山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

しばらく休みます

2016-08-08 04:30:04 | その他

 残暑お見舞い申し上げます。

既に長いこと投稿を休んでいるのですが、猛暑が狂暑というくらい、真老の身にはこの暑さが厳しく、思考回路が止まってしまっています。暑さが収まるまで、そして思考回路が回復するまで、しばらく投稿を休むことにしたいと思います。     馬骨拝

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天空回廊1,445段を登る

2016-07-31 11:30:22 | くるま旅くらしの話

 私を知っている人たちの多くは、私は文系の人間だと思っているのではないか。しかし、私は高校の3年生の一学期までは理系志望であり、工学系の大学を目指していた。ところがその誤りに気づいて、結果的には文系(政治・経済)の学校に入ったのだった。だから皆は私のことを文系人間と思っている。しかし、実際の私は、とりわけて仕事をリタイアしてからの私は、文系でも理系でもなく、明らかに体育系の人間なのである。

 中学から始めたバスケットボールは、大学を出るまでクラブ活動にうつつを抜かしており、社会人となって以降も細々ながら10年以上も続けていたし、それが出来なくなると週末登山に入れ込み、奥多摩を初め、秩父、八ヶ岳、そして南アルプスの山々にチャレンジしていた。だんだん仕事が忙しくなり、転勤などもあって次第に身体を動かさなくなっていったが、それでも休日には時々はジョギングに汗を流すことを忘れなかった。

しかし、いつか体育系であるのを忘れて飲食系に落ち込み、22歳入社時60kgだった体重は気がつけば80kg超となっており、50歳に至って、ついに体内機能はインシュリン供給の限界を超え、糖尿病を宣告されるにいたったのである。

それ以降再び体育系の暮らしをとり戻すべく、歩くことを中心に様々な工夫を凝らして、現在に至っている。真老となった今でも何かしら身体を動かしていないと落ち着かないのは、ようやく体育系が我が身に定着したからなのだと思っている。

さて、前置きはこれくらいにして、実は今月になって二度ほど近場の旅に出かけている。2泊3日の行程では、旅などといえるものではなく、ちょっとした気分転換に出かけたということか。その二回とも行き先の中心は日光霧降高原である。7月初旬に行ったのは丁度ニッコウキスゲの花が最盛期を迎えている頃で、急にそれを見に行きたくなって、出掛けたのだった。その名もキスゲ平園地というその場所に行ったのだが、ニッコウキスゲは思ったほど多くはなく、鹿による食害などもあって、補植された株の表示が何箇所も見受けられた。でも、ニッコウキスゲだけではなく、様々な野草たちも咲いており、それなりに楽しみ満足して戻ったのである。

月末になってもう一度行こうとしたのは、一つには暑さが本格化してきたので、高度千メートルを超す高原の涼気を味わいたいのと、もう一つこれがメインなのだが、このキスゲ平園地には天空回廊と呼ばれる1,445段の階段があり、これの昇降にチャレンジしたいと思ったからなのである。というのも、毎朝2,000段以上の石段の昇降を続けて来ており、この成果がこの天空回廊の昇降でどのように反映されるのかを、試してみたかったのである。

2回目の霧降高原のキスゲ平園地は、前回とは全く違って、まさに霧の降る中にあった。視界は50メートルほどしかなく、咲いている野草たちの花も、足元近くにあるものだけしか見えない状況だった。前回来た時は良く晴れており、天空回廊の最終点の展望所のある小丸山に至る長い階段が見上げられたのだが、今回は50段先も見えないほどだ。しばらく霧の晴れるのを待ったのだが、一向に変わる様子はなさそうなので、思いきって階段の昇降を開始する。

     

キスゲ平園地、天空回廊の第一段目の階段表示。このような表示が100段ごとにあり、人々を時に励まし時にがっかりさせたりしている。

階段には100段ごとに表示がしてあるので、数えなくても大丈夫である。念のために登山用の杖と腰にクマ除けの鈴とお茶のペットボトルを括りつけての歩行だった。いつもは両足に各1kg、両手にも各1kg、計4kgの負荷をかけるのだが、今日はそれは無い。呼吸のリズムと足の動きとを合わせて、いつものように歩を進める。500段ほどはあっという間に上って、汗も未だ出て来ていない。毎朝の築山での歩行では、80段の石段を25回昇降するのだが、5回目、すなわち400段ほど経過すると汗が吹き出し眉毛から滴り落ち始めるのだが、ここは千メートルを超える高地の所為なのか、汗が出て来たのは800段を過ぎるころからだった。

息が少し上がって来たのは1,200段頃からで、荒い息を吐く間もなく階段を上り切って、1,445段に到達してしまった。終点の展望所も霧の中で、そこの案内板には視界の良い時にはスカイツリーのみならず太平洋も見えると表示されていたが、今日は全て霧の中で何も見えない。下界から見れば雲の中にいることになるのであろう。それにしてもあっけないなと思った。ここまで30分足らずなのである。しかし、未だ下りが残っているので油断はできない。階段の昇降で怖いのは下りの方だからである。

   

天空回廊のてっぺんにある展望所も霧の中だった。1,445段目の表示を撮り忘れたので、その代わりに霧の景色を写しておいた。

下りは呼吸を整える必要は無いので、付近の野草たちの花を眺めながらとにかくゆっくりと下りることにした。もうニッコウキスゲはすっかり消え去り、一番目立つのはヒヨドリ草(ヨツバヒヨドリなど)である。その他にもシモツケやシモツケ草、ギボウシの花もまだ残って咲いていた。クガイソウもあったし、新顔ではリンドウやワレモコウなどが花を咲かせていた。シュロ草やネバリノギランなどの目立たない草たちの花のあともおちこちに残っていたし、それらを見ながらの下りは楽しかった。

車に戻って着替えを済ませたのだが、既に汗は引っ込み、脚の筋肉の痛みも何も感ぜられない。毎朝の鍛錬歩行では、帰宅すると身体の重さを覚えるのだが、この1,445段の昇降にはそれらしきものは何も無かった。何か物足りないなという感じだった。やはり、今まで1カ月以上の毎朝の鍛錬歩行は効いていたのである。年寄りの冷や水の一種かと、毎朝バカなことをやってるなと思いながら続けて来たのだが、決して無駄ではなかったのだ。足腰の筋肉は少しは鍛えられたようだし、何よりも心肺機能は確実に強化されているようだ。

先に三浦雄一郎さんが80歳でエベレスト登頂を成し遂げた時に感動したのは、その登頂に至る前の何年か前からの周到な鍛錬努力の姿を知ったことだった。70代頃までに貯め込んだメタボのあらゆる症状が、この鍛錬の結果抜け去ったのだと話されていたが、これは本当だなと思った。それを真似て身体に負荷をかけることを始めたのだが、今の自分にできることはこの程度のレベルでしかない。しかし、何もしないでいるよりはずっとマシだと思うし、真老の体育系としては、「冷や水」的なことにチャレンジすることはPPKの実現のためにも大切なことなのを改めて確信したのだった。

今度キスゲ平園地に行くときは、天空回廊を2度往復することにチャレンジしてみたいと、密かに思っている。

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「慈悲」と「愛」について

2016-07-23 12:16:27 | 宵宵妄話

 石段の昇降を始めて間もなく2ヶ月となります。身体に4kgの錘負荷をかけて、一日2千段以上を目標としてから1ヶ月近くとなりますが、これは毎朝律儀に達成しています。幸いなことに梅雨の時期でも大雨は降らず、小雨決行という状態なので、毎朝大汗をかきながら黙々と上り、下りています。東西南北4種類(平均80段)の石段を計25回昇降するのですが、うっかりすると途中で回数を数え間違えたりしてしまうので油断は禁物です。

 そのような状況の中でも、人間というのはやっぱり何かを考え続けてしまうようです。先日の「慈悲」の続きでのことです。自分的にはこのことばが世界で一番美しいと信じているのですが、もう一つ似たようなことばに「愛」というのがあります。このことばが入り混じって来て、上りの回数を数え間違いさせることになるのです。でも時計と万歩計と、歩き方(4回終了ごとに左右の方向を変えている)で、間違いは直ぐに是正出来るので大丈夫です。

1歩を進めながら思うのは、「愛というのは、慈悲とどう違うのだろう?」ということです。どちらも同じようなものではないかと思えばそれだけのことなのですが、何だか気になるのです。歩きも佳境に入れば無心という境地になるのかもしれませんが、未だまだそこまでの集中できていないということなのでしょう。どうでもいいようなことをあれこれと考えてしまうのです。

