山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

京都他短か旅:第7日&第8日(最終回)

2016-12-04 04:21:13 | くるま旅くらしの話

第7日<11月24日:木> 天気: 雨のち曇り

 <行程>

 道の駅:飯高駅 →(R165・R368・R24)→ 勢和多気IC →(伊勢道・東名阪道)→ 御在所SA →(東名阪道・伊勢湾岸道)→ 刈谷HO →(伊勢湾岸道・新東名道)→ 長篠設楽原PA →(新東名道)→ 浜松SA →(新東名道)→ 森PA →(新東名道)→ 静岡SA(泊) 走行282km

 <レポート>

 今日からは完全に帰途のコースである。特に書くことも無いのだが、一応途中で寄った場所で気になったことなどを書きとどめておくことにしたい。

先ずは雨降りの中、飯高駅を出発する。旧飯高町のこの辺りはお茶の生産地で、道路の両脇には手入れの行き届いた茶畑が広がっていた。ちょうど今は茶の花の開花時期なのか、茶の木の畝の所々に白い花が見えていて、ああ、あの木たちもしっかり生きているのだなと思ったりした。しばらく農村エリアを走って、間もなく勢和多気ICが近づく。高速に入る前に燃料タンクを満タンにする。高速道SAの給油所の価格は、何故なのかリッター辺り20円以上も高くなっている。何時も抱き解けない疑問である。

勢和多気ICから伊勢道に入り、そのあとは東名阪道、伊勢湾岸道と順調な流れに乗って高速走行となる。天気は相変わらずはっきりしないが、雨は降ってはいないようで、何よりも風がないのが幸いだった。高速走行時の強風にはこのSUN号は超弱いのである。路面がかなり湿っているようなので、慎重に運転を続ける。

間もなく刈谷ハイウエイオアシスに寄り、ここで少し休むことにする。このハイウエイオアシスは必ず寄る所で、今回来るときにも寄ったのだが、今日は土産にエビせんべいを買うことにしている。各地にいろいろなせんべいがあるけど、名古屋のこのエビせんべいは他のせんべいとの差別化がきちんとできており、エビだけではなくそれに加えて何種類かの味の追加がなされており、いつも感心してしまう。百年一日の如く同じせんべいを作り続けることも一つの方法かもしれないけど、事業拡大のためにはやはり創意工夫が不可欠だと思う。ここのエビせんべいはそれを見事に実現していると思った。

刈谷を出た後は、少し走って新東名道に入る。今日の宿はこの新東名道のどこかのSAにしようと考えている。というのも、昨日からのニュースでは、関東エリアにはかなりの降雪があり、夕刻になると路面凍結の恐れがあり、無理して今日中に帰宅するのは止めることにしたのである。松阪市辺りでも昨夜はかなりの冷え込みがあったけど、未だ雪を見るには至っていない。恐らく御殿場辺りに行けばかなりの積雪があるに違いない。明日は晴れるというけど、道路の状況を確認しながら遅い出発をと考えている。

来た時と同じ浜松SAにしようかとも思ったのだが、着くのが早過ぎて結局今日の泊りは静岡SAとすることにした。新東名のSAの駐車場は、一般車とトラックとがきちんと分けられているので、ありがたい。15時頃に着いて、そのあとはこの旅の最後の長い夜を迎える。

 

第8日<11月25日:金> 天気: 晴れ

 <行程>

静岡SA →(新東名道・東名道)→ 足柄SA →(東名道)→ 海老名SA →(東名道・首都高・常磐道)→ 谷和原IC →(R294他)→ 自宅   走行227km   [8日間の総走行距離 1,493km]

 <レポート>

旅の最後の朝を迎える。今日は予報通り天気の方は大丈夫のようだ。未だ雲は残っているけど、空の半分以上が青空になっているので、追って晴れ渡るようになるだろう。久しぶりの晴天である。御殿場辺りが通行止めという表示も無いので、それほど出発を遅らせることもあるまいと、9時少し前にSAを後にする。

少し走ると清水PAの手前あたりから、左方に白雪を冠した富士山が見えるようになった。久しぶりの間近に見る富士山の山容である。その雄大さ、荘厳さにはハッとさせられ、心を打たれるものがある。そのあともしばらく見え隠れたりしながらの走行だったが、これは御殿場近くの足柄SAまで続いた。御殿場辺りからは道の両側にかなりの積雪がそのまま残っているのが見えるようになった。半端ではなかったのだなと思った。SAでしばらく休憩した後、東京方面に向けて出発。

最後の休憩を海老名SAでとって、そのあとは只管我が家を目指す。東名が終わりになり、首都高に入る辺りから渋滞に巻き込まれる。そのあとも何箇所か渋滞があって、東京を横断するのにかなりの時間とストレスが溜まった。毎日このような渋滞の中を車を運転しなければならない仕事の人たちは大変だなと、改めて思った。ようやく常磐道に入って、谷和原ICで出て、我が家への到着は13時半ちょうどだった。やれやれである。足かけ8日間、総走行距離1,493kmの旅だった。

 <旅を終えて>

今回の旅には次のような主な三つの目的があった

①  新しく交換したバッテリーの機能を確認すること

②  駐車の難しいエリアの訪問探訪にパーク&ライドの方法が上手くできるかどうかにトライすること

③  孫たちに関西エリアの秋の味覚(ミカンと柿)を持ち帰ること

半ば思いつきの旅なのであるけど、ふと息抜きがしたくなったというのが本当の理由なのかもしれない。

 僅か8日間の旅は、往復に4日間ほどを要して、旅の半分はただの移動の時間となったのは残念である。往復に4日間もかかる旅ならば、普通は1ヶ月くらいは旅を楽しめるものを。このような旅の仕方は今まであまりしたことがないのだけど、長いこと遠出を制限せざるを得ない事情があったので、それから解放されたことを実感したかったのかもしれない。

 さて、旅の三つの目的だが、先ずバッテリーの方は何の問題も無く、夜間などかなりの長時間使用しても警報が鳴るなどという事態は招来しなかった。これからの旅では困惑することはあるまいと思う。それから3番目の孫たちへの土産のミカンや柿については、一応の目的は果たしたと思う。ミカンについては、もしかしたら少し時期尚早の嫌いがあったのかもしれない。最盛期は12月に入ってからということなのかもしれない。でも、ひとまずは先ずそれなりに美味しいミカンをゲットできたし、又柿の方も満足のレベルだったと思う。

 三つの目的の内、最も重要なパーク&ライドについては、これだけは満足のゆくものではなかった。その理由の最大のものは、パーク地として選んだ道の駅:びわ湖大橋米プラザが探訪先の京都市内からは少し遠かったということか。加えて時期も悪かった。秋の京都の最も訪問者の多い場所を探訪先に選んでしまったということも、ライドの煩わしさに加えて失望感を膨らませた結果となってしまった。二人分の交通費を合わせると、多少駐車料が高くても何とか訪問先に近い場所に駐車場を探して留めた方が得なのかもしれない。当初は、くるま旅の中に新しい旅の仕方を付加できるのではないかと考えたのだが、これは少し甘かったようである。

 京都の古寺や史跡の探訪を旅のテーマとする時は、パーク&ライドなどといういわば苦し紛れの方法にすがるのではなく、訪問先の選定に合わせて、べスト思われる訪問の仕方を慎重に工夫することが大切なのだということを実感した。これは当たり前といえば当然のことなのだが、その実践はなかなか難しいことなのである。まだまだ訪ねたい場所はたくさんあるので、これからの課題として考えて行くことにしたい。

 その他、今回の旅では特に思い出となるようなものは無かった。ただ、九度山の道の駅に泊った際に、静岡から来られたというご婦人から声を掛けられ、自分のブログのファンの方らしく、書いている自分よりもその内容をよくご存知のようなので、これには驚かされた。見知らぬ人から親しげに声をかけて頂けるというのは、芸能人ならずとも、ありがたくうらしいことではある。このところブログの方はかなり雑になって来てしまっているけど、ここは気を取り直して、原点回帰を図って取り組む必要があることを強く思った。(終)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

京都他短か旅:第6日

2016-12-03 08:41:28 | くるま旅くらしの話

第6日<11月23日:水> 天気: 曇り

 <行程>

  道の駅:柿の郷くどやま →(R24・R370)→ 道の駅:宇陀路大宇陀[奈良県宇陀市] →(R370・R165他)→ 室生寺参詣・探訪[奈良県宇陀市] →(R165・R370)→ 道の駅:宇陀路大宇陀 →(R166)→ 道の駅:飯高駅[三重県松阪市] 走行141km

 <レポート>

朝になった。静かである。外に出たら、どこからなのか外国から来た若い男性からおはようございますと声をかけられた。どうやら高野山にでも上る予定らしい。若い時にこのような体験を積むことは、あとで人生の大きな財産になるに違いない。いいなと思った。

さて、今日はどうするか。当初の予定では真田一家の暮らしの跡などを辿ることにしていたのだが、天気予報では今日は曇りらしいのだが、明日は雨になるという。明日は室生寺に参詣しようと思っていたのだが、雨になるとちょっときついなと思った。昨日読んだ資料などからは、真田一家の遺跡などはそれほど多くはなさそうだし、急ぐ必要もないので、今回は止めにすることにして、室生寺参詣を優先させることに決めた。室生寺は何度も訪れているのだが、今回は特に家内の要望が強い。というのも京都での古寺参詣では何か満たされぬものがあり、改めて本物のお寺の風情を味わいたいと思ったのであろう。それは自分にとっても同じような気持なのである。

ということで、あっさり予定を変更して室生寺へ向かうことにして出発。京奈和道で五條まで行き、そこからR24、R370などを通って、途中の道の駅:宇陀路大宇陀に寄り、昼食用の柿の葉寿司をオーダーする。帰りに寄って受け取ることにした。これらはすべて家内の係わることで、どういうわけなのか今回は特に柿の葉寿司に取りつかれているようだ。実は昨日も手に入れて夕食に供したのだが、家内にはモチモチしていて食べにくいとかで、結局自分一人で全部を平らげてしまったのだ。そのことがあってか、こだわるのであろう。

その後榛原町の判りにくい道に惑わされながら、少し手間取って室生寺近くの駐車場に着く。思ったよりも空いていたので安堵した。早速参詣に出向く。入口の室生川にかかる太鼓橋の上から紅葉を見る。もう最盛期は過ぎたようだけど、未だ魅力は残っているレベルだった。拝観料を払って境内の中に足を入れる。室生寺はいわゆる女人高野と呼ばれていることでも有名だ。参詣に関して男と女を区別したり、差別したりするというのは、衆生一切を救うのを目的とする仏道の世界では、邪道のように思うけど、それが当たり前という時代があったのは事実であり、人間というのは、どうでもいいような理屈をこねまわして、格好をつけたがる生き物なのだなと、ここへ来る度に思うのである。

     

室生寺山門の雄姿。この門を潜ると浮かれた心も、悩む心も何か厳かなものに包まれて、安心の世界に一歩が踏み出せるような気持ちになる

大きな石段をゆっくり上ると正面が金堂でその脇に御勒堂がある。いずれも背景に紅葉の樹木を控えて、いつものような静かな佇まいだった。更に少し石段を登るとそこに本堂があり、少し上の左の方に国宝の五重塔が形よく鎮座していた。いつもと同じ景観がそこにあった。それぞれにお参りした後は、奥の院まで往復することにして先に進む。

     

室生寺の金堂に至る石段の紅葉。大きな自然石を組み立てて作った石段には、過去この石段を踏みしめながら登った人たちの、一つ一つの思いが浸み込んでいるような気がした。

     

国宝の室生寺五重塔。台風で杉の大木の倒木が直撃して壊されて修復してからは、若々しい彩の存在となった。小型の愛らしく美しい置物のような感じにとらわれるのは、この塔が女人高野と呼ばれるシンボルであるからなのかもしれない。

石段は次第に急になり出し、家内の足は大丈夫かと気になったが、それは本人に任せてマイペースで上り続けることにした。2千段の石段昇降をやって以来、この程度の石段にはさほど大変さを感じなくなっているのは、効果が出ているということなのだろう。間もなく上り切って御影堂に着く。ここには納経帳を持った人たちが列を作っていた。今頃は納経が又流行り出したのかなと思った。お経も読まず、書くことも無く、ただ寺の毛筆サインとスタンプを押して貰うだけで、御利益があるのだから、そのような振る舞いがあってもいいのかもしれない。仏様は寛大だから微笑みなが見守ってくださっているのであろう。

