高橋真梨子の歌は、寂しさと物語性があって、なぜか心惹かれる。音色に独特の歪があって、それが彼女の歌を特別なものにしているという。彼女について全く知らなかったが、NHK・Eテレ「団塊スタイル」に出演した彼女を見て、その魅力が彼女の人生から自然に湧き出るものだと知った。辛苦を乗り越えた頑張りや自負心を感じさせない人だ。家族や自己との葛藤を乗り越えて来た者にだけ、備わるさりげなさ、弱さを隠さない自然体に強さを感じた。
1949年、まだ戦争の爪痕が残る広島で、一人娘として生まれた。父親は、ジャズバンドでサックス奏者として活動するミュージシャン。高橋が1歳半のころ、ジャズが盛んだった博多へと移り住む。家では父がフルートやギター、太鼓などを演奏していたのを覚えているという。しかしその数年後、父親は難病に侵され、両足を切断する。
「苦しんでいる父、痛がっている父…激しい痛みで、新聞紙を顔にのせて泣いていた父の姿を覚えている」
母親は水商売でモルヒネ代を稼ぐのに必死だった。これ以上家族に迷惑はかけられないと単身広島に帰ってしまった父親。その後、離婚することになり、親権は裁判で争われたが、両足を失っている父に親権が渡ることはなかった。
「母との思い出は……いい思い出は、あんまりなかったですね。いつも一人ぼっちで…」
父親が病気に苦しんでいる頃からずっと、妻子ある男性との恋愛に夢中だった母親。孤独の中で支えになったのは、音楽だった。「恋のバカンス」が流行していたザ・ピーナッツに憧れ、中学生で「歌手になりたい」と父に打ち明けた。大好きだった父親には、年に数回広島まで会いに行っていた。
父に、「いいんじゃないか。ポップスとかアイドル的な歌手は、僕は望まない。歌うなら、難しい曲…スタンダードジャズとか、名曲みたいなものから始めた方がいい」とアドバイスされた。その言葉が高橋の音楽活動の原点となった。高橋が15歳の時に、父親が37歳で他界。16歳で、歌手になるために上京することになった。
スクールメイツにいたが、アイドルはあわないと福岡に帰った。福岡でジャズなどを歌っていた高橋真梨子を、ペドロ&カプリシャスのペドロ梅村がスカウトした。東京が嫌いになっていた高橋真梨子は、1年という約束でペドロ&カプリシャスに入ることにした。
ヘンリー広瀬と一緒になったときのエピソードがよかった。高橋真梨子があるとき失恋をし、みんなで大酒を飲んだ。一緒にいたヘンリー広瀬が彼女のホテルの部屋まで送った。お風呂にすぐ入れるようにと、お湯を入れて自分の部屋に戻った。高橋は、風呂に入ったが、とてもいい湯加減だった。そのことを翌日、ヘンリー広瀬に告げたことから、二人の人間関係が深化した。ヘンリー広瀬の方も、人に感謝されたことに新鮮な喜びを感じたという。10年同棲して結婚した。高橋真梨子がひどい更年期 障害になって、外にも出られなくなったとき、泣き出す高橋を外に引っ張り出そうと、自転車を買ったり、朝食を作ったり、思いつく限りのことをしたという。
高橋にとって、その時一番つらかったのは、「喜んでくれる夫のために食事の支度もできなくなった」ことだという。
高橋を公私ともに支えてきたミュージシャンの夫・ヘンリー広瀬氏(72)は、「40年も彼女と音楽をやってきて感じるのは、彼女の持っている寂しさとか孤独感とか…それを何とか表面に出さないで、歌に託せる。それが魅力なのかもしれない」と語る。
確かに、高橋の孤独感、寂しさは根源的なもので何をもってしても拭い去ることはできないだろう。歌を歌うことが生きている証・・・そんな彼女に寄り添うヘンリー広瀬の限りない愛。二人は夫婦と言うより合体した一人の人格のように思える。
父と別れた母、不倫にのめり込む母を憎み、新しい父を嫌った高橋の孤独さを慰めるものは歌しかなく、父の遺志を守って歌い続けることでしか自分を維持していけなかった・・・・・・その寂しさ、孤独さを和らげる出会いがあって、本当に良かった・・・・・。
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