を描いています。

思いつくままにこれを書いている間にも、北海道への旅の思いは膨らむばかりです。しかし、出発までにはまだかなりの時間があり、これから少しずつ思いを整理してスケジュールにつなげて行こうと考えています。そして、相棒との50年の記念といえば、まさに今年の北海道行そのものがその記念イベントなのだと考えているわけなのです。旅が終わった後に、どれだけの人生の宝ものを拾い得たのか、それをまとめ上げることが、これからを生きる大きな力となるはずだと考えています。年の初めに半ば初夢混じりでこれを書き終えました。

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新年のご挨拶

2018-01-01 04:44:19 | その他

 新年のご挨拶を申し上げます

 年末大晦日と元日には旅の安全を祈願して、昔の村社の八坂神社と旅の守り神の道陸神に必ず参拝することにしています。今年も同じようにお礼と祈願をしてきました。

今年は金婚迎年であり、名称が誕生して150年を迎える北海道の旅を存分に味わいたいと考えていますので、神様へのお願いもいつもより強いものがあります。喜寿を過ぎて次の傘寿に向かうこれからの毎日は、先ずは健康第一を忘れずに、出会いを大切にしながら宝探しを進めて行きたいと思っています。

ブログの方は、相も変わらず長文で取りつきにくいと思いますが、もはやこのスタイルを治す気はなく、続けるだけだと思っています。気が向いた時には時々目を通して頂ければありがたく思います。本年もどうぞよろしくお願い致します。  馬骨拝

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時の流れに思う

2017-12-26 05:04:30 | 宵宵妄話

 今年も残り少なくなった。いろいろなことがあった。嬉しかったこと、楽しかったこと、怒りがこみ上げたこと、情けなかったこと、残念だったこと、悲しかったこと、などなど。この歳になると、これらの全てはみんな面白さで括れる感じがする。生きている間に味わっている喜怒哀楽のすべては面白いと思うようになりつつある。怒りの真っただ中に居ても、ふとそれを脇に置いて眺める余裕ができたことなのか。即ち老が本格化し始めているということなのか。人生というのは、やっぱり喜怒哀楽があって面白いのだ。どれか一つだけ、自分に都合のいいことばかりがあって満足ということは無い。感情を揺さぶるバリエーションがあって、初めて面白さを味わえるのだと思う。

 時間の流れというのはどのようなものなのだろうと思うことがある。時系列というのは過去から始まって現在、未来というふうに流れるものだと思いこんで生きて来たのだが、ふと本当にそうなのかと思うことがある。もしかしたら逆であって、最初にあるのは未来であり、そこから現在がやって来て、やがてそれが過去となって流れて行くというふうにも思えるのである。もしそうだとすると、人生というのは既に決まっていて、それが様々に形を変えて現在をつくり、更に過去へと向かって行くことになる。

 我々日本人に比べて、諸外国の人たちの信仰に対する姿勢は格段に違うように思うのだが、それは何故なのだろうと思うことがある。日本人の場合は、その多くが神というものに対して必ずしも真面目に向き合っているようには思えないのだが、キリスト教徒もイスラム徒教の人たちも神というものに対して真剣であり、敬虔なのだ。創造主としての神は絶対的なものであり、キリストもマホメットも神が使わした預言者として位置づけられ尊敬されているわけだが、日本の場合は多神教というのか、神が必ずしも創造主ではないことが多い。仏教のいう仏様は神と同体と考えていた時もあったようだが、仏教の場合は、その基盤となっているのは、釈迦という方の唱えた思想哲学なのだと思う。

 これらの違いを思う時、先の時間の流れのことを思ってしまう。時の流れが創造主のもたらすものであるとすれば、その創造主の存在は絶対的なものであり、これを崇めないわけにはゆかないものとなる。しかし、日本のような神に対する考えでは、神が創造主であるという捉え方が曖昧なものとなってしまい、未来は神によって決められるというような考えは生まれにくいのではないか。だから、日本人の多くは、時間というのは過去→現在→未来と流れるのが当たり前だと思うようになっているのではないか。

 どちらの考え方が是であり非であるのかは解らない。信仰というのは個々人や民族の持つ生きるための考えの拠りどころとなるものであろうから、その信仰の背景にある「時」の捉え方が正反対であっとしても、どちらか一方が正しいなどと決めつけるのはナンセンスなことだと思う。

