オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

万引き家族

2019-07-28 | 映画
日雇いで働く父、クリーニング店で働く母、JK見学店でアルバイトをする母の妹、月6万円ほどの年金を受給する祖母。そして、父の指導の下、万引きで生活費を稼ぐ少年と、拾われた少女。彼らに血縁関係はない。困った者同士が生きるために日々の生活のために集まって、家族の絆のようなものが形成されている。
大家族主義は崩壊し、核家族の中で、人間関係の崩壊が始まって久しい。女性は封建制度の呪縛から解放され、夫の支配下から逃れようとすれば、それは可能だ。結婚に血縁関係はないから、結婚と言う契約を解除すれば、自立できる。しかし、子供は・・・・・血縁関係の呪縛から逃れるすべはない。親は親権を振りかざして、子供を取り戻そうとする。いったん児童相談所に保護された子供が怒り狂う親の迫力に負けて親元に戻され、虐待死させてしまった事件があった。
家族の絆が無条件にあたたかいもの、子供にとって最高のものと考えるのはもう止めた方がいい。人は長い年月をかけて、大家族制度から自由になりたくて、個人の自由を優先してきた。
血縁関係と言う関係ほど理不尽で前近代的な関係はない。人は血縁関係の息苦しさを嫌って、大家族制度を崩壊させてきたのだ。
しかし、血縁関係以外に絆を求めようとするのも難しい。特に、崩壊家庭で育った場合、人との関係を形成しずらくて、孤独に陥ったり、引きこもりがちになる。人と健全な人間関係を築くためには、何よりも個が自立していなければならない。普通は思春期とともに個が確立され、自立していけるのだが、家族と言う狭い人間関係の中で、支配と依存の呪縛の中で自立していくことは並大抵のことではない。
映画の家族の中では唯一少年が疑似家族の支配から抜け出し、施設から学校に通い、自立の道を歩み始めたように思える。少女はまたもや血縁の親の元に戻され、ネグレクトされる生活が始まりそうだ。
親が離婚して、親権者を選ぶ場合、10歳以上の子供の意思は尊重されるということだが、現実には親の力関係で決まってしまうように思う。一般に離婚するような親の場合、どちらの親とも生活したくないのが本音ではなかろうか。崩壊家庭の子供たちの人権が尊重される世の中が来るとよいのだが・・・・・・。
 
『万引き家族』で描かれる一家は、現実の社会問題そのものを提示している。重い映画だった。
 

新聞記者

2019-07-15 | 映画
2時間と言う長時間、息をつめて見入った。
こんな映画に出会うのは初めてである。
来る日も来る日も同じ日常で、その何も起こらない日常に慣れ親しみ、穏やかな幸せすら感じている。
 
世界中の政治家が劣化している現代、世界は誰の思惑で動いているのか?政治家ではない何か?知性のかけらすらもなさそうな政治家を動かしているのは誰か?
実態はわからない。この映画で見えてくるのは、官僚(内閣情報調査室)という忖度集団。時代の空気を巧妙に読み取って、ほんのちょっと情報操作、印象操作を行う。
 
国民も真実を知りたいとは思っていないし、マスコミもどうでもいいニュ-スばかり垂れ流しにする令和の時代。特にテレビ報道は噴飯ものだ。NHK以外、ここ1週間の報道はジャニ-ズ事務所の話ばかり。
正直、驚くのを通り越して日本のテレビ局はジャニ-ズ事務所に支配されているのを確信した。国民が芸能人に浮かれ、ネトウヨに支配されて、真実を見ようともしないのだから、この国の未来は闇だ・・・・・・。
 
この国の民主主義は形だけでいいんだ。映画のラストで、内閣調査室のトップが、政権がひた隠す新設大学の暗部を告発しようとする若手官僚(松坂桃李)の背中に向けて投げつけた言葉だ。
 
菅官房長官の会見で、質問を次々に浴びせ、名をあげた、東京新聞・望月衣塑子の『新聞記者』(角川新書)を原案にして作られたポリティカル映画である。
加計学園の獣医学部新設問題、文書改竄問題、役人の自殺、前川喜平・元文部科学事務次官の「出会い系バー」報道、伊藤詩織の性被害告発など、安倍政権がらみの“事件”を彷彿とさせるシーンが随所に出てくる。安倍一強政権が延々続く中、参議院選がスタートするこの時期に、政治の腐敗を真っ向から描こうとした監督、スタッフが存在することを評価したい。
 
日本映画の本格的社会派作品である。1960年代や70年代は、政治腐敗を描く映画が話題を呼んだ。黒澤明監督の『悪い奴ほどよく眠る』(1960)。大島渚監督の『日本の夜と霧』(1960)。
山本薩夫監督の『金環蝕』(1975)。山崎豊子原作による山本薩夫監督の『不毛地帯』(1976)。1976年2月にアメリカの航空機メーカー、ロッキードの日本への航空機売り込みに絡む疑獄事件が発覚し、後に田中角栄が逮捕された。だが、その後、政治が絡む映画は作られなくなっていく。高度成長期まで勢いのあった左翼の勢力が衰えたのも、要因であろう。
 
そもそもマスコミが政権と対峙する構図が嘘っぽくて支持を失った。『新聞記者』に漂うのも閉塞感だけである。
現実世界もバブルが弾け、規制緩和とともに多くの非正規労働者を生み出した。急速な少子高齢化が進み、年金制度や社会福祉政策が破綻寸前である。
 
この国には民主主義によく似た形があるだけである。個人情報保護法、盗聴法、特定秘密保護法、共謀罪など、言論の自由を圧殺する法律が縦横無尽に張り巡らされている。全国に設置された監視カメラ、Nシステムなど、日本の実態は「警察国家」「監視国家」である。本来ならメディアが、そうした権力の横暴をチェックするのだが、大手新聞のほとんどが権力側に取り込まれ、政権の番犬に成り下がっている。
森友学園問題でスクープを放っても、政権側は説明責任も果たさず、「フェイクニュース」だと切り捨てる。安倍政権になって、言論・報道の自由度はさらに狭められ、都合の悪い質問は、話を違う方向にねじ曲げてしまう。おそらくは国民に寄り添い、国民のためにアメリカの要望に沿った政治をしているのだろう。国民を裏切ったり、ばかにしているという自覚は全くないから、幸せそうな顔で楽しくいつまでもトップに居座る。
 
国際NGO「国境なき記者団」が発表した2019年の「報道の自由度ランキング」で、調査対象180カ国・地域のうちで日本は67位だった。アメリカでも48位なのに。
権力側は新聞記者たちが本気で言論の自由を守ろうとしていないことを、よく知っている。菅官房長官は「会見は質問するところじゃない」と驚くべき本音をうそぶいた。
記者クラブという窓口で、情報をとってそれを新聞の情報として伝える、新聞の広報機関と政治の広報機関が癒着して、そこで行われているのは、報道ではなく情報が正しいかの確認作業である。
国民が真実を知るのはとてつもなくハ-ドルが高い。
 
日本列島はアメリカの防波堤である。大陸間弾道弾を打ち落とすべく、アメリカ本土を守るべく、山口県と秋田県にイ-ジスアショアを配備する。これが、過去の遺物となり、朽ち果てるのを祈るばかりである。

カメラを止めるな

2018-09-01 | 映画
著名人たちが絶賛している映画。ゾンビ映画だから?B級映画だから?ワンカットだから?
気味の悪いゾンビ映画がコメディになる?その辺のからくりが知りたくて見に行くことにした。
 