 世の中では「愛」ということばは、「慈悲」に比べて数倍以上も多く使われているように思います。「愛は地球を救う」などというTVイベントなどもあり、至る所に「愛」ということばが溢れています。今の世の中、それだけ「愛」が求められているということなのでありましょう。しかし、「慈悲」となると、滅多に使われることは無いようです。

 「慈悲」と「愛」とはどう違うのか。石段を上りながら思うのは、深さと広さの違いかなということです。慈悲は深く、愛は広くということなのかもしれません。この二つのことばは、本質は同じように思うのですが、他者に対する心の寄せ方が少し違っているように思えるのです。

今は、世の中に「愛」が多く取り上げられている時代のようです。世界が狭くなり、もめごとや天災地変が多様化し、人々の関心はまさにワールドワイドとならざるを得ず、否応なしに「愛」が求められることになっているからなのでしょう。でも、「愛」というのは、どうも広く薄い感じがするのです。声に出して言えばいうほど、中身がかすれて行く感じがします。

それに対して「慈悲」が語られる場は少ないように思います。日本の歴史の中では、平安時代以降使われてきたことばは殆どが「慈悲」であったのに、今は何故死語に近くなっているのだろうと思わずにはいられません。「慈悲」は狭いかもしれないけど、その内容の他者に寄せる心は深いのです。

 でも、この優劣などを比べることはナンセンスでありましょう。世の中は、どちらの心の寄せ方も、溢れ混ざって人々の生きざまをつくり上げているからです。心の寄せ方には、その広さにも又深さにもレベルがあります。それは本人の考え方と行動の在り方によって決まるものなのでありましょう。

 さて、かく言う自分自身はどうなのでしょうか。多分に慈悲は浅く、愛も狭い人間であるような気がします。他人に心を寄せる力が元々弱いのかもしれません。そもそも真老世代の今頃になって、慈悲だの愛だのと言っていること自体がそのレベルの低さを証明していのだと思います。「慈悲」は愚か「愛」のレベルにも届かない自分の生きざまだなと、石段を上りながら、改めて思ったのでした。

 自分的に密かに思うのは、やっぱり最高は「慈悲」なのだということ。人に寄せる心の思いは、深いこそ本物なのです。そしてそれは人間としての出来具合(=完成度?)が本物のレベルを決めるに違いないのです。

これからの自分の生きる世界は、広さなどに惑わされることなく、何事も深さこそが大切なのだと心得て生きなければと、そう思ったのでした。

 毎朝2千段を昇降するには、何かが必要なのですが、このようなどうでも良さそうなことを考えるのも、時として力となるのです。さて、次はどんなテーマが浮かんでくるのか。あす以降に期待したいと思います。歩くことは考えることなのです。

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一番美しいことば「慈悲」とその体現者

2016-07-16 04:13:23 | 宵宵妄話

 この頃は絶不調が続いていて、どうも書く気が起こらず、身体を苛める一方で、少しく本を読むことにしていますが、それが又難しくて、頭の中は混乱するばかりです。というのも出来る限り難しそうな本を敢えて読むことにしており、今読もうとしているのが中村元先生著の「慈悲」という本(講談社学術文庫)なのです。

 中村元先生は、知る人ぞ知る仏教哲学の大家です。現役時代の随分前から、通勤の途中に先生の講演録のテープを何度も聴いて、お釈迦様のことなどを教えて頂きました。本も何冊か読ませて頂きました。私は仏教に帰依している者ではありませんが、お釈迦様の発想には大いなる共感を抱く者であり、その教えの中には人間に対する深い洞察が満ち満ちていると思っています。般若心経などにもその教えの凄さの様なものを覚えるのですが、今回は何故か突然この世で一番美しいことばとは何だろうという疑問が、朝の鍛錬歩行時の石段を上っている時にふと浮かんで来て、それを反芻しながら歩いている内に、「やっぱり『慈悲』ということばだろう」ということになり、もう少しこのことばの背景や意味を辿って見たいと考え、この本に出会ったということなのです。

 ところがこの本は滅法難解で、とても自分の頭ではすっきり理解することは不可能なことに気がつきました。この本は、どうやら中村元先生の「慈悲」研究に関する大論文のようで、これを読み切るには古代仏教の知識や歴史などを身につけなければならず、高齢浅学の自分にはとてもできることではなく、せめて部分的にでも慈悲の何たるかを手探ることができればと思ったのでした。

 私が、この世で一番美しいことばは何だろうという疑問を持った時に、結論として思い至った「慈悲」ということばは、決して仏教の言うところのものではなく、ごくありふれた日常の暮らしの中で用いられていることばという感覚なのです。自分的には「慈悲」という意味を、直截的には「悲しみを労わる」というふうに捉えています。他人の、その人の本当の悲しみが解らなければ、慈悲心の発露というのは不可能だと思います。悲しみを解るというというのはとても難しいことです。上っ面の理解では悲しみは解る筈がありません。それが出来ないままに労わるというのは、単なる同情に過ぎず、世の中には同情は溢れています。

 仏教の世界では、慈悲の語義として、慈と悲を分け、慈は「安楽を与えること、悲は「苦を取り除くこと」としているようです。どちらも相手の心に寄り添い、生きる元気を増幅させることにつながる意味を持っているように思います。この世界では慈も悲も相手を思う働きかけを意味しており、悲というのは単なる悲しみという意味などではなさそうです。

 それでも自分的には慈悲というのは、現実のこの世の中では、やっぱり「悲しみを労わる」という意味で良いのではないかと思っています。

 ところで、今の世で悲しみを労わる行為をしている人がどれほどいるのか、なかなか思い当りません。私自身も出来ているとは到底思えません。でも間違いなくその実践をされている方がいらっしゃいます。それはどなたかといえば、今上天皇陛下ご夫妻です。今の世で、唯一疑いも無く慈悲の行為を続けられておられるのは、このお二人だと思います。様々の公的ご行為におかれても、心底から国民一人一人の生きざまに思いを馳せられて、常に真剣に取り組まれておられているのは、本物の慈悲心をお持ちだからこそに違いありません。特に、昭和の大戦の跡を引きずる世代の人々に対しては、強い思いの表れを感じます。立派なお方であり、尊敬できる存在です。

 その天皇が、この度生前退位の意向を持たれているということがニュースとなっています。よほどのお考えがあってのことと思います。この実現には厄介なルールがあるようなので、この後どのようになるのか解りませんが、院政などを行う由も無く、純粋によりよい仕事を続けるためには、老齢者ではなく、若い世代がそれを担うべきとのお考えなのだと思います。

 この世で一番美しいことば「慈悲」の体現者であられる天皇陛下ご夫妻が、仮に生前引退を為されても、その慈悲心が衰えることは無く、美しいことばのままに、美しい生き方を為されてゆくのだと思います。その慈悲心が後継の方々に確実に引き継がれてゆきますように。そして、皇室の皆様がこの世で一番美しいことばの体現者であられますように、国民の一人として願っています。

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只管、2,000段を目指す

2016-07-05 03:42:02 | 宵宵妄話

 「只管」と書いて「ひたすら」と読みます。最初はこの字の読みと意味が解らなかったのですが、<只>が<それだけ>という意味を持ち、<管>が<貫く>という意味があるのを知ると、只管の意味がよく解るようになり、この字を用いるのに戸惑いが無くなり、むしろ誇りを感じるようになりました。今回の「只管、2,000段を目指す」というタイトルは、現在絶不調の私の状況を打破するための、毎日の取り組みを表わしています。

 5月の初めのブログに、石段の昇降について書きましたが、その後旅に出たため、取り組みが半端になり、旅から戻った6月は、両手足にウエイトを掛けての歩きは続けたものの、石段の昇降は見送り、毎朝平地を10kmほど歩くに止めました。7月になり、いよいよ石段の昇降に再チャレンジを開始しました。今回は少しハードルを上げ、毎朝2,000段の昇降を敢行することにしました。今日で4日目となり、今朝それを果たしてきたところですが、感じていることについて述べたいと思います。

 朝4時20分に車で家を出て、10分ほどで石段のある常総市の巣立山公園に着きます。履いてきた登山靴(短靴)の両足首に1kgのウエイトベルトを装着し、両手に各1kgのウエイトを持って歩きを開始します。しかし、直ぐに石段の昇降を開始はせずに、足慣らしに築山の脇にある300mほどのサブグランドの円周路を2回ほど足の状態を確認しながらゆっくりと歩きます。足首も、太ももの付け根も、その他の身体部分も異常の無いのを確かめてから、石段の昇降を開始します。最初は西側の69段を、足元を確認しながら上り、頂上に着いたら今度は反対の東側の石段を下ります。下りたら最初は左旋回で、麓の道をほんの少し歩いて今度は北側の石段を上ります。これは86段あります。頂上に着いたら反対側の南の石段を下り、麓を左旋回して今度は東側の89段の石段を上ります。頂上に着いたら先ほど上った西側の石段を下り、麓を左旋回して今度は南側の石段76段を上ります。頂上に着いたらそのまま反対の北側の石段を下り、麓から左旋回して最初の西側の石段に戻り、2回目の上りを開始します。これを6回繰り返すと、上りの合計段数は1,920段となります。これではまだ2,000段には達していませんので、最後にもう一度東側の石段の89段を上って、これで今日の目標達成です。その後はゆっくり北側の階段を下って麓に降りて、最初にウオーミングアップで歩いたサブグランドを5周ほどして、今日の鍛錬歩行を終わりにします。その後は車で家に戻り、シャワーを浴びて汗を拭うということになります。 

