オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

B29の敵国犠牲者を慰霊する日本文化

2018-08-13 | 戦争
B29の慰霊碑に初めて遭遇したのは、2017年6月、南蔵王に行った時のことだった。
その時の記述だ。
不忘山に戦時中、B29が墜落したと言う。昭和20年3月10日東京大空襲に前後し、3機のB29が吹雪の不忘山山麓に墜落した。3機が墜落した時間帯は、300機を超えるB-29の無差別爆撃により、推定で10万人以上が犠牲となった東京大空襲と重なる。3機の所属は別部隊でグアムとサイパンから飛来している。不忘山の山頂近くにある不忘の碑。1961年に地元有志により3機のB-29搭乗員34名の慰霊の為に建てたものである。一方的に米兵の慰霊を目的に建立したような文面で、違和感を感じる。東京大空襲への言及があっても良いように思う。しかし、「わが父の家には住み家多し」という新約聖書の文面を見て納得がいった。
ヨハネ14章1~6節
「あなたがたは心を騒がしてははなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのためにわたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところにあなたがたをもおらせるためです。」
結局、「汝の敵を愛せよ」というキリスト教的視点がなければ、戦争を防げないと思う。
 
私たちは迫害されたり侵略されたりすると、相手を憎んで、仕返ししようと考える。いや、昨今は専守防衛さえ虚ろになってきて、攻撃される前に相手を攻撃しても正当化されそうである。
憎しみの連鎖が個人間でも国家間でも争いにつながって行く。そこまで見据えての慰霊碑なのかもしれない
 
今年の夏、終戦番組で宮崎県でB29の慰霊祭が一人の生存者と犠牲者の遺族を招いて行われたことを知った。それを見て、戦争の敵国犠牲者を慰霊するのはキリスト教とは何の関係もなく、特殊な日本の文化ではないかと思い至った。そこで調べてみると、撃ち落されたB29の搭乗者に対する慰霊碑が日本各地に存在することが分かった。しかも、戦時中に建立されたものも少なくないという。
 
中央大学の学生グル-プが去年から各地を訪ね歩き、ルポとして本にまとめているらしい。
 
戦時中、空襲の主力を担い、「超空の要塞(ようさい)」と恐れられた米軍の爆撃機B29は、日本国内で相当数が墜落したとされ、各地に住民らが建てた乗員を弔う慰霊碑が残る。「なぜ敵国の軍人のために」。そんな疑問を抱いた中央大の学生が建立の経緯を調べている。調査は昨年度、始めた。東京・多摩地域の歴史を調べていた学生が慰霊碑の存在に関心を持ったのがきっかけだった。総合政策学部の約30人が文献などからB29を中心に米軍機などの墜落地点約30カ所を調べ、秋田から沖縄まで22都府県の碑を訪ね歩いている。調査結果は学生らがまとめて本にする予定だ。
 
2年生の山本大介さん(20)は秋田県男鹿市の男鹿半島西部にある本山(715メートル)を訪ねた。山頂近くの碑の前で、地元のロータリークラブが毎年開く慰霊祭を見るためだ。
B29が墜落したのは終戦直後の1945年8月28日。サイパン島から秋田県北部に物資を運ぶ途中で、乗員12人中11人が死亡した。ふもとの住民が生存者を救出し、遺体も運んだ。クラブは90年5月、事故当時19歳だった生存者の元乗員を米国から招き、それを機に碑を建てた。1キロ余り離れたふもとの閉校した小学校の敷地にも、同じB29の死者を慰霊する碑がある。戸賀村(現男鹿市)が終戦2年後に建て、所々が欠け「和平」「B29」の文字もうっすら見える程度だ。近くの自営業、大友眞悦さん(80)は「濃い霧の日で、ドーンという音がして火柱が上がった」と墜落時の状況を教えてくれた。集落は人口も減り手を合わせる人はほとんどいないという。
千葉県内で対象となった碑は3カ所。戦争の記憶を伝える象徴の一つだが、地域によっては手を合わせる住民が少なくなった碑もある。
 長柄町の長栄寺。境内にある慰霊碑は1996年、当時の住職(故人)が建てた。45年5月、寺の近くにB29が墜落。乗員11人中5人が死亡し、生存者のうち1人は日本兵に首をはねられた。斬首を命じた日本兵は戦犯として処刑された。碑は双方を弔うもので、建立時には開眼供養もあったが、その後は表だった慰霊行事はない。
 
 2年生の原島光希さん(19)は8月15日、当時の住職に聞き取りをしたことがある睦沢町の学芸員、久野一郎さん(61)を訪問。久野さんは、住職が戦後20年ほどたったころ、ひそかに位牌をつくったことを明かした。碑の建立までさらに30年かかったことについて「周辺住民には戦没者遺族もおり、複雑な思いを抱かれると考えたのではないか」と住職の心中を推し量った。住職は「あの世に国境はあるのだろうか」とも話していたという。
 取材を終えた原島さんは「いつの時代にも通じる考えだとはっとさせられた」と感想を語る一方、慰霊祭が途絶えている現状には「住職の考えや碑の重要性が地域に伝わっているのかな、と心配になった」と打ち明けた。
 
 44年12月にB29が墜落した東庄町も長柄町の状況と似ている。町が管理する「ふれあい公園」の「平和の塔」。住民有志が97年、墜落で生き残った元米兵を招いた際に建てた。日米合同慰霊祭を開催したが、その後は慰霊祭は行われていない。
 
 碑を戦争の記憶のよすがととらえ、活用を図る動きもある。45年5月29日、横浜市を空襲後にサイパン島へ帰還中のB29が地上からの攻撃で木更津市内の山中に墜落し、乗員12人は全員死亡。墜落現場には「B29搭乗員之墓」と刻まれた石柱が残る。地元の男性が51年に建てたもので、半世紀ほどは雑草などに覆われていたが、山菜採りに入った人が発見。地元区長らが2006年8月、在日米大使館の空軍武官を招き慰霊祭を開いたが、それも一度きりだった。
 
 再び日の目を見たのは昨年5月。地元公民館が石柱を目的地とするハイキングイベントを開催し、今年は約40人が参加した。企画した同市浪岡公民館の山下要一郎主査(48)は「石柱は地域の数少ない戦争遺跡。草木に埋もれさせてはいけないと感じた」と語る。
 
 戦争遺跡保存全国ネットワーク(長野市)の代表で、山梨学院大学の十菱(じゅうびし)駿武(しゅんぶ)客員教授(72)=考古学=は「碑には『命は平等』との考えが込められ、時を経て憎しみの連鎖を断ったことも示す」と指摘。その上で「宗教的な考えで建立された碑や、個人の敷地に建つ碑などは行政が関わりにくいケースもある。誰がどんな経緯で建てたかを把握し、保存や活用の仕方を考えるべきだ」と提案する。
 
山本さんは調査を通じて、終戦前に熊本・大分の県境に墜落したB29の乗員らが九州帝国大(当時)で実験手術を受け死亡した「九大生体解剖事件」なども知った。「暗い事実からも目を背けてはいけない。ただ、男鹿半島などで米兵を救出した住民は純粋な気持ちだったと思う」。指導する松野良一教授(60)=ジャーナリズム論=は「戦争の愚かさを少しでもリアルに感じてほしい」と話す。
 
静岡市葵区の賤機山山頂に、観音像が建てられている。この観音像は、米国の空襲により亡くなった方々を慰霊するためのものだ。そして、その観音像の隣に、空中衝突して墜落死したB29爆撃機の搭乗員を慰霊する石碑がある。
 
また和歌山県田辺市にも1945年5月5日にB29が墜落しており、搭乗兵11人の内、7人が死亡。和歌山県の人達は、事故現場から遺体を探して埋葬し、戦争中に慰霊祭を開いている。
慰霊祭は戦後も続き、70回を超えている。そして、生き残った4人は周辺で捕えられた。竹槍をもって迫る村人もいたそうだが、突くことはなく、おにぎりとたくわんを与えたそうだ。「恨みもあったはずだが、みんなが戦争に疲れていた。米兵の姿を見て、戦地に赴いた家族の姿を重ね合わせた。哀れみの方が強かったんでしょう」と現地の人は言う。
 
また、群馬県邑楽町の清岩寺でも墜落兵の慰霊碑がある。墜落機からはい出した瀕死の米兵を見て、「鬼と教わった米兵も同じ人間だった。大切に思う人のためにも彼らの魂を弔いたい。」という思いがきっかけになっている。パイロットを弔い、寺で埋葬した。そして戦争が終わると、米国当局に連絡を取り遺骨を本国に戻した。慰霊碑は戦後60年経ってから、町で寄付金を募り建てたものだ。
 
東京都東村山市にも墜落して亡くなったB29のパイロットを弔い、墜落現場に平和観音像が建てられている。
墜落して亡くなった11人の遺体を埋葬し、戦後、米軍関係者が遺骨を引き取っていった。観音像は、住民の呼びかけに、当時の東村山町などが協力して建てられたものだ。
 
日本本土のB29だけに限らず、アリューシャン列島にて米軍の戦闘機が日本軍に撃ち落されパイロットが亡くなった際に、遺体を発見した日本兵は、パイロットの亡骸を埋葬し、碑文を立てている。
「自らの若くも輝かしい時間を、愛する祖国の為に捧げた英雄・・・ここに眠る・・・」
 
 
 
驚くのは、戦後でなく戦時中に建てられた慰霊碑も少なくないということだ。しかも、大東亜戦争だけで起きた行為ではなく、日露戦争や支那事変、古くは元寇の頃から続く日本人の伝統的な思想だという。
 
 二度の元寇を撃退した後、弘安5(1282)年に執権北条時宗は、鎌倉に円覚寺を建て、元軍10万人の死者のために1千体の地蔵尊を作って奉納した。
 
 秀吉の朝鮮出兵の際には、各地で敵兵の屍を埋めて弔った。当時の朝鮮中央の要職にあった柳成龍は、著書「懲毖録(ちょうひろく)」の中で、「日本軍は、熊嶺の戦死者の屍をことごとく集め、路辺に埋葬し、その上に標柱を立て、『弔朝鮮忠肝義胆』と書き署(しる)した」と記録している。
 
 日露戦争が終わった後の明治40(1907)年、日本政府は亡くなったロシア軍将兵を弔うために、激戦のあった旅順近くの案子山に高さ13メートルの礼拝堂を建てた。ロシア皇帝ニコライ2世は感激して、その除幕式に自ら出席すると言い出したほどである。皇帝の臨席こそ実現しなかったが、出席したロシア将兵や牧師たちは、「このような事は史上例がない」と感激し、日本を心から尊敬するようになった。日本政府が自国将兵のための「表忠塔」を建てたのは、その2年後であった。
 
 南京事件が起こったと言われる日支事変でも、総司令官・松井石根大将は日中両軍の戦死者を弔う慰霊祭を行い、また双方の戦死者の血の沁みた土を持ち帰り、それをもって熱海に興亜観音を建立して、両軍の英霊の冥福を祈った。
 
B29のパイロットは、それぞれがその町を爆撃しに来た人達だ。しかも、軍事施設でなく、多くの民間人が犠牲になるように、木の家を焼く為の焼夷弾という爆弾を落とし、多くの日本人達を焼き殺して来た。しかし、その人達にも家族がいて、帰りを待っている。敵国とはいえ、祖国の為に命をかけた人を敬う文化がある。憎いのは戦争そのものであり、人が亡くなったら弔うのが当然の行為だと思う文化が日本にはある。

朝鮮戦争にまつわる驚愕の事実

2017-10-29 | 戦争
1950年に勃発した朝鮮戦争で、国連軍は一時北朝鮮を中朝国境まで追い詰めている。その後、中国の介入によって国連軍は押し戻され、現在の38度線に国境が引かれた。その結果、韓国と北朝鮮は現在も休戦状態にある。アメリカのマッカーサー、韓国の李承晩が当時の指揮官だった。
 
 
第二次世界大戦中の1943年11月に、連合国はカイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を、大戦終結後は自由独立の国とすることを発表し、1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東秘密協定にて米英中ソ四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された。ソ連の侵攻が進みトルーマンは、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。その後、米ソ対立を背景に1948年8月15日、南部に大韓民国、9月9日北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。中国大陸が共産化しても台湾不介入声明を出したトルーマン政権の対中政策を観察していた金日成は朝鮮半島にもこれを当てはめ「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」を推察した。ソ連を訪問して開戦許可を求めた金日成に対し、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認した。さらに中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。
南北の軍事バランスは、ソ連および中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切った。最初の奇襲攻撃で韓国軍は、敗退した。6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「国際連合安全保障理事会決議82」を賛成9:反対0:棄権1の全会一致で採択した。拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、当時国際連合において「中国」を代表していた中華民国の中国国民党政府と、前年に誕生した中国共産党の間の代表権を巡る争いに対する国際連合の立場に抗議し、この年の1月から安全保障理事会を欠席していた。しかしスターリンには、この安保理決議が通過するのを黙認することで、アメリカ合衆国が中国や朝鮮半島に引きこまれている間に、ヨーロッパにおける共産主義を強化するための「時間稼ぎにつなげる目論見」があった。
 
韓国政府は首都ソウルを放棄し、水原に遷都。6月28日、ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した(漢江人道橋爆破事件)。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。
 
 
マッカーサーは6月29日に東京の羽田空港より専用機のダグラスC-54「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻った。マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に在日米軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイングB-29やB-50大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲した。この時、アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12月の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど帰国、退役し、新たに徴兵された多くの兵士は実戦を経験していなかった。派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日に北朝鮮軍と交戦を開始したが7月5日には敗北した(烏山の戦い)。6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成した。韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、国連軍が参戦、一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍が加わり、直接参戦しないソ連は武器調達や訓練などで支援、アメリカとソ連による代理戦争の様相を呈した。
 
準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きた。この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。釜山陥落も危惧される情勢となり、韓国政府は日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行っている。金日成は「解放記念日」の8月15日までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりであったが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否して徹底抗戦をして、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めた。
 
マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の9月15日、アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに少数の韓国人道案内からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功した。また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。1950年10月1日、韓国軍は開戦以前から「北進統一」を掲げ、「祖国統一の好機」と踏んでいた。李承晩大統領は丁一権参謀総長を呼び「38度線には何か標でもあるのか?」と尋ねると、李の意図を理解した丁は「38度線は地図に引かれた単なる線です」と答えた。李は我が意を得たとばかりに丁に『ただちに軍を率いて北進すべし』という大統領命令書を渡した。この命令については事前にマッカーサーへの相談はなされていなかった。しかし、アメリカでは既に仁川の成功で発言力が増していたマッカーサーによる要求や、北朝鮮軍が38度線以北に逃げ込んで戦力を立て直し再度の侵略を図る懸念があるとの統合参謀本部の勧告もあり、トルーマンはマッカーサーに38度線を突破する事を承認し9月27日にマッカーサーに伝えていた。しかし条件が付されており『ソ連や中国の大部隊が北朝鮮に入っていない場合』『ソ連と中国が参戦する意図の発表がない場合』『朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合』に限るとされた。
しかし、ジョージ・マーシャル国防長官はマッカーサーに「貴下が38度線の北を進撃するのに、戦術的・戦略的に制限を受けていないと思われたい。」と曖昧な打電をしており、マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると思っていた。その為、マッカーサーは韓国軍の独断専行を特に問題とは考えておらず、翌10月2日にその事実がアメリカのマスコミに公表されると、ついで10月7日にはアメリカ軍の第1騎兵師団がマッカーサーの命により38度線を越えて進撃を開始した。また国連でも、ソ連が拒否権を行使できる安全保障理事会を避け、10月7日にアメリカ国務省の発案で総会により、全朝鮮に「統一され、独立した民主政府」を樹立することが国連の目的とする決議が賛成47票、反対5票で採択され、マッカーサーの行動にお墨付きを与えた。
10月1日、韓国軍の進撃に対し中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は中国人民共和国建国一周年のこの日に「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする明白な警告の声明を発表したが、ワシントンはこの声明を単なる脅しととって無視した。 しかし毛沢東はかなり早い時期、それもまだ北朝鮮軍が有利に戦争を進めていた7月の段階で中国の戦争介入は不可避と考えており、中朝国境に中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出し、東北辺国防軍を創設し準備を進めていた。仁川上陸作戦についても、その可能性を予測し金日成に警告を与えていたが、金日成は警告を無視したため、北朝鮮軍は仁川への国連軍の上陸作戦を阻止できず、38度線突破を許す事になったことに幻滅していた。
 
中国が戦争介入の準備を進めている最中の10月15日、トラック島において、トルーマンとマッカーサーによる会談が行われた。トルーマンが中国の参戦の可能性について質問すると、マッカーサーは「ほとんどありえません。」と答え、さらに「最初の1~2ヶ月で参戦していたらそれは決定的だったでしょう。しかし我々はもはや彼らの参戦を恐れていません」と自信をもって回答している。
その間に、アメリカ軍を中心とした国連軍は、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かず、敗走する北朝鮮軍を追って進撃を続け、10月10日に韓国軍が軍港である元山市を激しい市街戦の上に奪取した。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸し、マッカーサーの作戦では第8軍と第10軍が二方面より進撃する計画であった。10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌を制圧した。マッカーサーは平壌入り前の10月17日には、中朝国境から40~60マイル離れていた線を決勝点と決めたが、数日もしない内にその決勝点はあくまでも中間点であり、更に国境に向け進む様に各司令官に伝達した。国務省からは、国境付近では韓国軍以外は使用するなと指示されていたが、それに反する命令であった。この頃の国連軍は、至る所で相互の支援も、地上偵察の相互連絡の維持すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに鴨緑江を目指していた。また補給港も遠ざかり、補給路は狭く、険しく、曲がりくねっており補給を困難にさせていた。しかしマッカーサーは指揮を東京から行っており、朝鮮半島に来ても日帰りで東京に帰り宿泊する事はなかった為、見た事のない敵地の地勢を正しく評価できていなかった。その様な過酷な環境下で先行していた林富澤大佐率いる韓国陸軍第6師団第7連隊は10月26日に中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。
 
日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、特別掃海隊として派遣された海上保安官や、海上輸送や港湾荷役に従事する民間人など、総計で8,000人以上の日本人が朝鮮半島およびその周辺海域で活動し、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした。特別掃海隊に対して北朝鮮外相朴憲永は非難、ソ連も国連総会で非難した。李承晩韓国大統領も1951年4月、「万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦う」と演説で述べた。
 
 
金日成は人民軍が崩壊の危機に瀕するとまずソ連のスターリンへ戦争への本格介入を要請したが、9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国を説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と答えてきた。当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てていた。ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めていた。毛沢東主席と数名の最高幹部は参戦を主張していたが、林彪や残りの多くの幹部は反対だった。
しかし、10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を特使の朴憲永から受け取ると、既に介入は不可避と考えていた毛沢東は、これで参戦を決意した。 アメリカとの全面衝突によって内戦に勝
利したばかりの中国にまで戦線を拡大されることを防ぐため、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することとした。「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の総司令官は第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員林彪の予定であったが、林彪は病気を理由に辞退し、代わりに彭徳懐が総司令官に指名された。中国参戦は10月5日の中央政治局会議で正式に決定された。抗美援朝義勇軍は、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊であった。彭徳懐は、国連軍の第8軍と第10軍団の間に間隙が生じている弱点を捉え、4個軍のうち3個軍を西部戦線に集中させて韓国軍3個師団を殲滅し、国連軍を阻止しようとした。
それに対しアメリカ軍は、仁川上陸作戦での情報収集でも活躍したユージン・クラーク海軍大尉ら多数の情報部員を北朝鮮内に送り込んでいた。10月25日クラークより30万名の中国兵が鴨緑江を渡河したという報告があり、数日内に同様な情報が他の複数の情報部員からも報告されたが、トルーマンは、CIAがこの情報も含めて総合的に検討した結果として、ソ連が全世界戦争を決意しない限り中国も大規模介入はしないとの分析を信じており安心しきっていた。10月28日には米第1海兵師団も中国軍第126師団所属部隊と交戦し、戦車を撃破し捕虜も捕まえたが、マッカーサーは少数の義勇兵の存在は、さほど重要性のない駒の動きであると楽観的に認識していた。前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。
そしてついに11月1日に中国軍が大規模な攻勢を開始、韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった。さらに中国軍の猛攻で、右翼の韓国第2軍団が撃破され背後にまで迫ると、第8軍は中国軍の介入を認め、清川江への後退と防御を命じた。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けた。清川江に後退した第8軍は橋頭堡を確保して防戦した。中国人民志願軍はアメリカ軍の陣地に攻撃することは不利と判断し、11月5日に攻勢を中止した。その後、前線から中国人民志願軍は消え、後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し、次の攻勢の準備に取り掛かった。
マッカーサーは中国の本格介入に対しては即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせる他ないと考え、鴨緑江に向けて進撃競争の再開を命じると共に、統合参謀本部に対し、中国軍の進入路となっている鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可を要請した。その際マッカーサーはトルーマンに宛てて「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言を行い、トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を呑んだ。
マッカーサーは中国の罠にはまる形で鴨緑江に向けて軍を進め、中国軍はその動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていた。アメリカ軍の前線部隊の指揮官らは迫りくる危険を充分に察知していたが、マッカーサーは自分の作戦の早期達成を妨げるような情報には耳を貸さなかった。その作戦はマッカーサーの言葉によれば、第10軍が鴨緑江に先行した後に、第8軍で一大包囲網を完成させ万力の様に締め上げるというものであったが、その作戦計画は机上の空論であり、中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていた。その右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていた。11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国人民解放軍に対する攻撃を開始するが、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍第2軍団は中国軍の最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまった。韓国軍を撃破した中国軍は国連軍に襲い掛かったが、山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達した。あるアメリカ軍の連隊は10倍もの数の中国軍と戦う事となった。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被った。中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのにマッカーサーはその事実を認めようとせず、11月27日、第10軍のアーモンドに更なる前進を命じている。この当時のGHQの様子を中堅将校であったビル・マカフリーは「そのころ、司令部内は完全に狂っていた・・・我々は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた」と回想している。しかし実際には前進どころか、第10軍の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の人海戦術の前に危機的状況に陥っていた。
ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーはトルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。」「中国兵は我が軍の全滅を狙っている。」と報告し、無謀な北進が、中国の本格介入を呼び込み、アメリカに国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れを図った。
中国軍の攻勢が始まって3日経過した11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされた。しかし前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった。マッカーサーは第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行った。退却した距離は10日で200kmにもなった。撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。しかし中国軍の人的損害はその数倍に及んだ。
 
 
中ソ友好同盟相互援助条約に基づいてソ連により中国に供与された最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が中国軍の参戦で投入され、国連軍に編入されたアメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のリパブリックF-84やロッキードF-80、F9F、イギリス空軍のグロスター ミーティアとの間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。MiG-15は当初、速度差で国連軍の戦闘機を圧倒したが、すぐさまアメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機であるノースアメリカンF-86Aを投入した。初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し、最終的には圧倒的な優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダのカナデア社も多数のF-86を生産してこれを助けた。なお、中朝軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国軍のパイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したと言われているが、低い練度のまま参戦したことで十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86が最終的にMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になった。
 
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。
国連軍の士気は低下し、中国軍は前線から姿を消していた。その後も攻防が続き国連軍が北進した。アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、3月14日にはソウルを再奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕した。1951年冬から両軍は越冬状態で過ごした。しかし第一線では偵察や警戒行動が昼夜を問わず行われ、死傷者が1人も出ない日はなかった。また両軍とも大規模な作戦行動を採らなかったものの、最も防御に適した地形の確保をめぐって、両軍による高地争奪戦が繰り広げられた。
 
1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。
1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。
 
 
アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行った。その85パーセントは民間施設を目標とした。56万4436トンの爆弾と3万2357トンのナパーム弾が投下され、爆弾の総重量は60万トン以上にのぼり、第二次世界大戦で日本に投下された16万トンの3.7倍である。
中国人民解放軍、北朝鮮軍に人的被害が特に多いのは、前述した如く旧式の兵器と人的損害を顧みない人海戦術をとった為に、近代兵器を使用した国連軍の大規模な火力、空軍力、艦砲射撃により大きな損害を被った事が一因とされる。それが分かった国連軍は、のちに強力な砲兵による集中火力と空からの攻撃で戦果を挙げた。
 
マッカーサーとトルーマンの対立
マッカーサーは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯を築き、第二次世界大戦と国共内戦終結後もそのほとんどがそのまま使われていた満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍によって爆撃する事や、中国軍の物資補給を絶つために補給ルートになっている中国東北部に50個もの原爆を投下し、放射性物質を散布する事をトルーマンに進言した。この当時のマッカーサーによる、中華人民共和国国内への攻撃、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、原子爆弾の使用などの提言は、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視しており、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言であった。
マッカーサーが暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任した。国連軍総司令官および連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任した。
1951年4月19日、マッカーサーはワシントンで退任演説を行い、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という有名な言葉を発した。
 
それにしても日本への空襲の3.7倍も爆弾を落とされたとは・・・・・・かなりの驚きである。北朝鮮がアメリカを憎悪するのももっともに思えてくる。北朝鮮がアメリカを怖がるはずがないのだから、米国が同盟国の安全を担保しながら、北朝鮮を排除するのは不可能だ。しかも中国と言う最も恐ろしい国が乗り出してくる公算大である。北京は一時的には黙認しても、それを認めることは、1950年代の朝鮮戦争のとき同様、ないだろう。
1953年に朝鮮戦争が休戦になって以降、米国の軍事力が北朝鮮の韓国侵攻を抑止してきた。北朝鮮の核開発は、こうした均衡を脅かす。長距離弾道ミサイルによって金正恩政権が米国西海岸を爆撃する力を手にすれば、米国はロサンゼルスを危険にさらしてまでソウルや日本を守るのか。
 
抑止戦略に頼る場合、米国の平和と安全は金正恩という独裁者に慎重かつ合理的な判断ができるか否かにかかる。第2次朝鮮戦争が始まれば、金正恩体制は崩壊するだろうが、米、韓、日のいずれかがたった1発、核攻撃を受ければ、それだけで大惨事だ。強い圧力をかけられる立場にあるのは中国だけだ。にもかかわらず、中国は北朝鮮に圧力を加えるための決定的な制裁をためらっている。金政権の崩壊によって難民が大挙して国内に押し寄せること、そして朝鮮半島が韓国によって統一され、米国の同盟国となるのを恐れている。だが、北朝鮮の核への野心を放置するのは中國にとっても危険だ。少なくとも中国が北朝鮮の核開発を阻止しないかぎり、東アジアはこれまでよりもはるかに危険な地域となる。
中国が北朝鮮の核兵器を接収する目的は、北朝鮮に核兵器を使用させないためだけでなく、米日韓に核兵器を攻撃させないためである。北朝鮮が不安定な状態に陥ったり、北朝鮮にアメリカの影響力が広がったりするのは中国にとって最悪の事態だ。そうならない前に中国が北朝鮮問題に介入することは十分に考えられる。経済大国中国の合理的判断に期待する以外円満に解決できる方策はないと思われる。

キラーロボットが変える戦争の形

2017-08-27 | 戦争
人工知能(AI)を搭載することで、自ら攻撃目標を発見し、殺傷する「キラーロボット」が誕生する日が近づいている。AIは、ひとたび軍事面で利用されると、火薬、核兵器に次ぐ、戦争の「第3の革命」を巻き起こす、そんな危惧が専門家の間に広がっている。
 
AIで著名な116人の起業家・専門家が今月21日、国連宛ての公開書簡の中で、自ら判断して敵を攻撃する「自律的兵器」に警鐘を鳴らした。
書簡の中で彼らは、(AIを搭載した)自律的兵器が世界のテロ集団や独裁政権の手に渡ることの危険性を指摘したうえで、こうしたAI兵器の即時規制を国連に訴え、そのために「自分たちの専門知識や助言を是非とも提供したい」と述べている。これに先立つ7月には、(米国政府への人材供給源として知られる)ハーバード大学ケネディ・スクールも、AIと(軍事を中心とする)国家安全保障に関する長文レポートを発表するなど、この分野に対する米政府関係者の関心が急速に高まっていることが窺われる。同レポートによれば、最近5年間のAI技術の発達は従来の予想を遥かに上回る速度で進んだが、その大部分は(国防総省傘下のDARPAなど)政府機関ではなく、(グーグルやマイクロソフトなど)民間企業とアカデミア(学術界)による研究成果であるという。今後は、この民間で培われたAI技術が、軍事やサイバー防衛などに応用され、国家の安全保障に重大な影響を及ぼすようになると予想している。また、これからのAI技術が従来見られた「軍事技術の非対称性」、つまり(米国のように)豊かな大国と貧しい小国や(ISのような)テロ集団との間における兵器格差が縮小する可能性があると言う。
 