商業映画に分類されているらしいが、監督は知らないし、キャストに至ってはど素人の一般人?これが意外にこの作品にリアリティを与えているのかもしれない。本物の恐怖に翻弄されているようで、その生々しい恐怖感が視聴者に伝染する。一方、そのバカバカしい舞台裏のスト-リ-展開に白けてしまって笑ってしまう観客を生成する。
自主制作の前衛映画と言ったところか?それにしては訴える難解なテ-マなんかなくて、ふざけている。しかし国内だけでなく、海外の映画祭で賞をかっさらっているようで、どこが受けているのかいまいちわからない。セリフなんかなくても笑える映画ではある。何の説明がなくても、万国で笑えるのがいいのだろう。
2018年3月に開催された「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」で観客賞に相当するゆうばりファンタランド大賞を受賞。
イタリアで開催された「ウディネ・ファーイースト映画祭」で1位に僅差の2位にあたるシルバー・マルベリー賞を受賞。
ブラジルで行われた南米最大級のファンタスティック映画祭「FANTASPOA 2018」のインターナショナルコンペティション部門・最優秀作品賞を受賞。
 
俳優や監督を養成する映画専門学校「ENBUゼミナール」が開催するワークショップ「シネマプロジェクト」の第7弾として放たれた作品である。
山奥でゾンビを題材にした自主製作映画を撮影するクルーの様子をワンカットで追った前半と、その舞台裏の大混乱を撮った後半で構成される。大きな話題をよんでいるのが、タイトルにもなっている30分に及ぶワンシーン・ワンカットで撮影したサバイバルシーンである。山奥にある廃墟でゾンビ映画の撮影をしている自主製作映画のクルーたち。ワンマンな監督である日暮の要望はどんどんエスカレートしていき、なかなかOKを出さずにテイクは42を数えた。そのとき、撮影クルーを本物のゾンビが襲う。リアリティーを追求する日暮監督は喜々として撮影を続行し、一方、メンバーたちは次々とゾンビ化していく。
この前半は下手な素人の自主製作映画。怖いところが全くない、ナンセンスなゾンビ映画である。血が噴き出すシ-ンばかりで構成され、血のシャワ-で、ゾンビもヒロインも真っ赤っかである。
後半で舞台裏のトラブルが暴露される。クル-も出演者も大混乱に陥り、ゾンビ化していく。要するに滅茶苦茶なのである。その脚本を無視したような滅茶苦茶さが滑稽で笑いを誘う。場内で沸き起こる笑いによって、この映画がとんでもなくナンセンスでバカバカしいという感覚が増幅され共有される。
 
ナンセンス映画なんだけど、出演者の真剣さは本物だ。演技には見えないのである。この映画が、生放送の枠内で生で演技され、放映されるという設定なので、脚本があってもどんどん状況に応じて変容していくのである。出演者が来れなくなって、監督の家族が急にスタッフとして呼び出されたり、その家族がゾンビになって殺したり、殺されたり・・・・・なんでもありの世界なのだ。
 
低予算で笑える映画が作れる。ゾンビ映画で笑える映画が作れる。アイデア次第で面白い映画ができるということだ。
 
しかし、感動巨編が好きな私は、やはり物足りなくて、この後、隣の映画館でやっていた「マンマミ-ア」を見てしまった。

アルジェの戦い

2016-10-12 | 映画
もう一度見たかった映画をやっと見ることができた。1954年から1962年のアルジェリアの独立戦争を描いたドキュメンタリ-タッチの作品だ。
50年前の感動が見事によみがえった。世界が変わっていないということか、自分も本質的に変わっていないということか?とにかく、アルジェリアの独立を目指す解放戦線に感情移入することができたし、その死が無駄ではなかったという思いに目頭が熱くなった。当時は作品の背景や製作者・監督などには興味がなく、作品を見て、ただただ感動したので、今回調べてみて、これほど数々の賞を取り、物議をかもした作品であったことに驚くとともに、今回再公開されたことを嬉しく思う。現在みても、まったく古さを感じない、現在進行形の戦いである。
 
1967年、日本を代表する映画雑誌『キネマ旬報』が例年発表する外国映画年間ベスト・テンにおいて第1位の栄冠を勝ちとった。ユダヤ人の家庭に生まれ、第二次世界大戦中レジスタンス運動のリーダーとして活躍した監督ジッロ・ポンテコルヴォは、映画を作るにあたって記録映像を一切使わず、目撃者や当事者の証言、残された記録文書をもとにリアルな劇映画として戦争の実体をドキュメンタリー・タッチで詳細に再現した。
アルジェの旧市街カスバで実際の戦闘に従事し、劇中でFLN幹部ジャファー役を演じたヤセフ・サーディが製作に参加した。イタリアが誇るマエストロ、エンニオ・モリコーネ(『荒野の用心棒』『ニュー・シネマ・パラダイス』)が音楽を担当、アルジェリア市民8万人が撮影に協力した。マチュー中佐役のジャン・マルタンを除き、主要キャストには実戦経験者を含む素人たちが多数起用された。主役の英雄アリ・ラ・ポアントを演じるブラヒム・ハジャックは、アルジェ郊外に住む漁民で、アリとそっくりの容貌の持主であり、しかもよく似た経験の持主であった。
戦車、武器類はアルジェリア軍より調達、フランス映画『望郷』の舞台となったカスバでオールロケを敢行、5年の歳月をかけて作られた。1966年ベネチア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞した折には、当時現地入りしていたフランス代表団が“反仏映画”として反発し、映画監督フランソワ・トリュフォーを除いて全員が会場を退席したという。
FLN(アルジェリア民族解放戦線)とフランス軍。戦争に巻き込まれていく一般市民たちの日常をリアルに描き、ゲリラ作戦の詳細や壮絶な市街戦をモノクロ撮影で記録映画的に写しとったこの映画は、現在もその延長線上にあること、より犯罪的に、より大量殺戮戦に、どうにも出口がない殺し合いになっている現実のやりきれなさ、絶望感に観る者の心を誘導する。アルジェリアでは独立戦争の記憶遺産として高い評価を受けているという。難民や移民、頻発する自爆テロ、明らかにステップアップしているテロの世紀に生きる私たちにとって、独立戦争を正義として描いた本作の歴史的価値は大きい。
 
主人公アリとFLN幹部ベン・ムヒディ(実在の人物、フランス軍に捕まったムヒディは獄中で自殺するが、拷問で殺害されたというのが真相らしい。)は革命と暴力の関係について語り合う。ゼネストの戦術的有効性についてムヒディは語る。
「暴力では戦争にも革命にも勝てない。テロが有効なのは最初の段階だけで、人民自身の行動が後に続かなければならない。ゼネストの有効性はそこにある。人民を動かし、我々の力を評価するためだ。国連に我々の力を証明するためだ。良い結果は得られなくても、国連に我々の力を示すことはできる。革命を開始するのは難しい。それを維持するのはもっと難しい。困難を極めるのは革命に勝利することだ。しかし、勝利した後に、究極の困難が待っている。つまり、成し遂げねばならぬことが山積しているのだ。」
現在のテロ戦争もまた、独立戦争であるとみなすことができる。統治しているのが大国の傀儡政権だから、独立戦争には見えないが・・・・・
そこでは反政府運動が犯罪とみなされる。日本が加担するのは、当然大国側だ。政府軍は大国から支給された武器を使い、民衆の中に潜む反乱分子を殺戮する。大国は空爆と言う手段で反政府軍をたたく。
シリアでは、大国の代理戦争、三つ巴の戦闘が繰り広げられている。犠牲になって、死んでいくのはいつの時代も貧しい国民だ。
 