 4日間同じことを繰り返しているのですが、これがなかなかに面白い。石段を上るときは両腕でリズムをとりながら、呼吸に合わせて歩を進めます。時々そのリズムを変えたりしますが、基本は「1・2・3・4、 5・6・7・8」が」一区切りです。このワンセットを何回か繰り返す内に頂上に着きます。人間にはどんな時もある種のリズムの様なものが必要な気がします。集中して何かを行おうとする時は、呼吸とリズムには調和が必要で、それは意識する・しないに拘わらず自然ともたらされるもののようで、いわば心と身体の調和につながっているような気がします。この調和が保たれていると、心も身体もエネルギーの消費効率がベストとなるらしく、あまり疲れを感じなくなります。特にハードなことにチャレンジするときは、この心と身体の調和が大事だなと思います。 絶不調というのは、普段の暮らしの中で、心と身体の調和が乱れに乱れている状態なのかもしれません。石段を上り下りしながら、改めてそのようなことに気づかされました。

 1回目の320段を上り下りして、2回目に入ると汗が出て来ます。出るというのは滲むというレベルではなく、流れるという状態を指します。先ずは両腕の肘の内側からの汗が球の粒となって石段に落ちます。その後は滲んだ汗が眉を乗り越えて下に落ちてゆきます。タオルは持参しますが、滅多に拭うことはせずに、汗が下に落ちるのを楽しみます。「ああ、俺は今生きて汗をかいているのだ」という実感を覚えるのです。暑いと汗が出るのは当たり前ですが、己自身が身体を動かして出てくる汗は、又格別なもので、決して忌避するようなものではなく、何だか生きている証のように思えるのです。そのようなことを想いながらリズムをとって歩き続けていると、2回目、3回目、4回目が終わり5回目に入ります。

既に1,200段を上り下りして、心拍数も多くなって来ており、呼吸も乱れがちとなり出します。ここからが迷いが生じる時なのです。どんな迷いかといえば、<何もそれほど無理してこんなバカなことをしなくても、もう相当に厳しいのだから、今日は5回目を終えたら終わりにしてもいいんじゃないか>、という奴です。人生でいえば、老人世代論の順老(65~75歳)辺りの心境でしょうか。妥協が上手になってくる世代です。楽をすることに馴れてくる、或いは楽をするのは当たり前と思いこむ世代といえるかもしれません。自分は既に真老(75~85歳)世代なので、本来ならばこのようなバカなことはしないはずなのですが、糖尿病とうまく付き合い、PPK(ピン・ピン・コロリ)の死計を実現させるためには、老計の中にこのチャレンジが不可欠と考えていますので、取り敢えず楽に浸る時間はもっと後で良いと考えているのです。

この迷いは、オーバーに言えば人生の試練だと考えることにしています。その昔の子どもの頃に、「人と同じことをしていては、人の上に立つことはできないのだよ」と亡き母に言われたのを思い出します。特に人の上に立ちたいとは思いませんが、人(=自分以外の人)以上に、己に自信を持つ生き方はしたいと、この母のことばを受けとめて生きて来たつもりなので、これは試練なのだという場に出くわしたときは、後ろには引かないことに決めているのです。この石段昇降の5回目辺りにやってくる迷いという奴も、試練に違いありません。ここから先はまさに自分との勝負なのです。そのようなことに捉われながら5回目を終えると、今度は急に気持が楽になるのが不思議です。あと一回とほんの少しだと思うと、もはや止めて楽することなど論外の心境がやってくるのです。着実に歩を進めるだけなのです。

かくて2,000段の目標は達成され、全身汗みずくになって鍛錬が終わるのですが、帰宅後の汗を流し終えた爽快感は、これぞまさに極楽、極楽です。

さて、間もなく4時近くとなります。今日は5回目のチャレンジですが、只管の昇降の汗の中にどんな苦楽と迷いが待っているやら。楽しみです。

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古代ハスの眩惑

2016-06-28 06:02:45 | 宵宵妄話

 このところ書くことに関しては絶不調です。どういうことなのか自分でも全く解りません。とにかく書く気が起こらないのです。最近は随分と長い間、「老」というものについてあれこれと思いを巡らし、あまりにそのことに囚われ過ぎたきらいがあり、その反動が来ているのかもしれません。

 このような時は旅に出るのが一番なのですが、その旅も未だ終わったばかりであり、暑い夏が終わるまでは我慢をしなければならないと決めており、なかなか突破口が見出せません。

 そのような中で、ただ今は只管(ひたすら)日に一回は汗をかくことに努めており、毎朝4kgから6kgほどの錘(おもり)を身につけて、8kmから10kmほど歩いているのですが、今日はその途中で嬉しい出会いがありました。3つほどあるコースの一つの守谷城址公園を通る道の、少し脇にある古代ハスの池の花が最盛期を迎えたのです。

   

守谷市にある城址公園の脇の古代ハス池の開化の様子。普段は目立たないので、そこにこのような池があるのを気づかない人が多いのだが、この季節は違うのだ。

 家を出て40分ほど歩き、身にまとう錘の重さに身体が慣れ出したた頃にその池に着くのですが、3日前に来た時は数が少なかったハスの花が、今日は見事に満開近くとなっていました。思わず携帯しているカメラを取り出し、何枚かを取り込みました。まあ、何と美しいことか。息をのむ美しさがあり、桜や梅や他の野草たちとは違った、独特の雰囲気を持った花なのです。ハスの花には、そしてこのハスという名の不思議な植物には特別の感慨があります。

     

開花した古代ハスの花。淡い朝の光を浴びて、その美しさは、人を妖しくも幻想的な世界に誘う。

 特に古代ハス(=大賀ハス)には、他のハスとはまた違った感慨を覚えるのです。30年ほど前になりますか、千葉市の検見川という所に住んでいた時に、近くに東大の運動場があり、その中にそのハスを栽培している池があって、開花の時期にはよく訪ねて、その美しさに我を忘れたものでした。2千年以上も前の弥生時代か、あるいは縄文の終わりのころか、その頃咲いていたハスの実を大賀博士が苦心して開花させたと聞いています。それが今ではこの守谷市にも取り寄せられて、こうして花を咲かせてくれているのです。

 ちょうど今、日本の古代史などに目を向けているところで、縄文や弥生時代の暮らしぶりなどを、資料を通して思い浮かべていたところでもあり、このハスの花に往時の古代の人々の寄せる思いが伝わってきます。2千年以上も前の人たちも、特別な思いでこの花を見ていたのではないか。人間の心の世界は、自然を感ずる感性は、根っこの所ではそれほど変わってはいないと思うのです。古代人はただ素直に美しいものを美しいと感じて感動しながらこの花を見ていたのではないか。それをしみじみと感じたのでした。

 しばらく花を見つめていました。くらくらっと来るような、しかしどこかに温かさの一杯詰まった花でした。泥の世界に身を置いて、浮世に咲かせる花の美しさは、生命の限りを尽くしたものなのかもしれません。それゆえに仏教の世界では最も愛されている花だと聞いています。

   

どの花を何度見ても、見つめていても、その澄んだあでやかな命の輝きの世界は変わらない。

 これで絶不調も少しは和らいでくれるかと、再び汗をかきながら歩きはじめることにしました。

 

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浮世風呂の話題

2016-06-16 09:17:35 | 宵宵妄話

 私の浮世風呂といえば、最近では「わらしべの湯」である。このような名の入浴施設は無い。これは私が勝手に名付けたもので、正式には「いこいの郷常総」という、守谷市にある交流施設の中の入浴施設である。本当は温泉であって欲しいのだけど、それは叶わず、ここはゴミ焼却場の排熱を利用して沸かしたお湯なのだ。それでも露天風呂もサウナもあり、小さいながらも温泉の設備に引けは取らない。