絵馬堂のような建物の反対側に行くと、そこから室生川の刻む渓谷のせせらぎが聞こえて来た。谷間の向こうには小さな集落のたたずまいを見下ろすことが出来る。紅葉の彩の向こうの景色は心を落ち着かせてくれるものがある。しばらく待って、納経所の方に行ったら、既に到着した家内が坐っているのを見つけて、何だ、何でもなかったのかと不思議を感じた。このような場所に来ると、別人の力が備わるのかもしれないと思ったりした。

少し休憩した後、深山の空気を味わいながらゆっくりと下山を開始する。この谷間には天然記念物の暖地性シダの群落があり、杉の大木も多くて、空気は浄化されている。足元に注意しながら下山を楽しんで、五重塔まで来て、ここで家内とは別れて自分は先に戻ることにした。家内の方は金堂に鎮座する仏像などをじっくり愛でるとのこと。広い境内を寄り道をしながら歩き回って、間もなく車に戻る。

やはり室生寺に来て良かったなと思った。先日の京都のお寺とは雲泥の差がある。京都だって蟻の行列がなければ、それなりに落ち着いた雰囲気が醸されるに違いない。だから不満や愚痴を言うのは至当ではないのだが、あの蟻の行列では、もはやお寺ではなくなっており、ただの観光客用のジャパニーズ寺院となってしまっている。室生寺もそれなりに観光客は多いのだけれど、深山幽谷の趣があるから、蟻の行列はここまではやって来ないのではないかと思う。京都の寺院を気の毒に思った。

室生寺の参詣を終えた後は、もう本番の帰途につくだけである。今日の泊りは、この後道の駅:宇陀路大宇陀に寄ってオーダーしている柿の葉寿司を頂いたあと、伊勢街道の一つとなるのか、和歌山街道というのか、のR166を通って松阪市に入り、道の駅:飯高駅に泊ることにしている。道の駅:飯高駅には温泉施設も併設されていて、その湯の素晴らしさは良く承知している。今回もその恵みを享受したいと思っている。

来た道を戻って、間もなく道の駅:宇陀路大宇陀に寄る。この道の駅は奈良の神社やお寺巡りの際の拠点として何度も利用させて頂いており、関西エリアに来た時は必ずお世話になっている場所だ。昨年来た時には工事中だった駅構内の駐車場はもう完成していて、以前とは違ったレイアウトとなっている。我がSUN号にとってはありがたくないものとなってしまっていた。駐車ラインの線引きが狭くて、駐車しにくい形となってしまっていた。これからは少し離れているけど、第2駐車場にお世話になることになるなと思った。家内は幾つもの柿の葉寿司の入った袋を抱えて戻って来た。直ぐに出発する。

R166は、いつも不思議な気分にさせられる道である。この道は大宇陀の道の駅を出てから旧菟田野町や東吉野町を通って高見山のトンネルを潜って松阪市エリアに出るのだが、何年か前にこの道を通った時に、時間が止まっているのを実感したのである。高見トンネルを潜る前に気づいたのだが、道脇の植物類の全てがそよとも動かずに静止していた。風がなくても何かしら動くものはある筈なのに、ここの空間では全てのものが動かず静止していた。その空気はトンネルを抜けて松阪市エリアに入ってからもしばらく続いたのだ。人家はあっても人は見掛けられず、犬や猫や鶏の声も聞こえず、本当に時間が止まった異次元の世界に入ってしまったような錯覚を覚えたのだ。そのあとも何回か通っているのだけど、いつも同じような感覚に襲われるのである。さて、今回はどうなのかと思いながら行ったのだが、部分的にそのような感覚を覚える場所はあったが、ススキの穂が揺れていたので、なぜかホッとしたのだった。

山を下り、少し道幅の細くなっている集落エリアを抜けて、間もなく道の駅に到着する。今にも雨が降り出しそうな空模様となっていた。ここは南と北に高い山が連なっており、TVは地デジは全くダメで、BSしか見ることはできない。ラジオもあまりよく聞こえない。相撲は諦めて、先ずは温泉に行って温まって、早めに寝ることにした。夜半から雨が降り出し、明け方まで天井を叩き続けていた。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

京都他短か旅:第5日

2016-12-02 06:12:44 | くるま旅くらしの話

第5日<11月22日:火> 天気:曇り後晴れ後曇り

 <行程>

道の駅:妹子の郷 →(R161・R1)→ 京都東IC →(名阪・近畿・阪和道他)→ 有田IC →(K他)→ 道の駅:明恵ふるさと館[和歌山県有田川町] →(K他)→ 有田IC →(阪和道)→ 和歌山IC →(R24他)→ 道の駅:青洲の里[和歌山県紀の川市] →(K他)→道の駅:紀の川万葉の里[和歌山県かつらぎ町] →(R24他)→ 道の駅:西かつらぎ[和歌山県かつらぎ町] →(R24他)→ 道の駅:柿の郷くどやま[和歌山県九度山町](泊) 走行255km

 <レポート>

二日間の京都探訪が終わって、今日は一気に和歌山県の有田まで行ってミカンを買う予定である。今回の旅の目的の一つが有田のミカンを買うことなのだ。これはもう自分で食べたいというよりも孫たちに食べさせたいという気持ちが強い。糖尿病の自分には果糖類は要注意なので、ミカンも柿も食べるに際しては計算が必要なのだ。因果な話である。

 毎年12月前後のこの時期になると有田のミカンを思い出し、本場の有田川町にある、道の駅:明恵ふるさと館が目に浮かぶようになる。小さな道の駅なのだが、ここはミカン畑に取り囲まれており、上等な味のミカンが驚くほど安価に手に入るのだ。今回は少し時期が早い感じがするけど、早生種のミカンならばもう終わりかけている頃だろう。必ず手に入ると思いこんでの来訪なのである。

昨日はR161の和邇IC付近に新しく出来た道の駅:妹子の郷に泊った。もう京都へ行く予定はないので、道の駅:びわ湖大橋米プラザには迷惑をかけたくないという気持もあった。でも、新しいものを見たい・知りたいという好奇心の方が強く働いているのかもしれない。妹子の郷というからには何か遣隋使の小野妹子に関係があるに違いないと思ったのだが、やはりそのようで、小野妹子はこの近くの小野という土地に係わりのあった人物とのこと。

この人物のことは歴史のまる暗記だけで、遣隋使といえば小野妹子と覚えているだけで、この人がどんな人物で、その時代にどのような役割や使命を果たしていたかの実態は、知っていること皆無である。遣隋使というからには、往時の朝廷では重要な役割を担っていた人物なのであろう。そう思うだけである。

道の駅の方は、駅舎を挟んで上方が表、下方が裏のような関係で作られていて、自分たちは下方の駐車場を使わせて頂いた。駅舎に行くには、専用のエレバーターが設置されていて、高齢者などにはありがたいことだなと思った。夜中に雨が降ったりして天井は騒がしかったが、快適な一夜を過ごすことが出来て感謝。

さて、その道の駅を出発した後は、湖西道路を走って一路名神道の京都東ICを目指す。今朝の琵琶湖は雨雲の下にあるようだが、間もなく晴れるのであろう、雲が散り始めていた。しばらくこの景色ともさよならである。間もなく京都東ICから高速道に入り、あとはナビの指示するままに幾つかの高速道を乗り換えて、最後に阪和道に入って、トンネルを潜って有田ICで一般道へ。道の駅:明恵ふるさと館に着いたのは11時を少し過ぎた頃だった。

駐車の車も無く人の気配も無い道の駅は、今日は休日なのかと勘違いしたのだが、駅舎の売店は営業していたので安堵した。ミカンもちゃんと販売されており、早速買い入れる。箱買いするよりも袋に入ったものを見つくろった方が変化があって良いように思い、何袋かを選び買い入れる。箱二つ分くらいの量でも一箱分の値段にも至らぬほどの安さである。味の方も勿論満足レベルである。わざわざ遠くからやって来て旅費も掛っているのだけど、そのようなことは一切忘れるほどの嬉しさを覚えた。来年もまた来なくちゃと思った。

ミカンを手に入れた後は、今夜の宿と決めている九度山町にある道の駅:柿の郷くどやまに向かって出発。有田ICから阪和道で和歌山ICで行って降りて、あとは紀の川沿いのR24を走って、紀の川が吉野川と変わる上流近くまで幾つかの道の駅などに寄りながら夕方前には着くようにと考えている。紀の川の両端のエリアは果物などの産地が広がっており、この時期は柿が主流となっている。目指す九度山町も道の駅に柿の郷と名付けているほどだ。柿を手に入れるのも又、今回の旅の目的の一つなのである。

和歌山ICで下りた後は、R24を順調に走り続ける。岩出市というあまり馴染みのない街があるのだが、ここは何だか異常に市街地化している感じがするところで、市のどの辺りを走っているのかよく判らないのだが、R24の両側には幾つものショッピングモールやその他さまざまの販売施設が続いており、給油価格などもかなり安いのに驚かされた。関東に住む者には未知の都市なのだが、関西南部エリアの中では、かなり発展著しい街なのだろうなと思った。少し走って、紀の川市に新しく出来た道の駅:青洲の里という所に寄って見たのだが、ここは駅舎がどれなのかも判らず、物産販売所も閉まっていたので、そのままパスした。

間もなく葛城町に入り、道の駅:紀の川万葉の里に寄り、柿を物色する。柿は九度山の道の駅で求めればいいと思っていたのだが、家内は何か気に入ったらしき柿を見つけて買い入れたようだった。少し休んで、近くに出来た新しい道の駅:かつらぎ西という所へ行って見ることにした。ここは京奈和道のかつらぎ西ICの近くに設けられていて、そこへ行くのに少し迷ったのだが、行って見たら、未だ完全には出来上がっておらず、アンテナショップの様な形で営業されていた。高速道利用者向けの道の駅のようである。

そのあと今日のゴールの九度山町の道の駅へ。今日ここを泊りにと選んだのは、明日九度山町の史跡などを散策しようと考えているからなのである。勿論その中心は、真田昌幸・幸村の一族が暮らした跡であり、先月の越後・信州の旅で訪ねた真田の本拠地に続いて、隠居を余儀なくされたその暮らしの様子などを探って見たいと思っているからなのである。今は開発が進んで柿などの名産地となっているけど、400年前の九度山は山深き人の住み家も疎らな土地だったに違いない。そのような中でどのような暮らしを送っていたのか知りたいと思った。

この道の駅を訪れるのは二度目である。前回は出来たばかりの時だったので、大変な混雑ぶりだった。今回はどうかなとやって来たのだが、大河ドラマ真田丸の影響もあるのか、やはり大変な混みようで駐車スペースを探すのに苦労した。夕方になれば空くだろうと、取り敢えず空いていたスペースに車を留め、しばらく駅舎の中の町の案内情報などに目を通す。資料類の他、大型の写真などで町の歴史を紹介するコーナーもあり、いい勉強になった。その後、物産品売り場も覗いてその盛況ぶりを見て回った。今は柿が旬の時であり、巨大なものから小型のものまで様々なサイズの柿が所狭しと並んでいた。道の駅が盛況なのを見ると嬉しい気分になる。

夕食までには未だ少し時間があるなと思い、車の中で資料などを見ていたら、外で「山本さん、山本さんですか?」と呼ぶ声がした。家内が「は~い」と出て対応すると、どなたなのかご婦人のようで、SUN号の表示を見て声をかけて下さったらしい。自分も外に出て話を交わす。静岡県の方からいらっしゃった方で、自分のブログを読んで下さっており、今日偶然ここへ来て車を見かけ、声をかけられたとのことだった。その後しばらく夕暮れの中での立ち話となった。その方は驚くほど自分のブログをよく読まれて覚えていらっしゃって、それはもう自分以上に内容を知り尽くしているかの如くだった。このような方もいらっしゃるのだと、お話を伺いながら、もっとしっかり書かないといけないなと反省させられた。10数分の短い時間だったが、とても嬉しい、ありがたい時間だった。その方はお名前もおっしゃらずに、これからご主人と次の場所に向けて出発されるとのこと。

