もう一度見たかった映画をやっと見ることができた。1954年から1962年のアルジェリアの独立戦争を描いたドキュメンタリ-タッチの作品だ。
50年前の感動が見事によみがえった。世界が変わっていないということか、自分も本質的に変わっていないということか?とにかく、アルジェリアの独立を目指す解放戦線に感情移入することができたし、その死が無駄ではなかったという思いに目頭が熱くなった。当時は作品の背景や製作者・監督などには興味がなく、作品を見て、ただただ感動したので、今回調べてみて、これほど数々の賞を取り、物議をかもした作品であったことに驚くとともに、今回再公開されたことを嬉しく思う。現在みても、まったく古さを感じない、現在進行形の戦いである。
1967年、日本を代表する映画雑誌『キネマ旬報』が例年発表する外国映画年間ベスト・テンにおいて第1位の栄冠を勝ちとった。ユダヤ人の家庭に生まれ、第二次世界大戦中レジスタンス運動のリーダーとして活躍した監督ジッロ・ポンテコルヴォは、映画を作るにあたって記録映像を一切使わず、目撃者や当事者の証言、残された記録文書をもとにリアルな劇映画として戦争の実体をドキュメンタリー・タッチで詳細に再現した。
アルジェの旧市街カスバで実際の戦闘に従事し、劇中でFLN幹部ジャファー役を演じたヤセフ・サーディが製作に参加した。イタリアが誇るマエストロ、エンニオ・モリコーネ(『荒野の用心棒』『ニュー・シネマ・パラダイス』)が音楽を担当、アルジェリア市民8万人が撮影に協力した。マチュー中佐役のジャン・マルタンを除き、主要キャストには実戦経験者を含む素人たちが多数起用された。主役の英雄アリ・ラ・ポアントを演じるブラヒム・ハジャックは、アルジェ郊外に住む漁民で、アリとそっくりの容貌の持主であり、しかもよく似た経験の持主であった。
戦車、武器類はアルジェリア軍より調達、フランス映画『望郷』の舞台となったカスバでオールロケを敢行、5年の歳月をかけて作られた。1966年ベネチア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞した折には、当時現地入りしていたフランス代表団が“反仏映画”として反発し、映画監督フランソワ・トリュフォーを除いて全員が会場を退席したという。
FLN(アルジェリア民族解放戦線)とフランス軍。戦争に巻き込まれていく一般市民たちの日常をリアルに描き、ゲリラ作戦の詳細や壮絶な市街戦をモノクロ撮影で記録映画的に写しとったこの映画は、現在もその延長線上にあること、より犯罪的に、より大量殺戮戦に、どうにも出口がない殺し合いになっている現実のやりきれなさ、絶望感に観る者の心を誘導する。アルジェリアでは独立戦争の記憶遺産として高い評価を受けているという。難民や移民、頻発する自爆テロ、明らかにステップアップしているテロの世紀に生きる私たちにとって、独立戦争を正義として描いた本作の歴史的価値は大きい。
主人公アリとFLN幹部ベン・ムヒディ(実在の人物、フランス軍に捕まったムヒディは獄中で自殺するが、拷問で殺害されたというのが真相らしい。)は革命と暴力の関係について語り合う。ゼネストの戦術的有効性についてムヒディは語る。
「暴力では戦争にも革命にも勝てない。テロが有効なのは最初の段階だけで、人民自身の行動が後に続かなければならない。ゼネストの有効性はそこにある。人民を動かし、我々の力を評価するためだ。国連に我々の力を証明するためだ。良い結果は得られなくても、国連に我々の力を示すことはできる。革命を開始するのは難しい。それを維持するのはもっと難しい。困難を極めるのは革命に勝利することだ。しかし、勝利した後に、究極の困難が待っている。つまり、成し遂げねばならぬことが山積しているのだ。」
現在のテロ戦争もまた、独立戦争であるとみなすことができる。統治しているのが大国の傀儡政権だから、独立戦争には見えないが・・・・・
そこでは反政府運動が犯罪とみなされる。日本が加担するのは、当然大国側だ。政府軍は大国から支給された武器を使い、民衆の中に潜む反乱分子を殺戮する。大国は空爆と言う手段で反政府軍をたたく。
シリアでは、大国の代理戦争、三つ巴の戦闘が繰り広げられている。犠牲になって、死んでいくのはいつの時代も貧しい国民だ。
少なくても、外から見ていただけではどちらに正義があるかわからない。いや、どちらにも正義がないというのが真実だろう。
南スーダンはアフリカでも指折りの産油国で、国家収入の98パーセントが石油収入という。特に米国と中国の石油企業が急速に進出している。今回の戦闘で北部の油田地帯が反乱軍に制圧され、これらの外国人も退避を余儀なくされている。そのため、2013年末、国連安保理が、平和維持部隊を約6000名増派することを決議した。もともと、ス-ダンから独立した南ス-ダン。一番新しい独立国だが、大統領と副大統領の内輪もめで内戦になったようだ。形は民族間の対立に見えるが、底流にはいつも利権争いがある。大国の都合で、独立した国が分け前の配分を巡って争いになったことを見ても、独立後の政策が如何に難しいかの証明になる。独立に利権以外の理念がなかったことの証明でもある。日本が参加するのもこの利権のおこぼれに預かりたいという産業界の要請だろう。