「わらしべ」というのは、前にも書いたが、稲穂から実をしごいて取り去った後の残骸をいう。これを風呂の名称にしたのは、入浴者の殆どが老人だからである。日中から風呂に入れるのは、働くことから見放された(?)老人しかいない。それは実の殆どを食に供して、数粒を取り残されてわらしべとなり果てた稲穂の残骸にそっくりではないか。そのような男たちを受け入れるに相応しい名前ではないかと思ったからである。勿論私自身もわらしべに他ならない。

 東北の春を覗き回った短い旅から戻って、久しぶりにその「わらしべの湯」に浸った。露天といっても、コンクリート造り3階建の2階ベランダ様の位置にある浴槽からは、梅雨時の曇り空の一部が見えるだけである。それでも解放感はそれなりに満たされていて、老人となった男たちは、世間話に興じることしきりだった。

 本当は静かに湯に浸っていたいのだが、老人たちは日頃溜まっている思いを吐き出したいのか、知り合いの顔を見ると話し声が一段と高まるのである。二人が三人となり、更にその数が増えると、女三人寄れば姦しいどころの話ではなくなってしまう。

 話題は同世代の女性に比べると、もしかしたら社会的(?)なのかもしれない。もっとも、同世代の女性同士が風呂に入ってどんな話に盛り上がるのかは知る由も無い。男の場合、社会的話題として多いのは政治に係わることが多い。事件についてのコメントも多いのだが、今日現在では何と言っても東京都知事の進退にかかわる話が一番のようだ。

 老人の達観は、都知事を「舛添」と呼び捨てるのに何のためらいもない。政治学者から政界に乗り出し、自負心に満ち溢れていた舛添大先生も、浮世風呂の中では塵芥(ちりあくた)の扱いなのだ。連日のマスコミ報道は、TVも新聞もラジオも舛添氏に肩を持つ記事は皆無で、あらゆる情報は彼をして辞めさせる方向を向いているのだから、老人たちの会話は、社会正義の権化の心意気で、自信に溢れている。

 「舛添は、何であんなに頑張ってんだべや」

 「あれじゃあ、都民は黙ってられないべよ」

 「公私混同もひど過ぎんじゃねえの」

 「誰だかが、せこい人だって言ってたけど、本当だなや」

 「金持ちほど、みみっちぃいて話はよぐあっからなあ」

 「とにかく、ぐずぐずしていても、もう終わりだっぺ」

コメントの大半は、マスコミの報道の中で云々された文語ばかりである。新論や新解釈を講じる人は皆無である。一般論が当人の固有論の如くになって、同じような意見が繰り返し交わされている。素っ裸のままの達観論は10分ほどで終了した。

 浮世風呂に政治の話、とりわけ法に抵触するような行為を為した人物が登場するときは、大抵はその人物の政治生命が終わる時である。舛添氏もその魔法から逃れることはできず、今朝の新聞には辞表提出の記事が大きな見出しとなっていた。

 都知事は連続2回も現職知事自身の不祥事で辞職を余儀なくされたことになる。前知事も舛添氏も、その不祥事の内容は彼らの高い筈の見識からは、想像もつかないほど低レベルである。こんな低レベルの事件で辞職を余儀なくされるのは、運が悪かったとの見方もあるかもしれない。何故ならより悪質なネタを抱えている人物は、政界の中には幾らでもいるからである。しかし、同情は禁物であろう。

 浮世風呂に浸かりながら自分が思うのは、これらの事件の根源は皆人間の思い上がりにあるということだ。偉い人も偉くない人も、偉くなれない人も、人間はほんの少しでも自分を他人より上位にいると意識すると、思い上がるのである。舛添氏の場合は、ほんの少し上位ということはあり得ない。常に自意見が最上位という話しっぷりを見せられ続けて来ている。思い上がるというのは、己を忘れ他をそれ以上忘れてしまうという人間の哀しい性(さが)なのかも知れない。都知事の様な立場の人が、この思い上がり病に罹ると、都民のことを忘れ、己だけの正義の世界に生きることになる。その結果、人心は離れて行くのだ。その離れるスピードは、人工衛星が地球を回る速度よりも早いのは確実だ。かくて終わりとなってしまった。

 さて、次はどんな人物が都政を担うのだろうか。これからいろいろ取り沙汰されることになるのであろう。思い上がらない人を、都民はどうやって選べば良いのか。過去2回の誤選択は、都民に責任無しとは言えないであろう。浮世風呂の中で、同じような話題が浮かばないようにと願っている。

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‘16年 東北春短か旅の旅を終えて

2016-06-05 05:02:25 | くるま旅くらしの話

【旅を終えて】

 冬が終わって、春の旅のシーズンとなると例年4月末辺りから東北の旅に出かけるのだが、今年はその出発時期が少し遅れて5月の半ばに入ってからとなった。一つには連休の混雑を避けたいという気持ちがあり、もう一つは事情があって本当に旅に出かけてしまっていいのかというためらいがあったからなのである。でも思い切って出掛けて良かったと思っている。当初の予定では2週間ほどを考えていたが、それよりもほんの少し長い期間の旅となった。

 今回のテーマは、相棒の言を尊重して、「ゆっくり」を大事にすることとした。ゆっくりというのは、余裕のある旅という意味である。これは概ね達成できていると思うのだが、結果的に走行距離の1日平均距離を計算してみると、148kmも走っており、何だかゆっくりではなかったようにも思える。しかし、走行の時間帯は殆どが午前中であり、早めに目的地に着いて、その後はあまり動き回らないようにして、相棒が疲れ果てて温泉に入る元気も無くなってしまうようなことは一度も起こらなかった。当初の計画が2週間だったのを、更に一週間を付加したので、余裕日が7日間もあることになり、急ぐ心配が無くなったのが良かったのだと思う。自分が老人であることをかなり意識しての旅だったのだが、まあ、こんなもので丁度良いのかもしれないなと思った。

 コースとしては、先ず福島県、宮城県、岩手県と東北の中央圏を北上し、それから太平洋側に出て北上を続け、青森県に至って日本海側に回り、その後再び中央圏を今度は南下して、岩手県、秋田県の山岳部を経由して日本海側に至り、その後しばらく南下を続けて新潟県から再び山岳地帯に入り、群馬県から山越えで栃木県の日光市に至り、その後は茨城県の自宅を目指すというコースだった。全走行距離が2,516kmとなっていた。

 春の東北の旅の楽しみは、山菜と野草たちの花の鑑賞である。今回はそのいずれもが時期を失しており、何時もは逢える二輪草やカタクリ、菊咲きイチゲの花たちには逢うことができなかった。山菜の方も最盛期を大きく過ぎており、いつも溢れんばかりに賑わっている地元の地産品の店の売り場には、ほんのわずかの種類の山菜が見られる程度だった。これは予想していたことなので仕方が無いのだが、それにしても毎年の温暖化はかなり進んでいる感じがした。十和田湖の上方の山岳地帯には少しぐらいは残雪が見られるかと期待していたのだが、もうすっかり緑の世界に変わっていて、雪解けの水もとっくに下界へ奔り去ってしまっている感じがした。ただ、鳥海山麓を走るブルーラインという道には、鳥海山の6合目あたりを走ることもあって、間近に残雪を見ることができ、更に岩かげにイワカガミの美麗な花を見出すことができ、救われた気分になった。次回はもっと早く来なければならないなと、強く思った。

 今回の旅の中で印象に残ったことを挙げるとすれば、次のようなものを思い起こすことができる。

①  毛越寺・中尊寺・骨寺荘園跡という世界遺産のセットになったエリアの探訪

骨寺荘園跡は世界遺産の指定からは外れているけど、中尊寺とは深く係わっており、自分的には外してはならない場所だと思っている。この中で、今回は特に毛越寺を丁寧に散策して、往時の為政者たちの願望である浄土庭園というものに思いを馳せた。自分には未だに浄土なるあの世のイメージが描けないのだが、毛越寺庭園を見ていると、今の世よりはすっと解り易いなと思った。今の世の浄土がどんなものなのか、科学の発展は、人間が描く空想の世界を次第に狭隘で貧困なものとしてゆくような気がする。

②  遠野の荒川高原牧場再訪と早池峰神社参拝

ここには一昨年も訪れているのだが、同じ場所を再訪するのも旅の一つの面白さではないかと、この頃思うようになっている。初めて訪れる時は新鮮な感動をモノにすることができるのだが、二度目となると、浮ついた気分がなくなり、本物の姿を見ようとする意識が働くのである。前回見落としていたことに気づいて、一人首肯することなども結構多いのである。今回の荒川高原牧場は、前回は天侯のこともあって、そのほんの一部しか見ていなかったことに気づかされた。前回見たイメージよりもはるかに広大で、そのスケールは日本一といわれる北海道上士幌町のナイタイ高原牧場には及ばずとも、かなりのものである。何よりも凄いと思うのは、この牧場が江戸の昔から開拓され用いられていたということであろう。夏山冬里の意味がより一層鮮明になったように思った。

