蓬 窓 閑 話

「休みのない海」を改題。初心に帰れで、
10年ほど前、gooブログを始めたときのタイトル。
蓬屋をもじったもの。

明治の医療従事者

2021年05月01日 | 思いだすままに

 朝は晴れていた。気持ちのよい五月晴れ。そこここを開け、大気を入れる。しかし、飛行機の音がうるさい。確かに増えている。まとめて飛ぶ。以前よりずっと低い位置を旅客機が行き、高度を下げると、小名木川のほうへ飛んで行くのも、二度ばかり見た。 

 そして、地震。

 いまは? 雨。入道雲もなく、雷の音。変なお天気、それにしても天気予報がよくあたる。

 おとなしくベッドにいよ。ベッド周りを天国にしてはいけない、のだが、読みもしない本を積み上げ、老眼鏡を2種類、薬やマスクの箱と、すぐごちゃごちゃ。

 老人にはというか、私には過去しかない。でまた、過去の話を。

 肖像画は、母方の祖父である。

 でも、私は会ったことがない。

 母が16歳のときに亡くなり、その後、苦労したという。

 母の母である祖母は、この人の二番目の妻であり、19歳も年齢が違っていた。

 最初の妻は、ある日、竈(かまど)の前で、変な咳をしているのを祖父が聞きとがめ、

「おまえ、労咳(ろうがい)だな」と言うと、すぐさま「実家に帰れ」と帰してしまった。

 祖母は「その話を聞いて、冷たいお人やなあと思った」と話していた。

 結核は、当時は死に至る病い、しかも伝染する。

 診療に来る患者に伝染ってはいけない、という決断だった。

 明治の半ば、尾張藩の下士だった祖父は東京へ医学を勉強しに行った。行きは徒歩か駕篭を使ったが、帰るときは鉄道が通っており、汽車で帰って来た。

 母の実家には、母の弟(私には叔父)家族が住んでおり、幼いころ、母に連れられて、よく行ったから、その家の間取りなどは、目に浮かんでくる。

 いつも裏口から入り、土間と板の間のあるところで、母は自分の母親や弟の嫁と女同士の話をよくしていた。従妹たちと遊んでいたとき、正面の玄関が開いており、ふらりと入ると、高い寝台状の台があり、床は白いタイル張りだった。たぶん、そこが診察室だったのだろう。

 祖父の書いた家の履歴書がある。宝暦年間から始まり、養子ばかりで、繋がっている。名古屋の蓬左文庫には、代々の家臣の記録(名寄帳)が残っている。おまけに、古文書からワープロ文字にもしてある。祖父の履歴書に出てくる名前をすべて確認してきたことがある。

 ちゃんと生きていたんだ、と嬉しかった。

 「サムライ・ダイアリー」の朝日文左衛門さんを探すのも面白いだろう。

 おやおや、今度は陽がさしてきた。