また12月8日がやってきた。
太平洋戦争が始まった日である。というか「始めた」日である。
今月も怒りの月になりそうである。
戦争というと、原爆、空襲、特攻隊と、被害者としての視点で語られることが多い。戦争の悲惨さを語るのに、それも確かに必要である。
しかし、太平洋戦争の前も、その後も、中国全土で戦争が続けられていたことを忘れてはならない。
満洲事変は、またあらためるとして、1937年7月7日に盧溝橋で日中全面戦争が始まったことは書いた。

盧溝橋で戦線を視察する河辺正三少将
写真はこちらから。
その年12月には、日本は、あの有名な虐殺事件の起きた首都南京まで押し進んだ。
しかし蒋介石は、とうに南京を抜け出し、漢口を経て重慶へ。そして、重慶を首都とした。
渡洋爆撃の始まりでもあった。
爆撃機に乗っていた人の本を読んだことがある。日ごろから、動体視力を養うため、電車に乗っていても、看板の字が読めるような努力をしたこと。
そして、初めて重慶に爆弾を落としたとき、下に住む人びとを思い、胸が痛んだ。しかし、それも慣れてしまったと。
ここが恐い。これが戦争なのだと思う。

(出典は上記に同じ)
北支、中支、南支と広がるばかりで、泥沼の戦争とか、点と線ばかりで面にはならなかったと言われる。
子どもたちは、日本が勝つたびに、地図に印をつけていった、という。
ここも、怖い。そこの住民たちの苦しみをなにも考えていないということが。
さらに、蒋介石を援助するという「援蒋ルート」なるものが南支にできていた。
世界中から中国との戦争をやめろと言われ、日本に経済制裁がされた。
ABCD包囲陣である。
アメリカ、ブリテン(英国)チャイナ(中国)ダッチ(オランダ)の略。
その矛先はアメリカに向けられた。
海軍は、石油の備蓄がある今なら勝てる、と主張した。
本土では戦闘や空襲こそなかったものの、続く戦争のため、すでに物資は不足し、国民は飢えていた。
{ぜいたくは敵だ」という標語ができたりした。

結局、日本は大国アメリカ相手に戦争を始めた。パールハーバーの奇襲である。
中国との戦争は、それでも続いていた。
蒋介石の妻宋美齢は、アメリカへ行き、演説までした。
(ネットより借用)
・なぜ祀る瀕死の国を鞭打ちてなお戦えと煽りし将を
(byつゆ)
太平洋戦争が始まった日である。というか「始めた」日である。
今月も怒りの月になりそうである。
戦争というと、原爆、空襲、特攻隊と、被害者としての視点で語られることが多い。戦争の悲惨さを語るのに、それも確かに必要である。
しかし、太平洋戦争の前も、その後も、中国全土で戦争が続けられていたことを忘れてはならない。
満洲事変は、またあらためるとして、1937年7月7日に盧溝橋で日中全面戦争が始まったことは書いた。

盧溝橋で戦線を視察する河辺正三少将

その年12月には、日本は、あの有名な虐殺事件の起きた首都南京まで押し進んだ。
しかし蒋介石は、とうに南京を抜け出し、漢口を経て重慶へ。そして、重慶を首都とした。
渡洋爆撃の始まりでもあった。
爆撃機に乗っていた人の本を読んだことがある。日ごろから、動体視力を養うため、電車に乗っていても、看板の字が読めるような努力をしたこと。
そして、初めて重慶に爆弾を落としたとき、下に住む人びとを思い、胸が痛んだ。しかし、それも慣れてしまったと。
ここが恐い。これが戦争なのだと思う。

(出典は上記に同じ)
北支、中支、南支と広がるばかりで、泥沼の戦争とか、点と線ばかりで面にはならなかったと言われる。
子どもたちは、日本が勝つたびに、地図に印をつけていった、という。
ここも、怖い。そこの住民たちの苦しみをなにも考えていないということが。
さらに、蒋介石を援助するという「援蒋ルート」なるものが南支にできていた。
世界中から中国との戦争をやめろと言われ、日本に経済制裁がされた。
ABCD包囲陣である。
アメリカ、ブリテン(英国)チャイナ(中国)ダッチ(オランダ)の略。
その矛先はアメリカに向けられた。
海軍は、石油の備蓄がある今なら勝てる、と主張した。
本土では戦闘や空襲こそなかったものの、続く戦争のため、すでに物資は不足し、国民は飢えていた。
{ぜいたくは敵だ」という標語ができたりした。

結局、日本は大国アメリカ相手に戦争を始めた。パールハーバーの奇襲である。
中国との戦争は、それでも続いていた。
蒋介石の妻宋美齢は、アメリカへ行き、演説までした。