また、早池峰神社参拝は二度目だったが、建物や屋根の修復が為されていて以前の厳めしい様相が一変していて、新品(?)になっているのを不思議に思った。この参拝の翌日だったか、偶然にも道の駅:やまびこ館という所で、早池峰神楽というのを見ることができたのもラッキーだった。道の駅:やまびこ館は、参拝した早池峰神社とは早池峰山を挟んで反対側の北側に位置しているのだが、この神楽は早池峰神社に奉納されることもあるのだろうなと思った。

③  奥入瀬渓流の散策と昼寝

春に東北を訪ねる時は奥入瀬渓流を外すことはない。今回も大いに楽しみたいと思いながらの来訪だった。野草の花たちは、すでに新緑の中に消え去っていたが、未だ咲き残っている山ツツジの赤は、鮮緑の森の中に際立った存在だった。それが水辺で渓流を染めて咲いている姿も印象的だった。何よりの贅沢を味わったのは、この緑の世界の中で、しばらく惰眠を楽しんだということかもしれない。車旅ならではの恵みだった。

④  五所川原の旧平山家探訪と鰺ヶ沢の焼きイカ。

青森県関係では、今回田舎館村の田んぼ絵の現在を見たいと思っていたのだが、未だ田植が始まっていないようだった。少し足を伸ばして五所川原市内にある歴史民俗資料館を訪ねたのだが、ここは開店休業の状態だった。その隣に旧平山家住宅というのがあり、この地の古くからの豪農の居宅だったものが重文の指定を受けており、それを見ることができた。この家は曲がり屋ではなく、長方形の家屋で、その中には厩もあって何と数匹の馬を飼っていたとのこと。造りも耐震構造となっており、時代を超えて人間の知恵はそれなりに発揮されているのだなと思った。

また、この日は津軽市にある道の駅:もりた(=森田)に泊ったのだが、この夜は隣の鰺ヶ沢町の名物の焼きイカを手に入れて、久しぶりのこの地で味わう美味さを体感した。鰺ヶ沢の焼きイカは、この地を訪ねるようになって、早や20年来となる自分たちの旅の楽しみである。この地の焼きイカはこの地でなければ味わえない、特別のものなのだと思っている。

⑤  八幡平高原の水芭蕉とヤマザクラ。

途中の山間部の走行中に、何度も水芭蕉たちに出会っていたけど、既に皆大きな葉を広げていて、すっかり芭蕉そのものの葉になってしまっていたのだった。しかし、八幡平高原を通っていると、丁度峠辺りになると思われる場所で、残雪の水たまりの中に小さな白い花を咲かせている水芭蕉を見つけた。良く見ると辺り一面の湿地に花が群れ咲いていた。コブシの花などに混ざって、満開となっているヤマザクラがあるのを見つけて、感動した。未だ春が始まったばかりの場所もあるのに気がついて、ホットした気分になった。

⑥  乳頭温泉のブナ林の新緑

秋田駒ヶ岳のすぐ近くにある乳頭温泉卿は秘湯の趣に溢れた温泉場が多い。今回は秘湯ではなく休暇村乳頭温泉という宿の湯に入らせて頂いたのだが、これが実にすばらしかった。温泉も良かったが、それ以上に温泉の露天風呂から見るブナ林の新緑が身体も心も浄化してくれた。生え揃ったブナの木々はそれほど年を経たものではなく、それゆえに木々の新緑は柔らかく日の光を包んで、旅のストレスを溶解してくれたのだった。

⑦  角館町の早朝散歩

角館には何度も来ており、我が家の味噌は今でも角館産を使用しており、この町とは関わりが深い。来訪の時期は殆どが桜の季節なのだが、今回のように葉桜の時期さえも終わったタイミングは初めてのような気がする。未だ観光客が殆ど歩いていない朝の町中を歩くのは久しぶりのことだった。武家屋敷は枝垂れ桜の大木の燃える緑に包まれて、今日の一日を始める前の静かさの中にあった。その中をゆっくりと歩を進める。武家屋敷から少し離れた場所にある旧松本家が一番気に入っているのだが、小人組という下級武士の屋敷だったというこの家は、そこに住む人の質素な暮らしぶりが目に浮かぶようで、上級武士の大きな屋敷よりも親近感を覚えるのである。また、ここへ来るといつもこの町の鎮守社であろう神明社へ参拝することにしている。それは旅の大先達の一人、菅江真澄の終焉の地が此処であり、その碑が建てられているからである。「菅江真澄遊覧記」は愛読書の一つであり、わが旅日記もそのまねごとを記しているようなものだ。

⑧  碧祥寺博物館

ここへ行くのは初めてだった。旅に出かける数日前に、新日本風土記だったかの番組を見ていたら、西和賀町という所の暮らしが紹介されていた。和賀岳は知っているけど、地図を見てもそのような町はない。調べたら合併してできた町だった。その町の沢内地区にある碧祥寺という所に博物館があり、雪国に住む人たちの暮らしぶりに係わる資料等がたくさんあるという。マタギの暮らしぶりなども解るという。和賀岳といえば、岩手県と秋田県にまたがる深い山であり、自分的には天然のマイタケが採れる場所くらいにしか思っていなかったのだが、この雪深い国に住む人たちの往時の暮らしぶりはどうだったのかを知りたくなり、予め地図にメモを付しておいたのである。

行ってみた碧祥寺博物館は、思っていた以上にスケールの大きなものだった。雪国に暮らす昔の人たちの暮らしに用いられた様々な用具などが展示されていて、テーマごとに展示館が別れて幾つもあるのである。とても気まぐれの訪問などでは見切れるものではなかった。迂闊さに気づかされた。一応ざっとは見たのだけど、ここにはもう一度時間を用意して再訪しなければならないと思った。多くの歴史民俗資料館の類を見て来たけど、ここはその中でも最大級だなと思った。

⑨  あがりこ大王と獅子が鼻湿原の散策

  あがりこというのは、ブナの切り株と一緒に根元に生えた幼木がそのまま生長して大木となったものであり、その中の最大級の一本に大王という呼び名が贈られている。あがりこ大王は、いわば人間の止むをえぬ蛮行が生み出したものだ。炭を焼いて暮らしの生計を維持するためにブナの木を伐ったのだが、枯れない配慮をしたところが救われるというものであろう。この樹に逢うのは二度目だった。相棒にも逢わせたくて、今回は二人での参上となった。 森の中に鎮座するその姿には、生き物の業の様なものを感じたのだった。その後の森の水郷とも思われる獅子が鼻湿原の中の歩きは、ハンディのあるはずの相棒でさえも、疲れを忘れて、マイナスイオンの溢れる新緑の世界に浸ることを得たのだった。

⑩  羽黒山五重塔

   羽黒山への参拝は三度目だろうか。今回は相棒のたっての希望で特に国宝の五重塔を見たいというので訪れることとなった。羽黒山は山伏の修験道の場所として有名だ。お寺なのか、それとも神社なのか、ここへ来るとそれがどちらであっても構わないという気分になる。五重塔は元はお寺の本堂だったとか。しかし出羽三山はお寺ではなく神社というべきであろう。明治の廃仏毀釈に当っては、政府はどのような解釈をして対処したのだろうか。毀釈の対象とはならず、今日につながって残っているのは何よりのことがなと思っている。爺杉と呼ばれる樹齢千年を超えるという大木の脇に鎮座する五重塔の姿は、厳しい東北の冬を何度も乗り越えて来た、枯れてはいるけど重厚な存在感を森の中に放っていた。示しているというよりも、やはり「放っていた」というのが自分の実感である。相棒が何を感じながらシャッターを切っていたのかは判らない。

⑪  ヒメサユリと栃尾のあぶらあげ

  旧下田村を初めて訪れたのは、2年前の佐渡からの帰り道だった。その時、この村の中にヒメサユリの群生地があるのを知った。そこはヒメサユリの小路と名付けられていて、かなり有名な場所らしい。その時は6月の下旬だったので、既に開花期は過ぎてい。それでも野次馬根性を止めることが出来ずに見に行ったのだが、あまりの急坂が続くので、途中で諦めて戻ったのである。その様なことがあったので、今回はひそかに期待した訪問だった。しかし、地元の人に聞いた話では、今年も開花は終わりに近付いており、ヒメサユリ祭りも明日で終わりというタイミングだったのである。ダメ元のつもりで訪ねたのだが、行って見るとまだまだ元気な花も残っており、長年の望みが叶えられて嬉しかった。ヒメサユリを見るのは初めてではないけど、これほど多くが群生している場所に来たのは初めてだった。百合の花は女性の美しさを例えるに用いられているけど、中にはあくどい花もあり、日本女性ならば山百合の清楚さよりも、このヒメサユリの小柄な優雅さこそ、それに相応しいように思う。それにしてもこのような静かな美しさを秘めた女性は、今の日本の何処に実在するのだろうか。真老のジジイであっても、それはやはり気になることなのである。

