下記は、ある会の会報に掲載されたものである。
新入会員には、順番に書かせていたものらしく
「心に残る中国」というタイトルで毎号会員のだれかが書いていた。
会えない人びと
ホロンバイル草原の星空、買い物の香港、万里の長城、なにげない市場の雑踏ーーこうした風景は、たぶんだれにとっても印象深く魅力的だと思う。そして、そこで出会う人びとも。
ただ、戦前の中国を考えるとき、そして当時の日中関係を知ろうとするとき、歌の文句ではないが「傷つき汚れ」ないでは、その歴史をたどることはできない。
しかしまた、戦争という汚穢のなかに、わたしたちは、ひたむきな一筋の流れを見いだすこともできる。
盧溝橋で一発の銃声が鳴ってから、和平のために日夜奔走する多くの人びとがいたのだ。
戒厳令下、中国の要人に会えるまで雨のなかを立ちつくす現地の軍人、あるいは、首相の密命を受け中国に向かう船上、神戸港で憲兵につかまってしまった人、あるいはまた、やはり首相の依頼によって偽名を使ってまで上海に渡り、交渉の糸口がつかめたかに思えた……中国の要人たちも、その都度協力の姿勢をみせてくれたが、そのどれもが失敗に終わった。
和平に腐心した人たちは、さぞかし失意と悔し涙にくれたであろう。
わたしはいま傷つきながら、その無念の涙を思い、終戦までつづいたこの流れをたどっている。日中戦争が始まったときはまだ生まれておらず、舞台となった往時の上海や南京に、この身を置くことはできない。また、和平交渉の当事者たちにお会いすることも、今やかなわない。
この見ることのできない中国、会うことのできない人びとが、いまのわたしにとって心に残る中国なのである。
2003年とあるからまだ元気で、小難しい本を読みこなそうとしていた。
雨のなかで居留守を使う中国要人の家の前に立っていた人は、今井武夫大佐である。
近衛首相の密命を受けたのは、柳原白蓮の3番目の夫、宮崎龍介。
記憶も薄れているが、上海まで出かけたのは、たしか西園寺公望の孫西園寺公一である。
和平交渉は、いろんな人々、数多くの人々によって、終戦までつづいた。
いま韓国の船からレーダー照射を受けたとか、アメリカが宇宙軍をつくるとか、はたまたフランスの空母が太平洋に来るとか、きな臭いニュースが多い。どちらの映像が正しかでいきり立つのではなく、冷静に事を小さくおさめることが肝要だと思い、以前のブログを持ち出したしだい。