 
現時点で完全自律性を有するキラーロボットは存在しないとされている。しかし、国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW、本部=米ニューヨーク)は、「米国、英国、中国、イスラエル、ロシア、韓国などが自律稼働性のレベルが高い兵器システムを開発中だ」と指摘する。 既にAIを搭載したロボットは軍事利用されている。韓国は北朝鮮との軍事境界線にロボットを配備している。相手の熱や動きを感知し目標を捉え、人間の指示に基づき機関銃などで攻撃する能力があるとされる。
イスラエルでは、軍用機などを製造する航空機メーカーが、目標を捜索し、攻撃できる無人機を開発した。また、去年、無人の完全自動運転軍用車の実戦配備を開始したことを明らかにしている。人工知能(AI)による自動運転軍用車の本格配備は「世界初」(イスラエル軍)で、パレスチナ自治区ガザ地区との境界に導入した。今後、機関銃など兵器を搭載してレバノンやシリア、ヨルダン、エジプトなど周辺アラブ諸国との境界に順次、配備する。将来的には兵士とロボット車両の混成戦闘部隊の組織を目指すという。兵器は現状では遠隔操作だが、製造業者は「技術的に武器の自動化は既に可能な状態」としている。
英国はAIを搭載し、指定された領域で標的を自動で追尾する機能を有する高性能のミサイルを保有。イラク北部での過激派組織「イスラム国」(IS)に対する軍事攻撃で使用した。米国でも無人戦闘機や対潜無人哨戒艦などの開発に着手している。
 
「捕食者」の名を持つ「プレデター(RQ-1)」は、1980年代にペンタゴンの国防高等研究計画局(DARPA)で製造が開始された。各種センサーを搭載し、当初は監視目的の無人偵察機として開発されたものだが、2001年のアフガニスタン紛争において、CIAが対戦車ミサイル「ヘルファイア」で武装し、タリバンとアルカイダに対して史上初の無人機による攻撃・殺害が実施された。
CIAとアメリカ空軍は、プレデターを改良して操作性・検出能力・射撃能力が向上した殺人無人機「リーパー(MQ-9)」を開発した。リーパーもヘルファイアで武装しているほか、レーザー誘導爆弾やスティンガー空対空ミサイルを搭載することができる。プレデターおよびリーパーは、機体にパイロットが搭乗する必要はないが、自動操縦ではなく遠隔操作で動く。
現在も開発が続けられている次世代ドローンは、国家の警戒防空域をすり抜けることや、高高度からの原子力施設の発見や、テロリストリーダーの暗殺も可能になると考えられている。V2ロケットなどの弾道ミサイルが何千発も使われた第二次世界大戦時代に代わって、何千台もの無人航空機が兵器として使用される「ドローン戦争」が起こるのも遠い未来ではない。
 
また、アメリカ空軍の研究組織「空軍研究所」は、「M.A.V」と呼ばれるマイクロ技術を使った「鳥型」「昆虫型」の無人機に関するアニメーションムービーを2009年に発表している。
 
マイクロドローンは主に上空から目的地周辺に散布して配置する。頭部が可動式のカメラになっている。対象者を発見すると……本部へ遠隔で情報が送信され、カメラの映像から人物を特定。
車が移動を始めると、首回りのプロペラが回転して浮遊し、鳥と同じく羽を羽ばたかせて飛行追尾を開始。
虫型ドローンは鳥型よりもさらに小さく……2対のウィングによって無音のホバリングが可能。ドアが開くまで待機するなど、細かい操作で対象者を監視する。
監視以外にもこのようにスナイパーの背後に忍び寄り……爆発してスナイパーに気付かれることなく殺傷する自爆攻撃が可能というのだ。
 
 
兵士たちは、モニター画面越しに遠隔操作する。兵士の命が危険にさらされることはない。アメリカ軍の元高官は、無人機なしの作戦は今や考えられないという。
元アメリカ空軍 中将 デビッド・デブトゥラさん
「無人機ならば標的を何時間もかけて偵察でき、攻撃の直前まで監視できます。」
アメリカ空軍で無人機を操縦していた、ブランドン・ブライアントさん
ブライアントさんは2006年から5年間、アメリカ本土で生活しながら基地に出勤し、アフガニスタンなどでの攻撃に従事していた。
「奇妙な生活でした。12時間、いわば戦場にいて、そのあと街に出て、ハンバーガーを食べたり恋人に会ったり、パーティーに行ったりするんですから。」
 
無人機攻撃により、民間人が巻き添えになったこともあった。
国連の調査では、パキスタンだけで2004年以降、少なくとも400人以上の民間人が犠牲になった。
パキスタン北西部で小学校の教師を務めるラフィークウル・レヘマーンさん。
2012年10月、自宅近くの畑で母親が無人機の攻撃を受けた。
「母は、子どもたちと畑に出て野菜を収穫していました。その時突然アメリカの無人機が攻撃してきて、母の体は吹き飛びました。」
レヘマーンさんの息子や娘も近くにいて、大けがを負った。
レヘマーンさんは、母親がテロリストだと間違われるような理由は全く思い当たらないという。
 
無人機の操縦に携わっていたブライアントさん
ある日、3人の標的が建物に入ったのを確認してミサイルを発射したが、その直後建物に向かって走る小さな人影が見えた。
「男の子か女の子か、分かりませんでした。でも上官からは犬だと言われました。胸がむかむかして、気分が悪くなりました。犬だなんて、うそだったんです。」
その後、軍を除隊したブライアントさんだが、上官から5年間の任務で殺した人の数は1,600人を超えたと告げられた。
「無人機の操縦者はすべてを目撃しますが、爆発音を聞くこともなく、興奮することもありません。聞こえるのはコンピューターの音と、同僚の息遣いだけです。無人機での攻撃を繰り返すうち、私は無感覚になっていました。」
無人機の操縦は高度な訓練を受けた兵士である必要はない。ボタン操作に慣れたゲ-マ-であれば十分なのだ。
 
最初のターゲットはテロリストの幹部。そして、中間から末端のテロリスト。
テロリストが取るであろう行動・ふるまいをしていれば、テロリストだという推定する。道路に穴を掘っていたら、路肩爆弾を設置しているだろうと・・・・。
20代から40代の男性が跳躍運動をしてる。それを無人機から見れば、これはテロリストのキャンプ場ではないか、訓練キャンプではないか。
また普通の部族の集会であっても、2~3人、4~5人集まれば、それはテロリストが集会してるんではないか。
 
テロリストは住民の中に潜んでいると主張する先進国はISとの戦いで民間人を含む攻撃に躊躇しなかった。シリア政府軍、アメリカやロシアの空爆でモスルはがれきの山。その下に埋まっている死体で今なお異臭がすると言う。
アメリカの軍事企業が開発を進める、最新の自律型無人機「X-47B」は、コンピューターで自動制御されている。このX-47Bが、熟練したパイロットでさえも難しいといわれる、空母への着艦に成功したと言う。移動する空母の位置、風の抵抗、機体の揺れ具合など、さまざまなデータを正確に処理し、空母のセンターラインぴったりに車輪を載せる完璧な着艦は、軍関係者にすら衝撃を与えた。将来的には、複数の機体どうしがみずから情報を交換し、連携して偵察や攻撃の任務を行うことが想定されている。
 
もし、人工知能兵器である自律型兵器が実現した場合、どのような未来が待っているのか。
自律型兵器が登場すれば、軍隊の構成から人間自体が排除される。機械が判断し、戦闘する。すべての軍事行動が兵器だけで完結する。
人工知能兵器つまり自律型兵器の需要が高いということは、開発者の前には莫大な利益がぶら下がっている。軍事大国が人工知能兵器開発に突き進みはじめた場合、世界的な軍事競争は不可避である。
自律型兵器は、ブラックマーケットに並び、テロリストや独裁者、民族浄化を願う部族軍長などのもとへ流れる。
 
人工知能兵器を実現させるテクノロジーは否応なしに発展する。人工知能は汎用性の高いテクノロジーだからだ。 人工知能兵器で戦争の在り方は確実に変わる。しかし、その凄惨さが変わることはない。そのうち、人工知能兵器が勝手に戦争を始めて人類を滅亡させるという大団円が待っているとしたら・・・・・それもいいかもしれないと思うこの頃である。いつの日か、自律するAIが登場し、とんでもない速さで自己改造を始める。生物学的進化の遅さに制限される人間がこれに対抗できるはずもなく、いずれ追い越される。ごく短いスパンで見た場合も、今は人間にしかできない作業を人工知能が代行できるようになり、数多くの失業者がでる。長期的には、邪悪な人類がより邪悪に進化したAI兵器に絶滅させられる可能性は十分にある。

日本は何故焼き尽くされたのか

2017-08-22 | 戦争
72年前、日本はなぜ焼け野原になったのか?アメリカ軍を取材中の今年4月、米軍内施設で半世紀以上前の空軍幹部246人の肉声テープが発見された。日本への空爆を計画し実行したカーチス・ルメイなど幹部の貴重な証言だった。軍内の記録用インタビューのため、野望や焦りなど本音が赤裸々に語られていた。膨大な予算のB29開発の失敗。陸海軍との対立や屈辱。米大統領の圧力。後のない空軍幹部たち…NHKは日本への無差別爆撃の真相に迫った。
 
 
終戦の1945年、アメリカ空軍は俄かに日本本土の空爆を激化させた。アメリカ空軍の空爆対象は一般市民の居住している都市部に変更された。
 
アメリカ空軍は日本の家屋の特徴を精査し、大部分が木造家屋であることを認識していた。アメリカ空軍のカーティス・ルメイ将軍は精神的ダメージを与え、戦意を低下させるため、日本人市民に恐怖を与えることを主眼に焼夷弾の大量投下を決定した。
 
当時アメリカ空軍はB-29という最新鋭機を大量に製造し、当初は人道的見地から精密爆撃で軍事施設のみを空爆する方針でいた。しかしB-29の本来的な能力である高高度からの精密爆撃は日本上空を通っている「ジェット気流」や厚い雲に阻まれて効率が悪いことが判明する。
 
アメリカ空軍は陸軍や海軍の下請け機関であり、対日本戦によって成果を出しアメリカ軍全体のなかで存在感を増し、空軍として独立することを目論んでいた。成果が上がらない空軍に対して海軍や陸軍はB-29を寄越せと迫ってきた。「空軍には宝の持ち腐れだ」
そこでルメイは方針を変え、非人道的である無差別爆撃を日本に対して行うことにした。
 
当然まだ健全だったアメリカ国内では一般市民への攻撃である無差別爆撃に対する批判はあった。しかし太平洋戦線でアメリカ兵の死傷者が激増していくなかで「戦争終結のためには無差別爆撃もやむえない」という空気も拡がっていった。この論理は広島・長崎への原爆投下の正当化にも使用される。実施されなかったもののマスタードガスやホスゲンを投下するという化学戦まで計画していた。
 
目的は日本人に精神的ダメージを与えること以上に日本人を皆殺しにしてでも空軍力の成果を見せることに移行していたのである。
ルメイは偵察機が撮影した航空写真を見て日本には思ったほど高射砲がないことを発見した。これならなにも高高度からの空爆は必要ない。ギリギリの低空飛行から膨大な焼夷弾をばらばら落とせばいいだけである。この発見によってルメイは焼夷弾の在庫がなくなるほど日本の空爆を行った。空爆は東京・大阪・名古屋といった主要都市から地方都市にまで拡がった。あまりの低空飛行だったため、帰還した爆撃機はものすごいにおいを発していたという。入念に洗浄しなければ、次の爆撃に飛び立てなかったという。
 
アメリカ軍が非人道的な無差別焦土作戦で日本を焼き尽くしたおかげで無能な戦争指導者は、やっと降伏を考え始めた。そして焼夷弾攻撃より短期で決着がつきそうな新型爆弾原爆が落とされて戦争はやっと終わった。図らずも戦争に海軍や陸軍の上陸作戦は必要がないことを示した格好になった。
 
空爆による無差別攻撃が空軍の存亡のためだったことを知ると・・・・・戦争も出世志向のビジネス感覚で行われることに人間の下劣さにつける薬はないと感じる。
 
アメリカの航空軍は「空軍」として独立を果たす事が出来た。ルメイは其の後アメリカ空軍トップに迄上り詰め、ヴェトナム戦争の爆撃担当者と成った。
空爆は主役に躍り出て、中東での無差別爆撃は続いている。「ドローン」が実現し、ゲ-ム感覚で大量の人命を奪うことが実現する未来はすぐそこにある。
 
現代の軍事力はより正確で洗練されているという話がある。しかしそれは第二次世界大戦前に空軍が 「我々なら第一次世界大戦で起きた虐殺を回避し、より速くより人道的に戦争を終えられる 」と言って騙したのと同じことだ。それを信じて第二次世界大戦のような虐殺は二度と起こらないと考えてはいけない。(ノースウエスタン 大学  マイケル-シェリー教授)
 
 

731部隊の残虐

2017-08-17 | 戦争
8月13日に放送されたNHKスペシャル『731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜』で初めて明かされる事実は如何に日本の科学者が戦争犯罪に加担していたか、そして隠ぺいされ続けてきたかを明らかにした。近年、NHKは今までになく、良い仕事を続けている。莫大な予算でスポンサ-に影響されない報道ができるNHKの面目躍如だ。
 
「731部隊」とは、日本の満州国建設から4年後、1936年8月に、関東軍防疫給水部本部の名称で発足した陸軍の秘密部隊の通称である。目的は満州で細菌兵器の開発を行うこと。中国人やロシア人を使った人体実験を行っていた。日本の敗戦と同時に、証拠隠滅のために研究施設は破壊され、被験体の囚人も殺害・焼却された。
その存在について、当初、右派から「捏造説」がしきりにいわれてきたが、歴史家や研究者の実証的研究で事実であることが確定している。731部隊研究の第一人者である常石敬一・神奈川大学名誉教授は、隊員数は3000人弱で、10年間に2000とも3000とも言われる人を人体実験によって殺害していたという(『七三一部隊』講談社現代新書)。
 
今回、NHKは、1949年にソ連で開かれた軍事裁判「ハバロフスク裁判」の音声データを入手した。この裁判では731部隊の関係者も被告や証人となった。当事者たちの生々しい証言はできれば聞きたくないほど残虐なものだった。自分と同じ人間に対して敵国人との理由だけでこんなにも残虐になれる。人間の本性に潜む残虐性は科学技術者の中にも巣食っている事実、いや卓越した理性ゆえに人間をマルタとして扱うことに何の躊躇も感じなかったのかもしれない。
 