この頃は旅に出ると、時々このような僥倖に出会うことがある。何よりも嬉しいのは、まだ一度もお会いしたことがない方とのご縁が、既に出来上がっているのを知らされることである。ネット社会の恵みなのであろうか。世の中の広がりを実感できることは嬉しいことである。人は何もしなければ、自分の回りに何の変化も起こすことはできない。ブログを書き、読んで頂き、その結果が新しい自分の世界を一つ拡げることにつながるというのは、自分が生きている価値を確認できた一つの証のようにも思えるのである。

その方とお別れしてから間もなく、周辺は夕闇に包まれ出し、一気に夜が迫ってきた。さすがの混雑も潮が引くように収まって静かになり、泊りらしき車も数えるほどになった。いつものペースで夕食を済ませ、今夜も早い就寝となる。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

京都他短か旅:第4日

2016-12-01 04:21:54 | くるま旅くらしの話

第4日<11月21日:月> 天気:くもり

 <行程>

の駅:びわ湖大橋米プラザ →(徒歩)→ 堅田駅 →(JR湖西線・奈良線)→ 東福寺駅 →(徒歩)→ 東福寺散策[京都市東山区] →(徒歩)→ 東福寺駅 →(京阪線)→ 祇園四条駅 →(徒歩)→ 建仁寺散策[京都市東山区] →(徒歩)→ 祇園散策・錦市場[京都市東山区・中京区] →(徒歩)→ 四条駅 →(地下鉄)→ 京都駅 →(JR湖西線)→ 堅田駅 →(徒歩)→ 道の駅:びわ湖大橋米プラザ →(R161他)→ 道の駅:妹子の郷[滋賀県大津市] →(R161)→ 比良とぴあ →(R161)→ 道の駅:妹子の郷(泊) 走行29km

 <レポート>

 チャレンジの二回目の日である。今日の予定は先ずは東福寺としている。そのあとは状況を見て相国寺辺りに行ければいいなと思っている。昨日とほぼ同じ時刻に道の駅を出発してJR堅田駅に向かう。行く先は京都駅で乗り換えて奈良線の東福寺駅。京都駅での乗り換えには少し待ち時間があり、ちょっとした旅気分。くるま旅とは違う雰囲気がある。しかしそれも発車までの車内の待ち時間だけで、東福寺駅はたった一駅先なのである。直ぐに着いて、まあ何と狭いホームなのか。危険極まりない感じの駅のホームだった。京阪線とせめぎ合うように狭いホームが錯綜しており、何だか関西らしさを感じたのだった。

 さて、そこから先なのだが、これ又昨日と同じように駅から東福寺まで蟻の行列なのである。道に迷う心配は皆無なのだが、人に悪酔いする心配は無限なのだ。やれやれこりゃあ又大変な時期に大変な場所に来てしまったものだなと、改めてそう思った。今の季節、京都のお寺の紅葉を見るというのが、京都観光の目玉となっているようで、どの案内パンフにもそれらしい写真が溢れている。人々のあこがれは皆同じようで、それが実現すると、このような形で表れるということなのであろう。実のところ、自分としてはあまりそのようなことを考えずに、不用意にやって来てしまったのだが、家内の方はそれが当然と解っていたとのこと。安易に考えていた自分の方に問題があったのかと、ちょっぴり反省する。

     

東福寺駅から東福寺へ向かう人の群れ。所々紅葉も見られるが、まだ10時を少し過ぎたばかりだというのに、帰りの人も多い蟻の行列が続いていた。

 東福寺は昨日の南禅寺や永観堂よりも余裕のない場所だった。というのもここの観光の目玉は、橋の上からの紅葉観賞にあるらしいのだが、何と、その肝心の橋の上からの撮影は禁止されていたのである。しかも通行料400円也を払ってもである。これでは何のためにここに来たのかと、さすがの家内も疑問が怒りに昇華していたようだった。それで、結局橋は入口の無料側だけを通って有料の方は渡らないことにした。紅葉だけを撮るなら、境内にもそれなりのスポットはあるようである。

家内は、実は昨日の永観堂の写真撮影の半分ほどがうっかりカメラの操作ミスで不意にしてしまっているので、今日に期待していたらしいのだが、それが又ダメになってしまってご機嫌斜めなのである。永観堂の方へは、来年また再挑戦するとか息まいていた。

 東福寺は、室町時代に奈良の東大寺と興福寺を凌ぐほどのスケールの大きなお寺を建てることを発願して造られたものであるとか。東福寺という名も、東大寺の東と興福寺の福をとって名付けられたとか。そのようなこともあってなのか、確かにスケールの大きな建造物だった。昨日の南禅寺も大きかったし、それらを比べて云々するなどナンセンスだと思うけど、往古の権力者の見栄というのか、愚かさというのか、そのようなものがこのような遺産につながっているのかと、歴史の正体を見るような気がした。

     

東福寺の巨大な三門。南禅寺も巨大だったが、こちらの方は付近に紅葉はなく、その分近付く人が少ないので、安心できる。

東福寺の観光スポットである橋からの景観の場所を除けば、人混みの度合いも苦痛に耐えられるほどなのだが、それにしても仏像の存在すらも判らず、昨日と同じ疑問は残ったままだった。1時間ほど歩き回って、そのあとは、相国寺に行くのはやめて、京阪線で四条祇園まで行き、そこから歩いて建仁寺を訪ねることにした。建仁寺も五山の一つに数えられている。

建仁寺は良かった。というのも、ここは蟻の行列がなかったからである。紅葉の映えるような場所ではなかったからなのかもしれない。京都に来て、ようやく本物の古寺に巡り合えたような気持になった。下調べもしないままに来てしまったので、とにかく境内とその中に並ぶ建造物だけをしっかり見ることにした。境内の中には、道元禅師が学んだ跡や栄西禅師が中国から持って来られたお茶の記念碑などがあって、歴史の古さを想った。本堂などの中には入らなかったので、仏像の類には一切お目にかかってはいない。今回は下見のつもりでやって来ているので、次回までの課題にしようと思っている。広い境内の中をゆっくりと歩いていると、自然と心を洗われる感じがした。

そのあとは、祇園の一角を通って、錦市場に向かう。祇園は人気が高いのか、外国人の観光客も多くみられ、中国人らしき何人かが奇声のような大きな声を張り上げているのが耳ざわりだった。祇園は観光客とは無縁の場所のような気がするのだが、これはもう致し方ない。

     

昼間の祇園の一角の風景。町屋の風情も闊歩する観光客の足音で消されてしまいそうだ。何だか違うような気になった。

四条大橋を渡って、少し迷いながら錦市場へ。目的は鯖寿司を一本買い求めること。久しぶりの来訪だったが、錦市場も又超混みあった蟻の行列状態で、前に進むのに往生した。ようやく鯖寿司を売っている店を見つけて買い入れる。若狭でとれた鯖を使った鯖寿司は京都の名物の一つなのだろうけど、今の時代は若狭の鯖ではなくノルウエーからのものではないかなと思ったりした。それでも文句などなし。買い入れた後は直ぐに人ゴミを離れて、帰途につくことにしたが、その前に昼食をと探したが、今日も適当な店が見つからず、結局デパートの食堂でようやく食にありつけるという状態だった。田舎者には、京都での昼食の店探しは、どこも行列ばかりで、うんざりの連続だった。

そのあとは、地下鉄に乗り、京都駅まで行って湖西線に乗り換えて、本物の帰途に着く。この二日間の京都の古寺探訪は、下見とはいえ殆ど成果のない空振り続きの時間だった。このチャレンジはやはり失敗だったような気がする。改めてもう一度パーク&ライドのあり方について振り返って考えてみることにしたい。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

京都他短か旅:第3日

2016-12-01 03:38:26 | くるま旅くらしの話

第3日<10月20日:日> 天気: くもり

 <行程>

 道の駅:びわ湖大橋米プラザ →(徒歩)→ JR堅田駅[滋賀県大津市] →(湖西線)→ 京都駅 →(地下鉄)→ 蹴上駅 →(徒歩)→ 南禅寺・永観堂[京都市左京区] →(徒歩)→ 蹴上駅 →(地下鉄)→ 京都駅 →(JR湖西線)→ 堅田駅 →(徒歩)→ 道の駅:びわ湖大橋米プラザ(泊)

 <レポート>

昨夜は真夜中に大声で談笑する若者のグループがあり、安眠を妨害された。若者というのは、グループになると自分たちのことしか見えなくなり、傍若無人な振る舞いをする奴が多い(ま、老人でも同じなのだが)。夜中にこのような振る舞いをする奴らは、スポーツカーなどの高級車を乗り回す者が多く、エンジン音も高くて、真に迷惑だ。何とか排除する手立てはないものかなどと思ってしまう。これが江戸時代ならば、無言で刀の峰打ちでもくれてやれるものをと、眠りはぐれた老人の陳腐な発想が頭を駆け巡る。

朝になった。今日は車を離れて他の交通手段による小さな旅、すなわち京都の古寺巡りへのチャレンジの初日である。今までずっと京都の表の顔を訪ねることをして来なかった。くるま旅を始める前までは、それなりに古都京都を訪ねてはいたのだが、その後くるま旅が本格化すると、京都に関しては、裏の方(丹波や日本海側)にばかり気持が動いて、表を敬遠するようになってしまった。というのも、表側の京都は、すっかり観光都市化してしまい、それに少し図体の大きいSUN号を留める駐車場が少なく、又あっても料金は高いし加えて拝観料とやらもしっかり徴収されるので、何だかバカバカしくなって敬遠していたのである。

しかし、裏ばかりでは、やはり京都の正体はつかめない。ま、そんな大げさなことではなくても、表裏一体ということばがある如く、ものごとは何事も全体を見てそれが何かが解るのであり、偏っていては解らないのである。それで、この頃はやはり京都の表を少しずつで良いから見てみることにしたのだ。そして、その方法として、いわゆるパーク&ライドというのにチャレンジしてみることにしたのである。いろいろ調べた結果、先ずはパークについては、道の駅:びわ湖大橋米プラザを使わせて頂こうと思った。ライドの方は、JR湖西線をベースに私鉄や地下鉄などを活用することにした。これならば京都市内の狭いエリアでの駐車の問題にも関わらないで済む。

ということで、道の駅を訪れたのだが、一つ問題があった。どうやらこの道の駅では、そのようなパークの仕方を歓迎していないようなのだ。ま、日中の一般の来訪者を優先させるのは当然であり、あまりメリットのない滞在者には遠慮して貰いたいというのは、今の世の常識なのであろう。それで、先ずは昨日、長時間滞在の実態をそれとなく調べてみたのだが、確かに何台かそれらしい車が見受けられ、中には放置されていると思しきものもあるように思えた。しかし、この道の駅の駐車場が満車になるというのは格別のイベントでもない限りは滅多にないようにも思え、今回はとにかくトライしたいので、目立たない第2駐車場の方へ車を置かせて貰い、チャレンジさせて頂いた次第である。

本当は、これほど遠い道の駅ではなく、もっと京都市内に近い場所にパーク&ライドの可能な施設が造られていたら、くるま旅も内容が充実するのになと思った。自分の知る限りでは、今までそのようなことが出来たのは長崎市だけだった。現代の車社会のこのようなインフラの貧困は、観光立国などを標榜する国家の大いなる怠慢ではないかと自分は思っている。

前置きが長くなったが、先ずは道の駅を8時半ごろ出発して、徒歩でJR湖西線の堅田駅に向かう。家内の足が遅いので25分くらいかかったが、文句は言わない。急がせて脱落されるよりはましだからである。この日は朝から霧が深くて、既に発車していたはずの電車が遅れてやって来て、直ぐに乗ることが出来た。30分ほど立ちながら揺られて京都の駅に着く。

そうそう、今日の予定は、南禅寺とその脇にある永観堂禅林寺の探訪である。これは家内の要望を優先させて決めたことである。これらの後、余裕があれば他のお寺さんを見ることにしている。古寺巡りの初めは、京都五山の古刹の探訪と決めているのだが、南禅寺は五山の別格の存在であり、いわば最上位ということなのであろうか。仏様に上下関係があるというのは、釈迦の教えとは無関係のような気がするのだが、坊さまも人間なので、そのような位などという位置づけが好きなのであろうか。ま、とにかく、家内は何よりも永観堂の紅葉の景観にあこがれているようである。