それで自分は思うのだが、時がどのような流れであっても、やっぱり一番大事なのは「現在」だと思う。用意されている未来に辿りつくにしても、或いは積み上げた過去を未来につなげるにしても、結局「今をどう生きるか」が人生を創ってゆくのである。残りの時間が少ないのを感じるにつれて、その思いはますます強まって来ている。部屋の壁に平櫛田中翁の書かれた「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」の額が掛けてあるのだが、田中翁のような「わしがやらねば」という意気込みはあまりないけど、せめてこれからは「いまやらねばいつできる」だけは常時自分に問いかけて行きたいと思っている。

 今年も残り1週間を切ることとなりました。クリスマスも終わって、日本のお正月を迎えることになります。皆さまにはどうぞ良いお年をお迎え下さい。

 

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AIへの関心と恐怖

2017-12-21 19:58:41 | 宵宵妄話

 最近あまり本を読んでいない。否、読まない日はないのだが、新しい本を購入して読むことが殆ど無かった。こりゃあいかんなと気づいて、本屋に行って棚を眺めている内にAIについて書かれている本が目についた。AIというのは、勿論「Artificial Intelligence」のことであり「人工知能」と呼ばれているもののことである。その理論はさっぱり解らないくせに、このテーマが騒がれ出した頃から妙に関心があり、最近は携帯電話などのメールを使っている際に、文章作成の中でそれが使われているのを実感したりしている。また、ネット社会の中では、広告や宣伝の中にそれがかなり浸透して来ているのを煩わしいと感じたりしている。

 買った本は、「AIの衝撃」というタイトルで、副題に「人工知能は人類の敵か」とあった。小林雅一という方が書かれたもので、講談社現代新書の中の一冊である。眠り薬的に毎晩少しずつ読んでいるのだが、時々やって来る孫娘が、いつもは枕元のスタンドの減光スイッチをいたずらするだけだったのに、何と自分の寝床の中でこの本を真面目な顔をして読んでいるポーズをとっているのを見て驚いた。未だ2歳になってそれほど経っていないのに、まあ、随分と時代を先取りしているようなのである。勿論字も読めないし、書くこともできないのだから、中身が解る筈もない。

 しかし、ふと思った。この子たちが成人する、18年先ごろには、この本に書かれているかなりの部分が現実のものとなってこの世を支配し、この子たちも恩恵を受けたり被害を被ったりしているに違いない。その時に自分が生きている可能性は極めて低いのだけど、もし生きていたとしたら、明らかにこの世に取り残された仙人となっているに違いない。と。

 人間がAIを有するロボットや機械装置などに支配されるということは究極においてはあり得ないとは思うのだけど、しかし、AIが自ら学んで成長するという機能を保有するとなると、一般大衆の中には知らぬままに支配されてしまう人間が相当存在することになるに違いない。勿論AIのもたらすものが人間にとって有効で価値あるものならば何の心配もないし、むしろ歓迎すべきものであろう。しかし、それが行き過ぎとなると、今度は人間社会を混乱させ、人間そのものを退歩させることにつながって行くような気がする。

 この本の中に将棋の電王戦のことが書かれていたけど、AIが進化するにつれて、人間の勝利はおぼつかなくなるに違いない。当然のことながら、過去の人間が考え出した全ての次の一手を一瞬に計算して、その中からベストを選ぶ機能を身につけている機誡装置に叶う筈はなく、更にその装置自体が自ら手を読むことを学んで進化して行くのだから、これはもう人間としては、まさにお手上げで処置無し、ということになるのだと思う。AIの進化が人間の脳の機能と連動して自ら学ぶということを備え始めると、自ら学ぶことを忘れている人間が取り残され、機誡装置に支配されることは明らかであろう。

 しかしこれらのことは、一般大衆にとってはどうでもいいことであり、研究者レベルの大きな課題となるのであろうが、その研究開発者が道を誤ったり、或いは悪用する者が現れたりすると、世の中は取り返しのつかない混乱に陥ることになるのではないか。現在ニセ電話詐欺などの事件が多発しているけど、もしAIを悪用して詐欺行為を成功させる方法などを開発したりしたら、この世は疑心暗鬼で満たされたものとなってしまいかねない。自動車のAIによる自動運転装置の開発は、既に現実化直前まで来ているとも聞いているけど、例えばマイカーを含めた全ての車が無人で動いているような世の中が、本当に未来の人間を事故などの無い豊かで平和な世界に導くとは思われず、逆に様々な人間性の劣化が表出して来るような予感がする。機械装置を支配していると思いこんでいる人間が、知らぬ間に逆に立場が逆転していて、装置が故意に人間に害をもたらすような働きを身につけるかもしれないのである。勿論どこかに人間に対する安全装置のようなものが組み入れられるのであろうけど、それだけで全てが大丈夫とは到底思えない。善には限りがあるけど、悪には限りが無いというのが、この頃の自分の人間観である。