  ヒメサユリに感動しながら栃尾の道の駅に向かう途中に、この地の名物の油揚げを製造販売する店があり、そこでどっさり(?)と念願の油揚げを手に入れた。と言っても旅の途中なので、6枚が限度である。栃尾のあぶらあげは、今や関東一円でも販売されているようで、普段は高嶺の花のような存在なのだが、ここへ来ると手が届く花となって嬉しい。早速夕刻にはそれを味わった。

⑫  日光街道杉並木の早朝散歩

旅の最後の宿は、日光市の旧今市にある道の駅:日光だった。この道の駅に泊るのは初めてだったが、700mも歩くと旧日光街道の杉並木があるのを知り、大いに期待した。というのも歩くことを普段から糖尿君から厳しく奨められており、旅に出るとそれがなかなか実現できないのを悔いながらの旅だったからである。願ってもない最高の環境が傍にあると知って、翌朝は5時からの散歩に出かけたのだった。誰もいない早朝の散歩は、世界遺産の朝の空気を独り占めにして、何とも言えないいい気分だった。400年近い歴史を含むこの散歩道は、ただ両側に杉が植えられているだけではなく、水路も走っており、又途中には寺院やお墓の名残も幾つかあって、それなりの歴史を語っているのが解かった。2時間くらいの往復だったけど、歴史の重みを体感できる空間の中をしっかり歩いたという印象が残った。我が家からは比較的近い場所にあるので、これからも思い立った時には、ここへ来てこの感慨を何度でも味わいたいと思った。

雑駁な所感だけど、今回の旅の中ではこれらのことが印象に残った事柄である。

今までは旅に出ると人との出会いを大事にしてきたのだが、今回は成り行き任せとすることにした。とはどういうことかといえば、旅先で出会う様々な方たちに対して、こちらから近づいての出会いを求めないことにしたのである。向こうから出会いを求めて来られる方に対しては、常にオープンに接しようという考えは不変なのだけど、こちらからはもう真老の世界に入っているのだから、わざわざ迷惑も顧みずに働き掛けることもあるまいという考えなのである。相棒が外交官としての役割を果たすことも少なくなりつつあり、歳相応に控えめに行こうというのが現在の心境なのだ。これでいのだと思っている。

やや時期遅れの春の旅だったが、東北エリアは満面の新緑で迎えてくれた。その芽気味に感謝しながらこの綴りを終えることにしたい。

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第18回:最終回>

2016-06-04 05:31:55 | くるま旅くらしの話

【昨日(6/1)のレポート】    天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:日光 →(R119・R293)→ 道の駅:うつのみやろまんちっくむら →(R230・R119・R4)→ 道の駅:下野 →(R4・R50)→ 結城市内コインランドリー →(R50・R294)→ 自宅

<レポート>

 道の駅:日光を出発するときは、これから途中でコインランドリーを見つけて、今迄に溜まった衣類の洗濯を済ませ、その後で道の駅:うつのみやろまんちっくむらに行き、そこで終日ゆっくり過ごし、旅の最終となる温泉に入って一夜を過ごし、帰宅への道を辿ることにしていたのだが、途中から気が変わっり、今日中に帰宅することになってしまった。突然の旅の終わりだったが、今回は初めから旅のスケジュールにはこだわらないことにしているので、帰宅が一日早くなっただけのことであり、どうってことはない。

 今朝は3時には起き出し、2時間ほどブログ記事作成に取り組んだのだが、5時になるともう書くのは止め、近くにある日光街道杉並木路の散策に出かけることにした。どうしてもこんなチャンスは逃してはならないと思ったのである。世界遺産の日光といえば東照宮などのきらびやかな建造物を思い描くのが普通だと思うけど、自分的にはこの杉並木も又世界一のプロムナードであり、そこをゆっくり歩けることは、東照宮以上に歴史を感じられる場所だと思っている。道の駅が出来たおかげで、今日はそれをたっぷり味わうことだ出来るのだ。

 しっかり靴ひもを結んで一歩を踏み出す。しばらく商店街を歩いて杉並木の入口まで来ると、左手に瀧尾神社というのがあった。境内には派手な色の風車が幾つも並んでおり、よく見ると何やら願い事などが書かれていた。どのような由来があるのかは判らないけど、変わった神社だなと思った。参拝の後はいよいよ杉並木の中に入る。早朝5時の時間帯は、歩いているのは自分一人である。大木に囲まれた道の空気は、外部の世界からは隔絶されたマイナスイオンの湧き溢れる世界をつくっており、それは霊気とも思われるほどの厳かなものに思われた。浮かれるのではなく、この樹達が植えられて以降の400年に近い歴史のあれこれを思わされる敬虔な気持に捉われるものだった。杉の大木の道脇には水路が走っており、森閑とした空気を震わせて流れるせせらぎの音が、又それと相和すように美しい声の持ち主の鳥の鳴き声が、耳に届いて、何とも言えない至福の世界が続き広がっていた。

   

歩き始めた辺りの杉並木の様子。杉の根元付近には側溝のようなものがあり、その中を清流が音を立てて奔っていた。早朝の日の光は柔らかくて、まさに日光そのものだった。

   

30分ほど歩くと側溝は見えなくなり、杉林の裏の方への川の流れとなったようである。道はどこまでも続いており、ここに杉を植えることを発想した人物の大きさを思った。

 杉の木の保全のためなのか、オーナー制度というものがあるらしく、大木の一本一本にその所有者の名札が掲げられていた。自治体名や会社名、個人のものもあり、これらの樹を愛する人たちが多いのだなと思った。自分的には、樹を愛するよりも樹に愛されたいと願っており、所有者などという大それた振る舞いはできないと思っている。これからは時々ここへ来て、この空気を吸い込ませて欲しいと願うだけである。

 それから往復2時間ほどかけて杉並木の道を歩かせて頂いた。良くみると根本が合体している二本杉や中には三本も根本が一緒の樹もあって、樹木たちも必ずしも個にこだわるものでもないのだなと思ったりした。また、中には戊辰戦争で砲弾を撃ち込まれた樹もあって、彼などは今、往時をどのように回顧しているのかなと思った。並木の中には神社やお墓などもあって、これらはどんな歴史を辿って今日に至っているのかなとも思った。杉並木を分断して割り込んで建てられてる民家もあり、この人たちの先祖は、どういういきさつからこのような格別な地に住めるようになったのかなとも思った。杉並木には様々な歴史の思いが詰まっているのであろう。

   

砲弾撃ち込まれ杉の痕跡。近くに戊辰戦争の際の前哨戦がこの辺りで行われ、その際に被弾したとのことが書かれた案内板があったので、それと知ることができた。

 並木道の散策の中で見つけた花の中に、純白のシモツケがあり、これには感動した。光の少ない緑の世界の中にふわっと浮かび上がる白い輝きは、森の妖精の魂がそこに光っている感じがして、これが本物のシモツケではないかと思った。シモツケといえばピンクや赤を主体とした細い糸の密集したあでやかな美しさの花を思い浮かべるのだが、この杉並木のそれは純白なのである。写真に収めようとしたが、持参のカメラではその本当の姿を捉えるのはとても無理なので、一人この感動を胸に収めておこうと思った。7時過ぎ車に戻る。

   

純白のシモツケの花。このカメラではどうしてもクリアな画像を写し取ることができず残念である。シモツケの花は拡大鏡で見ることがとても大切である。それは吸い込まれるような花の世界に入ることになるからである。

 朝食を済ませ、一休みして出発したのは8時半ごろだった。途中コインランドリーを探しながら道の駅:うつのみやろまんちっくむらに向かう。このひらがな表示の長い名称の道の駅は、真に書きにくくありがたくない表示である。何故「宇都宮ロマンチック村」と表示しないのかと思うことしきりである。命名を弄り回して却ってその価値を下げるということは良くあることで、この命名はその代表例ではないかと思ったりした。途中一軒のコインランドリーも見つけられなくて、その長ったらしい名の道の駅に着いたのだが、広大な敷地にあるいろいろなテーマ別のエリアのことは、何だかさっぱり分からなくて、興味関心は分散し、空中分解してしまいそうな感じがした。駐車場も第4駐車場などという案内があるから、何処にどう車を停めていいのか判らないほどなのである。