京都駅から地下鉄に乗り、烏丸御池で東西線に乗り換えて蹴上駅で下車。わけのわからない階段の続く地下道を歩いて、ようやく外に出て、さて、どちらの方へ行ったものかと思案する隙も無く、とにかく物凄い人の行列が続いているので、その流れに乗って少し行くと、どうやらそれが南禅寺に向かっているらしい。レンガ風の短いトンネルを潜ってしばらく行くと金地院という掲額のようなものがあった。南禅寺は近いらしい。その蟻の行列に流されていると、間もなく南禅寺の三門が見えた。石川五右衛門が気取って、「絶景かな!」とか叫んだあの門である。高所恐怖症なので上にあがることは止めたが、確かに往時は五右衛門さんの言う通り、都が見渡せたのかもしれない。巨大な建築物だなと思った。その傍に南禅寺の本堂らしきものがあり、これ又巨大な建造物だった。よくもまあこのようなものを造ったものだなと呆れ返るほどである。

     

南禅寺三門辺りの紅葉。とにかくものすごい人混みなので、落ち着いた雰囲気の写真が撮れるような場所は皆無だった。けれども紅葉の方は文句なく美しい。

ここいら辺で少し人の列から離れ、写真などを撮る。奥の方にレンガ造りらしき水道施設が見え、あれが京都(琵琶湖)疏水の名残りかとそれを見に行く。お寺さんよりはかなり新しいものなのだろうが、何だか同じ時代に造られた遺構のような感じがした。人の波はここにも押し寄せて来ており、もはやどうあがいてもこれからは逃れられないのだということを次第に観念するようになった。京都の観光の正体を見たような気持が次第に強くなってきた。境内にあるモミジの紅葉は写真の中では人混みから離れて静かさを装っているけど、モミジの下は人いきれが溢れているのである。

流れのままに少し離れた永観堂禅林寺へ。ここは南禅寺よりはかなり狭い境内とあって、人の混み具合は危険と裏合わせになっている感じがするほどだった。もはや入口付近の紅葉を見ただけで、中に入る気は失せて、自分は別の場所を歩くことにした。家内の方はあこがれの永観堂はこれからだと、人混みの多さなどにめげずに、カメラを抱えて中に入って行った。大したもんだなと思った。

     

永観堂の入口あたりの紅葉の様子。周辺は南禅寺以上の人の群れなのだが、この紅葉は人が入れない場所を覗いて撮ったものなので、そこの静けさも一緒に収まっている感がする。

そのあとは、家内が満足して戻るまで自分の方は、周辺の町屋の路地などを歩き廻る。蟻の行列を外れて一本細道に入れば、そこには普段の京都の人たちの暮らしが潜んでいる。今日は休日なので、家の中で寛いでおられるのかもしれない。人混みとは別世界の静けさが横たわっていた。路地のような通りを歩いている内に次第に気持も落ち着いてきた。小一時間ほど歩き回って、疲れたので永観堂の入口付近の脇道にある置き石に腰かけて休むことにした。モミジの赤い落ち葉の向こうに、ツワ蕗が澄んだ黄色い花を咲かせていた。静けさと本物の京都がそこにだけしっかり宿っている感じがした。

     

人混みの蟻の行列の続く南禅寺界隈も、一本筋を離れて歩けば、そこには普段の暮らしの静けさが横たわっており、安堵をおぼえる。

しばらく待って、家内はどうなっているのかと電話をすることにした。どうやら写真の方も終ったらしく、戻るとのこと。間もなく出口付近で一緒になって、もう今日はこれで終わりにしようということになり、蹴上駅の方に向かう。水分補給をしようにもそれを手に入れることもできなかった家内は、ようやく駅近くの自動販売機を見つけて、念願がかなったようである。本物の蟻の行列の中の蟻君たちは、やはり同じように水分補給もできずに歩き続けているのだろうか。ふと、そんなことを想ったりした。

その後、昼食をと店を探したのだが、近くに見当たらず、それでは京都駅まで行けば何とかなるだろうと、地下街に行ったのだが、どの店も行列ばかりで、もはやうんざりしてしまい、結局デパ地下で弁当を買い、湖西線の電車の中での行楽弁当となった次第。いやはや呆れ返るばかりの古寺観光となってしまった。考えてみれば、仏像一つ見たわけでもなく、参詣と言いながらも一度も手を合わせることも、心経を念ずることも無く、ただあれよあれよと人の波にまぎれ漂っただけの古寺探訪だった。

ところで、この日には不幸なエピソードが一つ生まれた。それは、車に戻って、今日撮った写真をパソコンに記録したのだが、何と家内の撮ったあこがれの永観堂での写真の3分の2程度が真っ黒なのである。何かの間違いなのだろうかといろいろやって見たのだが、ダメなのだ。冷静になった家内の話では、どうやら撮影の途中で、何かのボタンを操作したらしく、その修正を忘れたまま写真を撮り続けたらしい。相当に思いを込めて撮ったものもあったらしく、まあ悔しがることしきりだった。来年、もう一度リベンジに来ることを誓って、とにかく今年の分は諦めることとなった次第。これもまた蟻の行列の犠牲なのかもしれない。とにかく正気の沙汰でない観光実態なのである。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

京都他短か旅:まえおき&第1日・第2日

2016-11-29 06:12:56 | くるま旅くらしの話

 <まえおき>

今月の18日から25日まで、京都他の短い旅をしてきました。報告するほどの内容も無いのですが、新しい試みもあり、取り敢えず概要だけでもお知らせしておくことにします。

今回は思いつきの旅というほどのもので、その目的が3つあって、かなりいい加減なものなのです。

目的のその1は、SUN号のサブバッテリーがたった2年で二つともダメになり、やむなく交換したのですが、それがちゃんと働くのかを見極めたいということ。

その2は、ついでに京都の裏ばかり見ていないで、そろそろ表側の探訪も開始したいと考え、その方法としてパーク&ライドで京都探訪にチャレンジしてみょうと思ったこと。

その3は、更についでのことなのですが、関西エリアのミカンや柿の里を訪ねて新鮮な果物を手に入れて来ようと考えた次第なのです。

ということで、1週間ほどの短い旅をしてきました。このところ何だか天の機嫌が悪くて、気持よく晴れた日が殆ど無く、曇天に雨が加わるという、カメラ向きではない日々の連続でした。足かけ8日間の行程の半分は移動の時間であり、関西といえども旅らしき旅をするにはやはり1ヶ月くらいの時間は必要だなと、改めて思いました。では、以下にその行程概要・所感などをいつものスタイルで紹介させて頂きます。(馬骨拝)

 

第1日<11月18日:金> 天気: 晴れ

 <行程>

自宅 → 谷和原IC →(常磐道・首都高・東名道)→ 海老名SA →(東名道・新東名道)→ 清水PA →(新東名道)→ 浜松SA(泊) 走行:286km

 <レポート>

守谷市の市長と市議補欠選の不在投票を済ませてからの出発となった。天気は朝から快晴で車の中は暑さを感ずるほどだった。

最初から高速道の運転となる。しかし、常磐道から首都高の三郷エリアに入ると渋滞が始まり、箱崎付近までノロノロ運転が続いた。その後渋滞は解消したが、渋谷付近で再びノロノロ運転となり、首都高を脱出するのはやはり難儀だなと思った。

東名に入ってからは流れは順調で、集中工事も今年は既に完了しているとかで、何の問題も無い。最初のSAの海老名で昼食休憩をする。生姜焼き定食を食べる。そのあとも流れは順調で、御殿場へ。ここから新東名道に入り、清水PAにてトイレ休憩。このPAはSA並みのレベルの規模なのに驚かされる。

そのあとはしばらく快調に走って、浜松SAに到着。今日の宿はここと決める。浜松餃子を買って来て夕食はその他に豆腐だけ。酒類は販売されておらず、手に入らなくて残念。大相撲を見た後は早々に寝床の中に。これで今日は終わり。

 

第2日<11月19日:土> 天気:雨のち曇り

 <行程>

浜松SA →(新東名道)→ 岡崎IC →(新東名道・伊勢湾岸道) → 刈谷HO(ハイウエイオアシス) →(伊勢湾岸道・新名神道)→ 東員IC →(R365・R1)→ 道の駅:関宿[三重県亀山市]→(R1)→ 道の駅:あいの土山[滋賀県甲賀市] →(R1・k)→ 道の駅:アグリの郷りっとう[滋賀県栗東市] →(K他・琵琶湖大橋経由)→ 道の駅:びわ湖大橋米プラザ[滋賀県大津市] →(K・R161) → 比良とぴあ♨ [滋賀県大津市]→(R161他)→ 道の駅:びわ湖大橋米プラザ(泊) 走行265km

 <レポート>

昨夜半から降り出した雨は次第に強さを増し、明け方はかなりの大雨の様相を来していた。それでも8時近くなると次第に小降りとなり、高速走行にも安堵感が出て来た。しかし、空模様は依然として厳しかった。8時15分にSAを出発する。今朝のSAは満車に近い状態で、新東名道のSAは、どこも泊りや立ち寄りの車で一杯だった。少し走って、岡崎SAに寄って見たのだが、ここも超満員に近くて、トイレまでの距離もかなりあり、休憩は止めにして直ぐに出発する。

そのあとは順調な流れで、雨も止み空もかなり明るくなってきた。大して風も吹いていないようなので、この分なら伊勢湾道も大丈夫だろうと思った。新東名道は伊勢湾岸道へは東名道を回らなくても直接伊勢湾岸道に行けるようになっており、大分時間的にも楽になっていた。 

伊勢湾岸道に入ってすぐに刈谷HOに寄る。ここで伊勢のういろうと名古屋のえびせんべいを買い入れる。この頃から再び空の様子が悪化し出し、雨が降り出した。出発後は湾岸道を只管四日市方面へ。途中、名古屋港には車を満載した巨大なコンテナ船が何隻も停泊しているのが見えた。名古屋の工業力・経済力の底力のようなものを感じさせる景観である。まるで夕方のような暗さの道をしばらく走って、間もなく東名阪道へのJCTにかかる。ここで新名神道の看板がある道があり、もうつながったのかと勘違いして、東名阪道へ行くのをためらいつつ、そのままその新しい道に入ってしまった。これは大失敗で、少し走ると道は工事中であり、四日市郊外の名も知らぬ場所が終点となってしまっていた。仕方がないのでR356という表示のある道を四日市市街の方に向かって走り、R1を目指すことにした。

 R356は、初めのころは田舎道のようで、給油スタンドも無く流れも順調だったのだが、市街が近づくにつれて渋滞が始まり、それがかなり長い時間続いた。少なくなってきた油を途中のスタンドに寄り給油する。高速道のスタンドよりはリッター当り20円以上安い価格で入れることが出来たのは、まさに怪我の功名か。やがてようやくR1に出て、ここから流れは順調となった。鈴鹿、亀山に入り、間もなく道の駅:関宿に着く。ここで小休止。昼食をと考えたが、環境が良くない(トイレの臭いが漂ってくる)ので取り止め、先にある道の駅:あいの土山に向かう。ところが行って見ると此処は駐車場が超満車で留める場所が皆無の状態。諦めて道の駅:アグリの郷りっとうまで行って昼食にすることにした。

13時半近くに道の駅:アグリの郷りっとうに到着する。新幹線が直ぐ近くを走る道の駅である。ここもかなりの混雑ぶりだったが、どうにか駐車を確保することが出来た。昼食はうどん。昨日作っておいた栃尾のあぶらあげの煮たのを入れて、きつねうどんとしたのだが、やはりこのあぶらあげは不向きのようで、邦子どのは食べるのを断念したようだった。自分の方はそのような食のムダは一切しないで完食する。ここには近江の名物のフナの熟れずしが売っているのだが、今日は止めにした。一休みの後、出発して琵琶湖大橋経由で道の駅:びわ湖大橋米プラザに向かう。

間もなく到着する。ここが今回の京都探訪の拠点となる場所だ。どこへ車を置いておけばよいのか等についての下見を行う。第2駐車場もありどちらが良いのか迷う。長時間駐車お断りの看板もあり、明日は日曜休日であることを考えると、やはり第2駐車場へ留めるべきなのか。明日には決断しなければならない。下見のついでに売店で近江の地酒を一本買い入れる。高島産の地酒で、萩の露という銘柄だった。今夜から楽しむことにした。