 AIで最も恐ろしいなと思うのは、人間の脳の機能を活用して、人間以上にAIが己の脳(相当)機能を発達させる力を身につけつつあるということである。今のところ、AIが人間と同じような身体をつくり上げるという所までは行っていないようだが、仮にたった1台でもそれを備えたロボットが完成したとしたら、やがてはそのロボットが分身を増やし、この世を人間にとって代わって支配することにもなりかねないのだ。SFの世界が本物に近づくのは恐ろしい。人間の進歩の歴史は空想から始まったのかもしれない。その空想が辿りつく究極の向かい先が、人間に代わる別の物体を用意することにあるとしたら、それは人間が人間であることを放棄することに外ならない。

 考えればきりのないことなのだが、自分がまだ幼かった60数年前には、田舍の道を走る車は殆どなく、時々やって来るトラックは小さくてしかも木炭を燃料として走っている物などがあって、子ども心にももう少し世の中が良くなって暮らしが楽になり、マイカーなどが手に入ったらいいなあ、などと思ったりしたものだった。それなのに、今の世は、それらの夢を遥かに上回るものとなっている。あらゆるものが便利になり、人間は1日24時間という時間に不足感を覚え出しているようだ。

 しかし、冷静に考えてみると、物質面では豊かになってはいるけど、心の面ではむしろ貧しさが増している感じがしている。もしAIというものが心の貧しさを補うという働きをしてくれるのであれば、大歓迎なのだが、現在のところそれは手づかずの様で、更なる利便性を求める方向にばかり向かっている感じがするのである。 

この本一冊だけを読んで、AIの全てが解ったなどとは到底言える話ではないけど、今感じているのは、AIというのは、人間が創り出した得体のしれない怪物であり、果たして人間をどこまで幸せとやらに導くものなのか。不気味な疑念は高まるばかりである。

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八つ手の花   

2017-12-16 01:01:18 | ホト発句

                                                       

                     

           喧騒を 忘れて咲くや 八つ手花

          音もなく 八つ手花咲く 日向かな   

 

 

 

          よく見れば 八つ手の花も 饒舌か  

 

コメント:

冬に咲く花は少ない。それらの中で気を惹く花がある。八つ手の花だ。花とも言えぬような、カリフラワーの小型版のような咲きっぷりである。

八つ手は、どちらかといえば日蔭の多い、裏地のような場所に植えられているのが多いのだが、どういうわけなのか通りの脇の花壇のような場所に植えられているのがあって、それがこの写真である。日射しをたっぷり浴びているせいなのか、花が咲きだした頃は控えめだったのだが、次第に主張が強くなりだしたようである。マイペースでひっそりと咲くものが多い中で、この花たちは例外なのかもしれない。

その花をよく見ると、地味なようで、実は結構饒舌なのだなというのが判って、そう言えば、これに良く似たタイプの女性も多いなと思った次第。自己主張というのは、どのような生きものにも天の配分は誤りないようだ。

 

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漫画と現世が同居する場所

2017-12-12 05:58:11 | 旅のエッセー

 晩秋の旅で鳥取県や島根県など中国地方の日本海側を訪ねた。11月半ばのこの季節は、風が強く吹いて季節の冬への移行を顕わにしている感がある。今回も強風は鳥取砂丘に嵐を到来させ、砂粒を全ての来訪者に吹き撒いていた。一夜泊った北栄町の道の駅では、終夜旅車を揺るがし続けていた。この地方の冬の厳しさを思わせる体験だった。

 鳥取県は二人の偉大な漫画家を輩出している。一人は亡き水木しげる氏。もう一人は青山剛昌氏である。それぞれの代表作といえば、水木氏は「ゲゲゲの鬼太郎」青山氏は「名探偵コナン」である。これらのマンガを知らない人で、もしその人が日本人ならば、それは変人か仙人のような類の人物に違いない。大衆の中に居ることに安心感を覚える人ならば、誰でも本や動画でお目にかかっている筈である。