国連の平和維持軍が資源に乏しい国の大虐殺に関与しないのは、ルワンダジェノサイドを思い出せばわかる。ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、一日あたり1万人が、一時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。1994年、国際社会は大虐殺を放置したのである。
傀儡政権を通じた資源国の植民地政策は今も続いている。スペインとポルトガル、そしてフランスはひたすら略奪する残虐な略奪国。世界一賢い略奪国は大英帝国。インフラなどを整備し、最大級の賢い略奪政策に長年成功してきた。植民地の独立後も良い関係を保ち、投資と言う手法でスマ-トな略奪は継続する。それに比べて、日本のお粗末さが際立つ。大英帝国と比べて短い略奪期間だったにもかかわらず、いまだに隣国に恨まれ、正常な外交関係も保てない。
実際のアルジェリア独立戦争はフランス本土と当時はフランス領(公式には植民地ではなく海外県と海外領土の中間的存在とされる。)であったアルジェリアの内戦であると同時に、アルジェリア地域内でフランス本国と同等の権利を与えられていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、対照的に抑圧されていたベルベル人やアラブ系住民などの先住民との民族紛争及び親仏派と反仏派の先住民同士の紛争、かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもあった。映画は民族独立戦争として単純化して描いていたが、勢力図は複雑で、単純に人民の勝利と言うものではない。
フランス政府では公式には戦争として認定されず、「アルジェリア事変」や、「北アフリカにおける秩序維持作戦」と呼称されていたが、1999年10月になり法改正され正式にアルジェリア戦争と記される様になった。
映画でのFLNテロ組織壊滅後、FLNは戦闘では不振続きであったが、政治面では勝利をおさめつつあった。FLNは40万を数えるフランス在住アルジェリア人を「フランス連盟」に組織し、彼等から徴集する金を武器購入資金にあてようとした。貧しいアルジェリア人から集めたぼろぼろの紙幣はスーツケースに詰め込まれ、フランス人の親FLN組織「ジャンソン機関」によって主にスイスへと持ち出された。フランス軍によるFLN容疑者に対する拷問の実態が少しづつ知れ渡り、フランス人自身による反戦気運が高まってきた。「ジャンソン機関」は1960年には摘発されて解体するが、その時には約3000人の協力者を擁していたという。また、1956年1月から、アルジェリアの砂漠地帯で石油の採掘が始まっていたが、FLNの背後には石油の利権獲得を狙うアメリカの影があると噂されていた。そのアメリカではFLNのエージェントが活躍し、57年7月には当時野党民主党の上院議員だったJ・F・ケネディの支持を取り付けた。ケネディの演説「アルジェリアの独立を承認し、フランス及び近隣諸国との相互依存関係確立の基礎となる解決を達成するための……米国の影響力を行使する」以降、アメリカは国連においてフランスへの支持をやめ、棄権にまわるようになった。
58年1月、ユーゴスラヴィアの輸送船「スロヴェニア」がフランス艦に臨検された。この船には小銃1万2000挺を含む武器弾薬148トンが積込まれていた。フランス諜報機関はすでに先月東側諸国がFLN援助に踏み切ったことをつきとめていた。また、アラブ諸国の援助や前述のジャンソン機関の活動で資金を得たFLNは、国際武器商人との取引きも活発に行った。武器商人の中にはナチスの残党も混じっていたといい、フランスSDECE(外国資料情報対策本部)の「第二四局」との暗闘を繰り広げた。武器商人が謎の死をとげることもよくあったという。
FLNの最も強力な味方はチュニジアのブルギバ大統領であった。フランス軍の弾圧を受けたFLNの戦士はチュニジアに逃げ込んだが、その勢力はチュニジアの正規軍を上回るほどになっていた。チュニジアはFLNの訓練・休養のための最も便利で安全な聖域であった。ブルギバとFLNの仲は必ずしも良好という訳ではなかったが、それでもブルギバは隣国アルジェリアの独立を強く支持し、そのことでフランスと揉めるとアメリカに援助を要請した。
やはり、ロシアやアメリカの大国が絡み、大国の支援が得られたから、アルジェリアは独立できたと考えるのが妥当なようだ。