そのあとは、温泉に入ることにして比良トピアに向かう。この温泉施設は、以前もお世話になっており、既知の場所でもある。距離は少しあるのだが、湖西バイパスを通れば時間的には15分ほどで行ける場所だ。15時半過ぎに到着して温泉を楽しむ。ここは70歳以上の人には料金が割引となっており、我々高齢者には真にありがたい。そのことに感謝しながら入浴を終え、来た道を戻って、今夜の泊り予定の道の駅:びわ湖大橋米プラザに到着する。駐車場はまだかなりの混雑ぶりだった。何時ものように早い夕食を済ませ、早い就寝となる。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

越後・信濃路の旅:第8日(最終回)

2016-11-17 03:54:55 | くるま旅くらしの話

第8日<10月22日:土> 天気: 晴れ後曇り

 <行程>

道の駅:道の駅:あがつま峡→(R145他)→道の駅:中山盆地[群馬県吾妻郡高山村]→(R145・R291)→沼田城址散策[沼田市西倉内町]→(R120)→(金精峠経由)→(R120・R119・R293)→(R293・K)→道の駅:はが[栃木県芳賀郡芳賀町](泊) 走行199km

 <レポート>

 吾妻峡の情景

 新しい道の駅には新しい匂いがする。道の駅:あがつま峡にはそのような雰囲気が漂っていた。昨日15時過ぎに此処に着いてから、ゆっくりと温泉に浸った。この道の駅には日帰り温泉施設があって、天狗の湯との名前が付けられていた。道の駅の物産販売所の名前も天狗となっており、この地は何か天狗というのに所縁があるのかもしれないなと思った。詳しい詮索は止める。

     

新しい道の駅:あがつま峡の景観。芝生の広場の向こうに見える建物の右手は天狗の湯。左は物産販売所てんぐ。山間地の中にこれだけの平地を確保するのはなかなか難しいことだったと思う。

 朝起きて、しばらく道の駅の周辺を散策する。この道の駅は直ぐ下を流れる吾妻川の上にあって、かなりの広さがある。駐車場の他にドッグランのスペースを含めた広場があって、子どもたちも遊べるような遊具も幾つか並んでいた。孫たちを連れてきたらさぞ喜ぶだろうなと思った。この辺りは吾妻峡の入口に当るのであろうか、直ぐの上方には、八ッ場ダムが完成した暁には湖底に沈む(?)ことになるという川原湯温泉が近い。一体どのような景色になるのだろうかと思ったりした。

 沼田城址を訪ねる

 先日その場所を探しあぐねて探訪を断念した沼田城跡をもう一度訪ねることにした。ここまで来れば沼田は近いのだ。中之条町から国道145号線を辿れば、沼田に出ることが出来るのである。この国道は日本ロマンチック街道などとも呼ばれているのだけど、ドイツのロマンチック街道というのになぞらえて名付けられたようだが、本場のそれを通ったことがないので、何がロマンチックなのかはさっぱり解らない。

 旅をしていて、訪ね先が見つからないというのは、何といっても屈辱感が否めない。くるま旅の場合は、どうしても駐車場に拘らざるを得ないので、この屈辱を味わわざるを得ないこととなる。沼田城跡は今は公園となっているというので、先日は軽い気持ちで行ったのだが、見事空振りとなってしまった。今回は先日辿ったのとは違う別の道を行こうと思っている

 沼田の街が近づいて、しばらく先日と同じ道を行ったのだが、途中から誘惑に負けずに、頑固に思った道を行くことに決めて進む。何やら曲がりの多い道をしばらく辿っていたら、沼田公園の入口近くにある駐車場に着くことが出来た。どうってことないほどあっけない感じの到着だった。先日のあのギブアップは何だったのかと呆れ返る思いがした。

 駐車場に車を入れて、今は公園となっている城跡を散策する。真田昌幸やその一族があれほどこだわった沼田城というのはどんなものだったのか、そのような想いを膨らませながらの散策だった。しかし、もう幾つも真田家に係わりのある城を見て来たせいなのか、感動は薄かった。というのも、名胡桃城から始まって、松代城、上田城、小諸城と見て来たのだが、松代城を除けば皆同じような立地形状の場所に建てられているからである。この沼田城も下方に利根川の流れる急崖の上に造られており、戦国時代の戦のニーズに巧みに応える工夫がされた城郭となっていた。現在の城跡の様子は、うっかりすると急崖の上にあることなど忘れてしまうほどの、健康的な公園広場となっていおり、戦の厳しさを偲ぶものなど皆無という感じだった。しばらく、地元の人たちがジョギングしたり、散策している中を歩いた。沼田城の印象は思っていたよりも小さなものだった。

     

沼田城址公園の本丸辺りの景観。ここには天守閣も櫓も何も残っていない。明治の初めの頃の対応が不足していたのかもしれない。残念なことである。

 

 日光の秋探訪は先送り

沼田城跡の探訪を終えた後は、予定では関越道に入って帰途につくことにしていたのだが、一日帰宅を延ばして、ここから山越えで日光に出て、栃木県の北を通る国道294号線経由で帰ることにした。沼田市のメイン市街地は崖の上の丘にある。日光へはその丘の上を走る国道120号線を行くことになる。あの有名な尾瀬の入口に向かう道でもある。その入り口のある片品村の方へ向かってしばらく走ると、吹き割の滝というのがある。東洋のナイヤガラなどと書かれた看板があるけど、ナイヤガラには遠く及ばす、東洋にはもっとスケールの大きな滝も幾つもあるだろうと思いながら傍を通り過ぎた。吹割の滝はもう何度か訪れている。

 道は尾瀬の入口を過ぎて、次第に高度を増す。栃木県との県境の金精峠を越えれば、あとは下りとなり奥日光へと向かうことになるのだが、金精峠の少し手前には丸沼高原というのがあり、ここは標高が1500mほどはあるのだろうか、かなり紅葉も進んで目立つようになっていた。道の脇にスキー場があり、多くの車や観光バスが駐車場を埋めていた。リフトもフル回転しているようで、スキー場には未だ雪は積もってはいなかったが、草の上をスキーを履いて滑っている人たちが何人か見られた。ここでしばらく昼食休憩とする。

     

丸沼高原スキー場の景観。この辺りは高地とあってか、四辺の山も紅葉が始まっていた。

     

紅葉の中に身を沈めて暫しの休息をむさぼる我が愛車SUN号。早やオッドメーターは21万キロを突破している。

 実はこの道を通ることにしたのは、日光の紅葉を見て帰りたいと思ったからなのである。特に期待しているのは竜頭の滝なのだが、さてどんなものだろう。この辺りとさほど変わらないように思うのだが、山奥の気候は判らない。昼食の後、金精峠に向かう。峠の下にあるトンネルを潜ると、今までの山道の景観が一変して、奥日光の山々を俯瞰しながら下る道となった。幾重にも曲がりの続く道は、運転にもかなり気を使う。対向車が少ないのが救いでもある。しばらく坂を下り続けて、中禅寺湖が近くなりだした。間もなく竜頭の滝の上部にある駐車場に来たのだが、超満車の状態で全く止める余地なし。下の方へ行けば何とか車を置けそうな場所があるのではないかと思いながら下ったのだが、目ぼしい場所は全て車で埋め尽くされていて、全くのお手上げ状態だった。もうやむを得ない、竜頭の滝は断念する。それに思ったほど紅葉は進んでおらず、10日ほど早い感じもした。

 そのあとは観光地日光の大渋滞に巻き込まれる。中禅寺湖畔の道路はどこまで行ってもノロノロの大渋滞で、せっかち性分の自分には大迷惑だった。それにしても日光というのは凄い集客力を持っている大自然なのだなと思った。東照宮などの観光地は下方の街の方にあるのだが、中禅寺湖から上は大自然しかない。偶々今日は土曜休日とあって、家族連れなどのマイカーが多かったのかもしれない。紅葉を見るのなら、自分たちのような気まぐれ気分での来訪は許される筈も無く、予め計算した予定を立てて来なければ無理なのだというのを思い知らされたのだった。

 この日は栃木県の芳賀町まで足を伸ばし、そこの道の駅で今回の旅の最後の夜を迎える。

註:旅は翌日を持って終了しましたが、今回の旅のブログへの投稿は今回をもって終わることにします。馬骨拝)

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

越後・信濃路の旅:第7日

2016-11-16 10:51:05 | くるま旅くらしの話

第7日<10月21日:金> 天気: 晴れ

 <行程>

道の駅:みまき →(K)→ 布引観音参詣[小諸市大久保] →(K・R141)→小諸宿・小諸城址懐古園散策[小諸市丁] →(R141・R18・R146・R145)→ 道の駅:八ッ場ふるさと館[群馬県吾妻郡長野原町] →(R145)→ 道の駅:あがつま峡[群馬県吾妻郡東吾妻町] (泊)  走行68km

 <レポート>

 布引観音を訪ねる

旅も終りに近づいている。今日は先ず、直ぐ近くにある布引観音(布引山釈尊寺)を訪ねるつもりでいる。この道の駅には何回か泊っているのだけど、近くに布引観音があるのは知っていても未だ行ったことがなかった。良く牛にひかれて善光寺参りということばを聞くけど、それが何に由来しているのかをきちんと知っている人は少ないように思う。布引観音は、その善光寺参りに深く係わるお寺なのである。

 その牛にひかれて善光寺参りのいわれというのは、次のようなことらしい。参道の入り口に小諸市の掲げる詳しい説明板があった。

「昔、信心のうすい老婆が住んでおりました。この老婆が千曲川で布を晒しておりますと、どこからともなく一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。老婆は驚いて、野を越え、山越え、牛の後を追いかけましたが、ふと気がついてみますと、善光寺の境内まで来ておりました。老婆は、やっとのことで牛に追いついたのかと思ったのもつかの間、牛は金堂のあたりで姿を消してしまったのではありませんか。驚きと悲しみに疲れ果てた老婆は、あっけにとられてその場にたたずんでしまいました。日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明がさし、その霊光の尊さに思わずひざまずいて、菩提心を起こし、一夜を金堂にこもって罪悪を詫び家に帰ってまいりました。ある日のこと、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹きつけられているではありませんか。老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが、断崖絶壁のことで取るすべはありません。一心不乱に念じているうち、布と共に石と化してしまったということです。この布引山の断崖には、今も白く布の形をした岩肌が眺められます。布引観世音菩薩が、牛に化して信心うすい老婆を善光寺阿弥陀如来の許(もと)に導いて教化をしたのだそうです。この話は、信濃四大伝説の一つとして今に語り伝えられています。 小諸市」

 かなり長い説明内容だったが、一応全文を掲載することにした。良く読み考えると、何だか変だなと思う箇所が幾つかあるけど、まあ、それは措くこととしたい。

道の駅を出て10分足らずで布引観音下の駐車場に着いた。早い時間帯の所為か、参拝者は他にいないようだった。車を置いて早速参道へ。かなり急な坂道である。直ぐ上にお寺さんがあるのかと思って、歩き出したのだが、これがとんもない長い急崖を登る参道だったのである。

歩き始めると間もなく巨岩が現れ、それは馬岩と名付けられていた。しかしその形が馬なのかどうかは判らない。群盲象を撫でると同じですぐ傍からでは、ものの正体は判らないのである。とにかく巨岩の連続だった。また巨岩の間には、善光寺穴などというのがあり、この穴は善光寺とつながっているのだという。そんなことがあるわけがない、と考えるのは信心のない証拠なのだろうけど、科学的にはあり得ないことも、信心の世界では不可能はないのだろうなと思ったりした。

 なかなかお寺の建物が見えて来ない。急な坂道が続いているので、姿の見えなくなっている家内は大丈夫かと少し心配になった。しばらく待っていると、カメラを動かしているのが見えて来たので、安堵した。この人はカメラを抱えている時は、傍に被写体がある限りは別人パワーを発揮するのである。岩など撮ってもしょうがないのではと思ったりしたが、意外性のある写真も彼女の得意分野なので、何か気付いているのかもしれない。