 自分的には水木しげる先生の漫画作品に昔から共感するものが大だった。妖怪に対する親近感を覚えるようになったのは水木先生のおかげだと思っている。墓場を怨霊などが屯(たむろ)する恐怖の場所と思いこんでいる人は多いと思うが、自分はもう、そう思わなくなっている。歳を取り過ぎて自分自身が妖怪化しているからなのかもしれないけど、水木先生の妖怪に対する考え方に共感を深めるようになって以来、意識は急速に変化したのである。そして、妖怪というのは実在すると信じている。水木先生は手塚治に比肩する偉大な漫画家だと思っている。

ところで青山剛昌という方を知らなかった。真に失礼千万で申し訳ない。作者よりも先に、その作品の主人公に強く魅せられたのがコナン君である。現代のセンスが随所にちりばめられた作品である。科学的、論理的そして空想的推理の面白さを味わわせてくれる、コナン君が活躍する世界を想うのは楽しい。

青山先生がその作者であることを知ったのは、大栄町(現在は北栄町)にある道の駅を初めて訪れた十数年前のことである。構内の端の方に小さなコナン君の銅像が建っているのに気がついて、どうして此処にこれがあるのか不思議に思ったのがそのきっかけだった。そのコナン君の生みの親である青山先生がこの地出身の方だったのである。それ以降、コナン君のTVを見る度に北栄町への親近感はいや増し続けている。

 さてさて、今回の旅では、このお二人の作品の世界が単なる空想に止まらず実在しているのを実感したのだった。

先ずはコナン君の世界である。今回初めて道の駅の裏に「青山剛昌ふるさと館」というのがあるのに気がついた。10年も前に開館していたのに知らなかった。その日は時間的に無理だったので中には入れなかったが、その代りに早朝散歩で、道の駅から1kmほど離れた所にあるJR由良駅まで歩いて往復したことで、この町がコナン君への思い入れが半端でないことを知って驚き、又感動したのである。

道の駅からJR山陰本線の由良駅に向かって歩き出すと、直ぐに目に入るのが「コナン駅」という道案内のオフィシャル看板である。由良駅の別名なのであった。バス停のベンチの脇に屈み込んでいる男がいて、その傍に行ってみるとそこにコナン君が居るのである。又、その通りを300mほど歩くと運河のような川に橋が掛っており、その欄干の袂にもコナン君がいて、その橋の名がコナン大橋となっていた。橋を渡り道路を右折して少し行って左折すると、その道がコナン駅に向かう通りとなるのだが、その通りの両側にはコナン君の所縁(ゆかり)の何人もの友達たちが、あのマンガの一場面の中に居るようにいろいろなポーズで佇んでいるのである。そして駅前には等身大を超えるコナン君が、駅からの乗降客を迎えるように立っている。最早この世界はマンガと一緒になった現実世界となっているのであった。このような像だけではなく、コナンの家パン工房などというのもあって、この辺一帯は恰もコナン君の世界をそっくり受け入れて暮らしている感じがするのである。

 

バス停には眠りこける毛利探偵がいて、その脇にいつものスタイルで話すコナン君がいた。

コナン大橋とコナン君の像。

コナン君の友達の女の子の一人。名前は覚えていないのでゴメン。

コナン君の友達の太った男の子。名前は覚えていないのでこれもゴメン。

このようなマンガの世界が現実の中に息づいているのを見るのは、実は北栄町の此処だけではない。もう一人の偉大な漫画家水木しげる先生の出身地の境港市の場合も同様である。境港市の場合は、街の中心地に水木しげるロードというのがあり、そこへ行くと先生の作品に登場する主人公の鬼太郎や目玉おやじ、ねずみ男や猫娘は勿論、様々な妖怪たちの大小の銅像が通りの至る所に解説付きで並んでいるし、米子空港は米子鬼太郎空港となっている。