「昭和18年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために、中国人・満人を約50名あまり人体実験に使用しました。砂糖水の中にチブス菌を入れて、強制的に飲ませて、細菌に感染させました。その人体実験によって亡くなった人は12から13名だと記憶しています」(731部隊隊衛生兵・古都良雄)
「ペスト蚤(ペストに感染させた蚤)の実験をする建物があります。建物の中に、約4〜5名の囚人を入れまして、家の中にペスト蚤を散布する。その実験に使った囚人は全員ペストにかかったと言います」(731部隊軍医・西俊英)
さらに、731部隊では人体実験だけでなく、当時すでに国際条約で禁じられていた生物兵器の使用も行っていた。
「使われる細菌は、主として、ペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌であります。ペスト菌は主として、ペスト蚤の形で使われました。その他のものはそのまま、水源とか井戸とか貯水池というようなところに散布されたのであります」「あの当時、現地に中国人の捕虜収容所が2カ所ありました。その人員は約3000名と言われていました。饅頭つくりに参加しました。少し冷やしてから、それに注射器でもって、菌を注射しました」(731部隊第一部〔細菌研究〕部長・川島清)
証言によれば、その後、細菌を注射した3000個の饅頭を収容所の中国人に食べさせ、解放したという。“パラチフスに大量感染させる目的だったか”との問いに、「はい。自分はそのように聞きました」と答えている。
 
今回、NHKが初めて報じたハバロフスク裁判での証言音声は新資料である。同番組は、膨大な資料と丹念な取材から、731部隊を生み出した背景に、大学と研究者の全面的な協力があったことを浮かび上がらせた。731部隊には、当時の帝国大学からエリート医学者たちが集められていた。なぜ、人の命を救う医学者、それもエリートたちが、大量殺戮のための生物兵器の製造・実験に従事することになったのか。番組によれば、731部隊に最も多く研究者を出していたのは、京都帝国大学(11名)、ついで東京帝国大学(6名)だった。少なくとも、10の大学や研究機関からあわせて40人の研究者が集められていた。番組は京都大学を取材し、その大学文書館に保管された文部省と京大の往復文書のなかから、731部隊と京大との“金銭のやりとり”を示す証拠を見つけ出した。その731部隊からの特別費用が記された書類には、細菌研究の報酬として、現在の金額で500万円近い金額が、研究者個人に支払われていた。取材を進めると、弟子たちを部隊に送ったとみられる教授たちの存在が浮かび上がる。その教授の研究報告書から、現在の額にして実に合計2億5000万円にも及ぶ研究費が支給されていた事実が浮かび上がった。
ハバロフスク裁判の証言音声にも、731部隊に巨額の国家予算が投じられていた事実が語られている。
「確実な数字はただいま記憶しておりませんが、だいたいの数字を申しますと、昭和15年度におきましては、だいたい1000万円(現在の金額で約300億円)に近い予算が使われておったように記憶しております」(731部隊第一部〔細菌研究〕部長・川島清)
軍は、豊富な国家予算を支給することで大学との関係を深めていった。京大出身の軍医だった731部隊長の石井四郎は、大学幹部と結びつくことで、優秀な医学者たちを集めていった。
そうしたエリート医学者のひとりに、当時、京大医学部講師だった吉村寿人がいる。吉村は回顧録のなかで、突然、教官から満州の陸軍の技術援助をせよと命令され、断ると、今の日本の現状からこれを断るのはもってのほかである、破門するから出て行けと言われたと記している。結局、吉村は陸軍技師として、1938年から敗戦まで731部隊での研究を行った。吉村の与えられた研究は凍傷の症例と対策。生きた囚人を使って、人工的に凍傷を引き起こす人体実験を行った。
しかし、こうした731部隊に従事したエリート医学者たちが、戦後に裁かれることはなかった。たとえば吉村は戦後、京大に戻り、最終的に京都府立医科大学学長を務める医学会の重鎮となった。吉村だけでなく、その多くは日本へ引き上げたのち、一流の医学者として頭角を現していったという。
〈吉村でなくとも、若い医学者はいつ召集を受け、第一線に狩り出されるかわからない不安な身分にあった。陸軍技師として豊富な研究費を与えられ、自由な実験ができるのは魅力にちがいなかった。
長老教授たちも、石井の顔で陸軍から研究費が流れ、貴重な実験データをもらえるのを期待して、弟子を送り出すことになる。いわば持ちつ持たれつの利害関係が、成りたっていたのである。〉(『昭和史の謎を追う』上巻/文藝春秋)
 
 
 
 
北朝鮮情勢など、安保環境の厳しさが増すなか、最近、日本の軍事分野の研究に影響を与える方針が定まった。
「戦争を目的とする科学の研究には絶対に従わない」「軍事目的の科学研究を行わない」――これは日本学術会議が1950年と67年に示した声明である。日本学術会議は今年4月に、この過去の声明を継承する新たな声明案をまとめた。50年以上前の声明を改めて引き継ぐことを決めたきっかけは、防衛装備庁が大学などを対象に一昨年から始めた研究資金の提供制度である。将来、軍事目的に活用できそうな基礎研究に資金を出すこの制度は大学での軍事研究を促しかねないもので、学術会議は制度に対し強い懸念を示したことになる。その声明には拘束力はないものの、大学の方針に影響すると思われる。学術会議が『防衛装備庁の制度には問題が多い』としたことで、制度への応募を控える大学が増えれば良いのだが、現実はそう甘くない。
 
過去に応募した大学の研究テーマを見ると、航空機の接着部の強度を高める炭素素材、カーボンナノチューブの研究、ナノファイバーを利用し有毒ガスを吸着するシートなどがある。制度の予算規模は2016年度の6億円から、今年度は一気に110億円に増えるという。今回の声明案では防衛装備庁の制度に懸念を示した上で、『大学などの研究機関は軍事的安全保障研究の適切性を審査する制度を設ける必要がある』と言う。しかし、審査すべきといっても、基礎研究は恣意的にいくらでも軍事目的と考えることができるから、審査の基準を決めるのは容易なことではない。応募できるかどうか、基準の判断は大学に丸投げしたかっこうだ。
 
もともと日本は防衛予算が少なく、技術開発は産業界による民生技術の開発を中心に進み、半導体やロボットなどトップレベルの技術を生み出してきた。アメリカの場合は軍事研究によって革新的な技術が生まれてきた。コンピューターやロケット、人工衛星、GPS、インターネットなどが代表例で、これには大学が深く関わってきた。
 
第二次世界大戦で科学者が戦争に協力した反省は生きているのだろうか。科学者の責任は何もないということで、訴追もなかったのだから、これからも科学者は安易に戦争に協力し、戦争を残虐化して行くのだろう----
 
 
残虐な新型兵器の開発でアメリカに追随できる国はない。劣化ウラン弾、クラスター爆弾、ナパーム弾は既に古い。
「デージーカッター」と呼ばれる燃料気化爆弾は通常兵器中最も大きな破壊力を持つといわれ、核に次ぐ威力である。
この気化爆弾は進化を続けている。北朝鮮への脅しの意味もあるのか、アフガニスタンでトランプにより最新型が使用されたのは記憶に新しい。
MOABとBLU-82
アメリカはその残虐性を隠さなくなった。アメリカは対アフガニスタン戦争の直前から、BLU-82を改良した新型の燃料気化爆弾BLU-118の開発を進め、アフガン東部のトラボラ掃討戦で実験的に使用した。さらにアメリカは、MOABと呼ぶ、BLU-82の約1.5倍の重さを持つ超弩級の精密誘導型気化爆弾の開発を進めてきた。「すべての爆弾の母(Mother of All Bombs)」がその名の由来だという。
空気と混合された可燃性粉末あるいは可燃性の気体による爆発は、非常に速いスピードで伝播するため、高性能爆薬よりもはるかに高い圧力の衝撃波を作り出す。このような高い圧力の衝撃波は、核兵器以外では生み出すことができない。しかもその衝撃波は、通常の爆薬のように1点から広がる形で作り出されるのではなく、広い空間から生み出されるので、持続時間が長い。
CIAのレポートは燃料気化爆弾について次のように述べている。
「気化爆弾の爆圧は、短距離小型核爆弾のそれにほぼ等しい。爆心の付近は跡形もなく破壊され、外周部では体内に多くの障害をもたらす。この場合の体内障害とは、鼓膜破裂、内耳器官破壊、強度の震盪、肺臓および内臓の破裂、場合によっては視力の完全喪失である」。
さらに広大な空間が一挙に1000度以上に加熱されるので、数百メートル四方が焼き尽くされ、激しい燃焼は周辺地域の酸素を奪う。激しい上昇気流は、大気上層に達するようなキノコ雲を作り出す。たとえ、地下壕に隠れ、衝撃波を免れたとしても、高温の炎と窒息効果によって、投下地点周辺に存在する人間は、ことごとく消滅する。
 
国連人権小委員会は、1996年8月、「核・化学・生物兵器・気化爆弾・ナパーム弾・クラスター爆弾・劣化ウラン兵器の製造・使用の禁止を求める決議」を採択している。BLU-82は、ベトナム戦争末期に初めて使用され、湾岸戦争では11発のBLU-82の使用が明らかになっている。さらに対アフガニスタン戦争では、4発の使用が確認されている。
 
ベトナム戦争では、「森を消滅させ、ヘリコプターの発着場を作るため」に使われたことになっており、湾岸では地雷原除去のために使われたとされてきた。湾岸戦争時、報道各社は当初、このBLU-82をイラク側の「恐ろしい新型兵器」と報じた。米当局による世論誘導である。しかしその後、アメリカによる使用が隠せなくなってくると、国防総省関係者はクウェートの地雷原除去や、心理的効果を目的に使っているのだと言い始めた。ところがアフガニスタン戦争では、それまでの態度を変え、国防総省は対人兵器であることを隠さなくなった。記者会見の場で「人を殺すために使ったのだ」と公然とコメントし、アフガニスタンに対する使用目的は、タリバンの地下施設の破壊と、兵士の大量殺害であることを認めるようになった。

自国民による自国民に対する戦争犯罪

2017-08-16 | 戦争
日本軍は、ミッドウェイ海戦、マリアナ沖海戦と大敗を期し、持てる空母を失っていく。しかし、この時は沖縄も日本本土にも戦火は届いていなかった。
論理的にここを敗られたらおしまいだよと言ってたにもかかわらず、いざ敗られると、本土決戦、玉砕と言う言葉が幅を利かし、戦争を終結することはできなかった。
マリアナ沖海戦の敗退から1ヵ月後新聞にある軍司令官の言葉が載った。1944年7月19日の読売新聞。
「体当たりの決意さえあれば勝利できる。量の相違など問題ではない」この人物こそ特攻の生みの親といわれる大西瀧治郎。
 
フィリピンレイテ沖で初めて神風特別攻撃隊が出陣した。敷島隊だ。隊長は関行男大尉。10月25日、ルソン島のマバラカットから飛び立った特攻隊は大成功を収める。ちなみにこの日は戦艦の武蔵が撃沈された翌日になる。レイテ島の東で4隻の敵の空母群を発見して対空砲火のなか敷島隊は体当たり攻撃をおこなった。当時まだ特攻に反対する指揮官もいたのだが、この成功?で今後も続けることになってしまった。
関さんは実は出撃前新聞記者にはこう語っていたという。
「ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA[妻のこと、海軍士官の隠語]のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」
初めは面食らって大きな被害を出したアメリカ軍も対空砲に工夫をして、砲弾が目標に当たらなくても、近くに行くと金属に反応して自分で爆弾が爆発するVT信管を開発した。その後、特攻作戦は目立った戦果を上げられなくなる。
 
特攻は主にフィリピンと沖縄での戦いで強行された。10ヵ月という短期間だが、3848人が犠牲になった。太平洋戦争の末期追い詰められた日本軍が戦局を打開するために強行した特攻作戦。
ここでは、検閲を通過した表向きの遺書ではなく、こっそりと書き溜められた真実の声、真実の姿を抜粋してみたい。
 
学徒出陣で特攻隊員になった上原良司さんはその時々にたくさんの遺書を残していた。
彼が書いた最初の遺書は昭和18年9月22日付で、これはよくある普通のタイプのものだ。上官に遺書を書くようにうながされ、「正式の遺書」を書いたのだろう。ただ、「私は戦死しても満足です。何故ならば、私は日本の自由のために戦ったのですから」という下りは注目される。「自由のため」という表現は、当時としてはきわめて異例だった。
上原の「最後のメモ・ノート」という手記には、彼の自由への熱き思いが語られる。昭和19年6 月8 日付のメモは「国家主義(全体主義)と個人主義」というタイトルで、次のように書かれている。
「個人が国家に尽くすというのは、結局、個人のためである。国家のためではない。この意味において、国家主義は個人主義の中に入る。自由は人間性なるが故に、自由主義国家群の勝利は明白である。日本は思想的に既に敗れているのだ。何で勝つを得んや。しかし吾人が、彼のアメリカの学生がその独立を守らんがため闘っていると同じく、日本の独立のためにあくまで闘うのだ。日本の自由のために、独立のために死を捧げるのだ」。
「最後のメモ・ノート」の昭和19年11月19日。
「日本軍隊においては、人間の本性たる自由を抑えることを修業すれど、謂く、そして自由性をある程度抑えることができると、修養ができた、軍人精神が入ったと思い、誇らしく思う。およそこれほど愚かなものはない。…いわゆる軍人精神の入ったと称する愚者が、我々に対しても自由の滅却を強要し、肉体的苦痛もその督戦隊としている。しかしながら、激しい肉体的苦痛の鞭の下に頼っても、常に自由は戦い、そして常に勝利者である。我々は一部の愚者が、我々の自由を奪おうとして、軍人精神という矛盾の題目を唱えるたびに、何ものにも屈せぬ自由の偉大さを更めて感ずるのみである。偉大なる自由、汝は永久不滅にて、人間の本性、人類の希望である」。
昭和20年1月23日。
「近き将来において日本は敗れるかも知れぬ。何故ならは、既に権力主義は敗退の一途をたどりつつあるからだ。権力主義の国においては、外からの圧迫が強くなり、締めている力が弛んだ時が滅亡である。即ち、内からの猛烈な力によって敗退するのである」。
同年2月7日。
「2・26以来、日本はその進むべき道を誤った。…権力主義者は己の勝利を願って、日本を永久に救われぬ道に突き進ませた。彼らは真に日本を愛せざるのみならず、利己に走って偉大なる国民に、その欲せざる方向を強いて選ばしめ、アメリカの処置をその意に訴えるが如き言辞を以て、無知なる大衆をだまし、敢て戦争によって自己の地位をますます固くせんとした。勿論、そは国民の犠牲においてであるが。かくて彼等は、一度は無知な国民の眼をあざむき得たが、時の経つに従い、天は自然の理を我々に示してくれたのである。彼等は、ジャーナリズムを以て、あくまでも国民の眼をあざむかんと努めたるも、自然の力にはその前に頭を下げざるを得なくなりつつある」。
「自由の国アメリカが、その最後の勝利を信じているのは当然であり、これこそ歴史の示す必勝の信念である。必勝の信念は思想の必勝の基礎の上におかるべきものであって、単に不敗であるということを基礎とするのや、科学力を無視した訓練等を基礎として生まれるべきはずのものでない」。
「最後のメモ・ノート」は昭和20年4月5日で終わる。その最後はこう結ばれている。
「特攻隊員(振武隊)となりて…悠久の大義に生きるとか、そんなことはどうでも良い。あくまで日本を愛する。祖国のために独立自由のために闘うのだ。天国における再会、死はその道程にすぎない。愛する日本、そして愛する冾子ちゃん」。
 