少なくても、外から見ていただけではどちらに正義があるかわからない。いや、どちらにも正義がないというのが真実だろう。
南スーダンはアフリカでも指折りの産油国で、国家収入の98パーセントが石油収入という。特に米国と中国の石油企業が急速に進出している。今回の戦闘で北部の油田地帯が反乱軍に制圧され、これらの外国人も退避を余儀なくされている。そのため、2013年末、国連安保理が、平和維持部隊を約6000名増派することを決議した。もともと、ス-ダンから独立した南ス-ダン。一番新しい独立国だが、大統領と副大統領の内輪もめで内戦になったようだ。形は民族間の対立に見えるが、底流にはいつも利権争いがある。大国の都合で、独立した国が分け前の配分を巡って争いになったことを見ても、独立後の政策が如何に難しいかの証明になる。独立に利権以外の理念がなかったことの証明でもある。日本が参加するのもこの利権のおこぼれに預かりたいという産業界の要請だろう。
 国連の平和維持軍が資源に乏しい国の大虐殺に関与しないのは、ルワンダジェノサイドを思い出せばわかる。ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、一日あたり1万人が、一時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。1994年、国際社会は大虐殺を放置したのである。
 
傀儡政権を通じた資源国の植民地政策は今も続いている。スペインとポルトガル、そしてフランスはひたすら略奪する残虐な略奪国。世界一賢い略奪国は大英帝国。インフラなどを整備し、最大級の賢い略奪政策に長年成功してきた。植民地の独立後も良い関係を保ち、投資と言う手法でスマ-トな略奪は継続する。それに比べて、日本のお粗末さが際立つ。大英帝国と比べて短い略奪期間だったにもかかわらず、いまだに隣国に恨まれ、正常な外交関係も保てない。
 
 
実際のアルジェリア独立戦争はフランス本土と当時はフランス領(公式には植民地ではなく海外県と海外領土の中間的存在とされる。)であったアルジェリアの内戦であると同時に、アルジェリア地域内でフランス本国と同等の権利を与えられていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、対照的に抑圧されていたベルベル人やアラブ系住民などの先住民との民族紛争及び親仏派と反仏派の先住民同士の紛争、かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもあった。映画は民族独立戦争として単純化して描いていたが、勢力図は複雑で、単純に人民の勝利と言うものではない。
フランス政府では公式には戦争として認定されず、「アルジェリア事変」や、「北アフリカにおける秩序維持作戦」と呼称されていたが、1999年10月になり法改正され正式にアルジェリア戦争と記される様になった。
 
映画でのFLNテロ組織壊滅後、FLNは戦闘では不振続きであったが、政治面では勝利をおさめつつあった。FLNは40万を数えるフランス在住アルジェリア人を「フランス連盟」に組織し、彼等から徴集する金を武器購入資金にあてようとした。貧しいアルジェリア人から集めたぼろぼろの紙幣はスーツケースに詰め込まれ、フランス人の親FLN組織「ジャンソン機関」によって主にスイスへと持ち出された。フランス軍によるFLN容疑者に対する拷問の実態が少しづつ知れ渡り、フランス人自身による反戦気運が高まってきた。「ジャンソン機関」は1960年には摘発されて解体するが、その時には約3000人の協力者を擁していたという。また、1956年1月から、アルジェリアの砂漠地帯で石油の採掘が始まっていたが、FLNの背後には石油の利権獲得を狙うアメリカの影があると噂されていた。そのアメリカではFLNのエージェントが活躍し、57年7月には当時野党民主党の上院議員だったJ・F・ケネディの支持を取り付けた。ケネディの演説「アルジェリアの独立を承認し、フランス及び近隣諸国との相互依存関係確立の基礎となる解決を達成するための……米国の影響力を行使する」以降、アメリカは国連においてフランスへの支持をやめ、棄権にまわるようになった。
 58年1月、ユーゴスラヴィアの輸送船「スロヴェニア」がフランス艦に臨検された。この船には小銃1万2000挺を含む武器弾薬148トンが積込まれていた。フランス諜報機関はすでに先月東側諸国がFLN援助に踏み切ったことをつきとめていた。また、アラブ諸国の援助や前述のジャンソン機関の活動で資金を得たFLNは、国際武器商人との取引きも活発に行った。武器商人の中にはナチスの残党も混じっていたといい、フランスSDECE(外国資料情報対策本部)の「第二四局」との暗闘を繰り広げた。武器商人が謎の死をとげることもよくあったという。
 
 FLNの最も強力な味方はチュニジアのブルギバ大統領であった。フランス軍の弾圧を受けたFLNの戦士はチュニジアに逃げ込んだが、その勢力はチュニジアの正規軍を上回るほどになっていた。チュニジアはFLNの訓練・休養のための最も便利で安全な聖域であった。ブルギバとFLNの仲は必ずしも良好という訳ではなかったが、それでもブルギバは隣国アルジェリアの独立を強く支持し、そのことでフランスと揉めるとアメリカに援助を要請した。
 
やはり、ロシアやアメリカの大国が絡み、大国の支援が得られたから、アルジェリアは独立できたと考えるのが妥当なようだ。

イングリッシュペイシェント

2016-09-26 | 映画
1996年製作。不倫映画を壮大なラブスト-リ-に昇華した映画。
第二次世界大戦前後、北アフリカとヨーロッパ(イタリア)。二つの時間、二つの場所を行きつ戻りつ描かれる壮大なラブ・ロマンスであり、それぞれのプロットが実に巧みに設定されている。
フラッシュバック形式で過去と現在のシーンが上手く構成されており、サスペンスタッチで物語は進む。フラッシュバックや挿入が多いので、腰を据えてみないと物語の本筋がつかみにくい。
 
原作「The English Patient」の主人公には、実在したモデルがいたと言う。彼の名はアルマーシ・ラースロー・エデ、1895年生まれのハンガリーの新興貴族にしてパイロット、サハラ探検家。アルマーシは少年時代にイギリスの航空学校に留学し、パイロットのライセンスを取得した。第1次大戦ではオーストリア空軍のパイロットとして従軍したが、ハンガリーは敗れハプスブルグ家は追放された。戦後ハンガリーでは共産主義と王政復古主義の勢力争いが続く中、彼はハプスブルク家の最後の王カール1世の復位運動に参加し、王から私的に爵位を授かった。以後彼は伯爵を自称するようになる。その後オーストリアの自動車会社のハンガリー支店長になり、多くのカーレースに出場して優勝した。この頃からエジプトに興味を持ち始め、1929年に自動車会社の宣伝もかねてエジプトの砂漠レースに参加し、これが彼のサハラ砂漠探検の最初となる。
やがて本格的なサハラ砂漠調査探検を行うようになり、1932年に探検資金の出資者であるイギリスの貴族クレイトン卿らとともに、伝説のオアシス都市ゼルズラを目指しエジプト・リビアの国境地帯の砂漠探検に行った。この探検は自動車と飛行機を使った当時としては画期的な探検だった。彼らはエジプト・リビア・スーダン三国の国境が接する山岳地帯で先史時代の洞窟壁画を調査した。だがこの探検は悲劇に終わった。出資者のクレイトン卿が調査中に砂漠で急に病死してしまったのだ。クレイトン卿の妻ドロシー(24歳)は夫の遺志を継いで、翌年砂漠探検に参加したが、帰国後原因不明の墜落事故で死亡した。原作者はこの事実からストーリーをドラマチックに創作した。
アルマーシはこの探検記録を1934年に出版した。砂漠の中の洞窟壁画発見というセンセーショナルな内容で現在でも貴重な文献である。その後も彼は探検を続けたが、第2次世界大戦が始まると、ハンガリーはドイツ側についたため、イギリス支配下のエジプトにいられなくなりハンガリーに帰国した。しかしイギリスとドイツの戦場となった北アフリカで、とりわけエジプトの砂漠の地理に詳しい彼をドイツが放っておくはずはなく、アルマーシはドイツ・アフリカ軍団の将校として加わることになり、イギリス人の旧友たちと敵同士になってしまった。戦時中の彼の活動は明らかではないが、ロンメル将軍から鉄十字章を授かっていることから、ドイツがエジプトに砂漠からスパイを送り込んだ「サラーム作戦」に関与したのは明白とされている。結局ドイツ軍は北アフリカから一掃され、アルマーシはハンガリーに戻った。戦争末期ハンガリーはナチスドイツに抵抗を始めると、彼もイギリス軍情報部に情報を提供した。1945年ドイツ降伏、祖国ハンガリーはソ連軍に占領された。戦後アルマーシは、ドイツ軍協力者として逮捕され投獄された。まもなく釈放されたが共産主義国家となったハンガリーを出て馴染みのエジプトでポルシェ社駐在員として働き、1951年滞在中のオーストリアで死亡、享年56才、生涯独身だった。
 
