山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

歩く楽しみで新型コロナウイルスに対峙する

2020-04-23 02:58:56 | 宵宵妄話

 新型コロナウイルス禍で動きがとれない中、唯一の楽しみは早朝の歩きとなっている。自分の歩きは、昔は歩くのではなく走りだった。それが歩きに変わったのは40歳半ばに膝を痛めて走れなくなり、その後50歳の初め頃に糖尿病を宣告されてからは、もう走るのは諦めることにして、とにかく歩くことに努めることにした。糖尿病には運動療法が不可欠であり、これを何とか我が身に定着させようと考えたのである。

 何しろ現役時代だったから、歩く時間をつくるのが大変だった。休日の歩きだけでは不足するし、何よりも運動は毎日継続することが大事なのだ。それで、朝夕の通勤時間を歩きに使うことにした。当時川崎市の南武線、中の島駅近くに住んでいて、職場は都心や都下の小平市への通勤だったのだが、いずれの勤務先でもバスや電車の下車場所(バス停・駅)を一つ手前で降りて、そこから歩くことから始めた。その道に慣れて来ると、更にもう一つ手前で降りて歩くというふうにして、その度に家を出る時刻が早くなっていった。

 例えば、都心の大手町へ通う時は、小田急線で通っていたのだが、歩く距離が最長の頃は、毎朝代々木上原駅で下車し、そこから代々木公園を横切り、日替わりで都心を縦横に横断し、大手町の勤務先に出勤していた。毎日少しずつコースを変えて、2時間以上歩いていると、東京の街の様子が何となく見えるようになったのを覚えている。

また、小平市にある勤務先へは、最初は南武線経由で中央線の武蔵小金井駅で下車し、バスで花小金井にある事務所近くで降りて通勤していたが、やがてバスを無くして武蔵小金井駅から歩くようになり、しばらくして国分寺、西国分、府中本町駅から歩くようになり、とうとう2度ほど、川崎の住まいから20kmほど離れた事務所まで、直接歩いて行ったことがある。その時は4時間近く歩いただろうか。

 このようなことを、当時は誰にも話したことは無かった。朝からそんなに歩いたりしたら、肝心の仕事の方はどうなのか。まさか居眠りばかりしているわけにもゆくまい、と思われるのだろうが、決してそのようなことは無かった。何故なら、歩きの時間というのは存外、考える時間となるのである。仕事に関する課題の多くは、歩きの間に思いを巡らすことができ、それを日中整理すれば却って仕事が進んだのである。

 又、歩きの時間には考えるだけではなく、様々な楽しみを加えようと、いろいろなことにチャレンジした。先ずは小型高性能のラジオを購入し、それを活用することから始めた。事務所に着く頃には、今日現在の日本の動きや事件をかなり詳しくものにすることが出来たし、音楽も大いに楽しめた。ニュースは同じことを何回も繰り返すので、記憶が強まるのである。又当時流行り出したウオークマンを購入して、これは音楽ではなく各界の著名人の講演や講座などの録音テープを聴いたり、時には自分自身で作成した自分の声のテープを聴いたりして、飽きることは無かった。或いは、今でも大事な趣味の一つである野草の観察も、この時の歩きの中で道端の草の名を全部覚えてやろうと思いついたことから始まっている。

 この歩きの楽しみは無限であり、30年以上自分の暮らしの中に定着している。糖尿病を宣告されてからは、毎日どれくらい歩いたかの万歩計の記録を残すようにしており、多い年では650万歩を超えた時もあり、現在でも少ない年でも500万歩を超えている。因みに旅に出かけられなかった昨年(2019)は、約640万歩の実績だった。

万歩計にはかなりの誤差が付きまとうので、その数から測った距離はまともに信頼はできないけど、自分の実感としては毎日少なくとも平均7~8kmくらいは歩いており、これを年間で積算すると昨年の場合は、2,700km以上歩いているのではないかと思っている。記録するのは面倒に見えるけど、毎日パソコンにデータを打ち込む時に、その日の出来事を一言付け加えておけば、例えば10年前のその日に何があったかを知ることも簡単であり、自分にとっては過去を振り返る際の簡便で貴重なデータとなっている。

 さてさて、この話を好きなだけ書くことになると、とんでもないボリュームとなってしまう。今日のメインは、新型コロナウイルスへの対応策としての歩きについての話である。

 非常事態宣言が出されて、不要不急の外出は控えるようにとのことだが、自分としてはこの朝の歩きを止めることはできない。何故ならこれを止めて、家の中に籠っていれば安全かと言えば、却って危険だと思っているからなのだ。というのも、この悪意に満ちたウイルスへの対処方法の基本は、自分の身を自分で守るということであり、何よりも医療機関などを当てにしないことだと思っている。つまり、ウイルスの入り込む余地の無いような強い身体を保持続けることであり、その基盤となるのが運動なのだ。籠ってTVなどを見ながら、あれこれ勝手なコメントなどばかりしていて、身体を動かさない状態では、老人の体力は低下し、免疫機能も低下するばかりであろう。動物である人間には、動くこと、運動は生きてゆくために不可欠なのだと思う。

 とはいうものの、今のこの時期、日中に歩きを敢行するというのは無謀というものだろう。何事も過信というのは人生の大きな罠となる。人々が活動をする時間帯は避けなければならない。

ということで、今は毎朝5時少し前に家を出る。早朝に歩くのは、いつもの習慣なのだが、この時間帯は殆ど人に会うことは無く、車も殆ど走っていない。加えて、あまり車や人が通らない樹木などの多い道を選んでいるので、コロナへの感染度もほぼ0に近いのではないかと思う。時々人に遭っても、離れて挨拶を交わすくらいで、早朝に風邪気味の人がわざわざ散歩することもないだろうし、逆に元気な人でなければ散歩などしないに違いない。だから、マスクなどしなくても心配する必要はないと思っている。

 15年前に守谷市に引越してからは、歩くための基本コースとして3つを用意しているのだが、コロナ禍の前は各コースとも2時間程度の歩きで、万歩計は1万5千歩ほどだったのだが、現在はそれよりも1時間ほど増やしており、帰宅すると万歩計は2万歩前後となっている。このように変更したのは、朝の内にこれだけ歩いておけば、1日の運動量としては十分であり、それ以外は必要な買いもの等以外の外出はしないようにするためである。又、外出するときは嫌いなマスクだけど、必ず使用することにしている。マスクは在庫が無いので、家内の手づくりの物を使っているが、これはかなり高性能なのではないかと思っている。マスクは自分のためというよりも不特定多数の出会う人たちのために着けるのだと思っている。

 早朝の空気は浄化されており、実に美味い。道端には数多くの野草たちが花を咲かせ、農家や民家の庭先には様々な樹木たちが花を咲かせている。まさに百花斉放の感がある。今は、桜は終わったけれど、まだまだ春の花の最盛期なのだ。それらを見ながら歩いていると、新型コロナウイルスなどの入り込む余地などどこにもないように思えてくる。人間同士が悪魔のウイルスに踊らされて、疑心暗鬼を膨らませるばかりなのに比べて、身近な自然の生きものたちの春の謳歌は、自分の心の乱れを浄化してくれて、真にありがたい。この歩きを止めるわけにはゆかない。

 新型コロナウイルスとやらが白旗を上げるまでは、かなりの長期戦となるのだと思うけど、旅のことは諦めることにしても、これからはこの歩きを継続して、真老期に出くわしてしまった、この世の大事件の成り行きをしかと見届けることにしたい。


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