オータムリーフの部屋

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イラン・コントラ事件とアメリカの軍産複合体

2013-09-16 | 政治

イラン・コントラ事件は、アメリカ合衆国のレーガン政権が、イランへの武器売却代金をニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。1986年に発覚し、アメリカ国内はおろか世界を巻き込む政治的大スキャンダルに発展した。

アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。彼らを救出する為、米国政府はヒズボラの後ろ盾であるイランと接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦うイランに対し、武器を輸出する事を約束した(イラン革命時のアメリカ大使館人質事件により、アメリカはイランを敵視して、イランに対する武器輸出を公式に禁じていた)。さらに米国政府関係者は、イランに武器を売却した収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争を行う反共ゲリラ「コントラ」に与えていた。ニカラグアは1979年のニカラグア革命により、40年以上続いた親米のソモサ王朝独裁政権が崩壊し、キューバおよびソ連に支援され、社会主義寄りのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)政権が統治しており、冷戦を戦い抜こうとする米国にとっては看過出来ないことであった。
 当時民主党が多数を占めた議会はイランへの武器販売およびコントラへの資金提供に反対していた。また、この時、アメリカのイランとコントラの双方の交渉窓口は当時副大統領だったジョージ・H・W・ブッシュ(パパ ブッシュ)であったとされ、このブッシュの関与が連邦議会の公聴会で取りあげられたが、その真相はうやむやである。

 イスラエルにとって、イラクがイランを打ち負かし、アラブの盟主になることは大きな脅威だった。そのためイスラエルは、イラン・イラク戦争の初期から、一貫してイランに武器を密輸出し、イランの武器の輸入総額の半分は、イスラエルからだった。革命直後にイラクに攻撃されたイランは、国際的には敗北必至と判断され、実際に戦死者はイラクをはるかに上回っていた。革命イランは「反イスラエル・反シオニズム」が国是であったが、イスラエルからの武器援助を承諾した。イスラエルが販売する武器は、米国や西欧の軍が使用する兵器であった。米国政府はこれに目をつけ、人質解放のために、身代金として、米国の武器をイランへ輸出するように要請した。これは、イランとの武器貿易を公然と行いたいイスラエルにとって望むところであり、米国はイスラエルによるイランへの武器輸出を承認し、密貿易は公式な貿易となった。これによって人質の一部が解放されたが、その頃からイスラエルは米国の代理人としてイランへ武器を輸出することを渋るようになった。その理由は明確にされていないが、アメリカではイスラム革命後、イランへの武器輸出が違法とされており、イスラエルが違法行為に加担したと断罪されてしまう「引っかけ」を恐れたからではないかと推測できる。イスラエルが代行を断った後、イランへの武器輸出はアメリカから直接行われるようになったが、結局はイラン・コントラ事件として暴露・断罪されることになった。
 一方、ニカラグアの「コントラ」も、元々はイスラエルが単独で支援していた。当時のイスラエルは、左傾化が進む中南米で、右派ゲリラを積極的に支援していた。米国も1970年代前半はゲリラを公式に支援していたが、民主党左派であるジミー・カーター大統領によって非合法化され、米国はイスラエルを介して援助するようになり、当時のイスラエルは数重にわたって米国の代理人となって、武器を輸出していた。レーガン政権はイスラエルの外交を利用してイランとニカラグア双方と接触したものの、暴露されてしまった。イスラエルは、その後、一転して反イランの姿勢を強めている。
 イスラエルは中南米の右派だけでなく、米中関係正常化後の台湾や、アパルトヘイト体制下の南アフリカなど、アメリカが公式にはつき合えない相手に武器などを売ることで、アメリカの外交政策の暗部を支えていた。


さて、シャーを追い出してホメイニに権力を与える画策をした張本人は、アメリカ(軍産英複合体)だったのではないかと言う憶測である。
確かに、ホメイニが亡命先のパリから、仏当局に全く阻止されず、テヘランに凱旋したことは不思議だ。ホメイニがテヘランに帰国する直前の79年1月末、米政府のイラン駐留要員高官の一人だったラムジー・クラーク(民主党・左翼)が、パリに行ってホメイニと会談し、米政府の意志をホメイニに伝え、その後記者団に「今後、イランの革命が成功し、人々に社会正義をもたらしてくれるだろう」と述べている。 クラークは左翼なので、シャー政権を倒す革命を「正義」と評価したという説明もされている。しかし、ここで重要なことは、米政府はイランでシャー打倒の革命が起ころうとしていることを知りながら、傍観していたことである。シャー自身、米に亡命した後、自分を追放してホメイニを政権につけたのはCIAの戦略だったと述べている。
 もう一つ、革命の直前、在欧米軍のホイザー司令官(Robert Huyser)がテヘランにやってきて、イラン軍の上層部に、革命が起きてもイラン軍は中立の姿勢を貫くように、要請して回ったと言う。シャーは回顧録の中で、それまで何度もテヘランに来るたびに、まず自分のところに挨拶に来るホイザーが、革命直前の訪問時には自分に全く連絡せずにテヘランに来て隠密行動を取ったのでおかしいと感じた、と書いている。
 イラン共産党からの情報で書かれたと思われる当時のソ連のプラウダの記事は、ホイザーはクーデターを起こすためにイランに来た、と報じた。ホイザーは、シャーが亡命してホメイニが帰国し、その間イラン軍は中立を維持し、やがてホメイニを支持するのを確かめるまで、イランに滞在していた。革命が起きると、駐イラン米大使館は、イラン軍に対して不介入を呼びかけた。革命によってホメイニ新政権が樹立された翌日には、米政府は新政権を承認した。ホメイニ側も、対米関係を悪化させることはしないと表明した。
 当時の事情をよく知る人々の中から「シャーが米に亡命した時には、すでに米当局とイランのイスラム聖職者勢力との間で、新政権に関する話し合いができていた」「イラン革命政府は、米が革命を支援していたことを隠している」との指摘もある。