  1944年、イタリアの野戦病院に北アフリカの戦場で撃墜された飛行機から全身大やけどを負った瀕死の男が担ぎ込まれる。その男は殆んどの記憶を失っており、イングリッシュ・ペイシェント(英国の患者)(レイフ・ファインズ)と名付けられる。
  戦争によって、恋人を失い、親友も目の前で無くし、悲嘆にくれていた従軍看護婦であるカナダ人のハナ(ジュリエット・ビノシュ)は、軍から離れ、廃墟と化した修道院で、イングリッシュ・ペイシェントの看護を始める。ハナが介護をしていく内に、少しづつ記憶を取り戻していくイングリッシュ・ペイシェントだが、彼の語る回想はある人妻との不倫の物語だった。そんな2人だけの空間に突然、親指を無くしたカナダ人のカラヴァッジョ(ウィレム・デフォー)が入ってくる。
 
ペイシェントの名前はアルマシー。ハンガリーの伯爵家に生まれ、英国地理学協会で、アフリカのサハラ砂漠で地図作りに携わる。
1938年、アルマシーはキャサリンという既婚女性と思いを通わせ、カイロで一夜を共にする。密会を続けるが、キャサリンは罪悪感に苛まれる。二人の不倫はキャサリンの夫・ジェフリーの知るところとなり、ジェフリーは小型機の助手席にキャサリンを乗せ、アルマシーのいる砂漠に向かう。
 
カラヴァッジョの素性もだんだん明らかになってくる。スパイ容疑をかけられ親指を切断されたカラヴァッジョは、その原因がアルマシーにあるとの確信から復讐を決意している。
「お前がスパイだと知り、お前の親友・マドックスは拳銃自殺をした」というカラヴァッジョの言葉で、アルマシーの記憶がよみがえる。
 
嫉妬に狂ったキャサリンの夫・ジェフリーは、飛行機で無理心中を図り、地上にいるアルマシーに飛行機ごと突っ込む。 ジェフリーは即死。アルマシ-は、肋骨や四肢を骨折したキャサリンを洞窟に運び、食料と灯りを置き、3日間で戻ると誓って、砂漠に踏み出す。三昼夜にわたり砂漠を歩き続けたアルマシーは、名前のためにドイツ人のスパイと疑われ捕らわれの身となる。キャサリンを助けるためにアルマシ-は列車から脱走し、遭遇したドイツ軍に地図を売って飛行機を手に入れ、キャサリンのもとへ戻る。キャサリンは既に冷たくなり、乏しい光の中で、国を超え時代を超えた愛、アルマシ-への想いを本の余白に綴り、息絶えていた。アルマシ-はキャサリンの遺体を乗せ飛行機でイギリスに向かう途中、撃墜されて野戦病院に運び込まれたのだった。
 
カラヴァッジョの復讐の念が消えていった。カラヴァッジョの憎しみを知ったとき、「自分は既に死んでいる」とつぶやいたアルマニ-はハナが痛み止めの麻酔を打つ際、動かない手で注射液数本をハナの手元に寄せ、死なせてほしいと無言で訴える。ハナは、その願いを聞き入れるのだった。
アルマシーは亡くなり、その最期を看取ったハナの心には、恋人や親友の死を乗り越えて生きて行く気力が湧いて来るのだった。
 
 
しかし、細部を個々に取り出して見ると、全く共感できない登場人物たちの滑稽で哀しい物語になる。不倫したから飛行機で妻もろとも間男に突撃する???名前のおかげでドイツ人と間違われて洞窟へ戻れない???あまりに滑稽なストーリー展開だが、時代背景に戦争を選んだり、部隊が北アフリカの砂漠だったり、その現実的で深刻な設定が下世話な不倫物語を壮大な恋愛至上主義のラブスト-リ-に昇華させたテクニックは秀逸だ。

麦の穂を揺らす風

2016-08-01 | 映画
カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した。20世紀初頭のアイルランド独立戦争とその後の内戦で、きずなを引き裂かれる兄弟と、その時代の群像を描いた。
 
アイルランドは、1155年ローマ教皇によって英国による支配が認められてから700年以上、圧政に苦しんできた。英国がプロテスタントを受け入れてからも、アイルランドはカトリックを堅守したため、圧政はさらにひどくなる。17世紀、清教徒革命の指導者・クロムウェルの討伐後、植民地化が進み、アイルランド人は小作人として悲惨な生活を強いられる。固有の言語、文化、慣習も禁止され抵抗、反乱と弾圧の歴史が続く。第1次世界大戦時に穏健派がイギリスに協力し軍隊参加を呼びかけたのに対し、反対派は1916年4月イースターにダブリンで武装蜂起する。すぐに鎮圧され処刑されたことで、過激な行動に批判的だったアイルランド人にも反英感情が高まった。1918年には民族独立運動を主導するシン・フェイン党が選挙で大勝した。イギリスはアイルランド議会を非合法化し、弾圧を強化した。戦いはゲリラ戦に突入して行った。
 