上原は「最後のノート・メモ」に示された思考を、昭和18年に書いた最初の遺書とは別に、「第二の遺書」としてまとめている。
「左の引出に遺書があります。右にある釘をぬいてから引出して下さい。良司」。その引出しにあった「第二の遺書」には、家族への感謝の言葉が綴られているが、それ以上に自分の思考の吐露が行われている。
「私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に聞こえるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。戦争において勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)は火を見るより明らかであると思います。日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。この上は、ただ日本の自由、独立のため、喜んで命を捧げます」。
この「第二の遺書」の末尾には、
「離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出して下さい」とある。
こうした何重ものガードの末、親しいものだけが読むことのできた本当の遺書、「第三の遺書」が「所感」である。これは上原が出撃前夜(5月10日)に書いたもので、そこには、彼の思考の到達点が示されている。
「権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツもまた、既に敗れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建造物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ、過去において歴史が示したごとく、未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます」。
「空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事でも強いて考えうれば、彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何も云う権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。こんな精神状態で征ったならもちろん、死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です」。
「飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽わらぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統だてず、思ったままを雑然と述べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。云いたい事を云いたいだけ云いました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で。出撃の前夜記す」。
出撃前夜、手記を信頼していた軍の報道班員に託した。
良司さんにはかわいがっていた妹がいた。
最後の別れのために故郷に戻った良司さんは登志江さんだけに言葉を残した。
「俺が戦争で死ぬのは愛する人たちのため、戦死しても天国へ行くから、靖国神社には行かないよ」
 
国のために命をなげうった人たちをどう悼むのか。明治政府の出した答えが、東京・九段の靖国神社への合祀(ごうし)だった。戦後72年のいま、自衛隊の活動範囲が広がる中で、「戦死」が現実味を帯びてきた。国のために闘った人たちは、自分の死の意味を考え続けた。それは、天皇のため、国のため、家族のためと言う期待された応えの中に納まるはずもなく、敗戦後の自由な日本を希求したものだった。
 
 《愚劣なりし日本よ 優柔不断なる日本よ 汝(なんじ)いかに愚かなりとも 我らこの国の人たる以上 その防衛に奮起せざるをえず
 オプティミズム(楽観主義)をやめよ 眼を開け 日本の人々よ 日本は必ず負ける
 そして我ら日本人は なんとしてもこの国に 新たなる生命を吹き込み 新たなる再建の道を 切りひらかなければならぬ……》
 京都大生から学徒出陣で海軍航空隊員となり、戦死した林尹夫(ただお)さん(享年23)の遺稿集「わがいのち月明(げつめい)に燃ゆ」。この一節をはじめ、最期の叫びを集めた「やすくにの遺書」という冊子が今春、靖国神社や在外公館などで配られ始めた。英訳もついている。
 「靖国神社に祀(まつ)られているのは、赤紙一枚でひどい戦争に参加させられた人がほとんど。本当の姿を読み取ってほしい」。まとめたのは言論誌「月刊日本」の南丘喜八郎さん(71)。
 南丘さんの実父は中国戦線から生還したが、夜にうなされ、恐ろしいほどのうめき声を上げて跳び起きることがあった。「苦しんでいたと思う。生き残った人はみんなそうだったんでしょう。殺す訓練なんかしてなかったわけだから。それは、今の自衛官も同じ」
 掲載する遺書を選んだ際、「天皇陛下万歳」といった職業軍人に多いタイプのものは、できるだけ外した。「国や故郷、家族、恋人、友人への思いが表れたものを選んだ」という。
 英仏独語を操り、絶望的な戦況を理解していた林さん。「ダメな日本だと言いながら、命を賭して戦う。信じがたい境地。壮絶な葛藤だっただろう」と、資料収集や編集にかかわった伊藤武芳さん(37)は言う。
「やすくにの遺書」には、先の大東亜戦争で戦死された方々の遺書を、英文との対訳で掲載されている。
私達が、この和英対訳の「やすくにの遺書」を発刊したのは、祖国を守る為に、戦地に赴き、斃れられた方々の思いを、何としても海外の人々に知ってもらいたいと考えたからです。
 
彼らの死を悼み、涙するだけでは、戦争の教訓を学んだことにはならない。本当に彼らの死を悼み、二度と戦争を繰り返さないという強固な反戦の意思を育てることが彼らの死に報いる唯一の方策だ。
赤紙一枚で徴兵され、無残に殺された若者たち。その悲劇は特攻隊員だけではない。この世の地獄としか言いようのないインパ-ル作戦をたどってみよう。
 
1944年初頭に入ると、戦局の趨勢は誰の目からも明らかになっていた。日本陸軍の主要敵国は、あくまでも中国であり、アメリカとの戦いは副次的なもので海軍の責任であった。だから、陸軍は、百万近い大軍を動員して、中国大陸とインドで大攻勢を行なった。インドでの作戦が悪名高きインパ-ル作戦だ。
インパールというのは、ビルマ(現ミャンマー)との国境にあるインドの街で、イギリス軍の最前線基地になっていた。アメリカとイギリスは、中国に対して戦略物資の援助を行なっていた。その物資は、英領ビルマから蒋介石軍に届けられていた。1942年初頭、イギリス軍は、強力な日本軍の前に成す術も無く敗走し、ビルマを放棄してインドに逃げ込んだが、1944年に入ると、状況は大きく変化し、連日のように続く空中戦で、日本のパイロットは次々に失われていく。圧倒的な物量を誇る連合軍は、いつしかビルマの制空権を一手に握っていた。彼らは中国との連絡路の奪回に動き出し、少数精鋭のゲリラ部隊をビルマ北部に潜入させ、これに空から補給を行なって、中国軍と連携させることに成功した。
 そこで、日本陸軍は、イギリスの最前線基地であるインパールを攻略し、彼らの計画を挫折させようとした。しかし、兵站を考えると成功はほぼ不可能なことが指摘され、最初から無謀な作戦だった。ビルマとインドの国境には、チンドウイン河という大河が横たわり、それを超えた後はアラカン山系という、標高2000メートル級の山々が聳えていた。もちろん、まともな道路はない。自動車はもちろん、荷車だってロクに通れない。どうやって、前線部隊に武器弾薬や食糧医薬品を渡すのか?強烈な個性を持った一人の将軍牟田口廉也が強硬な精神論を掲げ、5000人の犠牲(日本軍)でインパ-ルを落とせるなどの言葉がビルマ司令部では飛び交っていた。牟田口は、「軟弱なイギリス軍など、あっというまに倒して見せる」と豪語し、短期決戦でやれば歩兵の携帯用食糧だけで十分と考えた。兵站の専門家は、反対したが、反対したものは更迭された。親友であり、上司であった河辺は「牟田口くんがやりたいなら、やらせてあげたい」と言ったのだ。日本軍の命がかかった作戦が日常的な軽口で決まってしまった。さらにシンガポールで、美食と観光三昧の生活を送っていた「南方軍」の寺内寿一元帥は「良きに計らえ」という対応だった。東京の東条は「やれるならやりたまえ」。こうして、まともな検討もなされぬまま、作戦は願望だけで走り出した。
 さすがに携帯食品だけで無理と感じたのか、途中の農村から大量に牛を徴発して、これに荷物を運ばせようとした。武器は分解して、牛の背中に乗せた。
兵隊は、腹が減ったら牛を殺して食えば良い。牟田口は、ジンギスカンの故事に学んだつもりで、己の教養をひけらかしたという。チンドウイン河で牛の半数が溺れ死に、残りの半数も山道を進むことができずに、放棄されたという。それでも、牟田口は意気軒昂として「日本人は、もともと農耕民族で草食動物なのだ。ジャングルの中で草を食えば、補給などいらぬ!」と公言したという。
 無知蒙昧と不見識も、ここまで来ると、狂気だが、今だって苦労知らずのお坊ちゃま政治家はこんな程度だろう。
 日本軍はアラカン山系を突破して、インパールの街を、北、東、南の三方から包囲したが、戦う体力も武器も十分とは言えず、殆ど戦わずして敗退することになる。自殺と言える突撃が繰り返され、死屍累々の戦場のフィルムがイギリスで保存されていた。この作戦は日本ではなく、イギリスで検証され、牟田口も聴取された。戦後の国内で四面楚歌だった牟田口はインパ-ル作戦に悩まされたというイギリスの検証結果を読んで、大いに喜んだという。
日本軍の大砲は、5月の段階で、一日に一門当たり3発の砲弾しか発射できなかったそうだ。この時点で、作戦の失敗は明白になっていたにもかかわらず、牟田口は苦戦する2個師団を「軟弱」と決め付けて、師団長をクビにした。こうしている間に、前線の日本軍は、まさしくジャングルの草を食って生きている状態になってしまう。ジャングルの獣やハゲタカ、あろうことか仲間にとどめを刺され、食されてしまうもの、それを目撃して、証言する者もいる。
 コヒマの佐藤師団は、銃剣で戦車に渡り合うという苦境に陥り、独断で、全部隊を撤退させてしまった。牟田口は、これを口実にインパール作戦の中止を言い出す。部下が背いたから負けたのだ、という言い訳が出来るからだ。いつしか7月に入り、雨季が到来し、ジャングルは疫病の巣と化す。骸骨のように痩せ衰えた日本兵は、次々に病と飢餓に倒れていく。この作戦での3万人に及ぶ作戦の死者のうち、6割は撤退後に死亡したという。日本軍の退却路は、死体の山が散乱したことから、「白骨街道」と呼ばれた。生還した佐藤師団長は、日本刀を引っさげて牟田口司令部に乗り込んだ。佐藤は、軍法会議で死罪になることを覚悟して、その裁判の壇上で、牟田口や河辺の「犯罪」を弾劾してやろうと準備していたそうだ。しかし、軍法会議も裁判も行なわれなかった。佐藤中将は、「精神病」という事で、その行為は不問にされた。
 
 この状態で、部下を救う最善の方法は連合軍に投降して、捕虜になることだったと思う。事実、牟田口の秘書官として克明な日記をつけていた斎藤少尉は、牟田口と撤退中にマラリヤにかかり、置き去りにされた。捕虜になることで助かった斉藤はNHKスペシャルの最後、病床で力弱く語った。戦後は戦争を語らず、幸せな生活を送ったはずの彼の悲痛な姿に衝撃を受けた。自国民による自国民に対する戦争犯罪が、今なお裁かれる法制もなく、戦場で虫けらの如く、死んでいく。これが国民を守るという建前で行われた戦争の実態であることに絶望的な虚しさを感じる。指揮官は自国民を戦争で無駄に大量に殺しても犯罪として認定されることも責任を問われることもなく、ひとかけらの反省もなくのうのうと長寿を全うするのである。
 
こんなことが合法的に行われるのだから、戦争が始まったなら、あらゆる悪知恵を働かして、逃げ回るのがよろしい。誠実な民間人ほど、最後まで職場を守って自決したり、玉砕したり・・・
日本人は戦争に向かない。
10日放送の「報道ステーション」で、西村京太郎氏が発言した。
ノンフィクション作品『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』発売を機に、西村氏がVTR出演し、自身の戦争体験を振り返った。西村氏は陸軍のエリート将校養成学校である「陸軍幼年学校」在学中に、14歳で終戦を迎えたという。西村氏は『十五歳の戦争』の中で、他の国が「現代の戦争」を戦っているのに対し、日本は「際限のない精神主義、根性主義である。これは信仰に近かった」「特攻と玉砕に酔う人たちである」と綴っている。「現代戦争ってね、生き延びなくてはいけない」と語る。日本人には今も「死んでなんとか勝つぞ」といった精神性が伏流していると指摘し、そうした国民性から「戦争はしない方がいい」と強調する。一度戦争が始まったら、「みんなが死んでるのに、俺だけ生きてるわけにはいかない」という考え方をしてしまう。

東京裁判

2017-08-14 | 戦争
判事が全て戦勝国から選ばれた東京裁判は戦争責任を敗戦国に押し付け、戦勝国の犯した戦争犯罪を不問にする不公平の極み裁判であり、戦勝国の報復であると思っていた。
判事は11ヶ国から派遣された。アメリカ、英国、ソ連、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピンである。
 
多数決による判決であったが、判決に賛成したのは6ヶ国であった。
 アメリカ、英国、ソ連、中華民国、ニュージーランド、カナダ。
意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した国は2ヶ国-オーストラリア、フィリピン。
判決に部分的に反対した国は2ヶ国-フランス、オランダ。
全面的に反対した国は1ヶ国-インド。
 
『東京裁判』及び『ニュルンベルク裁判』で有罪判決を受けた者を『戦争犯罪人』・戦犯と呼ぶ。
受けた判決により、『A項目戦犯』『B項目戦犯』『C項目戦犯』に分類された。この分類は罪の軽重を示す意味はなかったが、実際には『A級戦犯』がもっとも刑が重かった。
(A項目)        『平和に対する罪』
       平和に対する罪即ち、宣戦布告を布告せる又は布告せざる侵略戦争、
    若しくは国際法、条約、協定又は誓約に違反せる戦争の計画、準備、開始、
    又は遂行、若しくは右諸行為の何れかを達成するための共通の計画又は共同謀議への参加。
 
(B項目)        『通例の戦争犯罪』
            戦時国際法における交戦法規違反行為
 
(C項目)        『人道に対する罪』
            国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした
    大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為。
 