更にに登って行くと少し古びた山門が現れ、その右手彼方の崖の上に朱色に輝くお堂が見えて来た。とんでもない崖の上に建てられており、その危険度は清水寺以上に思えた。少し上り歩いて、ようやくお寺の本堂に達した。布引山釈尊寺である。布引山という掲額が目立った。本堂自体はそれほど古さの感ぜられない建物だったが、その奥にある朱色の建物とその手前にある小さな社には古さを感じさせるものがあった。

     

布引山釈迦寺本堂の奥の方にある観音堂の景観。岸壁に張り付いたように建てられているその様子は独特の雰囲気がある。

何といってもここでは朱色の建物が印象深い。岩をくりぬいた参道を潜ってその朱色の建物に参詣する。これは宮殿(観音堂)というのが呼び名であり、国の重要文化財に指定されているとのこと。この宮殿の脇辺りに老婆の求めた布が引っ掛かっていたのであろうか。如何に信心が薄かったとはいえ、仏さまのいじわるも度を越しているのではないかなどと思ったりした。

宮殿に行く手前に古い小さな社が建っており、これは白山社というもので、室町時代の建立で今日に残るものだという。小さいので見落としがちだが、良く見れば、素朴だけどなかなかの貫禄ある建物だった。本物というのは、存外このような存在を言うのかもしれない。白山信仰のシンボルが何故ここにあるのかは解らない。

参詣を終えた後は、ゆっくりと参道を下って車に戻る。一つ気づいたことがある。それは、この布引山釈迦寺の上方に、御牧ケ原というのがあり、平安時代に朝廷直轄の官牧だったとのこと。朝廷に献上する馬を飼っていたという。そういえば昨日泊った道の駅は「みまき」という名前だった。みまきとは即ち御牧であり、現在の東御市は東部町と北御牧村が合併してできた市であり、それらはこの御牧ケ原に由来した地名なのだと思う。今その御牧ケ原はどうなっているのかは知らない。姿は変わり、名称だけが残っているのであろう。一つ勉強になった。

 小諸宿と小諸城址

 小諸市を訪ねるのは初めてのことである。勿論ここも名前は昔から知っており、何度も街中を通る道を通過しているのだけど、車を止めて町中を散策したことは一度も無かったのである。今回は街道を行くのも一つの目的だったので、北国街道の起点である小諸宿を少し歩いてみようと思った。小諸宿は中山道の追分から別れた北国街道第一番目の宿場町である。今でも多少は往時の姿を残しているのではないかと思った。

ということで、小諸の散策は先ずはJR小諸駅に行き、往古の宿場町の今の様子を訪ねて見ることにした。小諸駅はR小海線の終点だが、そこから先は上田の方に向かって、しなの鉄道が路線を経営している。この関係はよく解らない。

小諸駅の北口前から、上りの坂道通りを少し歩くと荒町という交差点に当り、その信号を左右に行く道が昔の北国街道だったということである。それでしばらく右手の方へ道なりに歩いてみることにした。所々に往時の様子を解説した説明板が設置されていた。しかし、現実の建造物からはその昔の宿場町の面影を偲ぶのは困難だった。車社会となっている今の世では往時の賑わいは消え去り、いわゆるシャッター通りと化しつつある危うさを覚えるのみだった。通りの中に創業300年を超える味噌など醸造業を営む店があり、そこで作られている味噌を購入した。信州味噌は有名だが、どこが本場なのかはよく知らない。あとで小諸宿の味を味わいたいと思った。

     

北国街道小諸宿の現在の様子。往時の面影を残すものはほとんど残っていないように思えた。

 ところで、小諸で思い出すのは、何といっても島崎藤村の、あの千曲川旅情の歌であろう。
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ 
緑なすはこべは萌えず 若草も藉(し)くによしなし 
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る ‥‥‥」

若かりし頃に口ずさんだ詩であり、あの頃は小諸の古城とはどんな所なのだろうかと、想い描いたのを思い出す。藤村がどうして小諸なのかを良く知らなかったのだが、此処へ来て懐古園の脇の駐車場に車を置いて散策を開始して間もなく、公園の傍に「小諸義塾記念館」というのがあるのを知り、若き日の藤村がここへ教師として招かれていたのを知った。建物の脇に「惜別の歌」の石碑が建っていた。我が愛唱歌の一つである。

 懐古園というのは小諸城の跡地に造られた公園である。下方に千曲川を望む急崖があり、上田城に似たかなりスケールの大きな城だったようだ。徳川秀忠が大軍を引き連れて関ヶ原の戦いに参戦するために、上田城に拠る真田勢と戦った際の本隊が滞在したのがこの城だったとのこと。しかし、上田城を攻めた徳川勢は一敗地にまみれ、そのために関ヶ原の戦に遅れた秀忠は、家康の叱りを蒙ることとなった話は有名である。ま、この城が直接の戦場とはならなかったのは幸いだった。

 城に関わる残存の建物としては、門の遺構が二つ残っているだけだった。一つは懐古園の入口近くにある三の門と少し離れた場所にある大手門である。双方共に建物の方はそれほど古いようには思えず、見る目を変えて思いを膨らませないと往時はなかなか描きにくいなと思った。

     

小諸城三の門の景観。これは城址の入口にあって、やや目立つ存在だった。

     

小諸城大手門。これは懐古園からは少し離れた一般民家のの中に残っていた。移築されたのかどうかは分からない。

 懐古園の中に入る前に昼食に蕎麦でも食べようかと店に入って、オーダーをして出来上がるのを待っている時に事件が発生。家内が体調が悪いので食事は止めて休みたいと言い出す。どうやら布引山に続いて宿場町を歩き回ったので、体力の上限まで行ってしまったらしいのである。このようなことは間々起こることであり、致し方なし。蕎麦はキャンセルして、一人車に戻って休んで貰うことにした。最初から別行動であれば彼女もコントロールが出来るのであろうけど、今日の場合は成り行きから行ってやむを得ない。一人で美味い信州の蕎麦を食して、そのあとは懐古園に入るの止めて、一人城跡周辺をぶらぶらと歩き回った。懐古園は今度再訪した時にじっくりと散策するしようと決めた。小諸は半分も見聞していない場所となった。

八ッ場ダム周辺の中秋の表情

 小諸を出た後は、予定では佐久の方を経由して下仁田に抜けて明日には帰宅することにしているのだが、もう一日帰宅予定を延ばして,軽井沢から長野原町の方へ抜けて、新しく出来た道の駅:あがつま峡に泊り、翌日もう一度沼田城跡探訪にチャレンジしてから帰ろうということにした。家内の体調も一眠りした後では、かなり回復したようである。

 国道18号線から軽井沢で国道146号線に入り、山中の道を長野原町の方へ進む。軽井沢は長野県なのか群馬県なのか迷うことがある。いわゆる軽井沢町は長野県なのだが、北軽井沢といわれるエリアは長野原町に属し、これは群馬県なのである。そのようなことはどうでもいいことなのだが、なぜか気になるのは、子どもの頃から地図に関心があるからなのかもしれない。軽井沢の別荘地帯の脇の坂を上って行くと、次第に道脇の樹木たちの表情が変わり出した。途中で見事に高揚している山モミジやカエデの木を見つけて、しばらく車を止めて秋を味わう。尚走り続けてやがて長い下り坂となる。この辺りは高原野菜の産地でもあり、道脇に大根やキャベツなどの店があるのだが、今年は心なしかそれらの店が殆ど見られなかった。やはり天候異変の影響で、野菜類はこの地でも不作だったのであろうか。少しさびしい思いがした。

 間もなく八ッ場ダム建設予定地近くに至る。八ッ場ダムの建設については、いろいろな経緯があって、一時は中止となったかと思っていたのだが、どうやら工事を継続することになったようで、今も何やら作業が行われているようなのだが、その現場がどこにあるのかは知らないのである。それほどスケールの大きいダムなのかもしれない。数年前にこの近くに道の駅:八ッ場ふるさと館というのが造られており、何回か寄ったことがあるのだが、今回もそこを覗いて見ることにした。

 ところで「八ッ場」と書いて「やんば」と読むのは珍しいし、難しい。何故このような読み方、書き方をするのかは解らないけど、地名には今の感覚では不可解な場所に時々お目にかかる。北海道の場合は、殆どがアイヌの人たちが呼んでいた地名に当て字をしているので、これはもういい加減としか言いようがないけど、内地においては八ッ場は珍しい方ではないか。古来その土地では八ッ場に係わる何かがあったに違いないのだが、解らない。ダムの開発が決まって以来おなじみの呼称となっているので、今頃はあまり迷うことも無く読めるようになった。地名とはそのようなものなのかもしれない。

 ところで、この辺りは名勝吾妻渓谷の真ん中辺りに位置する。吾妻川が山々を縫って深い谷をつくって流れているのだが、昔は下から見上げた景色が、今は反対に上から見下ろすという形になっている。道の駅はそのような場所に造られており、景色を俯瞰する場所としても人気があるようだ。今はまだ紅葉が本格化していないので、所々の紅葉の樹木が目立つだけなのだが、もう少し過ぎるとこの辺りは全山紅葉が見事な場所だ。前回訪れた時は丁度その全山紅葉がまっ盛りだった。山全体が燃える色に染まった姿は、この年の一年の最後の締めくくりのような感じがして、何とも言えない感動が伝わってくる。一本の樹木の紅葉も美しいけど、山全体が紅葉している姿は美しさを通り越した大自然のパワーをも感じさせてくれる様な気がするのである。

 それにしても、八ッ場ダム工事を通じて、この辺りの道路環境は一変している。人間の力というのもバカにならないものだなと改めて思った。全山紅葉を味わうためには、もう一度年内にこの地を訪れる必要があるなと思った。

 この後、すぐ近くの、これはずっと下に降りた吾妻川のほとりに新しく造られた道の駅:あがつま峡に向かうことにした。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

越後・信濃路の旅:第6日

2016-11-15 06:57:25 | くるま旅くらしの話

第6日<10月20日:木> 天気: 晴れ

 <行程>

  道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里 →(K57)→ 安曇野IC →(長野道・信越道)→ 須坂長野東IC →(R403他)→ 小布施市街散策 →(K)→ 道の駅:オアシスおぶせ[長野県上高井郡小布施町] →(K・R403・R406・R18)→ 松代城跡探訪[長野市松代町] →(K・R18他)→ 上田城址探訪[上田市二の丸] →(R18・R141他 → 道の駅:みまき[東御市御牧](泊) 走行145km

 <レポート>

 活性化の道の駅(=アルプス安曇野ほりがねの里)

今朝の安曇野の朝は、アルプスの山から下りてくるのか、霧が盆地の全体を覆って、神秘的な雰囲気だった。このような日は、この地ならば、やがて晴れて来るのだろうなと思った。その予想は違わず、8時頃になると次第に霧も雲も少なくなり始めた。

 信州を旅する時には、この道の駅に必ずと言ってよいほど立ち寄ったり泊ったりしている。特に秋の季節は泊ることが多い。その理由は、泊って見れば多くの方が気づくはずなのだが、新鮮な野菜を初め、この地区で作られている様々な農産物を手に入れることができるのである。特に野菜や果物類は新鮮で安価であり、安曇野の豊かさを満喫できるのだ。

 全国には現在1,079箇所もの道の駅が点在しているけど、自分たちはその9割くらいは、立ち寄ったり泊ったり、何らかの形でお世話になっている。くるま旅の人の中には、全国の道の駅巡りをされている人もおられると聞く。自分たちの場合は、他に目的があるので、この後も100%道の駅を訪れるということはないのだと思う。

 さて、その道の駅なのだが、各地を回って様々なその実態に触れていると、どうしても比べてしまうことになって、その良し悪しを感じてしまうのだ。冴えない雰囲気の道の駅もあれば、活気あふれる道の駅もある。道の駅といえば、国交省の旗振りで①車利用者の休憩機能②地域の情報発信機能③地域の連携機能、という3つの働きを目的として市町村が設置するものなのだが、その経営は多くは第3セクターのような機関が担っているようである。

