山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

インターネットじいちゃんへの憧れ

2014-04-05 06:19:04 | 宵宵妄話

 先に老人の定義などという大それた話をし、それが未来との断絶度でレベルが決まると書いたりしたのだが、その後も老計とか死計などということにあれこれ思いを巡らしている。そのような中で、先日ネットのニュースを見ていたら、見出しの中に「インターネットじいちゃんが亡くなられた」との記事があり、俄然目を引いた。

これは一体どういう方なのだろうと読んでみた。それはイギリスのピーター・オ―クレイさんという方で、3月末に86歳で亡くなられたとのことだった。

この方は、奥さんに先立たれての一人暮らしの中で、78歳の時に偶然YouTubeという動画サイトに出会い、自らも動画を投稿されたとのこと。その初めて投稿した動画が300万回近い再生回数を超す人気作となり、大変な反響を得たとのことである。一時はYouTubeのチャンネル登録者数1位を記録したこともあったという。その後次々と動画の投稿を続けられて、お亡くなりになるまでに434本もの多くを作られたと書かれていた。

 私はあまり動画には関心がなく、YouTubeを滅多に見ないので、このような凄い方がおられることを全く知らなかった。一体どの様な内容の投稿をされたのかと早速YouTubeを覗いてみた。英語での話なので、残念ながら意味は良く判らないのだけど、書斎らしき場所で、淡々と話されるその語り口からは、誠実さと優しさが伝わってきた。どうやらご本人の過去の思い出などを多く語っておられるようだった。geriatric1927というユーザー名を用いられての投稿だったというから、1927年生まれの老人ということになり、それを強く意識しての投稿内容だったのだと思う。最初の投稿というのが今から8年前の2006年であり、その頃ではイギリス国といえども80歳近い高齢者の投稿は珍しかったに違いない。それは現在でも同じように言えるように思う。ネット社会への高齢者の参加は、まだまだ普通のできごとにはなっていないように思う。

 そのような社会環境の中で、この方が「インターネットじいちゃん」と親しまれ、「あなたが僕のお爺ちゃんであったら良かったのに」とか「あなたのお話は、面白くて気持ちが豊かになって来るんです。頑張って続けて下さい」という様なたくさんのコメントが寄せられて来ているというのは、真に素晴らしく、これからの世の老人の鑑のような生き方だったと讃えたい。

 ところで、この方の存在を知って改めて気づかされたことが二つある。その一つは、学ぶこととその実践の大切さということであり、幕末近い江戸時代の大儒佐籐一齊の言志晩録「三学戒」の一項「老にして学べば、死して朽ちず」であり、もう一つは、老人が学ぶ力はその人の持つ過去の中に埋蔵されているということだった。

 最初の一齊先生のことばは、既知のことだったけど、再確認をさせて貰った。オ―クレイさんは、まさに「老にして学べば」を実践されたのだと思う。妻を亡くしてのちの78歳という年齢は、落胆の力が上回って無力・無気力の世界に落ち込むのが普通のように思えるのに、この方はその壁に対してgeriatric1927を堂々と名乗って、見事に乗り越えられたのだった。それは学びと実践のお手本のように思える。ネット社会を趣味で覗くなどというレベルを乗り越えて、自ら実践行動を果たしているのである。その本質は学びにあったに違いない。そうでなければ、世界中の多くの人の共感を得るような話は決して出来ないからである。

 もう一つの学ぶ力のエネルギーは何かということなのだが、私自身はこのことについて、長い間誤解をしてきたことに気づかされたのだった。というのは、老というのは未来からの断絶度が高まることによって深刻化すると考えており、そのためには老人は未来をより以上自分に引き付けておかなければならないと考えていたのである。そしてそのためには、過去を振り返らずきっぱりと忘れ去って、新しい現実の中に生きればよいと思っていたのだった。事実、リタイア後の人生はその考えを中心に過ごしてきたと思う。それは決して誤った生き方ではなかったように思うけど、このオ―クレイさんの生き方を知って、老人の力とは、そのエネルギーの源泉は自分が積み上げて来た過去の中にこそあるのではないかと思ったのである。というのも、YouTubeの動画の中での彼の話は、過去を現在につなげる仕事だったように思えるからである。Geriatric(=老人、おいぼれ)だからこそ価値がある話なのである。1927年からの様々な経験、体験を積み上げたからこそ現在と未来につなげなければならない話が出来るのである。そう思ったのだった。

 これは、今までやや意固地になって過去のことに触れなかった自分にとって、大きな刺激を受けたことだった。自分の持っている過去の中で、過ごした時間が一番大きかったのは、一企業に勤務し、関わった42年間である。この42年間に関して、今まで殆ど触れたことがない。しかし、オ―クレイさんならずともこの42年間には、現在や未来につなげるべき体験や経験が、それこそ山ほどあるのである。これを無理やり閉じ込めておくのではなく、緩やかに開放し、自在に語ってもいいのではないかと気づかされたのだった。

 今まで過去を封じ込めようとしていたのは、そこからの話題は同世代以下の若い人たちには、老人の愚痴や繰りごととして受け止められるだけだという思いがあり、そのような行為は断じて避けようという考えがあったからなのである。しかし、オ―クレイさんの話を聞いて、過去の材料の中にも現在や未来とつながるものは幾らでもあり、むしろそれを為すことが老人の特権と考えてもいいのではないかと思ったのである。改めてよくよく考えれば、若い世代とつながるために老人が出来ることといえば、過去を力とするしかないのであって、若者を凌ぐような未来を語る老人など気持ち悪い存在となるに違いないのだ。そのような老人はインチキに決まっているからであろう。オ―クレイさんからは、そのような大切なことを学んだように思う。と、言ってもさし当たって無理に何やら為すこともない。気持ちの上で、肩の力を抜くことが出来たと感謝している。

 それにしても、偉大なるインターネットじいちゃんだったと思う。もしかしたら、日本国内にも同じような方がおられるのかもしれない。実のところ、私はブログやYouTubeなどの他人様の作品を殆ど読まないので、どこに、どのような方が、どんな作品を作られているのか知らないのである。他人様のことを知るよりも、自分のものをどうするかのほうが気になっており、この習癖はまだ当分続くのではないかと思っている。YouTubeのような動画専門のブログの方が、世界を相手にする場合は、一段と優れていることは承知していても、今のところそれにチャレンジするつもりはない。今までと同じようにくどくて稚拙な文を書き綴ってゆきたいと考えている。とてもオ―クレイさんのような存在にはなれないけど、ずっと彼が残した「朽ちないもの」に憧れて行きたいと思っている。

 お亡くなりになられたピーター・オ―クレイさんに、心から哀悼の念を捧げると共にご冥福をお祈りいたします。

 


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