 
戦争犯罪人のリストアップは戦中・戦後と行われた。集められたリストは連合国戦争犯罪委員会に提出され、日本人容疑者は440名であった。だが中華民国が重慶に設置したされた『連合国戦争犯罪委員会極東太平洋小委員会』では日本人を対象に独自のリストを作成。また連合軍東南アジア司令部でもリストを作成し、それぞれ3,158名と1,117名がリストアップされた。終戦後、マッカーサー元帥は厚木に到着すると直ちに戦犯容疑者の逮捕を命ずる。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1948年7月1日までに2,636名に対し逮捕令状を出す。このうち2,602名が逮捕された。また連合軍東南アジア司令部は1946年5月の時点で8900名。そのほかにも多数が逮捕され、第一復員局法務調査部では1946年10月の時点で約11,000名が海外で逮捕されたと推計している。他に戦犯になることを拒み、自殺した者や逃亡したものもいる。
 
 
A項目戦犯(A級戦犯)
    死刑(絞首刑) 7名
      板垣征四郎、東條英機、松井石根、土肥原賢二、木村兵太郎、廣田弘穀、武藤章、
 終身刑 16名
     荒木貞夫、小磯国昭、橋本欣五郎、梅津美治郎、佐藤賢了、畑 俊六、大島 浩、嶋田繁太郎
  平沼騏一郎、岡 敬純、白鳥敏夫、星野直樹、木戸幸一、賀屋興宣、南 次郎、鈴木貞一
 有期禁固 2名
     重光 葵(禁固7年)、東郷茂徳    (禁固20年) *獄中死
 判決前に病死 2名
     永野修身、松岡洋右
 訴追免除 1名
     大川周明    (梅毒による精神障害の為)
 
さらにA項目(A級)戦犯被指定者でありながら不起訴により戦犯とならなかった者や、裁かれる事を不服とし自殺したものたちが多数居る。
 主なA級戦犯被指定者
     不起訴により釈放
       岸 信介、高橋三吉、児玉誉士夫、笹川良一など
     自殺
      近衛文麿、本庄 繁、橋田邦彦
 
 
71年前の東京で、11人の判事たちが「戦争は犯罪なのか」という根源的な問いに真剣な議論で取り組んだ東京裁判。NHKは世界各地の公文書館や関係者に取材を行い、判事たちの公的、私的両面にわたる文書や手記、証言を入手した。浮かび上がるのは、彼ら一人一人が出身国の威信と歴史文化を背負いつつ、仲間である判事たちとの激しいあつれきを経てようやく判決へ達したという、裁判の舞台裏の姿だった。11か国から集まった多彩な背景を持つ判事たちの多角的な視点で「東京裁判」を描いている。
裁判の焦点になったのは、ナチスを裁くニュルンベルク裁判と同時に新しく制定された「平和に対する罪」。それまで国際法では合法とされていた「戦争」そのものを史上初めて犯罪とみなし、国家の指導者個人の責任を問う新しい罪の概念であった。この「平和に対する罪」を弁護側は事後法として否定する。判事室では各々の判事の意見が鋭く対立、最初は短期間で決着がつくと思われた裁判は、混迷と長期化の様相を見せてゆく。1948年の秋、ついに11人の判事たちは2年半に及んだ東京裁判の結論となる判決を出すべく、最後の評議の場に臨むのだった。被告たちの生と死が分かれる瞬間。それは、「人は戦争を裁けるか」という、人類の根源的な問いに答えが出されるときでもあった。
 
日本、オランダ、カナダ、オーストラリアの合作による極東軍事裁判の再現ドラマは、それぞれの国家や信念を背景にした判事の論争を描くドラマ作品として、想定外に面白かった。
インドのパール判事の人物像はゆらぎがなく、立派ではあるが、人物の葛藤や成長がドラマであるという観点からすれば、オランダのレーリンク判事こそ主人公といえる。
オーストラリアのウェッブ裁判長は、さまざまな意見の衝突の矢面に立たされ、右往左往するが、人物像として好感が持てる。ひとりだけ通訳をとおして発言するソ連の判事も、本気か冗談かわからない態度で周囲をとまどわせる狂言回しとして面白い。
 
日本軍の代表的な残虐行為として、南京事件やバターン死の行進の証言風景が描写された。
どちらも歴史的な事実ということは否定されない。弁護側が死者が「便衣兵」である可能性を主張する場面はあるが、実際に反撃するまでは非戦闘員だと証言者が答えて終わる。
パ-ル判事を含めて、全ての判事が、日本軍の戦争犯罪や侵略性は事実と認定している。事実認識で異論がないのに、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くべきか、それとも通常の戦争犯罪で裁くべきか、という論点で意見がわかれる。職業に忠実であろうとする判事のドラマであるから、この辺が詳細に描かれるが、ドラマとしては冗長になる。
 
パール判事は、「平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であるから裁けない」という論点を貫き、一切の妥協はなかった。ドラマにおける位置づけは、他国の判事に影響を与える異分子である。ニュ-ルンベルク裁判も間違っていたとパール判事は言う。
しかし、パール判事のように日本の免罪を認めることは、ナチスの免罪を認めることになり、ニュ-ルンベルグ裁判の判決を覆すことにもつながるから、戦勝国としては絶対に認められない。今後の戦争の抑止力と言う観点から重罪に処すべきだという考え方もあるので、戦争を法の論理だけで裁定するのはそもそも無理があり、戦争裁判は公平であり得ないのは仕方がないと思う。とりあえずは論理の破たんがあっても敗戦国だけを一方的に裁く以外に方策はないと思った。
実質的な主人公のレーリンク判事は、パール判事の主張に一番動かされる。『ビルマの竪琴』の作者と砂丘で語ったり、判事という立場をはなれて、活動することが多いのでドラマを引っ張っているという印象だ。
 
ウェッブ裁判長が、対立する判事をまとめる苦労人として存在感を増していく。パール判事への差別的な部屋割りを変えさせたり、裁判の正当性を立証しようとして書類を書きあげたり。その書類が他の判事から酷評されたり、まとめる能力がないとイギリスのパトリック判事に見切られて、オーストラリアに帰国させられてしまったり、さんざんな目に合う。能力不足が歴然だが、ひょうひょうとしてめげないところが魅力的な好人物だ。
イギリスのパトリック判事は主人公と対立するキャラクターとして描かれる。政治的に判断しようとする人物で裏工作も辞さない。戦勝国の見解を代表する人物だ。
 
フィリピンのハラニーリャ判事とフランスのベルナール判事の議論も面白い。パル判事の主張へ一定の理解を示したベルナール判事が、植民地政策には相手の文明を向上させようとするものもあったという見解を語る。ハラニーリャ判事はどのような意図でも一方的に変化をもたらす植民地主義を否定する。東京裁判のさなかにインドが独立したように、まだまだ植民地政策がおこなわれていた当時、良識のある判事ですら自国の植民地政策を擁護する見解をもっていたわけだが、このハラーニャ判事の主張を入れることで現代の価値観をドラマ内におりこむことができた。
 
パル判事は裁判には顔を出さず、自室にこもって意見書の作成にかかりきり。会話したレーリンク判事は影響されつつも、やはり被告たちは有罪にすべきと主張し、たもとをわかつ。どのような法的根拠で判決を出すかが問題だというパル判事の言葉を受けて、レーリンク判事は多数派と同じ結論へ違う論点でたどりつく。
 
東条英機の発言が波乱を呼ぶ場面もある。臣民は天皇の意にそうこと、天皇は全てを知っていたこと……そうした被告の発言をつなぎあわせると、最高責任者である天皇のため、その意にそって開戦したことになってしまう。そこでウェッブ裁判長らは天皇が開戦前に拒否権を発動しなかったことに着目して、東条の次なる証言に注目するのだが、今度は天皇の平和主義を主張し、天皇の開戦責任を回避する。ここで検察側と被告側で質問と回答がすりあわされ、東京裁判は茶番劇の側面があったが、それは勝者による一方的な裁きというより、勝者の都合による免責であったという側面が見える。最高責任者は利用価値があるゆえに免責され部下が責任をとる、より強力な支配体制を求める、どちらも現代社会でよくある対応だ。
 
前後して、『ビルマの竪琴』の作者である竹山道雄とレーリンク判事の交流も描かれる。教師として教え子を戦争にとられた人物だと解説され、送り出した加害者でもあるわけだが、自身を含めた日本人一般が戦争に加担した責任について語る。
 
ロシアの判事との会話が面白い。ナポレオンは二度戦争に負けて死刑にならずに流罪になった。オランダの判事は、「当時、戦争を裁く国際法が無かったからだ」と言うが、ロシアの判事は「戦争で負ける度に指導者の首が飛ぶのを恐れたからだ」というのだ。ここで、レ-リンク判事は「戦争に対する罪」を認めることは戦争の抑止力になると考え始める。太平洋戦争中には、「戦争に対する罪」を裁く法がなく、そのかどで有罪にするのは事後法の適用にあたるのは確かだが、未来の平和を希求すれば、この判決が抑止力として働くチャンスをつぶしてしまう訳にはいかない。
 
ウェッブ降ろしを画策したイギリスのパトリック判事が音頭をとり、「戦争に対する罪(平和に対する罪)」を認める判事たちで多数派を構成しようとする。
最終回の第4話では、大モメにモメながら判決主文と5人の判事からの意見書が提出される。
 
オランダのレーリンク判事は、多数派の「侵略に対する罪(平和に対する罪)」を問う考えを、いくつかの点に同意してもらえたら支持するという考えを示した。その条件とは、事後法の適用に当たるので、既に確立した政治犯を裁く国内法を適用すべきだという点だった。しかし、多数派からは、結論は同じように見えても理由を変えると量刑まで変わると反論される。
 
多数派は独自の判決文の作成に取り掛かった。それに対して、オーストラリアのウェッブ裁判長は、判決文を書くのは裁判長である自分の役目だと思い、スタッフを動員して独自の判決文の作成を始め、判決文作成競争の様相を呈する。
 
オランダのレーリンク判事は、多数派の意見に対して独自の反対意見を提出することにした。
 
多数派は、1000ページを超える判決文をまとめてウェッブ裁判長に提出した。ウェッブ裁判長は、その内容が正当で量刑の部分は白紙にしており、11人の判事全員の討議で決定する余地を残していたのを好感して、多数派が作成した判決文を公式の判決文とすることにした。既に独自の判決文を作成中で600ページに達していたが、そのうちどうしても言いたいことを21ページ分、意見書として提出することにした。
 
量刑の場面では、被告人28人一人一人を挙げて、それぞれの罪や量刑について話し合った後、投票する形式をとった。
 
アメリカ、中国、イギリス、ロシアの判事は被告人に対して厳しい主張を重ねた。
インドのパル判事は、「侵略に対する罪(平和に対する罪)」という事後法で裁くことに反対し、この点について28人全員が無罪だと主張した。
オランダのレーリンク判事は、広田弘毅が法廷で弁論しなかったのは、自分がやったことを弁明するのは恥だとする日本人の価値観のせいで、自分の罪を認めたわけではないなど被告人を弁護することが多かった。平和に対する罪だけで死刑を求刑するのには反対し、終身刑が妥当とした。
フランスのベルナール判事は、オランダのレーリンク判事と近い考えを持っているように描かれ、パル判事やレーリンク判事とは違った視点から死刑に反対した。
ウェッブ裁判長は、日本軍は中国に侵攻したため戦線を拡大せざるを得なくなったのであり、初めから連合軍諸国に戦争を始めるつもりはなかったと主張した。
 
結局、事後法のきらいがある「平和に対する罪(侵略の罪)」によって死刑にすることはなかったが、「平和に対する罪(侵略の罪)」の共謀で25人中23人が有罪(A級戦犯のこと)。
「人道に対する罪」は適用されなかった。
「通例の戦争犯罪」によって7人が死刑となった。
 
インドのパル判事やオランダのレーリンク判事の活躍が無かったら、7人の死刑では済まなかっただろう。
 
番組の最後のあたりに、国際刑事裁判所がつくられオランダに本部が置かれた件について触れるところがあった。これには、アメリカ、ロシア、中国は加盟していない。国際刑事裁判所は、2003年に発足した戦争犯罪や集団虐殺、人道に反した個人を裁く国際裁判所だ。東京裁判で議論が交わされた「侵略に対す罪(平和に対する罪)」、「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」をも対象にしている。だから、国際刑事裁判所は東京裁判の延長線上にあるとも言える。
 
政治的な思惑によって結論を出し、法律はその結論を正当化するために使い、自らが戦争を起こした罪を負わないことが常識であるアメリカ、ロシア、中国は国際刑事裁判所に加盟しないのは当然だ。大国は思い通りの政治的判断ができなくなることを極端に嫌う。裁かれる側に立つことをあらゆる場面で回避しようとする。この3か国に対して、東京裁判の判決は現在の戦争犯罪を防ぐための抑止力として、まるっきり機能していない。
 
最後に言いたいことがある。この時期になると必ず、特攻の悲劇が語られる。私は特攻の若者たちを美化し、お涙頂戴的に特攻が描かれると、いつも憤りを感じる。特攻と言う非人道的な制度を考え、あろうことか、10カ月もの間、将来ある若者を殺した罪をだれも負わないことに義憤を感じる。自国民に対する自国民の戦争犯罪を裁く裁判があってしかるべきだといつも思う。
無謀な戦争を開戦した罪、ぼろ負けして勝ち目がないにもかかわらず戦争を止めない罪、特攻のような非道な制度をつくり、自国民の命を無駄に奪った罪、自主的志願と称して戦争協力を強要した罪、戦況に対して嘘八百を報道した罪、このような罪で裁かれることになれば、私利私欲を肥やすことしか頭にない政治家に対しての戦争抑止力は絶大だと思う。

自衛隊の映画協力

2016-10-06 | 戦争
リアルな戦闘シーンが話題になった映画「シン・ゴジラ」など、自衛隊が登場する映画の制作に、防衛省が協力を続けている。自衛隊の活動を国民に理解してもらうのが目的だ。シナリオに口を出すことはないというが、映画の中で描かれる自衛隊は、「模範的な姿」に近づいてきたとの指摘もある。
 多摩川の河川敷を走り、ゴジラに砲撃を加える最新鋭の10式戦車、市街地上空を飛び、精密誘導弾で爆撃するF2戦闘機……。シン・ゴジラでは、自衛隊が実際に使っている装備を駆使し、ゴジラを攻撃する。映画を見たある自衛隊幹部は、無線のやりとりなど細部の描写がリアルなあまり、ドキュメンタリーを見ているような錯覚に陥ったという。「自衛隊の戦闘シーンが観客の拒否反応を引き起こさず、娯楽として受け入れられる時代になったんだなと感じた」と話す。
 