取り敢えず物産館のエリアに入って見たが、ちょうどさつきの開花時期を迎えており、構内には様々な色合いのさつきたちがその妍を競うかの如く数多く並べられていた。建物の中に入ると開店したばかりの店内には、所狭しと地産の新鮮野菜類や加工品の数々が溢れるように並んでいた。自分たちの今日も目当ては、ここで昼食に宇都宮の名物の餃子を食べるということだったのだが、それらしき店は見当たらず、何だかここは宇都宮ではないのではないかと思われてきた。とても一日ゆっくり過ごせる雰囲気ではない。そう思った。

ということで、午後にここに戻ることにして、取り敢えずどこか近くの未だ行ったことのない場所へ行って見ることにした。取り敢えずここから一番近い道の駅にでも行って見ることにして、道の駅:どまんなかたぬまが候補に挙がったのだが、調べるとここから50kmも離れていてちょっと遠すぎる。で、次はと取り上げたのが道の駅:下野だった。確かこの近郊には国分寺跡などもあったはずだなどと勝手な思い込みを働かせたりして、とにかくそこへ行って見ることにした。幾らなんでもそこに行くまでにはコインランドリーの一つくらいは見つかるだろうとも思った。

それからあとは、今朝来た道を戻ってR119を宇都宮方面へ向かう。この道は途中から片側2車線のバイパスとなっていて、まるで高速道並みだ。これではコインランドリーなど見つけても停まることも出来ない。しかし、道の駅:下野に行くまでには何とかなるだろうと走っていたのだが、この道はそのままR4のバイパスに入ってしまい。それから道の駅に着くまでの間は、半高速道のような状態だったのである。下野が近づくにつれて筑波山が見え出し、それが次第に近くなり出した。こうなると、何もわざわざ引き返して道の駅:うつのみやろまんちっくむらに泊ることもなかろうという気持ちが俄然膨らむことになる。それで決めた。今日の内に帰宅することにしよう。そう決心してしまうと、相棒のぎっくり腰のためにもそれが一番なのに、なぜ明日の帰宅にこだわっていたのかが不思議な気がした。

道の駅:下野に行って見ると、何と今日は休館日だという。それに天気が良すぎてやたらに暑い。もう国分寺跡などはどうでもよい。どうせ相棒は歩けないのである。小山からR50に入って筑西に至る途中には今度こそコインランドリーは見つかるに違いない。ということで、道の駅を出発してR4から別れてR50に入り、結城市内でコインランドリーを見つけて洗濯に取り掛かったのは10時半過ぎだった。洗濯ものの運搬は自分の役割、コインランドリーの機械類の扱い管理は相棒の役割。それから洗濯が終了するまでの間は車の中で旅の記録の整理などをして過ごす。洗濯が終了して出発となったのは12時50分だった。相棒はこれで家に帰ってからの洗濯作業が楽になると安堵していた。

途中腹が空いてきたので、蕎麦でも食べようと走りながら道脇を探したのだが、そのような店は見当たらない。あった!と喜べば看板が残っているだけで店は廃業だったりして、この業界の生き残りの厳しさを感じさせられたりした。目立つのはラーメンの看板ばかりなのだが、この暑さでは食欲を満たせるのはやはり蕎麦である。走っている内に下妻の道の駅構内で手打ちそばを食べさせてくれる店があるのを思い出した。少し時間がかかるかも知れないけど、あそこなら探す心配もない。ということで、その後30分ほどで下妻の道の駅に到着。平日なので日中この時間帯の道は空いていた。

思えば今回の旅の出発日の昼食も道の駅:東山道伊王野で食べたのが蕎麦だった。帰りも蕎麦が最後の昼食となった。蕎麦で始まって蕎麦で締めくくりとなった旅の食事なのだった。そのようなどうでもいいことを考えながら食べた下妻の手打ちそばは、伊王野の蕎麦に引けをとらぬほど美味かった。万歳!である。いい気分で満腹となって、あとは勝手知ったるR294を安全運転で我が家に到着するだけである。

我が家到着14時35分。短かったけど、その割にはゆっくり出来た旅が終わる。

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第17回>

2016-06-03 02:34:44 | くるま旅くらしの話

【今日(6/1)の予定】 

  道の駅:日光 → (R119・他)→ 宇都宮市内コインランドリー →(R119・R121)→ 道の駅:うつのみやろまんちっくむら(泊)

【昨日(5/31)のレポート】  天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:R290とちお →(R290・R252・R17)→ 湯沢IC →(関越道)→ 沼田IC →(R120)→ 道の駅:白沢 →(R120)→ 日光・龍頭の滝 →(R120・R119)→ 道の駅:日光(泊)

<レポート>

 いろいろ考えて、帰宅日は6月2日にしようと決めた。この二日間は、普段なかなか訪ねる機会のない群馬県や栃木県の、未だじっくり足を留めて見ていない場所に寄りながら帰ることにしようと考えていたのだが、これが朝の出来事で不意になってしまい、変更を余儀なくされたのだった。

 今朝は二つの大きな出来事が発生した。先ず最初に困惑したのは、ブログの発信が出来なくなってしまったこと。出来ないわけでもないのだが、実態としては文字は送れても写真が送れなくなってしまったこと。というのは、過日相棒がガラ携をスマホに変更した時に、今までは旅の間だけ使うことにしていたドコモのクロッシ―の契約を、通信費用の安くなるスマホと一本化した契約に切り替えたのだが、その内容というのが、あるレベルを超えて使用した場合、通信速度が遅くなるというものだった。5月の16日から旅先でのネットを使い出して、14日目で残量の警告があったのだが、とうとう今朝になってその残量がなくなってしまい、通信速度の遅いスピードの世界に入ってしまったのである。初めて体験する世界だった。まあ、スピードは遅くなっても、なんとかなるのだろうと思っていたのだが、これが見当違いだった。文字の方は問題なしに送れるのだが、写真の方がダメなのである。写真を張り付けるのを前提に文章を書いているので、送れないとなると書き改めなければならない。この切り替えはそう簡単ではない。よって、発信するのは止めることにして、帰宅してから改めて追加報告することにした。残りは3日分だけなのに、毎日ご覧頂いている方には申し訳ない。お許しあれ。

 それからもう一つ事件が起こった。出発間際になって、相棒が車内を整理中にぎっくり腰を発症したのである。これはもう相棒のクセのようなものなのだが、重症ではないとしても、ア!イタタ~と来れば、旅先ではもはや健常者ではない存在となってしまう。予定している散策や探訪の類の歩きを伴った行動は困難になり、無理をすれば更に悪化の悪循環に入り込んでしまう。不注意と日頃の鍛錬不足に少々腹が立つのだが、大病を患ってハンディ大と考えている相棒を責めるわけにもゆかない。ま、今回はゆっくりの旅でやって来たのだが、先日のあがりこ大王の探訪や羽黒山参拝、それに昨日のヒメサユリの小路散策などかなりハードな歩行もあったので、その疲れが影響しているのかもしれない。とにかく起こってしまったことは仕方がないのである。

 ということで、当初の予定を大幅に変更しすることにした。ベストは今日中に高速道を走って帰宅することなのかもしれないけど、相棒に訊くと承服し難い顔をしている。もう少し様子を見たいらしい。それで、沼田までは当初の予定通りとして、その先沼田城跡の散策は止めることにし、伊香保温泉に入るのも止めにして、沼田からは少し坂道が続くけど、新緑の世界を楽しみながら尾瀬の片品村を通って、日光白根山脇の金精峠を越え、奥日光からの坂を下って、日光市の今市地区に新しく出来た道の駅:日光に泊ることにした。これならば距離も短く、車の中で過ごすにはさほど負担も多くはなかろうという判断だった。とにかく、旅先での健康や体調不安には困惑するのである。

 前置きというのか、言い訳け的な説明が長くなったが、そのようなわけで大きな変更を余儀なくされたのだった。今朝の栃尾の道の駅では、どういうわけなのか早朝の5時過ぎから車の外が賑やかになり出し、何事かと窓の外を見ると、何と消防自動車が2台も来ており、その他にいつの間にか20台を超える車が並んでいて驚いた。以前どこかの道の駅に泊った時、真夜中に同じように数台の消防自動車が警告灯を点滅させながらやって来て驚いたことがあったのを思い出した。あの時は何やら爆発物のようなものが道の駅のどこかに仕掛けられたとの情報があったとか聞いたけど、ガセネタだったらしく何事もなかった。今回は何なのだろうと思って見ていたら、どうやら消防団の人たちの消火訓練のようだった。消防団はアマチュアのメンバーで構成されているので、今日は消防署のプロの人たちの指導を受けての訓練を行うことらしい。もしかしたら、この地域では毎朝このような形で訓練を行っているのかもしれないなと思った。この頃は消火のみならず防災に係わるニーズ大の出来事が多発しているので、それに備えてのこのような取り組みは大切だなとも思った。号令のもとに隊列を整え、きびきびとした動作を続けている方たちの姿を見ていると、早朝から騒々しくて迷惑などという気持は無くなっていた。

