オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

情念の語り部-中島みゆき

2016-01-19 | 日記
中島みゆきを知ったのは40年以上前、1970年初めだろう。田舎っぽい少女で、今のような形で変身することは想像もできず、井上陽水や吉田拓郎の方が長続きするように思えた。そんな少女が40年以上も作詞作曲を続け、不動の人気を誇っている。圧倒的に女性のファンが多いと思っていたが、男性の中にも熱烈なファンが存在する様だ。
 
中島みゆきは情念の歌を作らせれば、右に出る者はいない。恨み節を創らせれば、一級品で、スト-リ-はどこにでもある失恋の恋歌なのであるが、デティ-ルの鮮やかさで一つ一つの失恋が独自の物語性を醸し出す。満島ひかりや大竹しのぶのように、年代を超えて女優のファンが多いのもうなずける。舞台で歌えば、即、上質の芝居になってしまう。BSで見たとき、彼女たちが歌った歌はミルク32、と化粧だった。等身大で歌える歌として満島が選んだミルク32は客の少ないショットバーでミルクと呼ばれるマスターに 振られ続ける客が語り掛ける。だれでも疲れを癒す場が必要だろうが、20代の時に創った「店の名はライフ」との違いが面白い。
歌詞のとおり、隣には自転車屋があった。一文無しがたむろして怪しげな運命論の行き止まり、徹夜で続く恋愛論、抜け道は左、安梯子。二枚目マスタ-になってから純喫茶、抜け道は塗りこめてしまった。青春の一コマを謳っているが、公安の査察があった時、逃げる抜け道と考えれば、かなり意味深だ。振られ続けて、人生の堂々巡りを繰り返し、30代の彼女は失恋のけだるさをミルクからバ-ボンに変わった飲み物で癒す。
 
思い出話と愚痴で夜は更けていく。弱さを意識しながら、頑張るのではなく、弱さと戯れる、弱さを楽しむ。弱さを謳って、それを客観視することで、その弱さを克服する、そんなことが起こっているような気がする。
 
大竹しのぶが感情移入して絶唱した「化粧」の歌詞も悲しい女心を謳っている。 化粧なんてどうでもいいと思ってきたけど、今夜だけはきれいになりたい。バカだね。愛してもらえるつもりでいたなんて。流れるな涙、心で止まれ。流れるな涙、バスが出るまで。
一つ一つの恋の結末は個性的で、それぞれがドラマティックだ。かったるい平凡な人生でドラマティックな感情の起伏を味わえるのは人を恋したとき、そして失恋のとき。失恋好きの人、不倫好きの人がいるのは確かだ。彼らは、高揚感と甘ったるい挫折を求めて失恋を繰り返すのではないだろうか。そして、中島みゆきの歌に酔う。
 
中島みゆきの情念は演歌にも通じる。突き放して歌うときも、その心性は「尽くす女」「裏切られる女」だ。
私の恋心、お前にあの人は似合わない。優しい男は砂の数ほどいるのに、どうして忘れられない?冷たくされるほど、拘泥してしまう女心を謳ったものも多い。
 
もちろん中島みゆきの魅力はそれだけではない。社会の中で苦しむ姿を描き出し、毎日を慎ましやかに必死に生きる人の姿を歌う。そして、その非力をバネに社会に立ち向かう人への応援歌も多い。
中卒やから仕事をもらわれへんのやと書いた手紙の文字は震えている。ガキのくせにと打たれ、少年たちの目は年をとる。悔しさに握りしめた拳に爪が突き刺さる。階段から子供を突き落とした女の薄笑い。私、こわくて逃げました。私の敵は私です。闘う君の歌を闘わないやつらは笑うだろう。冷たい水の中を震えながら登っていけ。あきらめと言う鎖を身をよじってほどいていく。
石くれをよけるのが精一杯 目にしみる汗の粒を ぬぐうのが精一杯 重き荷を負いて 坂道を登りゆく者 重き荷も坂も 他人には何一つ見えはしない
ひび割れた唇は噛みしめるのが精一杯 がんばってから死にたいな 
ずるくなって腐りきるよりアホのままで昇天したかった
 
共通するのは、誠実であろうとする人と裏切る社会、それでも真摯で生き続けようとする弱者への賛歌だ。
努力が報われるわけではない。野垂れ死ぬだけの孤独な闘いかもしれない。まっすぐで真摯な弱者の群像が共感を呼ぶ。
 
悲しい時、つらい時、徹底的に落ち込む歌を聞いて、感情を出し切ってしまった方が立ち直れる。 感情を抑え込み、無理をすると、かえって、ろくでもないことになりがちだ。
 悲しい時は、悲しめばいい。
そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ。 あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ。だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう。
 
 
松任谷由実、吉田拓郎、井上陽水、矢沢永吉などなど、時代を代表するミュージシャンは多いが、「論」で語られる人はいない。
マツコが中島ファンだったというのには驚いた。「勝手な解釈で自分を歌に投影できる」
マツコが好きだという曲が「タクシードライバー」。天気予報や野球の話ばかり繰り返すタクシードライバーの気配り。「狼になりたい」の歌詞の「夜明け間際の吉野家では化粧の禿げたシティガ-ルとベビ-フェ-スの狼たちが肘をついて眠る~」、中島みゆきの歌に出てくる妙な生活感、歌の中のフィクションと現実世界を結びつけるのが面白いらしい。中島みゆきが自分のために作ってくれたのかしらと思ったという。誰もがそこに自分だけの物語を作り出せる。「自分の悲しさだけに浸かっていた女が、男にふられただけで、道に倒れてその男の名前叫ぶ?それができてるって、すごい強い女だと思うのよ。すごい生命力のある人のことを謳っていると気づいたときに泣かなくなったわね。」
「うんこのような歌しか聴いていない人が、うんこのような曲や映画を衝突事故的に見聞きしてしまったときに泣いてしまう。泣けるかどうかが基準になるような作品とのかかわりはあまり持ちたくない。どっちかといえばスポーツやノンフィクションのほうが泣ける。スポーツで泣けるのは、完全に他人事だからかもしれない。何の利権も手伝いもしてこなかったからこそ純粋に泣けるような気がする。でも中島みゆきの楽曲は他人事じゃなくなる。」 
語らずにいられないファンを多く持つのは、中島みゆきがファンとの間に一対一の関係を成立させるからである。
 
中島の歌う恋の苦しみ、愛の悲しみは、まさしく私のものである。私のものであったはずの悲しみが誰かによって代替されて謳われる。代替不可能なはずの苦しみが、より悲しみと苦しみを深めて歌われる。この衝撃は凄い。自分の苦境を客観化し、一人で立ち向かう勇気を人に与える。タクシ-ドライバ-では気配りをして野球の話を繰り返すドライバ-の思いやりにも気づくことで、既に余裕を取り戻している。
中島にとって、愛は常に希求されるものであり、決して成就すべきものではなく、それを望んでもいない。愛は「あなたがくれた」のであり、それが失われた後は、暗闇の中で初めから探し出すしかない。悪夢の中で本当の願い、人生の目的を探す長い旅へと向かう。自己の既存の成果に安住することなく、絶えず新たな表現領域に挑戦していく中島の姿勢そのものである。

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