映画が始まるのは1920年。
アイルランド独立を求める人々の動きは徐々に高まりを見せていた。それに対してイギリスからは武装警察隊が送り込まれ、理不尽な暴力を人々に振るっていた。暴力に屈しない若者たちが次々に殺されていく。自分たちの言葉であるゲール語を話すことも禁じられていた。冒頭、主人公の友人ミホール(英語では“マイケル”)は、英兵に名乗るよう言われ、英語で答えなかったために殺されてしまう。ロンドンで医師の仕事が決まっていたデミアン(キリアン・マーフィー)は、ゲリラ戦にそれだけの価値を見出せず、医師の道を目指す気持ちは変わらなかった。だが、出発の当日、列車の運転士たちが、無理やり乗り込もうとするイギリス兵たちを断固として拒否した姿を見て戦いに加わる決心をする。闘士たちのリーダー格はデミアンの兄・テディだ。敵に拷問を受けても仲間を裏切ろうとしないテディ。そして戦いの中で再会した列車の運転士ダン。闘志を貫く仲間たちの中でデミアンもまた、己の使命に目覚めていく。ゲリラ戦は功を奏し、ついにイギリスは停戦を申し入れた。しかし講和条約は依然としてイギリスに都合のいいものだった。アイルランドの中で条約に賛成する者と反対する者に分かれて対立が始まった。それはやがてアイルランド人同志が戦う内戦へと向かってしまう。条約に賛成する兄・テディは政府軍へ、完全な自由を求めて条約に反対する弟・デミアンは再びゲリラ活動へ。その戦いの中でついにデミアンが政府軍に囚われてしまう。テディは仲間の居場所と武器のありかを喋るようにデミアンを促すが、デミアンは断固として味方を売ることを拒否するのだった。テディはデミアンに処刑を告げざるを得なかった。そして銃殺の時が来た。動揺に身を震わせながら銃撃を命ずるテディ。崩れ落ちたデミアンの亡骸を抱きしめてテディは泣いた。テディがデミアンの妻・シネードに夫の死を告げにいく。それを聞いたシネードは、もう二度と顔を見せるなと泣き叫び、テディを激しく撥ねつけるのだった。
 
 
監督ケン・ローチはカンヌ映画祭で「この映画が、英国が帝国主義の過去と対峙するための、小さな第1歩となればいいと思っています。私たちに過去について真実を話す勇気さえあれば、現在について真実を話す勇気も持てるのではないでしょうか?」と受賞の弁を述べた。
IRAをテロリストと決めつけて来た英国だが、アイルランドにとっては、英国からの独立戦争だった。
和平成立後、自治政府側(親英国派)についた兄と袂を分かち、デミアンは何故、完全独立を目指す過激派についてしまったのか?それが、この物語の焦点だろう。
デミアンが断固として味方を売ることを拒否した背景には、仲間を裏切ったと言う理由だけで幼なじみの気弱な青年をその手で銃殺しなければならなかった胸を押しつぶされるような過去の体験があった。
和平成立直後、医者として呼ばれ、寝たきりの少年を診察し、少年の親に、栄養失調だ、と診断する短いエピソ-ドも挿入された。自治が認められても、食糧が英国に吸い上げられてる現状を何とかしなければ、庶民の苦悩に終わりはない。政治的解決はあまりに長い道のりで、現実に生きる人の救いにはならない。
 
自由政府側の主張は現実的で合理的だ。兵力と資金は限られていて、部分的独立だけで精一杯だった。確かに、無意味に死んでいくより、自治政府を足がかりに長い年月をかけた交渉で、平和的に独立を目指すというのが政治の本道だろう。それに対して過激派は、諦めたら永久に独立は無理であり、エネルギ-が高まっている今、完全独立を目指すべきだと主張し、内戦に突入した。
裏切った親友を銃殺したデミアンには仲間を売ることだけはできなかった。自分を裏切り、自己を抹殺することに等しかった。
理想を目指して戦うのは簡単だが、誰のために何のために戦うかは難しい。「殺し合いは本当に価値があるのか」を問い続け、心の内奥の叫びに突き動かされて闘い続けたデミアンには撤退の道はない。自分の情念に誠実な者ほど、心の奥底から戦いに身を投じたものほど、撤退や妥協は自分自身を裏切ることになる。戦争を経験するということは、そうした苦悩と裏切り、妥協の薄汚さにまみれることに等しい。
戦争は必ず終わる。しかし、戦後、その理想が実現することはなく、果実は政治的解決を求めた支配層に持ち去られるのが常だ。命をかけて戦った庶民にはそれまでと変わりない貧困と苦悩が待ち受けている。
 
しかし、祖国のために、自分たちのために戦ったアイルランド人にはまだ大義名分がある。帝国主義の尖兵として送り込まれた英国軍にどんな信念と理想があったのだろうか?アイルランドを植民地化して富を収奪、人権を踏みにじる大英帝国の軍隊でしかなかったのだが、カトリック教徒に迫害されているプロテスタント支援などという大義名分があったのだろうか。
 英愛条約に基づいてアイルランド全島がアイルランド自由国としてイギリスの自治領となった。しかしその翌日、北アイルランド政府はアイルランド自由国からの離脱を決定し、独自の議会と政府を持つ、イギリスの構成国の1つとなった。一方、北アイルランド離脱後のアイルランド自由国は、1937年に自治領から独立の共和国へ移行し、1949年にはイギリス連邦も離脱した。今も北アイルランド問題として住民同士の軋轢は継続している。
 
 
それほどの犠牲を払ってまで守る国とは何だろう。自分の命を犠牲にしてまで、守るべき国体とはどれほど崇高なものなのだろう。

アラビアのロレンス

2016-03-20 | 映画
最近、アラビアのロレンスをTVで見た。その複雑怪奇な人物像が、ぞくぞくするほど美しい砂漠とともに描き出される。異様な人物の内面とスペクタクルの絶妙のバランス、屈折した魅力的な主人公は、映画史上永遠に輝き続ける。この映画は政治・戦争・植民地主義についても描いているが、ロレンスをアラブの独立を願った偉人として描いているわけではない。イギリスの情報将校、トマス・エドワード・ロレンスが戦場でメモした日記をもとにまとめたドキュメンタリーが『知恵の七柱』。冒頭、「私固有の役割は小さなものであった」、「まがい物の指導者を演ずることを引き受けた」と書いている。
アラブの反乱では、イギリス側が戦後の統一国家樹立を約束していたが、ロレンスはそれが方便であることを知っていた。それでいながら、自ら「最後の勝利のときに狂ったようにアラブの先頭に立つことで」、アラブの主張が入れられるかすかな望みを託したと説明している。
 
この映画には当然のことながら、女性は一人も描かれていない。ラクダを飼育するベドウィン族。テントに住み、冬の雨季は砂漠に、夏の乾季は泉や井戸のある耕作地に移動する。厳しい自然環境で生きる彼らを縛る掟は過酷なものだ。他部族の井戸を使用したものは殺され、いさかいを起こしたものも即、罰せられる。
 
他部族からの略奪も狩りと同じである。略奪は日常の痛快なスポーツのようだ。山賊と本質的に変るところがない。酷薄な自然を舞台に、惜しみなく奪いあい、惜しみなく殺しあう酷薄な人間たち。ほんの60年前まで、これが普通の状態だった。食うに困って襲うのではない。なかば、スポ-ツのように、なかば季節の収穫のように戦利品を求めて略奪に出かけた。ベドウィン以外の人間は略奪の対象でしかなかった。宝飾品はもちろん、家畜や女、馬・・・・アラブの独立なんか初めから目的にもならない。
 