境港市水木しげるロードの中のアーケード街。この奥に記念館がある。

ねずみ男の銅像。鬼太郎に次ぐ人気者のようだ。

おなじみのこなき爺の像。リアル感大である。

これもおなじみの砂かけ婆の像。

通りの中には妖怪神社もある。いやはやもうここは妖怪たちとの共同体である。

なんと、通りの中には妖怪が歩いているのだ。これは砂かけ婆のようだ。

今回の旅では境港を訪ねることはできなかったのだが、思わぬ所で水木先生の作品所縁の銅像などにお目にかかれて、驚き感動した。それは隣の島根県出雲市郊外にある一畑薬師というお寺に参詣した時だった。境内の中に目玉おやじの小さな像があり、そこに「おやじは寝るもの」とあったのを見て、何だか嬉しくなった。又本堂近くには「のんのんばあとオレ」という二人の人物の像があり、のんのんばあというのが実在の景山ふさという方であるのを知った。この方は水木先生の実家に勤められたお手伝いさんで、しげる少年に妖怪について語るなどして絶大な影響を及ぼされた方だったとのこと。のんのんというのは、この地方では神仏を拝む人のことをそう呼んでいたとのこと。景山さんのご主人がその拝み手で、熱心な一畑薬師の信者だったことから、のんのんばあという呼ばれていたのだとも書かれていた。水木しげる先生の世界は、境港市だけではなく、広くこの日本海側の風土の中で育まれ、それは生涯消えることなく、先生の作品の中にとどまって居るのだなと思った。のんのんばあとオレという像を見ていると、何だかその傍には大勢の妖怪たちが取り巻いて、二人を嬉しそうに見上げているのを感じたのだった。

一畑薬師の境内にある目玉おやじの像。ここでは涅槃おやじとなっている。

昔はマンガをバカにするといった風潮があったのだけど、今はそのようなものは拭い去られて、作品の中の登場者たちが現実世界の中に共生しているのを何だか微笑ましく思ったのである。現代はTVやネットなどの情報の技術革新がもたらすバーチャル世界が、様々な問題を起こしているように感じているのだけど、このようなマンガ世界との共生は悪につながる心配とは無縁のように思えて、ほっとするのである。

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年賀状を書く時節

2017-12-08 05:33:26 | 宵宵妄話

 旅から戻って、事後の処理対応に追われて、それが済んで一段落したなと思ったら、早やくも師走は中旬に入ろうとしている。歳月人を待たずというけど、それは一日といえども同じことのようである。真老の身には、時間が経つのが早すぎるのだが、これを止めることはできない。

 毎年この時期になると、自分には二つの仕事が待っている。その一つは高校時代の同窓新年会の開催案内の作成と送付であり、もう一つは年賀状の作成と送付である。新年会の方はもう何年になるのだろうか、一度引き受けたら最早幹事を辞めさせては貰えなくなってしまっている。ま、社会貢献の一つだと思って勤めさせて頂いている。年賀状の方は、これはもう随分と前からパソコンなどで自作することにしている。最近は宛名までパソコンでプリントしているという横着ぶりである。

 今年は、本文のプリントを昨日終了し、これから宛名の方に取り組み、それが終了したら1枚ごとに書きこみをして、年内には投函するということになる。これら一連の作業をしながら、毎年いろいろ感ずることがある。それらについて少し書いて見たい。

 まず年賀状のことだが、これは出すことに大いなる意義があると考えている。大げさに言えば、自分が今までの間に出会った人の数と言えば、恐らく2万人にも満たないのではないか。人の数は、日本人だけでも約1億2千万人、世界全体では70億人を超えていると推定されているのに、その中のたったの2万人なのだ。しかも年賀状をやりとりしているのは僅か300人ほどなのだ。これは奇跡的と言って良いほどの数であり、ご縁なのだと思う。これを放棄するなどというのは愚かな思い上がりの自分勝手というものであろう。そう思っている。

時々、もう年賀状を書くのは止めることにしたという挨拶状が届くことがあるけど、気の毒な気持になる。自分の場合は、相手の方が迷惑と感ぜられない限り書くことにしている。何年間も無反応の場合は、迷惑を察知して書くのを止める。そのような考え方で毎年年賀状を書いているのだが、現在は次第に減って来ていて、300人ほどとなってしまった。自分も後期高齢者となっており、もはや増えることはあるまいと思っている。

 そのような考え方で年賀状を作成しているのだが、今年は喪中欠礼の便りが例年以上に多いのに驚いている。現時点で30枚もあり、これからもっと増えるのかもしれない。お互いに高齢者同士が多いので、親兄弟姉妹などに物故者が増えるのは自然の摂理なのかもしれない。でも、90歳を超えるような場合は納得せざるを得ないのだが、自分などよりもかなり年下の方が亡くなられたという喪中欠礼の便りを見るときは、心が痛む。人間というのは生きていて何ぼという存在なのに、気の毒で可哀そうと思ってしまう。それを一番思っているのは亡くなられたご本人に違いない。心からご冥福をお祈りしたい。