 旅をしていると、これらの道の駅には大きな格差があることに気がつく。来訪者も多く、開店前の売店に列を為す道の駅もあれば、来客の殆どがトイレ休憩に立ち寄るだけというような道の駅もある。それらは地域の立地・環境条件に大きく左右されるのは当然なのだが、経営の在り方が道の駅の活性化に大きく係わることも大きいように思う。前掲の①②の機能の発揮は、基本的にどの道の駅でも同じようなものだが、③については差が大きい様に思う。活性化しているなと感ずる道の駅の多くは、道の駅を設置した自治体が、地域振興のために地元の各種産業の生産物販売の仕組みを巧みに構築しているようだ。生産者の意欲とつながらない物品を販売するだけでは、道の駅に多くの人が集まり賑わう筈がない。特に農産品に関しては、野菜や魚類等の生鮮食材は、生産から納入、販売に至る仕組みが細部を含めてしっかり出来ていないと、腰砕けになってしまう。要するに知恵の働いていない道の駅は、ただの休憩機能と情報発信機能の発揮だけに留まり、地元への利益還元は少ないものとなってしまうというわけである。

 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里は、活性化されている道の駅の一つだと思う。ここは農産物とその加工品が中心なのだが、生産者の意欲が様々な商品に表われているのを感ずるのである。良い商品をリーズナブルな価格で提供するという考え方が、自分たちのような消費購買者にも伝わってくるのである。いつ来ても8時半の販売所の開店時刻前に、10名以上を超える買い手が並んでいる。中に入れば人々は先を争って新鮮な野菜を買い求め、更に気に行った加工品を買い求めている。

     

道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里の朝の風景。8時半の開店前の時刻にはいつも大勢の人たちの行列ができている。

 今回は、自分たちはセロリやレタスなどが欲しいと探したのだが、どの棚にも見ることができず、天候不順の影響の甚大さを感じたのだった。今年の青物野菜の、その被害は相当に深刻だなと思った。

我が守谷市にも道の駅が出来たらいいなと願っている。守谷市は大都市東京をすぐ傍に控えた交通アクセス抜群の優位性を持っており、又何でもできるという農業生産地も豊富に存在している。全国に類のない道の駅の誕生が可能なのだと密かに思っているのだけど、行政に働きかけても未だその動きは皆無である。

 小布施の町並みを歩く 

長野県と青森県はリンゴの2大産地である。長野県にはリンゴ街道というのがあって、これは長野市東部を通る国道18号線がそれに該当するらしいけど、小布施はその入口辺りに位置する町である。小布施といえば、一般的には栗おこわに代表される、栗を使った食品や菓子類のある町として、又葛飾北斎美術館に代表される古い財産の残る町としても人気を博している町である。

 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里を出た後、小布施に向かったのは、今回の旅の大きな目的の一つである、孫たちにリンゴを食べさせたいというジジババの願いを実現させるためなのだ。安曇野の堀金からは少し遠いので、先ずは高速道を利用することにした。今回の旅では2回目であり、長野道の安曇野ICから入り、上信越道の須坂長野東ICで下り、R403を少し走ると小布施の町中に到着した。1時間と少しで着いたのだが、リンゴの前に町中を散策しようと駐車場を探したのだが、平日なのに観光客が多いようで、いつもの場所は満車に近くて、なかなか適当な場所が見つからず留るまでに時間がかかった。

 小布施の町は重伝建指定エリアがあり、僅かながら昔が残っている。何年か前に「セーラーが町にやって来た」という本が評判になり、それを読んだことがある。元々何の変哲もない少し古さの残るこの町にやって来たアメリカからの留学生だったセーラーという若い女性が、地元の古い酒蔵を改築し、新しい風をこの町に吹き込んだという話だった。とてもアイデアに富んだ活発な女性のようだった。長野オリンピックなどのチャンスもあって、彼女を中心にこの町は古さを宝として大きく生まれ変わったのだと聞いている。地元の人間には気づかないものを鋭くとらえ、それをアイデアに替えて、行動に移すというパワーは日本人にはなかなかできないことなのかもしれない。現在セーラーさんがどうなっているのかは知る由もないけど、彼女の残したものは生き続けているよう思う。でも、以前(10年ほど前)と比べて、心なしか小布施の町は特定の場所を除いては少し活気が少なくなっているような感じがした。

 このような観光地を訪れた時は、いつも家内とは別行動となる。お互いに何を見たいかは別々のものなので、一緒の行動は却って不満が溜まるのである。家内は今日の最大の目的が栗おこわを手に入れることなので、その前に主な観光スポットを訪ねていたようだった。自分は、観光地の外枠を歩くのが好きで、少し離れたお寺や農園などを散策しながら、これらのエリアがメインの場所とどのように関わっているのかなどを想ったりした。1時間ほどぶらぶらした後車に戻る。

 そのあとは家内が手に入れた栗おこわで昼食とすることにして、道の駅のある高速道小布施SAの方へ移動する。このSAは道の駅と一緒のハイウエイオアシスとなっており、ここへ行けばリンゴを手に入れることが出来るのである。長野のリンゴ街道は、小布施ではなくもっと北のR18にあり、そこへ行けば道の両側にリンゴ農家の即売場がずらりと並んでいるのだが、行くまでには時間がかかるし、又リンゴ農家が全ての品種を扱っているわけではないので、多くが集まるこのような場所の方が都合が良いのである。

昼食の後、リンゴ売り場を覗く。大小様々な品種のリンゴが数多く並んでいた。この頃はリンゴの品種もかなり増えて、いつの間にか有名品種が消え去ったりしている。何を選ぶか迷いながらも、孫たちが喜びそうなものを何種類か買い入れた。家内はジャム用にと昔からの品種の紅玉を買入れていた。酸味の多い紅玉は、自分の昔からの愛好品であり、あとで1個食べさせて貰おうと思った。リンゴやミカンなどの果糖類は、糖尿病に悪い影響を及ぼすので、この頃は敬遠せざるを得なくなっている。このような機会がなければ普段なかなかリンゴを食べる機会のない老人なのだ。恐らく今年は、その1個が全てとなるのかもしれない。リンゴは食べるよりも香りの方がいいな、などと思いながら、小布施の道の駅を後にした。

 松代城跡を訪ねる

小布施を出た後は、比較的近くにある真田一族で徳川側について生き残った真田信之の2番目の居城で、その後江戸時代を通して真田家の住まいとなった松代城跡を訪ねる。40分ほどで到着。この城は元々は武田信玄と上杉謙信が川中島で数度にわたって闘った時代に、武田側が拠点とした海津城のあった所で、それを藩祖となった信之が松代城として整備したものである。昔から真田一族については興味関心があり、小学生の頃に真田十勇士の話の本を読んだり、そのあとでは池波正太郎先生の大著「真田太平記」を読んだりしている。今年は大河ドラマとして「真田丸」が放映中だが、それに刺激されての今回の城跡巡りとなった。

 信州松代城といえば、恩田木工の「日暮硯」を思い出す。恩田木工は、真田藩の家老で、真田家6代藩主の幸弘に仕えた。真田藩は財政に困窮しており、家臣の知行や俸禄の半知借り上げなどの厳しい状況が続いていた。その中で賄賂が横行するなど、藩内の風紀も乱れて、武士や農民などの反発もあって、一揆などの危うい事態が頻発していた。これを公平を元とした倹約令等により、安定した治世に導いたといわれるのが恩田木工という人物で、その考えや振る舞いを後世の者が記したのが、「日暮硯」である。この本は現代にも通ずるものがあり、自分も仕事の中で活用させて頂いた思い出がある。現地では、この本を「ひぐらしすずり」ではなく「ひもうかがみ」と読んでいると、長野出身の知人から聞いたのを思い出す。

 そのようなこともあって、松代城がどのようなものだったのかを見るのを楽しみにしていた。行ってみた松代城は、他の城とはかなり変わっていた。この辺りの地形が昔はどうだったのかを推測するのは難しいけど、言えるのは千曲川という河川を巧みに利用した、攻めの拠点ではなかったか。防塁などには大して力を入れているとは思えず、恐らく世が落ち着いてから現在の城郭の基盤が固まったのではないかと思った。武田信玄いう人は野心家でもあったから、戦で城に閉じこもるような事態を重視するよりも、攻めることを重視したのではないかと思うのである。

     

信州松代城祉の景観。平地の四辺に堀を掘った中に城郭が造られている。その昔は城のすぐ傍を千曲川が流れていたという。これは太鼓門という入口からの写真だが、建物などは皆新しいもののようだ。

 松代藩というのは、10万石程度の藩であり、恩田木工の倹約令が藩を豊かにしたというのではなく、その後も厳しい経済状態が続いたに違いない。それは今現在のこの辺りの町の様子からも窺える様に思った。山裾に広がる領地はそれほど広いとも思えず、千曲川は氾濫の多い川だったと思うから、米以外に特段の産業がなかったとすれば、なかなかに難しい藩の経営だった様に思う。川の氾濫のため、殿様の住まいは城郭の中ではなく、少し離れた所に設けられていたという。殿様といえども、質素倹約のつましい暮らしをしていたに違いない。城郭の跡地には門くらいしか残っていなかった。大河ドラマに登場していなかったら、この地に観光バスなどがやってくるのは珍しかったのではないかとも思った。

 上田城跡を訪ねる

松代城を出た後は、もう一つの上田城址に向かう。上田城も徳川幕府が誕生した後の初代藩主は真田信之がつとめている。この城はもともと真田家にゆかりの深い城だった。天下分け目の関ヶ原の戦の際に、謀将と言われた真田昌幸と真田幸村がこの城を守って、徳川軍を破り苦い酒を飲ませた場所でもある。結果的には豊臣方が破れて、天下は徳川のものとなった。昌幸と幸村は紀州の高野山近くの九度山に閉塞され、昌幸はそこで逝去。後に大阪夏・冬の陣で幸村がその息子の大助共々活躍し、真田の名を世に轟かせしめたという話である。

真田といえば幸村という名が直ぐに浮かぶほどだが、現実の世の中を見た場合は、自分は真田家の中にあっては、信之こそが正統をしっかり守り切った優れた人物ではないかと思っている。後世の作り話は、弱きを助け強気を挫くという者を贔屓としているけど、それは歴史の結果論であって、現実はかなり異なっていたに違いない。真田信之という人は、やがて上田から松代に移封となるのだけれど、いずれの地においても良き治世に努め、93歳の長寿を全うしている。この時代にあっては、真に優れた人物だったに違いない。

 さて、その上田城だが、訪れて見ると、これはもう先ほどの松代とは違って、数段規模の大きな城だった。松代城は川辺の平地に造られていたが、ここは城の周辺の山や崖、それに川を利用してスケール大きく、巧みに造られているのが判る。名胡桃(なぐるみ)城を数倍大きくして、脇に千曲川を侍らせたかの如き築城だった。これでは倍以上の敵が襲来しても簡単には落されなかったに違いない。様々な仕掛けが工夫されていたのであろう。いざという時は城から外へ逃れる井戸などが残っていて、謀将というか知将というべきなのか、真田昌幸やその子信繁(=幸村)の思いなどが彷彿と湧いてくるのを覚えた。

     

真田のメイン拠点だった上田城本丸の景観。建物はさほど大きくはないけど、この城自体の構築の規模は大きいと思った。築城に当たって様々な仕掛けや策を講ずるには最適の地勢にある様に思った。

 現在の城跡は、信之の後に城主となった仙石秀久に拠るものとの解説資料があったが、自分的にはここに最初に城を築いた真田昌幸や幸村などの野望の大きさを想った。守りにも攻めにも心を砕いているのが良く解る地形の選択であり、又築城だったと思う。明治の城の破却からいろいろな経緯があって、現在は西・南・北の三棟の櫓が残っているけど、当初から移築を逃れて残っているのは西櫓のみだとか。ちょうど今それが公開されており、中に入ったのだが、自分には建築のことは殆ど分からず、興味関心のある家内はかなりの長時間ボランティアの方と何かを話し合っていた。

     

城の下方にある駐車場から見た、上田城本丸の西櫓の景観。この櫓の右手の方に本丸の城郭が建てられている。

     

城内西櫓の手前にある真田神社。真田一族が祀られている。この神社の裏手の方に、いざという時の抜け穴だったという真田井戸などがある。

 メインの駐車場が城の下にあるのを知らず、案内板に従って上部の方にある駐車場に車を入れたのだが、あとで下方にかなり広い駐車場があるのを知り、そこへ寄って見た。下から見上げる上田城址は上に居る時とはまた違った趣があり、より一層厳しい城塞であったとの印象を強めたのだった。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