全村皆殺しの殺戮が歓喜の雄叫びとともに繰り広げられる。
何度か見た映画だが、ピ-タ-・オトゥ-ルとオマ-・シャリフの魅力にくぎ付けで、ろくに内容なんか見ていなかったのかもしれない。
ロレンスは、アラブの独立という大義の為にイギリス陸軍正規部隊より一足早くダマスカスに到着しなければならないと考えた。金の為に働く犯罪者も加えた攻撃的な部隊を編成する。ダマスカスへの進軍の途中、ロレンスの部隊はタファス村でオスマン帝国軍と遭遇し、タファス村から逃走してきた部下に"捕虜を獲らず、皆殺しにせよ"と指令を出すよう懇願される。彼が単身でオスマン帝国軍に切り込み、一撃で殺されたことで、ロレンスは突撃を指令し、自ら先頭に立って狂ったようにトルコ兵を殺す。個人的憎悪による皆殺しであり、それはロレンスがダルアーに偵察に行った時、オスマン帝国軍のベイ将軍に性的な辱めを受けてしまったことが要因だった。戦争の常だが、個人的な恨みからトルコ兵に憎悪を燃え上がらせ、無差別殺戮を行ってしまう。英雄に値しない普通の人間ロレンスがいた。
ロレンスの部隊は、イギリス陸軍正規部隊より一足早くダマスカスをオスマン帝国軍から解放することに成功する。しかし、アラブ人は建国のために戦っていたのではなく、略奪による戦利品欲しさに突撃を繰り返す山賊だった。アラブ人の戦士達はアラブ国民会議で協力するどころか、お互いに非難しはじめ、分裂離反する。街に電力が不足し、火事は収まらず、病院はおざなりになってしまった。アラブ民族会議に失望したロレンスはアラビアを去ることを決意した。オスマン帝国軍から解放されたアラビアは、もはやロレンスを必要とはしていなかった。フサイン=マクマホン協定を信じてイラク・シリア・アラビア半島を含む大アラブ王国(汎アラブ主義) を構想する老練な族長ファイサルにとって、白人のロレンスがアラブ反乱を指揮した事実は邪魔となっていた。また、サイクス・ピコ協定によりアラブをフランスとともに分割する方針を決めていたイギリス陸軍の将軍にとっても、ロレンスは政治的に邪魔な存在となっていた。ファイサルは「もうここには勇士は必要でなくなった。私達は協定を進める。若者は戦い、妥協して治めるのが老人の仕事だ。若者の長所は未来への希望から勇敢に戦うこと、そして、老人は平和を作る。そして平和の短所は老人の短所、つまり不信と警戒心なのだ。」とロレンスに語りかける。その言葉はアラブに失望し、イギリスとフランスの嘘と策略に満ちた戦後処理に欺瞞を見るロレンスには虚しく響くばかりだった。
 
略奪が支配する無法の地にムハンマドが現れ、強権的なイスラム教が広まったのは偶然ではない。
略奪者に対する公開死刑など、「目には目を」式の厳罰主義、困窮者を助けるための喜捨などイスラムには独特の教えがある。困窮者に施した者、病気を治療した者が神に感謝するのである。善行を行うチャンスを与えてくれた貧困者や病人、アラーの神に感謝しなければならないのだ。また、ベドウィンは、個人の犯した殺人に対して氏族構成員への報復という厳しい罰を科していた。厳しくしないと秩序を保てないほど、殺戮によって絶滅しかねないほど無法な社会だったと言える。余剰の人間を維持するほどの資源がなかったから自然淘汰に任せるほかなかったとも考えられる。
 
9・11テロの後、数年、敬虔なイスラム教徒の科学者とチャットをしていたことがあった。チャットは一夫多妻制、ムハンマド自身が政略結婚で多数の妻を持ち、権力を伸ばしていったことへの批判から始まった。
彼は、イスラム教に対する私自身の偏見をかなり矯正してくれた。
一夫多妻は、度重なる戦争で大量に発生した寡婦を救済するための福祉政策的意図を持っていたこと。夫は多数の妻を平等に扱わなければならない義務があることなど、女性蔑視とは無縁と言われた。
豚を食しないことについては、「豚は性的にみだらで、汚れているから」と聞かされた時にはたまげてしまった。当時の衛生状況では豚に肝臓ジストマなど寄生虫が宿り、生肉を食らうと危険だから禁じられていると思っていた私にはその科学者の見解は無知の極みであった。
ひずめが割れていて、反芻する動物は食べてもいいという。豚が食べるのは豆などの穀物であり、人と同じ種類のものしか食べないので荒野で豚を養う為には人が食べる豆を食べさせなければならず、金持ちにしかできない。つまり豚の存在は砂漠の民にとって貧富の差を拡大し、時には貧しい人を飢えさせる。 それゆえに豚は嫌われて、砂漠の民では禁忌となったと言う。なかなか説得力がある。豚は定住の動物であり、農耕民族の間でよく飼われた。遊牧民族である ユダヤ教徒や、イスラム教徒の間で、農耕民族を蔑視する傾向が太古からあった。農耕民族の代表的家畜である豚も併せて蔑視されるようになったとする説もある。
イギリスの文化人類学者、メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』によれば、食の禁忌は分類上の落ちこぼれが持つ中途半端な属性がケガレとされたことに理由があるとされている。例えば牛やヤギは四足で蹄が割れており反芻胃を持つのに対し、豚は蹄が割れているが反芻をせず、また兎は反芻はするが蹄が割れていないなど、分類上中途半端であるがゆえに禁忌とされたことになる。
 
 
イスラム教の戒律が厳しく、神への絶対服従を命じるのは、無法な荒くれ者を統治するには有無を言わさない強権で抑え込む必要があったからだと思っている。
イスラムの教えの中にはユニ-クで素晴らしいものもある。特にイスラム金融は金融危機を繰り返す資本主義社会では注目すべき制度である。
利子を課すことを禁止し、豚肉、アルコール、武器、賭博、麻薬などイスラムの教えに反するものへの投資を禁止している。
 
神が絶対で、神の教えを無条件に守ることが命じられ、人間を愚民扱いする宗教だと思う一面もあるが、昨今の世の中を見ていると、政治家を筆頭に愚民ばかりだから、イスラム教の慈悲深い教義を守る方が世界の存続にはプラスになるような気がしてきた。

エネミー・オブ・アメリカ

2016-01-24 | 映画
米国議会は、テロ防止策として提出された「通信システムの保安とプライバシー法案」をめぐって紛糾していた。法案が成立すれば、国家は思いのままに個人のプライバシーを侵害することができる。 国家安全保障局(NSA)の高官トーマス・ブライアン・レイノルズは、法案を可決させるべく、強硬な反対派の下院共和党議員フィリップ・ハマースリーを、目撃者のいない湖畔で暗殺させる。レイノルズの思惑通りハマースリーの死は心臓発作による事故死とされた。だが、殺害の一部始終が、渡り鳥を観察するために設置されていた無人カメラに録画されていたことを、事件現場を偵察していたレイノルズの部下が気づく。無人カメラのテープを回収した動物研究者のダニエル・ザビッツは、帰宅後テープを見て、ハマースリーの死の真相に気づき、知り合いのジャーナリストに渡すべくテープをPCカードディスクにコピーしている最中に、レイノルズが送った工作員がザビッツのアパートを急襲する。アパートを脱出したザビッツは、ディスクを持ってワシントンDCの街中を必死に逃走するが、NSA側は、偵察衛星や指揮通信車、ヘリコプターを駆使し追い詰めていく。女性下着店に逃げ込んだザビッツは、偶然、ジョージタウン大学の同級生で、妻のクリスマスプレゼントを選ぶために店で下着を選んでいた弁護士のロバート・クレイトン・ディーンに出会う。ザビッツは秘かにディスクをディーンの買い物袋の中に隠し、さらに逃走を図るが、車にはねられて死亡する。
 