 年賀状には努めて自分の近況のことを伝えることにしている。過去には家族個々のことなども含めていたが、最近は家内と二人の状況報告が多い。ここ数年は旅に絡むことが多くなっている。折角年に一度の挨拶をするのだから、決まり文句だけの賀状では勿体ないし、申し訳ないような気がするのである。本当は一人一人個別に賀状をしたためるのが礼儀なのだと思うけど、数の多さに負けて(?)共通項的印刷文字となってしまっている。なので、せめて自筆で何か伝えようと、空きスペースを作っておきそこにメモを書き込むようにしている。年賀はがきの発売が今よりも半年前くらいのタイミングであれば、パソコンなどは止めて全て手書きでするのになあと思ったりしている。ま、これは「タラ、レバ」なので、当てにはならない。

 一枚一枚の年賀状を取り扱いながら思うのは、一人一人の顔であり出会いであり思い出である。年に一度、その時だけ思い出す人も多い。簡単に思いだし簡単に忘れる人も多いけど、そうでない人やそうでない時もある。年賀状はそれでいいのだと思っている。それが大事なのだと思っている。人と人とは繋がっているのだ。年賀状はそのつながりの大切さを思い起こす貴重な手法の一つなのだと思う。この時節はこれからも毎年300人ほどの知人とのつながりを思い起こし、温めるときなのである。

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‘17年 北陸・山陰・山陽・関西巡り旅 レポート <第21回:最終回>

2017-11-26 04:51:33 | くるま旅くらしの話

【昨日(11/25:金)のレポート】 天気:晴れ

<行程> 

  浜松SA →(新東名道・東名道・首都高・常磐道)→ 谷和原IC →(R294)→ 自宅(帰宅)

<レポート>

  浜松SAは新東名道にある。東名道の方は浜名湖SAとなっており、新東名の浜松SAがあるのは、はかなりの山の中だ。SAでの宿泊は騒音を覚悟しなければならない。休日前夜とあってなのか、夜間の来訪者はひきも切らずの状態なので驚いた。朝起きて見るとほぼ満車の状態となっていた。これじゃあ、ドアの開閉のドタンバタンという音も仕方ないなと思った。昨夜は少し風が強く吹いたらしいけど、朝は澄み渡った快晴の空が広がっていた。

  今日は旅の最後の日となる。ここから自宅までひたすら走るだけの日程である。朝食のあと、出発の準備をして8時半、構内の給油所で、超高価な油を入れる。軽油が1L134円もしている。何だかボラれている感じがする。何故高速道の給油所の油価がこれほど高いのかが解らない。文句も言えないので、仕方なしに給油しているのだが、高速道を降りればどんなに高くても10円は低い価格だと思う。燃料切れの心配をカサにとって思いっきりの高価で売りつけている感じがする。何故高くなるのか、高くしなければならないのか、誰か関係者に説明して貰いたいものだ。ということで、20Lだけ入れることにした。

  その後は快調に走って、御殿場の足柄SAで休憩。今日は雪を冠した富士山がくっきりと眺望できる。今年こそは登ろうと思っていたのに、結局何やかやで不意にしてしまった。来年は北海道行を決めているので、富士山には上ることはできない。いっそ、もう一年遅らせて80歳の記念登山にしようかなどと考えている。生涯一度だけでいいから登ろうと思っており、チャンスはもう少ししか残っていない。そのようなことを思いながら富士山の眺めとお別れする。

足柄SAから見る今日の富士山の眺望。まさに名峰富士である。いつまで見ていても飽きの来ない素晴らしさだ。今回の旅の最後にこの景観に出会えてよかった。

  足柄SAを出た後は、もうノンストップで家まで行くつもりである。東名道が終わり、首都高に入る間の3kmほどは渋滞でのろのろの進行だった。首都高に入って少し流れが良くなり、霞が関を過ぎて神田橋辺りからまたまたの渋滞となり、しばらく走ったり停まったりが続いたが、浅草を過ぎてからは順調な流れとなり、我が家への到着は13時15分となった。約3週間の旅だった。走行距離は2,795kmだった。孫たちに迎えられて、久しぶりにジイジに戻った。