越後・信濃路の旅:第5日

2016-11-14 03:25:03 | くるま旅くらしの話

第5日<10月19日:水> 天気:曇り後晴れ

 <行程>

道の駅:ぽかぽかランド美麻 →(K31・R147・K306)→ 道の駅:安曇野松川 [長野県北安曇郡松川村]→(R147・R19)→ 松本城散策[松本市丸の内] →(R19他)→ 道の駅:奈良井木曽の大橋[塩尻市奈良井] → 奈良井宿散策 →(R19・R147他)→ 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里[安曇野市堀金烏川](泊)  走行144km

 <レポート>

 信州の山村の情景(元美麻村)

美麻村は合併して今は大町市となっている。しかし、ここはやっぱり美麻村であって、大町市ではない様な気がする。それは戸隠村もそうだし、鬼無里村もやはり同じなのだ。行政の都合上は止むを得ないのかもしれないけど、昔の地名が消えてしまうことだけは是非とも守って欲しいなと思う。合併でわけのわからない名前の市や町が生まれることは、そこに住んで村や町を育てて来たご先祖様に対する重大な冒涜行為のような気がするのだ。新しい土地の名称をつくるのは、現在を生きる者の特権なのかもしれないけど、歴史に係わるものを訪ねて旅をするようになってからは、その思いは強まるばかりである。

 朝少し早く起き出し、道の駅の周辺を1時間ばかり散策した。土尻川という川がすぐ傍を流れており、この川に沿って民家が点在している。民家の庭には色づいた柿の実が鮮やかなのだが、どの柿の木も葉は紅葉などとは無関係の逞しい真っ青な現役色で、此処が奈良ならば、柿の葉寿司用として使えるほどのものなのが不思議に思えた。秋の風物の柿の木といえば、橙色の実をびっしりつけた葉の殆ど残っていない姿を思い浮かべるのだけど、今の信州のこの季節のそれは、全く違っているのである。それは、この地の秋が、間もなく一気に深まるのだということを語っているのかもしれない。そんなことを想いながら歩いていると、民家の庭には何と笊の中に、採って来たばかりの栗の実が干されているのを見つけ、驚かされた。守谷などでは、栗はもう1ヶ月以上も前に収穫が終わって消え去っているのに、この地ではまだ残っているのだ。そういえば、先日信濃の道の駅で見つけたトウキビも同じ感慨に捉われたのを思い出す。この辺りでは季節がゆっくりと動き、時に一気に速まるという時間の流れなのであろうか。

     

民家の軒下に干されていた栗の実。この地の時間はゆっくりと流れていることの証明のように見えた。

しばらく歩いていると、大きな古民家が保存されているのに気づいた。傍に行って見ると、旧中村家住宅二棟とあり、村の文化財として保存されているようだった。母屋は寄せ棟造り茅葺屋根、建坪が84坪(約278㎡)もある堂々たる建物で、その脇の方に移設されたという蔵があった。これも茅葺で24坪(約80㎡)の大きさで、屋根の下が空いているちょっと変わった造りの蔵だった。母屋は元禄11年(1698年)土蔵は安永9年(1780年)というから、いずれも200年以上を経過している建物である。土蔵が少し変わった造りとなっているのは、この地は江戸の昔から麻の栽培が盛んであり、それを貯蔵する蔵として建てられたため、上部が空間となっているらしい。そういえば、この村の名前は美麻であり、往時はこの辺一帯は麻の栽培が盛んだったのであろう。中村家はその中心に居たのかもしれない。しかし、現在はこの地に麻などどこにも見当たらない。それは近年になって麻の栽培が麻薬との係わりがあるため、禁止となったからなのだという。昔は衣類や用具などとして用いられていた麻が、今の時代には危険な薬品として用いられるという。これは、人間の愚かな進歩?の犠牲なのだなと思ったりした。

     

元美麻村の重要文化財指定の旧中村家住宅の偉容。いかにも信州らしさの漂う雰囲気がある。

散歩の途中には、石に刻まれた道祖神や仏様などを随所で見かけることが出来て、ああ、此処には未だ幾つもの信州の山地の姿が素朴な形で残っているのだなあと、何故か安堵したのだった。

 国宝松本城を訪ねる

美麻を出た後は、今日のメインの探訪先の松本城に向かう。しばらく山の中の道を走って、間もなく安曇野の平野に出る。途中大町市の隣にある松川村の道の駅:安曇野松川に寄ったが、ここには「男性長寿日本一の村との看板があった。82.2才だという。アルプスを眺めながら、豊かな気持ちで暮らしていると、長生きが出来るということなのだろうなと納得した。

 松本城は随分昔に一度訪ねたことがある。もう50年近くも前の話であろうか。黒っぽい均整のとれた城だったなという記憶がかすかに残っている。その時も国宝となっていたのか、よく判らないけど、国宝としての評判を高めている今の時代に、もういちどその城を見ておきたいという気持が強まっていたのである。松本市付近は何度も来ているのだけど、何時も通過するばかりだったので、今回の旅では、ちょうどいい機会なので、是非ともと予定に入れたのである。

 松本城は街の中心部に位置している。そのような場所を訪ねる時は、いつも駐車場に悩まされるのだが、行って見るとこれはもう何の心配も無かった。車を駐車場に置き、早速松本城へ。堀の脇の道をしばらく歩いて、入場口のある橋を渡る。ここまでの間の城の姿は、きりっとした惚れ惚れするほど男前の感じがした。妙な言い方だけど、城は女性的ではなく男性的なのだが、それがさすが国宝に相応しい雄姿だった。50年ほど前よりも一段とそれが際立っている感じがしたのは、自分の方がより早いスピードで老化が進んでいるということなのかもしれない。この頃は何かにつけて老化が気になっている。

     

国宝松本城の雄姿。これは城の外側から撮ったもの。この城はどこから撮っても、誰が撮っても絵姿になる貫録を持っている。

入口で入場料を払い、今日は天守閣に上るつもりでいる。外国からの観光客も多く見られて、やはりこの城は姫路城などと並んで、日本を代表する一つなのだというのを実感した。入口の傍にこの城の保存に際して功績のあった二人の人物が紹介されていた。一人は松本中学の校長先生を努められた小林有也という方、もう一人は市川量造という方で、お二人とも壊されるべき運命にあった天守閣の買い戻しと保存に奔走、尽力されたとのこと。明治初めの城の破却は、このような方たちのご尽力がなかったなら、今日は無かったのである。廃仏毀釈も愚行だけど、城の破却も又それに引けを取らないように思われるのは、今に生きるものだからなのであろうか。又、その反対側の方に「宇宙ツツジ」という紹介のある、既に花を終えたツツジの一株があった。女性宇宙飛行士第1号の向井千秋さんと一緒に宇宙を旅したツツジだとのこと。松本市は花いっぱい運動の発祥の地だとも書かれていた。どのような花が咲くのか、春になったら来て、それを見たいものだなと思った、

 中庭からの城閣の眺めも威風堂々と言った感じで、風格を感じさせるものだった。そのあと城の中に入り、幾つもの階段を登って、天守閣まで上がる。城の中というのは、多くの城が住まいとしてあるのではなく、戦のための攻防の拠点としてつくられているので、一種の倉庫(主に武器庫)として使われて何時スペースが多いようで、他の城と比べてそれほど変わった有様ではないように思えた。天守閣の窓からの景観は、高さが30m近くもあるので、これはもう城下の一帯が一望できる良い眺めだった。江戸の昔であれば、際立った高さだったに違いない。西の方角には北アルプスの高い山々が連なり、東の目前には2000m級の美ヶ原高原の山塊が迫っていて、季節を通じて山々の持つ壮大な気宇感を味わうことが出来るのだろうなと思った。そのあとは階段を慎重に下りて再び庭園に出る。この城の中は、市内の小学生の子どもたちが、ボランティアで胡桃(くるみ)の粉を入れた袋で磨いているとかで、ピカピカに光っていて、その分滑りやすいのである。でも、子供たちが郷土を愛する心を養う上では、とても大切なイベントだなと思った。

     

  こちらは城の内苑に入ってから撮った、有料の写真である。外側からのとは少し違った様子が分かる。   

 庭に出た後は、もう一度振り返りながら、城の威容を何度も確認した。やはり城の内部などよりも外からの眺めの方が美しさを感ずることが出来る。その後、近くにある博物館を訪れてこの地方の歴史や暮らしの在り様などについての資料等を観覧したりした。最後にもう一度堀の横道を通りながら城郭の雄姿を目に収めて松本城を後にする。

 奈良井宿のこと

松本城の観覧を終えて車に戻ったのは14時20分頃だった。この日の予定はもう特になく、近くの道の駅に行き泊るだけである。少し早いかなと思っていたら、家内が奈良井の宿まで行きたいという。お六櫛を買いたいとのこと。髪の毛なんぞロクに残っていない自分には、何の興味も無い話なのだが、彼女の場合は女性なので、これはもう別の話なのであろう。中山道奈良井の宿までは、松本からは1時間と少しで到達できる距離である。それじゃあ、行くことにするかとナビを設定する。もし遅くなったら、奈良井に泊っても良いのだ。この宿場町には、ありがたいことに道の駅があるのである。

ということで、松本から塩尻を通って、R19を南下して奈良井の道の駅についたのは、15時半過ぎだった。途中塩尻市内には渋滞があり、少し時間がかかった。もう日が沈む時刻が早やまって来ており、15時半を過ぎると、東西を山の壁に塞がれた中山道の宿場町は、夕暮れが間近いことを予感させる。櫛の販売店が開いているか心配だったが、これは大丈夫だったので安堵した。

お六櫛の方は家内に任せて、久しぶりに宿場町の通りの中をぶらぶらと歩いた。奈良井宿には何度も来ている。ここの宿場の特徴といえば、馬篭や妻籠野宿には無い、水場があるということか。江戸の昔は奈良井千軒と呼ばれるほど賑わった宿場町であり、旅人の喉を潤すために山から湧く水を引いた水場と呼ぶ井戸が用意されているのである。初めて訪れた時は、ああ、優れた宿場町だったのだなと、その美味い水を飲みながら感動したのを思い出す。その水場は、町内ごとなのか何箇所かあって、今日も清冽な水が流れ続けていた。

宿場の通りに櫛比する店々は、今は宿をしているのは少なく、多くは土産物などを販売しているようである。ここは国指定の文化財である重要伝統的建築物保存地区であり、江戸からの面影をそのまま今に残すような雰囲気があり、人出の少ない日の夕方近くには、それが一層強まるのを感じた。あまりにも観光客が多過ぎると、昔がどこかに吹き飛んでしまうような気がして、このような平日の時間帯の方が、より昔を偲べるのだなと思った。

     

早や黄昏が迫りつつある奈良井宿の通りの様子。中山道の宿場町は山に囲まれて、同じような風景が多い。観光客もほとんどなく、ただ静かな時が流れていた。

家内の方は何やらお店の人と話し込んでいるようで、30分を過ぎても終わる様子もない。お六櫛というのは、この地の山に産するミネバリという硬い木質の木を、職人さんが手づくりで作るもので、この地では昔から有名である。その由来というのには、次のような話が伝わっているとか。

「元禄年間(1688年~1704年)、持病の頭痛に悩んでいた村娘のお六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、お告げがあり、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいとのこと。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治ったという。以来、ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになったという。」

ミネバリの木というのはカバノキ科の落葉高木で、日本産の樹木の中ではイスノキの芯材に次いで硬い木で、別名オノオレ(斧折れ)カンバとも呼ばれているとか。家内が頭痛持ちだとは聞いていないけど、その昔から多くの女性に愛され使われてきた櫛には関心があるのであろう。この櫛は皇室などの祭礼にも使われているとか。辺りが暗くなり始めた頃にようやく話が終わって、満足顔が店の外に出て来た。

泊りをどうするかしばし惑ったが、明日のこともあるので、少し遅くなっても予定通り安曇野の道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里に行って泊ることにした。黄昏の迫った宿場町は、人通りも無く既に眠りの準備が終了したかのように静かだった。予定外のはみ出し訪問だったけど、昔を訪ねることが出来たいい時間だった。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加