 シン・ゴジラのパンフレットなどによると、防衛省は施設や装備の撮影許可のほか、対ゴジラ作戦で考えられる部隊編成や装備の配置などについて協力した。脚本の精度を上げるため、庵野秀明総監督が自ら同省に取材に行ったこともあったという。防衛省広報課は協力理由を「国民の生命、財産を守るために自衛隊が立ち上がる姿を描いており、自衛隊の信頼向上につながるありがたいシナリオだった」と説明する。
 同省によると、記録のある1989年からこれまでに制作に協力した映画は47本。協力は無償だ。協力の可否は、内容の健全性や妥当性、国防の大切さの理解促進につながるかといった観点から検討され、最終的に防衛相が承認する。広報課の担当者は「こちらからシナリオに口出しはしないが、やりとりをするなかで、協力を得たい制作者側が自発的にシナリオを変更することはありえる」と話す。
 
 自衛隊と映画の関係を研究してきた筑紫女学園大学の須藤遙子(のりこ)准教授(メディア論)の著作「自衛隊協力映画」などによると、防衛省の制作協力は東西冷戦が終わった89年から本格化した。阪神大震災や地下鉄サリン事件で自衛隊の活動が注目を集めた95年には、防衛庁(当時)が協力した4作品が相次いで公開された。その一つ、「ガメラ 大怪獣空中決戦」では、それまでは敵に倒される脇役が多かった自衛隊が怪獣を撃退する場面があり、特徴的だという。翌96年の「ガメラ2 レギオン襲来」では自衛官が主役となり、自衛隊が政治の統制を受ける場面が頻繁に描かれる。須藤さんは「ガメラ2は、その後の自衛隊協力映画の原型。この時期から自衛隊が現実に即して描かれるようになった」と指摘する。
 
 自衛隊は2001年の同時多発テロ後は、インド洋やイラクにも派遣され、存在感を増した。東アジア情勢の緊迫で03~04年には有事法制の整備も進んだ。その後に公開された「亡国のイージス」(05年)や「ミッドナイトイーグル」(07年)には、北朝鮮を連想させる国や元工作員のテロリストも出てくる。この前後から、「自衛隊協力」は映画の宣伝材料になり始めた。また、日本の防衛政策へのいらだちを表すセリフも登場するように。「亡国のイージス」には、反乱を起こした自衛隊の幹部が「撃たれる前に撃つ。それが戦いの鉄則です。それができない自衛隊に国を守る資格はなく、それを認められない日本に国家を名乗る資格はない」と言い放ち、専守防衛を批判する場面がある。
 そして、11年の東日本大震災と福島第一原発事故を意識して作られたシン・ゴジラ。危険を承知で作戦に赴き、震災後の日米の「トモダチ作戦」を連想させる米軍との共同作戦でゴジラに挑む姿が描かれている。内閣府の世論調査では、自衛隊に良い印象を持っている人の割合は、自衛隊が映画制作協力を本格化させて間もない91年は67・5%。だが、15年には過去最高の92・2%を記録している。
 
 須藤さんは「防衛省が協力した映画では、自衛隊は善玉として描かれるのが前提。強くて優しく、法律を守るという模範的なイメージに少しずつ近づいてきた。シン・ゴジラはその路線の集大成」と話す。度重なる北朝鮮の核実験やミサイル発射、中国の海洋進出などを背景に、英雄的に描かれる自衛隊を許容する風潮は強まるとみる。「メディアリテラシー(メディアの特性を理解して情報を見極める力)を持って楽しむ必要がある」-朝日新聞
 
総理大臣の最も重要な責務は、国民の命、平和な暮らしを守ることだと考えています。自衛隊の皆さんが24時間、365日、厳しい環境のもとで黙々とこの責務を果たしていることに敬意を表したい。私はこの半月ほどで政府専用機で地球2周分の距離を動きました。行く先々で自衛隊のグローバルな活躍を再確認し、世界の平和と安定のため汗を流している皆さんを大変誇らしく思いました。
 このような現実の世界のみならず、今話題の映画「シン・ゴジラ」でも自衛隊が大活躍していると聞いています。私と官房長官は、短期間のうちに死亡するそうです。官房副長官は生き残っています。統合幕僚長以下、自衛隊員の皆さん、格好良く描かれているとうかがっています。このような人気もまた、自衛隊に対する国民の揺るぎない支持が背景にあるのだと思います。(安倍首相 自衛隊幹部との懇親会で)
 
 
人間は至近距離で人を殺せるようには生まれついていない。そして、幼いころから、命を奪うことは恐ろしいことだと教わって育つ。
第2次大戦中、日本やドイツで接近戦を体験した米兵に『いつ』『何を』撃ったのかと聞いて回った。驚いたことに、わざと当て損なったり、敵のいない方角に撃ったりした兵士が大勢いて、姿の見える敵に発砲していた小銃手は、わずか15~20%だったという。
「発砲率の低さは軍にとって衝撃的で、訓練を見直す転機となりました。まず射撃で狙う標的を、従来の丸型から人型のリアルなものに換えた。それが目の前に飛び出し、弾が当たれば倒れる。成績がいいと休暇が3日もらえたりする。条件付けです。刺激―反応、刺激―反応と何百回も射撃を繰り返すうちに、意識的な思考を伴わずに撃てるようになる。発砲率は朝鮮戦争で50~55%、ベトナム戦争で95%前後に上がりました」
 そして、ドローンを飛ばし、遠隔操作で攻撃するテレビゲーム型の戦闘が戦争の性格を変えた。人は敵との間に距離があり、機械が介在するとき、殺人への抵抗感が著しく低下する。
 
 国家は未経験の若者を訓練し、心理的に操作して戦場に送り出してきた。しかし、ベトナム戦争で大失敗をした。徴兵制によって戦場に送り込まれた若者たちは帰国後、PTSDを発症した。
第2次大戦中、カナダは国内には徴兵した兵士を展開し、海外には志願兵を送った。成熟した志願兵なら、たとえ戦場体験が衝撃的なものであったとしても、帰還後に社会から称賛されたりすれば、さほど心の負担にはならない。21世紀はテロリストとの戦争で、国と国が戦った20世紀とは違う。いま国を守るとは、自国に要塞(ようさい)を築き、攻撃を受けて初めて反撃することではない。こちらから敵の拠点をたたき、打ち負かす必要がある。
「我々もベトナム戦争で学んだことがあります。世論が支持しない戦争には兵士を送らないという原則です。国防長官の名から、ワインバーガー・ドクトリンと呼ばれている。国家が国民に戦えと命じるとき、その戦争について世論が大きく分裂していないこと。もしも兵を送るなら彼らを全力で支援すること。これが最低限の条件だといえるでしょう」
 
 「戦闘は進化しています。火砲の攻撃力は以前とは比較にならないほど強く、精密度も上がり、兵士はかつてなかったほど躊躇(ちゅうちょ)なく殺人を行える。志願兵が十分に訓練され、絆を深めた部隊単位で戦っている限り、PTSDの発症率も5~8%に抑えられます」
 
米国では、戦場の現実をリアルな視点からとらえる軍事心理学や軍事精神医学が盛んで、いかに兵士を効率的に戦わせるかという研究が進んでいる。
 グロスマン氏は米陸軍退役中佐で、陸軍士官学校・心理学教授、アーカンソー州立大学・軍事学教授をへて、98年から殺人学研究所所長である。著書に「戦争における『人殺し』の心理学」などがある。
 
 
 一方、日本では兵士の恐怖心など恥として問題にもしなかった。戦後、米軍の研究に接した日本の元軍医は、兵士が恐怖心を表に出すのを米軍が重視していたことに驚いたと言う。
 トラウマやPTSDという言葉が人々の関心を集め始めたのは1995年の阪神・淡路大震災がきっかけだ。激戦だった沖縄戦や被爆地について、心の傷という観点から研究が広がったのもそれ以降。
 
 安保関連法制定により、自衛隊はますます「戦える」組織へと変貌しつつある。殺し殺される関係に陥ったとき、人の心にどんな影響がもたらされるのか、きちんと把握しておいた方がよい。
 日本が泥沼の「テロとの戦い」に引き込まれる可能性が高い今、アニメや映画の世界での理解で若者を戦場に送り出してはならない。一生残る心の傷を、若者たちに負わせるリスクが高い任務を金をばらまくように簡単に決定してはならない・・・・・・。

イスラエル軍 自動運転の武装軍用車を実戦配備

2016-08-27 | 戦争
【エルサレム大治朋子】イスラエル軍は毎日新聞の取材に、無人の完全自動(フルオート)運転軍用車の実戦配備を開始したことを明らかにした。人工知能(AI)による自動運転軍用車の本格配備は「世界初」(イスラエル軍)で、7月中旬からパレスチナ自治区ガザ地区との境界に導入した。今後、機関銃など兵器を搭載してレバノンやシリア、ヨルダン、エジプトなど周辺アラブ諸国との境界に順次、配備する。将来的には兵士とロボット車両の混成戦闘部隊の組織を目指す。兵器は現状では遠隔操作だが、製造業者は「技術的に武器の自動化は既に可能な状態」としている。
完全自動運転車の実戦配備開始を軍が内外メディアに認めたのは初めて。米軍は2011年の陸上無人システム計画で「完全自動化」を最終目標に掲げたが、配備に至っていない。民間用は、日本政府が東京オリンピック開催の20年ごろに準自動(必要に応じて人間が運転)車両の実用化、25年をめどに完全自動の市場化を目指す。米国ではフォード・モーターが21年までに乗用車の完全自動走行を実用化する計画だ。市街地走行の民間用と異なり、軍用は非舗装のオフロード走行を想定。障害物や爆弾などへの多様な対応が求められ、特殊な課題が多い。
イスラエル軍は08年、ガザ地区との境界(約60キロ)監視のため、準自動の軍用車を世界で初めて実戦配備。付近はイスラム原理主義組織ハマス戦闘員にイスラエル兵が殺害されたケースもある地域で、兵士の命を守るため、完全自動化を目指してきた。
軍用車「ボーダー・プロテクター」に完全自動運転システムを搭載し、試験運転を終え、今年7月中旬に配備を開始した。配備台数は非公開。準自動時代も無人で、事前に記録したルートを自動で走行。ただ、障害物に遭遇すると手動に切り替えるなどの手間もあり、2人の操縦者が必要だった。だが、完全自動は障害物回避機能がある。このシステムを収めた「運転キット」はどんな車両にも取り付けが可能で、将来的には、最初に警備内容の指示だけ出せば1人でも複数台を運用できるようになることを目指す。車両が捉えたデータは陸海空軍の有人・無人システムで同時共有される。
イスラエル軍ロボット開発部門トップのアミル・シュポンド中佐は「1、2年前までは、完全自動のロボットの大部隊を20〜30年後の目標に掲げていたが、現在は各大隊にロボット(車両)数台を組み込む体制を目指している。ロボットは人間の司令官の配下に置くべきだと判断した」と話した。戦時の進攻時に兵士の前方を走り、「盾」となってルートの安全を確保するほか、情報収集や兵たん支援、兵士援護のための攻撃などを任せる方針という。
 
AIを活用した軍用ロボットの開発競争は世界規模で拡大する流れにあり、イスラエルのほか、米国、ロシア、中国もロボット部隊の創設などを視野に入れた技術開発に力を入れ始めている。
 
 
ドロ-ンも自動運転も、介護ロボットも軍需産業の成果である。いよいよ、本格的配備は始まった。
軍隊の装甲車や戦車を、赤外線誘導ミサイル、対戦車ミサイルなどから守るという技術が進化している。イスラエルの国営軍事企業ラファエル(Rafael)が開発したTrophy Active Protection System (APS)と呼ばれる
もので、イスラエル軍では今年1月末から軍用車両に搭載、運用試験を始めているそうだ。装甲車や戦車に取り付けた特殊センサーが向かってくるミサイルを感知し、ミサイルが至近距離に達したところで砲弾を発射し、的確に撃ち落とす。もう一つは戦闘機に搭載されているのと同じく、向かってくるミサイルが標的を見失うように、アルミ箔のjammerを撒いて、ミサイルをそらす。
これとは別に、米軍海兵隊は、米軍車両に向けてミサイルを打ち込もうとしている敵を事前に見つけるための無人機システムにも投資を続けている。
 
普通の銃弾を撥ねつける上、ミサイルも寄せ付けない機能までつけた無敵の戦車、装甲車を考えると、ハイテク兵器の格差が物凄いことになっていることがわかる。かたや、人間を武器にした自爆テロ、先進国はロボットやドロ-ンを使った無人戦争が一般的になる。
いまだに道徳論や愛国主義教育を振りかざして、若者を戦争に行かせようと画策している現政権は時代遅れの戦争美学憧れ族、家族や国のために死んでいくことを美しいと陶酔するアニメオタクにしか見えない。
 
戦争の無人化、間化が現実のものになりつつある。 ゲ-ム感覚で何の感情もなく、人を殺す戦争がもう始まっている。

NHKスペシャル 村人は満州へ送られた

2016-08-21 | 戦争
昭和20年8月、旧満州(中国東北部)。ソ連の侵攻で軍が撤退、取り残された人々は攻撃にさらされ、逃げ惑い、およそ8万人以上が犠牲となり、中国残留孤児など数々の悲劇を生んだ。それが、植民地の治安安定や軍への食糧供給を目的に27万の人々が満州に送り込まれた『満蒙開拓』、移民事業の結末だった。これまで「関係資料は破棄され、人々が渡った経緯は不明」とされていて、その詳細は知られてこなかった。だが、村人を送り出した、ある村長の記録や破棄されたはずの極秘文書が発見され、農村を中心に村人がどのように送りだされたのか実態が明らかになってきた。今回、日記や関係資料の全容取材が許された。
 
