B29の慰霊碑に初めて遭遇したのは、2017年6月、南蔵王に行った時のことだった。
その時の記述だ。
不忘山に戦時中、B29が墜落したと言う。昭和20年3月10日東京大空襲に前後し、3機のB29が吹雪の不忘山山麓に墜落した。3機が墜落した時間帯は、300機を超えるB-29の無差別爆撃により、推定で10万人以上が犠牲となった東京大空襲と重なる。3機の所属は別部隊でグアムとサイパンから飛来している。不忘山の山頂近くにある不忘の碑。1961年に地元有志により3機のB-29搭乗員34名の慰霊の為に建てたものである。一方的に米兵の慰霊を目的に建立したような文面で、違和感を感じる。東京大空襲への言及があっても良いように思う。しかし、「わが父の家には住み家多し」という新約聖書の文面を見て納得がいった。
ヨハネ14章1~6節
「あなたがたは心を騒がしてははなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのためにわたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところにあなたがたをもおらせるためです。」
結局、「汝の敵を愛せよ」というキリスト教的視点がなければ、戦争を防げないと思う。
私たちは迫害されたり侵略されたりすると、相手を憎んで、仕返ししようと考える。いや、昨今は専守防衛さえ虚ろになってきて、攻撃される前に相手を攻撃しても正当化されそうである。
憎しみの連鎖が個人間でも国家間でも争いにつながって行く。そこまで見据えての慰霊碑なのかもしれない。
今年の夏、終戦番組で宮崎県でB29の慰霊祭が一人の生存者と犠牲者の遺族を招いて行われたことを知った。それを見て、戦争の敵国犠牲者を慰霊するのはキリスト教とは何の関係もなく、特殊な日本の文化ではないかと思い至った。そこで調べてみると、撃ち落されたB29の搭乗者に対する慰霊碑が日本各地に存在することが分かった。しかも、戦時中に建立されたものも少なくないという。
中央大学の学生グル-プが去年から各地を訪ね歩き、ルポとして本にまとめているらしい。
戦時中、空襲の主力を担い、「超空の要塞(ようさい)」と恐れられた米軍の爆撃機B29は、日本国内で相当数が墜落したとされ、各地に住民らが建てた乗員を弔う慰霊碑が残る。「なぜ敵国の軍人のために」。そんな疑問を抱いた中央大の学生が建立の経緯を調べている。調査は昨年度、始めた。東京・多摩地域の歴史を調べていた学生が慰霊碑の存在に関心を持ったのがきっかけだった。総合政策学部の約30人が文献などからB29を中心に米軍機などの墜落地点約30カ所を調べ、秋田から沖縄まで22都府県の碑を訪ね歩いている。調査結果は学生らがまとめて本にする予定だ。
2年生の山本大介さん(20)は秋田県男鹿市の男鹿半島西部にある本山(715メートル)を訪ねた。山頂近くの碑の前で、地元のロータリークラブが毎年開く慰霊祭を見るためだ。
B29が墜落したのは終戦直後の1945年8月28日。サイパン島から秋田県北部に物資を運ぶ途中で、乗員12人中11人が死亡した。ふもとの住民が生存者を救出し、遺体も運んだ。クラブは90年5月、事故当時19歳だった生存者の元乗員を米国から招き、それを機に碑を建てた。1キロ余り離れたふもとの閉校した小学校の敷地にも、同じB29の死者を慰霊する碑がある。戸賀村(現男鹿市)が終戦2年後に建て、所々が欠け「和平」「B29」の文字もうっすら見える程度だ。近くの自営業、大友眞悦さん(80)は「濃い霧の日で、ドーンという音がして火柱が上がった」と墜落時の状況を教えてくれた。集落は人口も減り手を合わせる人はほとんどいないという。
千葉県内で対象となった碑は3カ所。戦争の記憶を伝える象徴の一つだが、地域によっては手を合わせる住民が少なくなった碑もある。
長柄町の長栄寺。境内にある慰霊碑は1996年、当時の住職(故人)が建てた。45年5月、寺の近くにB29が墜落。乗員11人中5人が死亡し、生存者のうち1人は日本兵に首をはねられた。斬首を命じた日本兵は戦犯として処刑された。碑は双方を弔うもので、建立時には開眼供養もあったが、その後は表だった慰霊行事はない。
2年生の原島光希さん(19)は8月15日、当時の住職に聞き取りをしたことがある睦沢町の学芸員、久野一郎さん(61)を訪問。久野さんは、住職が戦後20年ほどたったころ、ひそかに位牌をつくったことを明かした。碑の建立までさらに30年かかったことについて「周辺住民には戦没者遺族もおり、複雑な思いを抱かれると考えたのではないか」と住職の心中を推し量った。住職は「あの世に国境はあるのだろうか」とも話していたという。
取材を終えた原島さんは「いつの時代にも通じる考えだとはっとさせられた」と感想を語る一方、慰霊祭が途絶えている現状には「住職の考えや碑の重要性が地域に伝わっているのかな、と心配になった」と打ち明けた。
44年12月にB29が墜落した東庄町も長柄町の状況と似ている。町が管理する「ふれあい公園」の「平和の塔」。住民有志が97年、墜落で生き残った元米兵を招いた際に建てた。日米合同慰霊祭を開催したが、その後は慰霊祭は行われていない。