 ホメイニは米からの非公式な支援を受け、イスラム革命を成功させたが、革命から7カ月後、革命派の学生らがテヘランの米大使館を人質を取って占拠した後、米イラン関係は悪化し、ホメイニは米を敵視する態度をとるようになった。米大使館占拠は革命発生直後に起き、ホメイニは一貫して革命派による米大使館占拠に強く反対していた。しかし、2度目の占拠が長引き、米議会でイラン制裁が議論され、米軍ヘリコプター部隊が秘密裏にイランに侵攻して人質救出を試みたが失敗するといった敵対行為が増す中で、ホメイニ政権は反米姿勢を強めた。 米大使館の人質解放までには約1年かかったが、この間、米では大統領選挙があり、共和党レーガンが勝った。1980年10月の選挙前には、副大統領候補だったパパブッシュがパリに行き、イランのホメイニ側近と会い、レーガン陣営が勝ったら人質を解放するとの約束を得て、人質解放に失敗し続ける現職の民主党カーターとの違いを鮮明化し、選挙戦を有利に進めたと言う話もある。 

 シャーは米英の傀儡だったはずなのに、なぜ米当局はシャーを追い出してイスラム主義者に政権を渡し、しかもその後、大使館占拠事件の後始末でイスラム主義者の反米感情を煽り、米自らがイランから追い出される展開を作ったのか。 シャーは革命前にイラクに側近を派遣し、当時ホメイニをナジャフに亡命させていたイラク政府(バース党政権)に対し、ホメイニを匿うとしっぺ返しを受けると警告した。シャー側近はイラク政府に「米は、中東諸国の政治体制をイスラム主義に転換させようとしている。CIAは今、ホメイニを使ってイランの政権転覆を狙っているが、それが成功したら、次はイラクで、バース党政権を転覆し、イスラム主義(シーア派)の政権に変えようとするだろう」と警告した。 イラク政府はホメイニへの警戒を強め、ホメイニは78年、米当局が接触しやすいパリに移動した。
 シャーの示唆によれば、米は、中東全域をイスラム主義に転換させる画策を隠密裏にしていたことになる。確かに79年以降、中東全域で反米的なイスラム主義が強まった。
 軍産複合体を中心とする米当局が、中東で反米的なイスラム主義勢力が台頭することを扇動ないし歓迎したとしたら、その理由はおそらく、イスラム世界と欧米イスラエルが長期対立する「第2冷戦」の枠組みを作りたかったからだろう。軍産複合体には、長期的・世界的に敵対する新たな敵勢力、米ソの冷戦構造に替わる敵対構造が必要だったと考えられる。
 戦争や過剰軍備で儲ける軍産複合体は平和な世界では困るのである。絶えず、戦争を引き起こして爆弾や兵器が消費されなければ困るのである。 
 イランコントラ事件でも明らかなように、政権と関係なく、自分たちの利益で動くユダヤ資本を中核とする軍産複合体が存在する。大統領も関知できないCIAやイスラエルの暗躍がある。米政界の上層部は一枚岩ではないのだ。
 
 米共和党(軍産複合体系)のシンクタンク「ランド研究所」は「テロ戦争は、もう終わりにした方が良い」「テロ防止は、軍事戦略としてではなく、犯罪捜査として行った方が良い」とする報告書を2008年に発表した。米政府が911のテロに対してまともな対応をしていたら、それは「戦争」ではなく「犯罪捜査」になっていたはずだ。911の容疑者として捕まった人々の裁判では、何一つ事件の本質が明らかにされていない。米政府は、犯罪捜査などそっちのけで戦争に入った。やりたかったことはテロ抑止ではなく戦争そのものだったと考えるのが自然だ。そこから911そのものがやらせだったのではないか、または知っていて傍観していたのではないかと言う陰謀説が飛び交う。
 確かに高々、数百人のアルカイダの犯罪防止のために、アルカイダを支援していると言いがかりをつけてアフガニスタンやイラクを攻撃した。表向きは「911を起こしたアルカイダとその指導者オサマ・ビンラディンを潰すための戦争」であるが、実際にはアルカイダとは全然関係のないフセイン政権のイラクへの侵攻がテロ戦争の一環と称して挙行された。さらに、これまたアルカイダと全然関係ないイラン(アルカイダはスンニ派だが、イランはスンニ派と敵対傾向にあるシーア派)に対する米国による敵視政策が、テロ戦争の流れの中で行われている。テロを戦争ではなく犯罪捜査で解決するのは、当然の常識である。だが、911でいきり立った国民は軍産複合体の思惑通り、テロ国家?に侵攻する政策に大賛成だった。その常識がランド研の報告書になるまでに7年を費やした。「テロ戦争に名を借りた軍産複合体の戦略は、マイナス面が大きすぎるので、もう終わりだ」ということである。

 アメリカ政権とは別に動く軍産複合体の存在があるから、アメリカの政策は読みにくい。CIAも独自の思惑で動いているようだし、何よりもイスラエルと言うアメリカの汚い仕事を肩代わりする国家がある。ビン・ラディンを暗殺し、テロ戦争も簡単には仕掛けられない今、軍産複合体はこれからどんな戦争の構図を考えていくのだろう。そんな戦争屋に日本の安部政権が尻尾を振ってすり寄っていく構図が見える。少なくても2020年までは日本も戦争を回避するかもしれない。しかし、オリンピック後、大不況がやってくる・・・・そのとき、どんな戦争の構図が設定されているか。中東がダメなら、この次の舞台はアジアになるかもしれない・・・・・・・・・・・


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