   

栃尾の道の駅では、早朝から地元の消防団の人たちが熱心に消火訓練に励んでいた。

 そのような出来事もあって、今朝は落ち着かなかったのだが、9時少し前の出発となった。関越道に出るまでは、先ずは栃尾からR290を行って入広瀬からR252を小出の方に向かい、R17を南下して三国峠方面へ向かうことになる。栃尾からはしばらく上り坂が続き、やがて今度は下りの道となって入広瀬の集落が近づいてくる。この辺りは中越大地震で大被害を被った山古志村にも近く、当時は被災された方も多かったに違いない。何度かこの辺りを通っているけど、いつも残雪のある時期だったので、緑の平和な世界の中に落ち着いている集落の姿を見るのは初めてのことだった。そのあと、小出町に向かう道は高低差があまりが無くて走り易かった。この道を走るのは初めてだったが、思ったより多くの人家が道脇に続いており、いいところなのだなと思った。小出に出てR17に出て少し行くと、道の駅:ゆのたにという案内板があったので、そこに寄って一休みすることにした。相棒の調子は歩けないほどではなく、無理が利かないというレベルのようである。

 その後はしばらくR17を道なりに走り続ける。R17は幹線道路の一つであり、交通量も多いのだが、さすがにこの辺りになると赤信号で溜まる車も少なかった。当初の予定では塩沢石打ICから高速に入る予定だったが、道も空いているし急ぐ必要もないので、途中の道の駅:南魚沼に寄ったりしながら、ちんたらと進み、湯沢ICから関越道に入る。湯沢から県境を越えて群馬県の月夜野町に至るまでのR17はとんだ山道なので、このエリアは高速道を利用した方が老人にはず~っと楽である。湯沢ICを入ると間もなく関越トンネルに入る。長い。11km超もあり、日本の高速道のトンネルの中では現在2位の長さだとか。トンネルを走ると、事故のことを思ったりしてしまい、いざとなったらこのような長いトンネルの場合はどんな対応行動をとれば良いのか、などと複雑な気持ちになったりした。ようやくトンネルを抜け出て群馬県側に入り、谷川岳PAで小休止。ここには美味い水がある。一杯ご馳走になった。その後は直ぐに沼田ICが近づいて、ここで一般道のR120に入る。

沼田市は大河ドラマ真田丸にあやかって町を挙げて賑やかなようだ。何やら幟のようなものも見られた。今日は城跡のあった公園の方には寄らないことにして、元白沢村にある道の駅:白沢に寄り昼食休憩とする。白沢の道の駅は沼田城のあった場所につながる川岸段丘の上にあり、眼下に渓谷を見下ろす景観の素晴らしい場所にあり、温泉もあってその名も望郷の湯と名付けられている。この地出身の人ならずとも、この景色を眺めていると故郷のことを思い出すに違いない。そんな雰囲気のある場所だ。何度もお世話になっており、今日は昼食だけの時間だけど、産直販売所を覗いて高原野菜を買わせて頂いた。先ほどの南魚沼の道の駅で買ったコシヒカリのおにぎりは、やはり名に恥じず実に美味だった。しばらく休憩した後、片品村方面へ向かって出発する。

尾瀬沼への探訪は、片品村からが利便なようだ。自分はまだ一度も尾瀬を訪れたことが無く、この調子だと生涯写真で見るだけで終わりそうである。ま、他の湿原などはかなり多く訪ねているので、行けなくてもそれほど悔いは残らないと思っている。その尾瀬への道を通過して、厳しくなって来た山道をゆっくりと登り続ける。我がSUN号も14年を経過しており、老体となりつつある。無理をさせないように走らせるのは自分の使命だと思っている。金精峠は標高が恐らく2000m以上あるのではないか。道が比較的良い状態なので、さほど登りの辛さを感じないで済むのがありがたい。丸沼、菅沼を過ぎて間もなく峠下のトンネルを抜ける。ここから一気に視界が開けて、目の前に日光男体山がその荒々しい山容を現出していた。その奥に聳える女峰山もくっきりと見えて、大きな景観が広がっていた。下界の天気は分からないけど、今日のこの辺りの山の天気は上機嫌そのものだった。

曲がりの連続する道を慎重にハンドルを操作しながら長い坂を下る。間もなく湯元に出て、更に下って行くと中禅寺湖が近づき、竜頭の滝の上方の駐車場があった。ここで少し休むことにして。相棒は車に留まり、自分一人が滝を見に下方の駐車場の所まで階段を歩いて往復することにした。相棒は朝よりも痛みが増したようで、とても坂道を歩いて往復できる状態ではない。気の毒だけど仕方がない。竜頭の滝を見るのはしばらくぶりのことだ。日光といえば華厳の滝が有名だけど、この竜頭の滝もなかなかのもので、名瀑の一つに数えてもいいように思う。ごつごつした岩場の上を水が揉み合うようにして、白い飛沫を撒きながら音立てて奔る様は、如何にも竜が雄叫びをあげているのをイメージさせて豪快である。階段参道の山側には山ツツジの鮮やかな赤が、葉の緑に映えて一段と美しかった。相棒には悪いけど、一人たっぷり山と渓谷の風情を楽しんだ時間だった。

   

頭の滝。この滝は下方では流れが二つに分かれているけど、少し上のこの辺りは岩肌を急流がせめぎ合うように奔って流れている。

その後更に下って行くと、中禅寺湖の湖畔傍近くに、突然派手な赤い色の花を咲かせた植物の一団が現れた。驚いてスピードを下げて見て見ると、何と九輪草の群落だった。車を近くの駐車場に止め、カメラを持ち出して撮影することにした。これには相棒も参加して、しばらくの間彼女たちの姿をカメラに収めるのに専心した。かなり前からこの小さな湿地に自生しているのであろうか。いま、その花を最高の状態で咲かせている九輪草の群落は、まるで全草が歓喜の叫び声を上げているように見えた。今までいろいろな場所で九輪草を見て来ているけど、これほど見事に咲き揃っているのを見たことが無い。これも相棒が今朝、わざわざぎっくり腰になってくれたおかげなのかと、複雑に感謝した。禍福は糾える縄のごとしとは、このような出来事にも当てはまるのだろうか。とにかく嬉しくもありがたい鑑賞の時間だった。

    

     小さな湿地には見事な九輪草の群落が広がっていた。

       

九輪草の一株。九輪草の命名の由来は、花が九段に重なって咲くところから来ているようだ。咲き終わった跡を見てみるとそれが良く判る。 

今日の宿は、日光市内に新しく出来た道の駅:日光に泊ることにしている。日光市は平成の合併でわが国有数の広大な面積を有する市となっており、道の駅のある場所はどこなのかと思って調べたら、旧今市市内だった。途中の東照宮エリアで、相棒がカステラを手に入れたいというので、それを買ってから坂を下り、杉並木の脇の道をしばらく走ると道の駅のある市街地に入り、直ぐに道の駅に到着する。新しい道の駅は「日光ニコニコ本陣」という愛称で呼ばれており、日光観光の基地の一つとして機能させる目的もあって作られたとか。構内にはこの地出身なのか、作曲家の船村徹氏の記念館なども設けられていた。何と言っても一番いいなと思ったのは、日光街道の杉並木から700mほどの所にあり、明日の朝は、あこがれの散歩が叶うということである。大いに期待を膨らませた。

そのあとは、今夜はこのところ過食の嫌いがあるので、ご飯を炊くのは止め、栃尾で買ったあぶらあげを肴に一杯だけやって夕食とし、あとはTV休憩の後寝るだけとすることにした。あぶらあげの調理は自分の担当で、大きなあぶらあげの腹を裂いて、そこにネギと味噌を練ったものを塗り込み、それをフライパンの弱火でほど良く焼き回して、それで出来上がりである。真に簡単な一品だけど、他のあぶらあげでは決してできない美味な一品でもある。要はあぶらあげの中に何を入れて焼くのかだけである。この次は何を入れようかという楽しみがある。チーズをレタスに包んで焼くという参考メニューなどもあり、これも美味そうだ。栃尾のあぶらあげは、口に中に入れて、しばらく噛んだ後に美味さの本性がにじみ出てくるのが良い。それが酒の味を引き立たせ、口の中のうま味を感じさせる壁に感動を沁み込ませてくれるのである。と、そのようなことを為しながら、残り少なくなった旅の夜を迎える。相棒は静かである。明日までに復活すればいいのだが。

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