 

【旅を終えて】

 旅を終えての所感を書くのは未だ少し早いのだけど、今思っていることだけを取り敢えず書くことにしたい。先ず総体的に今回の旅を振り返ってみると、「変更」の多い旅だった。今回の旅は1カ月ほど前の10月からあれこれと思いを膨らませて、何度もスケジュールらしきものを考えたのだが、当初11月の初めには出発するつもりだったのが、自分が前立腺がん検査で引っ掛かり、精密検診が必要になり、その結果が遅れたために当初の出発ができなくなり、3日遅れて11月3日の出発となってしまった。そのために当初予定していた能登半島を巡る部分をカットせざるを得なくなってしまった。それは致し方ないとして、その後も例えば鳥取砂丘が砂嵐のために歩けなくなったり、天橋立も強風のために歩けなくなったりして、大幅に予定を変更せざるを得なくなってしまったのである。少しがっかりする側面もあったのだけど、逆に予定外の思わぬ訪問が叶ったりして、差し引けばOKということにはなったと思う。

 今回の旅のメインは、3組の知人ご夫妻にお会いすることだったのだが、これは100%以上に念願を果たすことが出来て嬉しい。米子のBさんご夫妻とは2年ぶりの再会だったが、お互いに同世代としての無事な暮らしを確認出来て、夜遅くまで美酒と一緒の歓談が出来て幸せだった。Bさん手づくりのコテージは野趣豊かな風情があって、旅のものを力づけてくれる雰囲気大だった。あらゆるものがBさんの手づくりなので、その小屋の中にいるとBさんの心の温かさに包まれる感じがするのである。たった一夜の歓談だったけど値千金の感じがした。

 倉敷のAさんご夫妻には、このような旅では滅多に味わえない貴重な体験と心温まるおもてなしを頂戴し感激した。3日も泊めさせて頂いたのだが、初日は午後の到着だったので、何処へも出かけなかったが、その日が初売りだという殻付きの牡蠣の蒸し焼きをごちそうになり舌鼓を打った。お二人がとんでもない交通事故に遭われて、今でも治療中という話には驚いた。それなのにご歓待頂いて恐縮だった。2日目には、地元の歴史探訪絡みの歩きにお仲間の皆さんに同行させて頂き、岡山県の古道の一つである津山往来(岡山⇔津山)の一部、約15kmを歩いたのは貴重な経験だった。昔の道を辿るというのは、現代の地図ではそう簡単に一致するとは限らず、道の変遷というのは思っている以上に激しいものがあり、そんな厳しい条件の中を往時に可能な限り近い道を探して,それを歩くというのは並大抵のことではないと思うのだが、Aさんのグループの皆さんは、知恵を出し合って、それを見事に実現・実行されているのに感動した。

 また翌日には「吉備路探訪講座」というものを聴講させて頂き、岡山県が吉備の国であった大昔に造られた多くの古墳についての話を聴き、今まで古墳というものに対して抱いていた感覚を一変させる様な話を伺って、大いに得るものがあった。古墳と言えばただのお墓であり、大きいものは単なる権力者の遺産に過ぎないのではないかくらいにしか思っていなかったのだが、それは大きな誤りであって、墓というものからその時代の人々の暮らしや社会のあり方が見えて来るものなのだということを知った。

 Aさんご夫妻は日本のみならず世界の各地を歩き回ってその見聞を楽しまれているというふうに思っていたのだが、決してそれだけではなく、日本の歴史や文化についても学びの精神を貫かれているのを知り、大いになる刺激を受けたのだった。その他にも彼の秀吉との戦の際に水攻めで苦闘した名将清水宗治の居城備中高松城跡やその秀吉の妻ねねの弟の木下家の居城のあった足守の城跡などにもご案内頂き、現在の岡山県地方には古代から現代に至るまで、数多くの歴史の名残が残されているのを知り、認識を新たにした。この3日間の体験の中で一番印象的だったのは、自分よりも一世代はお若い、このご夫妻の知識や体験の正確さというのか、学ぶということに向き合うその行動の真剣さに打たれるもの大だったことである。最終日には、ご主人には忙しい中を備前市の閑谷学校迄ご案内頂き、恐縮した。一緒に構内にある楷の樹の紅葉を見ようとしたのだが、これは既に半分以上が散ってしまっていて、念願が叶わなかったのは残念だった。とても充実した3日間だった。