下着店の監視カメラの映像から、ディーンの買い物袋にディスクが入っていると推察したレイノルズは、工作員をディーン宅に侵入させ、ディスクを探させるが見つけることができない。レイノルズはディーンの信用を失墜させるために秘密工作を仕掛ける。その結果、マフィアとの癒着を疑われ法律事務所を解雇されてしまい、さらに、調査員ブリルとの仲介をしていた過去の不倫相手レイチェル・バンクスとの関係を妻から問い詰められて家を追い出され、その上、口座を凍結されクレジットカードが使用できなくなってしまう。ディーンは、一連の事件のきっかけはブリルが提供した情報にあると考え、ブリルに直接接触することを試みる。かつてNSA技官であったブリルは、盗聴器や発信器が多数ディーンの衣服に仕掛けられていることを見抜き、NSAに追われているディーンを避けようとする。しかしNSAの秘密工作の一環で、レイチェルが殺されてしまい、その殺人容疑者がディーンと聞いた際、ブリルはディーンを助けることを決心する。ブリルのNSA時代の相棒の娘がレイチェルであり、相棒がイラン革命下のテヘランで殉職して以来、ブリルはレイチェルの成長を影ながら支えていたのだ。
 
ディ-ンは子供たちがPCディスクを持ち出したことに気付き、ディスクの内容をブリルとともに見る。二人はハマースリーの死の真相をはじめて知るが、レイノルズ配下のNSA工作員たちに隠れ家を突き止められてしまう。ブリルは隠れ家を爆破し、二人とブリルの飼い猫はかろうじて脱出、逃走するが、証拠のディスクが破損してしまう。
 
ブリルとディーンは、レイノルズから直接ハマースリー暗殺の証言をとるためにレイノルズに接触するが、2人とも捕えられてしまう。ディスクが破損したことを知らずに、その返還を迫り脅迫してくるレイノルズに対して、ディーンは咄嗟に、ある訴訟で自分の依頼人を脅迫していたマフィアのボス、ピンテロの元にディスクがあると嘘を付く。ピンテロに会ったレイノルズはテープの返還を要求するが、ピンテロは、それをディーンが自分との取り引きで使ったテープのことと勘違いし、拒否する。ピンテロとレイノルズの双方が勘違いした上でテープをめぐり押し問答を繰り返し、激しい銃撃戦となる。その結果レイノルズは射殺され、NSA工作員やマフィアの大半も死亡する。生き残った数名はFBIに逮捕され、レイノルズらによるハマースリー暗殺が白日の下に曝された。
 
 
アクション・サスペンス映画としても面白いが、背景にあるプライバシ-法の怖さを知ると、ただ笑ってはいられない。
米国は盗聴の歴史が30年以上にのぼる。日本でも盗聴法が改正されたとき、機械による傍受が可能になったため、通信の傍受に歯止めが利かなる問題が指摘されていた。マイナンバ-制度も成立し、NSAも設立されたから、日本でも国家のやり放題が懸念される。
  
テレビニュースの画面でタカ派議員が「アメリカに住む外国人の多くはアメリカに敵対意識をもっている。彼らからアメリカを守らなければならない」と言う。それをみて「プライバシーがなくなる」と危倶する妻に、「僕はテロリストじゃないから平気さ」と気楽に受け流す弁護士の男ディ-ンが主人公である。
NSAのその恐るべきデータ収集・操作力を見せつけられる。ディ-ンの行動はすべて捕捉され、逃れる術はほとんどない。ズボンにまで仕掛けられていた発信器を脱いで、裸で逃走するプロットはお笑いだ。発信器、盗聴器、宇宙からの衛星カメラまで利用して、ディ-ンを追い詰める様を見ていると、無力感を感じる。 キーボードにディ-ンの社会保障番号を入力するとNSAのコンピューターは、本人や家族の経歴だけでなく、依頼を受けている労働争議、1年間同居した恋人のこと、銀行の入出金記録とその相手先まで報告してくる。もと恋人は、ディ-ンへの情報提供の仕事をしているが、彼女と密会する場面を写真に撮られ、それが新聞の一面に載るという事態になり、社会的な信用を失い、弁護士事務所の職を奪われる。
映画で使われている技術はNSAが30年前にすでにもっていたものだ。予算も職員数もCIAをしのぐ規模だが、極端な機密保持のため、米国においても長い間隠されてきた。1980年代にはNSAを知る人は米国民の1%もいないと言われていたが、1990年代に入って暗号の管理組織として知られるようになってきた。NSAの本部はメリーランド州にあり、数十台のスーパーコンピュータが稼働し、米国政府の通信を盗聴から守り、外国の通信を盗聴している。盗聴の対象は当初は誘拐や殺人事件が中心だったが、対象はどんどん広がっている。メルケル首相の盗聴が暴露されたのは記憶に新しい。
 
コンピュータネットワーク社会は、情報が中央集権的に集められ、捜査・監視される社会だ。クレジットカードで物品を購入することは、自分の生活の情報を特定の団体に提供しているともいえる。
「エナミー オブ アメリカ」では追われている弁護士が自分のクレジットが使えなくなり、社会生活ができなくなった。できる限り、クレジットカードを使わずに、現金で処理したい。
いったん盗聴システムが完備されれば、記録・検索がきわめて容易だ。ICカードの危険性を知り、ICカードを持たないようにしたい。
 
  人は小さな嘘は見抜くが、大きな嘘には騙される。すなわち、国民は国家の犯罪を見抜けない。原発の「安全神話」。あれだけの事故があった後でさえ、原発は安全だと信じこんでいる人が多すぎる。
 かっての甘利大臣の驚くべき発言がリテラで引用されていた。
「原発も全部止まる。企業はどんどん海外へ出て行く。もう日本はおわりだ」
「原発は動かそうが動かすまいが、リスクはほとんど変わらない」(ダイヤモンド社「週刊ダイヤモンド」12年11月10日号)
「投資の足を引っ張っているのが電気料金。再稼働は必要だ」(毎日新聞出版「週刊エコノミスト」14年3月25日号)
 政治家と言うのは国民の生活や安全のことなど一顧だにせず、自分の権益や政治生命のことだけがあらゆる言動のモチベ-ションである。
 
 主要先進諸国では盗聴制度が整備されており、このまま放置しておけば、日本が組織犯罪の"抜け道"となりかねず、組織犯罪対策の強化は、国際社会からの強い要請であります。----日本の政界の金の流れが白日の下にさらされるなら、大賛成ですよ。

アンノウン

2016-01-20 | 映画
アンノウン( Unknown)は、2011年のアメリカのサスペンス映画で、ディディエ・ヴァン・コーヴラールの小説『Out of My Head』が原作。
 