戦中、中国侵略での傀儡国として満州国維持・食糧増産のために行われた満蒙開拓は、昭和11年から行われ、敗戦直後まで、27万人の民間人が満州に送られた。
日本国内、各地の農作に優れた村から村人を満州に送り出す分村移民。この政策は、農村に助成金補助を行いインフラをも整備させるという条件と引き換えに、満洲国に村人を送る国策であった。長野県河野村、胡桃沢村長の日記によれば、胡桃沢氏は当初、満洲に村民を送ることには否定的だった。中国人から強制的に現地の土地を奪った場所に日本人が入ることが正当化されることではないと判断していた。しかし、次第に戦況・時代の波に飲み込まれ、「補助金・助成金があれば村のためになる」という大義から、満蒙開拓政策を受け入れ、村の住民を一軒一軒、説得に回る。国の割り当ての50戸には及ばないが、27戸・95人の満州・分村住民を満州に送ることとなる。日本の戦況は末期状態、農民輸送船まで撃沈されてしまう状況だった。敗戦間際、満洲国へソビエトの侵攻がある。同時に満州分村地域の日本人は現地の中国人等の憎しみを買っていた。日本軍はとっくに満州分村地域から後退している。日本人村の45歳までの男たちは、戦場に駆り出されているから、村にいない。残った村人は、女性、老人、子供たちであり、村人は近くの山へと逃げ、集団自決に追い込まれる。ただ一人、奇跡的に生還した村人がいる。14歳で分村参加した久保田イサムさんだ。彼は、女性・老人・子供らと共に逃げまどい、集団自決の際、手助けをした。
日本にいる河野村の村長、胡桃沢さんは、満洲分村の悲惨な現状を敗戦後まもなく知り、自分が満州に送り出した村人に対して自責の念に耐えきれず、1946年、自宅で自害する。41歳だった。
国策として行われた満州分村は、農林省管轄の官僚組織により、事務的に行われた。敗戦間際の8万人以上に及ぶ分村民間人が犠牲になったことについて、1979年の農水系極秘の総括的資料・録音に「あの政策は日本にとってよかった」「悪い政策ではない」との官僚の発言に唖然とした。
 
集団自決のほう助をした久保田イサムさんは自責の念から、悲惨な体験を語り継いでいる。
 
満州移民は、中国の植民地支配を目的に、ソ連国境の防衛と食糧増産を進める国策だった。しかし、終戦間際、移民は行き詰っていたにもかかわらず、なぜ、河野村は国策に呑みこまれていったのか。
久保田さんの実家は農家ではなく、木材や薪を扱っていた。馬車を使った運送業に切り替えて、順調だった。イサムさん自身は、予科練であこがれの少年航空兵になるか、満蒙開拓団へ行くか、揺れていた。戦争は嫌だという雰囲気はなかった。学校の先生は、予科練を勧めたが、叔父が村の議員だったこともあり、満蒙開拓団を選んだ。1944年8月、満洲の河野分村に14歳で渡った。すでに戦局は悪く、敗戦が色濃かったが、国民は知らされていなかった。1945年8月15日に、「根こそぎ動員」があり、18歳~45歳の男、17人が新京へ出征した。残されたのは、女性と子ども、老人、68歳の団長だった。15歳の久保田少年は、満人の苦力を使って、農作業をしていた。すると、団の婦人が知らせに来た。
「日本が負けたから、団本部に来るように」
日本の敗戦は、電気のある隣村の少年が、馬に乗って伝えに来てくれた。久保田少年は、確認に行くように言われて、4キロメートル西の隣村に、自転車で行った。日本が負けることは考えられなかったが、無条件降伏だった。新京では、暴動が起きて、日本人は外に出られなかった、と聞いた。「団に集結せよ!」と命令された。それから、丘のような低い山があって、そこへ避難した。夜中に雨が降り出した。
1945年8月16日。朝、腹ごしらえに、山から村にもどった。11時ころ、原住民が200人くらい集まる。馬に乗って、拳銃を放つ。宿舎の物資を運び出す。燃料に使うためか、窓枠を取り去る。畑からジャガイモを掘り出す。着の身、着のままで、西の吉林方面に逃避する。疲れて、コーリャン畑で寝てしまった。数百人の現地人に襲撃されて、こん棒で殴られた。若かったから、手で防いだりして、致命傷にはならなかった。ところが、こん棒で殴られても、68歳の団長は年寄りだから弱い。
虫の息で、「早く楽にしてくれ!若者は、日本へ帰って、報告してくれ!」
副団長の奥さん、校長先生の奥さん方が集まって協議し、集団自決をすることになった。
団長の首を絞めた。母は腰ひもで、赤ちゃんから首を絞め始めた。小学5、6年生には、「お父さんのところへ行くから」と、言い聞かせて首を絞めるが、息苦しくなると、お母さんの手を、払いのけてしまう。
殺すのをやり返すのは、「かわいそうだ」と、看護婦さんの助言をもらいながら、一気にやってしまうことになる。
子どもの次は、身内のおばあさんの首を絞める。肉親のつぎは、若い婦人が絞められる。73人が殺された。
25歳のマッサージ師と、15歳の久保田少年が残った。2人は石を探した。大きな石を探したが、畑には大きな石はなかった。中でも大きな石を右手に持ち、左手を相手の肩にかけて、石を相手の眉間をめがけて、殴り合った。目に血が流れてきた…倒れた。血が出て失血死するように、頭を下にした。久保田さんは、話をしながら、額を触って、今でもあるデコボコや傷を見せた。殴り合ったときにできたという。
久保田少年は目が覚めたが、立ちあがれない。太陽が見えたから、5~6時間、気絶していたことになる。スコールの水が足跡にたまっていた。
さかずき位の水をすすり、二人は生き返った。73人の死体が転がっている。女性も子どもも、衣類がはがされていたから、丸裸だった。久保田少年もパンツだけだった。1週間、畑の中にいた。どうすればいいのか? 途方に暮れた。現地人の馬車が来て、女性と子どもの死体を荒地に捨てる。2人は殺されなかった。夜になって、現地人に見られて、迷惑にならないように、苦力頭の玄関を叩いた。
苦力頭は、久保田少年の衰弱したパンツ姿を見て、大泣きした。中国では、米のご飯を食べない。食べても、おかゆだが、ご飯を炊いてくれた。それに、塩で味付けした卵焼き。あんなにうまい飯はなかった! 今でも覚えている。
苦力頭は、2人分の衣服、履物を用意してくれた。12キロメートル先の新京へ行く。苦力を、前に2人、後ろに2人つけて、苦力頭が新京まで連れて行ってくれた。新京では、満洲軍の乗用車で日本軍の憲兵隊へ連れて行かれた。車に乗るのは初めてだった。憲兵から逃亡兵の嫌疑がかけられた。疑いが晴れて、収容所へ行く。つぎに開拓研究所へ行く。「根こそぎ動員」された団長の長男ほか10人がいた。となりは、関東軍司令部だが、関東軍はいなかった。その後、列車で奉天へ行くが、略奪、強姦で、新京よりひどかった。奉天から、南へ行くらしい貨物車に潜り込んで、着いた先が安東だった。セメント工場で袋詰め、木材会社で船造り、鉄道工事などをして、生き延びる。マッサージ師は、熱を出して亡くなった。中国の八路軍とともに大連へ行った。帰国まで1年3か月待った。食べ物に不自由し、140人いた日本人は37人に減った。
 
久保田少年は、1948年7月、胡蘆島 (ころとう)から船に乗った。7月23日に舞鶴へ着き、1948年7月31日に家へ帰った。帰国を、胡桃沢村長に伝えることはできなかった。村長は、2年前の1946年7月27日に自殺していた。
 日付、出来事、場所、人名、数字を、久保田さんは鮮明に記憶している。
「満蒙開拓団のことは、よく覚えている。きのう、何をしたか? は覚えていなくても」
 
1955年、河野村と神稲(くましろ)村が合併して、豊丘村になった。
豊丘村には「海外犠牲者 慰霊碑」がある。
 
碑文
 昭和の中世 時の国策の悠久大義なるを信じ それに順応し祖国を離れて海外の新天地に活躍中 
 太平洋戦争の悲惨なる終結に伴い 雄図空しく挫折し凡そ文明社会の想像し得ざる悲惨な現実に直 面し 
幾多の同志は想を故郷に馳せつつ異郷に散華し 生あるものは辛うじて身をもって故山に帰るの止むなきに至れり 
今茲に平和なる母村の清丘に碑を建設して異郷に眠る同志の声なく帰郷を希い 
以て慰めんと欲す
 想を馳すれば吾等の雄図は事志と違い悲惨なる結末を告げたりとはいえ決して無為にあらず 
必ずや後世の歴史は平和に本建設の礎たりしことを証明するであろう 
この丘に立ちて眼下に天龍の清流と栄ゆく母村の姿を見仰いで青天に一片の白雲 
悠々たる故山の姿を眺むる 遠き思新にして感無量なるを覚ゆ
御霊よ 安らかに 永眠されんことを
一九七四年八月一五日
 
長野県は、全国で一番多く満蒙開拓団を送り出した。
最後まで個人的信念を貫き、分村移民を拒んだ下伊那郡、佐々木村長のような立派な政治家も存在した。
 
 世界恐慌(29年)は、繭価の急落につながり、飯田下伊那の経済を直撃した。農村の窮乏を背景に当初は自発的な移民もあったが、次第に希望者が減少。国は村ぐるみで移住させる「分村移民」を打ち出した。応じれば移民はもちろん、残った村にも生活道路などへの補助金や低利貸し付けをする。37年に村長に就いた佐々木は翌38年、下伊那郡町村会の満州視察団に参加する。24日間の視察の結果、団の報告書は「困難は伴うが、これを人に勧め得る確信を得た」と結ぶ。佐々木村長は違った。旧満州の農民を追い出し日本人が入植したような形跡も見られ、何となく不安を感じた。それに日本人が地元の人々に威張りすぎてはいるように思えた。 帰国した佐々木は分村移民を推進しなかった。周りの村は駆り立てられた。補助金を得るため村外にも勧誘に回り、移民の獲得競争が起きた。
 満州に侵略した日本は32年、傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国した。移民は農地開拓にとどまらず、治安の維持やソ連への防備など政治・軍事上の役割を担わされていた。
 約27万人の移民のうち、長野県は青少年義勇軍を含め3万3千人と全国最多。飯田下伊那は8350人の農業移民を送り出した。
 信州、特に飯田下伊那が多かった背景に、官民一体の「動員の構造」ががっちり仕組まれていたことがある。県は専門部署の拓務課を置いて町村役場を指導。移住者数の実績を競わせた。
 教員ら約600人が摘発された1933年の二・四事件(長野県赤化教員事件)を境に、教育界は満州に移民を送り出す動員装置に化していった。
 
 こうした中で信州郷軍同志会は存在感を高めた。理論的指導者、中原は各地の講演で満州移民を推進した。同志会には陸軍中央がバックにいた。神戸大学名誉教授の須崎慎一さん(佐久市在住)が中原の手帳を調べた結果、陸軍中央から高額の現金が機密費として中原らに提供されていることが分かった。分村移民を拒む佐々木は中原からどう喝に近い言葉を投げかけられた。別の研究者が得た証言だ。
 佐々木は翼賛壮年団から圧力を受けたと後年、明らかにした。
 「壮年団に『各村が全て分村しているのに、なぜ分村せんのか』と詰め寄られたが、拒否した。もしあの時に分村しておったなら大勢の犠牲者を出し、自分も生きておれなかったのではないか」
 戦後、伊那自由大学の聴講生の座談会で語った発言だ。
 
 自由大学は上田の農村青年が京都帝大出身の哲学者、土田杏村(きょうそん)の指導を受け大正時代の21年に開講。伊那や松本に広がった。佐々木は夜中に自宅を出発、夜通し歩いて自由大学を受講し、20代後半の知識欲旺盛な時代に進歩的、リベラルな見方を学んだ。
  役場吏員の出征の宴席で「おまえ絶対に死ぬなよ、生きて帰ってこいよ」と言うと、書記に「村長、失言ではないか」とたしなめられた逸話もある。分村拒否をめぐっては迷いに迷い、「自分で行きたくないところに村の人をやるのはどうか」と妻に相談した。妻は「そう思うならやめたほうがいい」と答えた。まっとうな考えが決断を後押しした。
 
 補助金絡みの巧妙に仕組まれた国策は現在の原発誘致にもつながる。補助金欲しさ、研究費欲しさに非人道的な国策に協力する民や科学者、研究者は後を絶たない。戦争体験は風化し、日本の侵略戦争を正当化する言動も息を吹き返す。自虐史観から脱却して、美しい日本、強い日本を目指し、家族を底辺とする皇国日本に戻り、何をしようと言うのだろうか?
稲田朋美 「日本弱体化を企図する占領政策によって、戦後日本人の道徳心はすっかり荒廃させられてしまいました。戦後多くの日本人は、親を敬わず、先祖を尊ばず、英霊を偲ばず、ご皇室を尊敬せず、国を思わず、すっかり道徳を忘れて、目先の自己利益ばかり追いかけてきたように思います。民主党政権を誕生させてしまったのは、そのような日本人の心(道徳の荒廃)の象徴的な現れであると思います。政治家も、官僚も、財界人も、庶民も、家族や国家という共同体を大切にせず、目先の利益を追い求め、個人の快楽にふけることに価値があるという唯物論にすっかり毒されてきたものだと思います。」
道徳論だけなら、単なる右傾化したお嬢様の言動で許されるが、BS朝日の番組収録で、先の大戦後に東条英機元首相らが裁かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)について「指導者の個人的な責任は事後法だ。(裁判は)法律的に問題がある」との認識を示した。歴史認識をめぐる安倍晋三首相の言動が中国や韓国から「歴史修正主義」と批判されていることには「歴史修正主義というのは、あったことをなかったと自己正当化することだ。本当にあったことをあったこととして認めるのは決して歴史修正主義ではない」と述べた。
 
ドイツ国民やイタリア国民は、ヒトラーやムソリーニをはじめ、ファシズム戦時体制の責任を自ら追及した。戦勝国の裁判にゆだねて、それでよし、とはしなかった。 それが、ドイツ・イタリアと、日本との決定的な違いだ。
日本の現政権は東京裁判を否定し、処刑された戦犯を国のために犠牲になったとして復権を望む。何をやっても責任を認めない、取らない日本の指導者のあり方は今も脈々と受け継がれている。せめて敗戦国ぐらいは戦争犯罪を訴追する責任を果たしてもらいたいものだ。
東京裁判は、戦争の決着をつける軍事裁判であり、勝った方が負けた方を裁くのは当たり前だ。平時の刑事裁判と、軍事裁判を混同して、事後法云々すること自体、見当違いである。戦争責任は敗戦国が一方的に取らされるのである。ドイツだけが悪いのではないし、日本だけが悪いのではない。ドイツは第一次大戦後、反旗を翻した。その反旗はヒトラ-を生み出し、第二次世界大戦にしかならなかった。
 
日本国民には多数の国民を死に追いやった、自国の戦争責任者たちを訴追するしか方法はない。日本の戦争責任者たちは、潔く、戦勝国の裁定に従って、責任を取ったと思っている。それを蒸し返し、神として祭祀しようとする魂胆は何か?自虐史観だと言って、戦争を正当化し、戦犯を敬う。歴史に学ぼうとせず、侵略を否定する稚拙さは情けなく、歴史は繰り返されそうである。