 その翌日はMさんの別荘をお訪ねした。Mさんは既に深老(85歳~)の域に達しておられる、くるま旅の大先輩で、2年ほど前にくるま旅を引退され、現在は播磨自然高原に別荘を購入されて、月の何日間はそこで過ごされておられるのだが、今回初めてその別荘をお訪ねしたのだった。11月半ば過ぎという時期は、冬に入る季節でもあり遅過ぎてご迷惑をお掛けするのではないかとの心配と反省を感じながらの訪問だったのだが、それを吹き飛ばすようなご歓待を頂戴して感激した。二棟ある別荘は、一棟の方は未だ整備中で、ご主人が自らそれに取り組んでおられ、しかもそれを楽しんでいらっしゃるのである。お邪魔した時は丁度竹垣の製作中で、風情のあるものが出来上がりつつあった。とても世代を感じさせない矍鑠たる姿に心を打たれた。

 播磨自然高原というのはかなり広い面積を持つ別荘地で、日本国の中にこのような場所があるのかと驚くほどの広い山の中に思い思いの形の別荘が点在していた。別荘と言えば軽井沢や伊豆高原などを思い起こすのだが、この播磨自然高原の広大さはそれらに劣らぬ規模だなと思った。自分の住む守谷市などよりも遙かに広いのである。その中に約千軒ほどの別荘が点在し、それらを結ぶ道路を計算すると、130km以上に達するとか。もう2年お住まいになっても、何軒か先の知人の家までに行くのに道を違えるというほどの広さであり、樹木の中なのである。

 Mさんは人生を楽しむ達人だと思っている。現在に至るまでには、企業家として人並み以上のご苦労をされておられるに違いないのだが、それらのご苦労を現在は全て楽しみに変えられて日々を過ごしておられるように思えるのである。まさに自分がこれから目指そうとしている老の生き方の先駆者でいらっしゃるのだ。活き活きと心豊かに毎日を生きるというお手本を、身をもって体現されておられるのである。それは自分一人だけの言動にあるのではなく、多くの友人知人との交流を大切にし、共に生きることを楽しむという姿勢なのである。

 Mさんの暮らしを支えているのは奥様の力であることは疑う余地はない。来世も奥さんと一緒というのを辺り憚らず明言されるMさんの姿を見ていると、その信頼感の絶大さに心を打たれずにはいられない。冗談などではなく本気なのだ。それはやっぱり美しい生き方なのだと思う。自分などにはなかなか口に出しては言えないことばである。その奥様の料理の腕はまさにプロを凌ぐかと思われるほどである。どんなささやかな物であっても、食べる人に対する心遣いの籠った料理が出されてくるのには、本当に頭が下がり、又その美味しさに感動するのである。料理だけではない。いろいろな面でご主人を支えておられる力は、やはり奥様自身もご主人が大好きという証なのだと思う。

 そのようなお二人にご歓待頂き、その夕べのひと時は幸せと感謝の絶頂にある感じがした。というのも、我々二人だけではなく、同じ別荘エリアに住むTさんご夫妻もお招きになりご一緒することができたからである。このように人とのつながりを広げて下さるという配慮が素晴らしいと思う。おかげさまで又Tさんご夫妻という新しい知り合いを得ることができ、感動が深まる。活き活きと生きるというのは、一人だけの暮らしでは決して実現できないのだと思う。多くの人とのつながりの中で、それが確実になるのだと思う。大先輩から学ぶことは多い。

 それから目的以外の目的を超える嬉しい再会もあった。宇陀路大宇陀の道の駅に泊った翌朝、訪ねて来て下さったHさんとの再会である。この方はくるま旅を志向されておられるお若い方で、まだ奥様が現役でお勤めなので、ご夫婦で自在の旅をするというわけには行かないのだと思うけど、今は新しい旅車の納車を待つ中にあり、その楽しみは際限なく膨らみ続けておられるのだと思う。短い時間の歓談だったけど、とても楽しいものだった。いつか旅先で、特に北海道辺りでご一緒する時が来れば最高だなと思った。そのような夢を与えてくれるお一人である。

 ということで、これらの皆さまとの再会は実に嬉しい、楽しい、そして学ぶことの多い充実した出会いだった。もうこれだけで十分な旅だったように思っている。予定は相当に狂ってしまったけど、最早そのようなことは取るに足らないことである。

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