アメリカの植物学者マーティン・ハリス博士はバイオテクノロジーの国際学会に出席するために妻エリザベス(リズ)とともにベルリンにやって来る。学会を支援しているアラビアの王子もやって来てパーティもある予定だ。タクシーでホテルに着くと、荷物を1つ空港に忘れて来たことに気付いたマーティンは妻をホテルに残し、通りかかったタクシーを捕まえて空港に向かう。ところが突然の事故でタクシーごと川に飛び込んでしまう。タクシー運転手ジーナになんとか救出されたマーティンは収容された病院で4日間の昏睡状態から目を覚ます。事故前後の記憶が曖昧だが、心底愛する妻に心配をかけていると思ったマーティンは居ても立ってもいられずホテルに向かう。しかし妻はマーティンを「知らない人」と言い放つ。しかも見ず知らずの男が「マーティン・ハリス博士」を名乗っている。パスポートもなく、自分が自分であることを証明できないマーティンは自分自身の記憶にすら自信が持てなくなる。しかし、自分が拉致されそうになり、それに伴って周りの人間が残酷に殺されていく。背後に「陰謀」があることを確信したマーティンは、看護師に教えてもらった元東ドイツ秘密警察の男ユルゲンと運転手ジーナに協力してもらい、真相を突き止めようとする。
 独自の調査で真相にたどり着いたユルゲンだったが、マ-ティンの同僚の前で殺されない前に自殺する。そして、マ-ティンの知己だったはずの男の正体は国際的な暗殺集団だった。自分の正体が明確になっていく。
妻は誰だったのか?妻が書いた暗号は何のためだったのか?3ヶ月前にも自分はベルリンにやって来ていた。植物学者はずだった自分の正体は?
今までになかったスト-リ-の展開だ。王子暗殺に見せかけ、植物学者の抹殺を計画した金儲け殺人集団。計画の失敗後、何も知らない植物学者は遺伝子組み換えトウモロコシの種子を無償で提供すると全世界に発表した。欲深なモンサントと違って、学者の良心が示され、後味がいい。世の中には金のために研究するというより、研究のためには魂を売る・・・・と言うより始めから魂なんか持っていない専門馬鹿の学者が多すぎる。北朝鮮に協力する学者、原発を開発した学者、残酷な殺戮武器を開発する学者や技術者・・・・みんなオウムにからめとられた若き研究者と同じ穴の貉だ。
 
久しぶりにハラハラドキドキの上質のサスペンスを楽しんだ。共演のジ-ナ役のダイアン・クルーガーがいい。この映画では、ちょっと吉田羊に似ている。
ドイツの女優でドイツ語、フランス語、英語を完璧に話す。当初はバレリーナを志し、ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールで学んでいたが、怪我で断念。その後、ドイツでモデルとして活躍。パリに移り、フロラン演劇学校で演技を学び、同校の優秀な生徒に与えられるクラッセ・リプレ賞を受賞。2002年にデニス・ホッパー主演の『ザ・ターゲット(2002年の映画)(英語版)』で映画デビュー。
2004年公開の『トロイ』でハリウッドに進出し、『トロイ』と同年公開された『ナショナル・トレジャー』で国際的に知られるようになる。
2001年に俳優のギヨーム・カネと結婚したが、2006年に離婚。同年からカナダ出身の俳優、ジョシュア・ジャクソンと交際を始める。ギョーム・カネとの結婚から「結婚という紙切れで結ばれる関係を信じない」と言い、現在はジョシュア・ジャクソンとパートナーの関係でいる。60歳になっても一緒にいれば結婚するかもしれないと言っている。
 

ザ・思いやり

2016-01-16 | 映画
在日米国人が製作した映画が話題となっている。「ザ・思いやり」、いわゆる「思いやり予算」に疑問を投げかけるドキュメンタリーだ。
駐留経費の負担は、1960年に発効した日米地位協定の24条で定められた。日本が基地や施設用地の借地料を、米国は基地の維持費や作戦の経費を、それぞれ負担するとされ、日本に人件費や光熱水費の負担義務はなかった。だが米国は財政赤字や世界的インフレを背景に一層の負担を要求。1978年、金丸信防衛庁長官(当時)が「思いやりというものがあってもいい」と発言して、基地従業員の人件費の一部62億円を負担したのが始まりだ。その後、施設整備費や光熱水費なども加わり、現在は5年ごとに額を大きく見直している。2011-15年度は年平均1866億円を支出。日本政府は昨年、16- 20年度分の減額を求めたが米側は受け入れず、逆に総額で130億円増の同1893億円で決着した。
 
映画では、基地内のリゾートマンションのような住宅から、学校、教会、ゴルフ場、銀行、ファストフード店に至るまで、米兵が快適に暮らすための数々の施設が日本の税金で整備されていると説明する。そして、米カリフォルニアの街頭で「この事実、どう思う?」とインタビューを敢行。「(在日米兵)1人当たり1500万円? ワオ!」「国際開発に使え。その方がより平和的だ」。問われた米国人やフランス人、インド人らは驚いたり、自分のことのように憤ったりする。
 
日本が駐留米軍のために支出する経費は思いやり予算だけではない。15年度予算では、(1)駐留関連経費(自治体に対する周辺対策費や漁業補償費など)の1826億円(2)米軍再編関係経費(普天間飛行場の辺野古移転費用や米海兵隊グアム移転費用など)の1426億円(3)日米特別行動委員会(SACO)関係費の46億円などがあり、思いやり予算と借地料を合わせると総額は7000億円を超える。
 
日本の負担額は、米軍が駐留する国々の中でも突出している。米国防総省が、同盟27カ国が02年に予算計上した「米軍駐留に対する支援額」を独自の基準で算出、比較したところ、日本の「支援額」は44億1134万ドル(当時の為替レートで5381億円)でトップだった。次いで、ドイツが15億6392万ドル、韓国が8億4311万ドル、イタリアが3億6655万ドルと続く。光熱水費を支払う国は日本だけだ。
 
琉球大の我部教授は「米国にとって日米同盟の最大のメリットは、自由に使える基地を提供してもらっていること。それなのに日本は『米軍に守ってもらっている』という負い目を感じている」と首をかしげる。
 
戦後の日本人にとって米国の属国であろうとなかろうと、どうでもいい話。大事なのは戦争に巻き込まれないことだ。そのための口実が憲法9条。歴代政権は米国との同盟を維持しつつ、いかにして米国の戦争に巻き込まれないようにするかに腐心した。朝鮮戦争からイラク戦争まで、金を出したり「後方支援」をしたりしながら、9条を口実に武力行使は踏みとどまってきた。
安倍首相は『憲法を改正し、安全保障で米国に協力して同盟を強めることが、日本の安全を強化する』と表明する。米政府の後ろには軍産複合体があり、グローバル企業の利益が最優先政策だ。国民の利益が優先されるような国は皆無だ。誰が利益を得て、誰が犠牲になるのか?しっかりと見極める目を持たなければ、犠牲になっていることにも気づかない。
 
それにしても、「ザ・思いやり」の製作者が在日アメリカ人の英語講師リラン・バクレー氏であるとは、なんと情けない。属国化して70年、思いやり予算は義務となり、増額されても日本のジャ-ナリストの声は小さくて国民には届かない。安倍氏のやりたい放題だ。もうどうにも止められない。ご主人様に褒められようと、米国議会で戦争法案成立の約束をし、日本の安保政策の立案者アーミテージ氏に旭日大綬章を授け、南シナ海での自衛隊活動を「検討する」とオバマ氏に表明した。安倍首相は日米同盟を強化すべく米国が要求してくることは何でも受け入れる。安全保障面だけにとどまらず、TPP交渉においても必死になって米国の要望に応えようとしている。
 
 安倍首相の『戦後レジームからの脱却』とは何なのだろう。アメリカの支配下から逃れることではなかった。強い軍事力と改憲を目指し、南京虐殺や従軍慰安婦問題を否定する歴史修正主義の立場を取ること、ナショナリズムの復活だ。アメリカの傘下のもとで戦争に協力すること、負け戦が間違っていただけで、勝てばアジアを牛耳る強い日本に返り咲けると思っているようだ。
 
 安倍氏が首相として登場して以来、自民党は安倍独裁だ。保守本流と呼ばれる賢い政治家はいなくなった。彼の祖父である岸信介氏は決して米国の属国であることを望んではいなかっただろう。安倍氏の頭の中ではアメリカの属国化と「戦後体制からの脱却」は何の矛盾もなく、相互補完するらしい。
 
映画は各地で順次上映する予定。問い合わせは(電話)090(4135)2563。