・なぜ祀る瀕死の国を鞭打ちてなお戦えと煽りし将を
(byつゆ)
ここだったのですね。
東條英機をまとめた本の中では、長男は父親を嫌っていたそうです。
「あいつのせいで俺はイジメられた」というのか印象的でした。(芙蓉書房)
一時、孫娘がテレビで盛んに祖父を擁護していたようです。亡くなられたようですが。
更に恩恵を受けている子孫
私の見方が穿っていて、子供達にそれ相当の能力があったのかも?
年若い乙女まで駆り出されたのですね。
昨年は、私もブログに載せることなく過ぎてしまいました。
首相案件の憲法改正案があまりに酷いことを知り、少しでも伝えられたら、と思い、書き連ねました。
今日たまたま見送られることになったとか、ほっとしました。
何度もいらしているのですね。中国語もすっかり物にされて。重慶まで!
終戦時4才だった私は50を過ぎてからの勉強で、記者さんの記事や写真にどれだけ助けられましたことか。
東北地方の満州里、アムール川沿いの黒河、内モンゴルなどへ行きました。
政治的なことを抜きにすれば、奥の深い魅力ある国ですね。
お目にかかれて、嬉しゅうございます。
私自身戦時中、学徒動員で軍需工場へ動員されました。
なのに、12月8日を特別の感慨もなく過ごしてしまいました。
恥ずかしいことです。
たくさんの犠牲者のみなさんに申し訳ないことです。
戦後生まれや若い人に第二次大戦を思い起こせと言っても無理でしょう。
重慶も南京も国交回復後数回訪れました。
父は従軍記者として中支を取材して回りました。
南京支局勤務でしたので私たち家族も一時期滞在しました。
私は現地に出来た日本人小学校へ
帰国まで通いました。
貴重な写真が残っています
長々と書いてごめんなさい。
准尉さんなら兵卒ではなくて、
軍人さんだったのですね。
団塊の世代の方々が、日本の経済成長を成し遂げたと思ったりしています。だって、戦場でのことを思えば、仕事上の苦労に耐えることが出来たのだ、などと考えたり。
元年とは、いまどきお若かったのでは。
お母さま、当時の職業婦人、かっこいいですね。
女性もけっこう強かった。
茨木のり子の詩を思い出しました。
円いテーブルを囲んで
支那での体験談を。
あまり話したがらなかったのは
子供には話せないことの方が
断然多かったからなのかな~なんて。
父は准尉として北支に行ってたようで
お陰でそんな時代には考えられない出会いで
看護婦として戦地に居た会津生まれの母と恋愛。
そんな時代だからこそのロマンだったでしょうか。
元年に父を、21年に母を送りましたが。
父もシベリアへ抑留され、帰って来ました。厳しい寒さについては語りましたが、後年私が知ることになった悲惨な話はしませんでした。話せなかったのだと思います。
団塊の世代のお父さんたちも、平和な日常生活のなかで妻や子に語るのは憚られたのでしょう。
ポツダム宣言は7月26日に出されたのですから、すぐ返答すれば、最後の悲惨も避けることができたでしょうに。
あの時代、5.15事件や2.26事件で軍部が強くなり、反対意見に「黙れ!」と怒鳴った黙れ事件がありましたが、今は緩やかな黙れと同じ、狡猾ですね。
ミスターAは、もっと酷いことを目指している気がしてなりません。
おはようございます。
今は亡き父も伯父も戦争経験者です。生きて帰ってきたから私がここにいるのです。
小学校6年生の時交通事故で無くなりましたが、戦争のことを聞いたことは1度もありません。
本当に軍部は今なら勝てると踏んでいたのでしょうか?
どうして原爆の前に戦争を終わらせなかったのでしょうか?それも2度も。
もちろんたらればの話になってしまいますが、たくさんの人が命を落とさなくても済んだのだと思ってしまいます。
今の自民党の国会のやり方を見ていて、少数意見に聞く耳を持たないやり方は戦前に共通するものを感じてしまいます。
この日になると、ニイタカヤマノボレ、トラトラトラを思い出してしまいます。
お従兄さんが、特攻隊で!
お若かったでしょう、お気の毒に。
パールハーバーは8日です。ですから、昨日上げたかったのですが、痛くてもぉ〜ただ、そういう悲惨な日は意外とよく眠れたりします。
インテリネトウヨは、たった1冊読んだぐらいで絡んできますからね。
まだ入れません。アカウント変えたらどうなのと、ルームメイトに聞きましたが、ワーキングプアでもあるので、ロボットのすることだからと、生返事して出かけて行きました。
ブログも大変です。昨日は調子が悪く、とても座れず、資料の確認や写真のどれを載せるかで、うろうろ。宋美齢の演説写真は、手持の資料のどこかにあるはずなのに、探し出せず、小さくなってしまいました。
平和な日本は、という普通の人にも伝えたいとも思うのですが、こちらも大変です。
私も従兄が特攻隊員で亡くなりました。
伯母の悲しみを見ていて、子ども心にもこんな悲しみを与える戦争は悪だと思いました。
もう2度と戦争はあってはいけませんね。
パールハーバーの日は8日だったのですか。
コメントも拝見しましたがTwitterよりゆったりされてますね。私は同じ毎日です。でも金太郎飴に飽きまして今右の人をフォローしました。一人は落語ファンで問題なし、一人はインテリネトウヨで大変ですが面白いです。飴の味が全く違います。
また、お話します。 返信は必要ありません。それでは失礼します。