碑を戦争の記憶のよすがととらえ、活用を図る動きもある。45年5月29日、横浜市を空襲後にサイパン島へ帰還中のB29が地上からの攻撃で木更津市内の山中に墜落し、乗員12人は全員死亡。墜落現場には「B29搭乗員之墓」と刻まれた石柱が残る。地元の男性が51年に建てたもので、半世紀ほどは雑草などに覆われていたが、山菜採りに入った人が発見。地元区長らが2006年8月、在日米大使館の空軍武官を招き慰霊祭を開いたが、それも一度きりだった。
再び日の目を見たのは昨年5月。地元公民館が石柱を目的地とするハイキングイベントを開催し、今年は約40人が参加した。企画した同市浪岡公民館の山下要一郎主査(48)は「石柱は地域の数少ない戦争遺跡。草木に埋もれさせてはいけないと感じた」と語る。
戦争遺跡保存全国ネットワーク(長野市)の代表で、山梨学院大学の十菱(じゅうびし)駿武(しゅんぶ)客員教授(72)=考古学=は「碑には『命は平等』との考えが込められ、時を経て憎しみの連鎖を断ったことも示す」と指摘。その上で「宗教的な考えで建立された碑や、個人の敷地に建つ碑などは行政が関わりにくいケースもある。誰がどんな経緯で建てたかを把握し、保存や活用の仕方を考えるべきだ」と提案する。
山本さんは調査を通じて、終戦前に熊本・大分の県境に墜落したB29の乗員らが九州帝国大(当時)で実験手術を受け死亡した「九大生体解剖事件」なども知った。「暗い事実からも目を背けてはいけない。ただ、男鹿半島などで米兵を救出した住民は純粋な気持ちだったと思う」。指導する松野良一教授(60)=ジャーナリズム論=は「戦争の愚かさを少しでもリアルに感じてほしい」と話す。
静岡市葵区の賤機山山頂に、観音像が建てられている。この観音像は、米国の空襲により亡くなった方々を慰霊するためのものだ。そして、その観音像の隣に、空中衝突して墜落死したB29爆撃機の搭乗員を慰霊する石碑がある。
また和歌山県田辺市にも1945年5月5日にB29が墜落しており、搭乗兵11人の内、7人が死亡。和歌山県の人達は、事故現場から遺体を探して埋葬し、戦争中に慰霊祭を開いている。
慰霊祭は戦後も続き、70回を超えている。そして、生き残った4人は周辺で捕えられた。竹槍をもって迫る村人もいたそうだが、突くことはなく、おにぎりとたくわんを与えたそうだ。「恨みもあったはずだが、みんなが戦争に疲れていた。米兵の姿を見て、戦地に赴いた家族の姿を重ね合わせた。哀れみの方が強かったんでしょう」と現地の人は言う。
また、群馬県邑楽町の清岩寺でも墜落兵の慰霊碑がある。墜落機からはい出した瀕死の米兵を見て、「鬼と教わった米兵も同じ人間だった。大切に思う人のためにも彼らの魂を弔いたい。」という思いがきっかけになっている。パイロットを弔い、寺で埋葬した。そして戦争が終わると、米国当局に連絡を取り遺骨を本国に戻した。慰霊碑は戦後60年経ってから、町で寄付金を募り建てたものだ。
東京都東村山市にも墜落して亡くなったB29のパイロットを弔い、墜落現場に平和観音像が建てられている。
墜落して亡くなった11人の遺体を埋葬し、戦後、米軍関係者が遺骨を引き取っていった。観音像は、住民の呼びかけに、当時の東村山町などが協力して建てられたものだ。
日本本土のB29だけに限らず、アリューシャン列島にて米軍の戦闘機が日本軍に撃ち落されパイロットが亡くなった際に、遺体を発見した日本兵は、パイロットの亡骸を埋葬し、碑文を立てている。
「自らの若くも輝かしい時間を、愛する祖国の為に捧げた英雄・・・ここに眠る・・・」
驚くのは、戦後でなく戦時中に建てられた慰霊碑も少なくないということだ。しかも、大東亜戦争だけで起きた行為ではなく、日露戦争や支那事変、古くは元寇の頃から続く日本人の伝統的な思想だという。
二度の元寇を撃退した後、弘安5(1282)年に執権北条時宗は、鎌倉に円覚寺を建て、元軍10万人の死者のために1千体の地蔵尊を作って奉納した。
秀吉の朝鮮出兵の際には、各地で敵兵の屍を埋めて弔った。当時の朝鮮中央の要職にあった柳成龍は、著書「懲毖録(ちょうひろく)」の中で、「日本軍は、熊嶺の戦死者の屍をことごとく集め、路辺に埋葬し、その上に標柱を立て、『弔朝鮮忠肝義胆』と書き署(しる)した」と記録している。
日露戦争が終わった後の明治40(1907)年、日本政府は亡くなったロシア軍将兵を弔うために、激戦のあった旅順近くの案子山に高さ13メートルの礼拝堂を建てた。ロシア皇帝ニコライ2世は感激して、その除幕式に自ら出席すると言い出したほどである。皇帝の臨席こそ実現しなかったが、出席したロシア将兵や牧師たちは、「このような事は史上例がない」と感激し、日本を心から尊敬するようになった。日本政府が自国将兵のための「表忠塔」を建てたのは、その2年後であった。
南京事件が起こったと言われる日支事変でも、総司令官・松井石根大将は日中両軍の戦死者を弔う慰霊祭を行い、また双方の戦死者の血の沁みた土を持ち帰り、それをもって熱海に興亜観音を建立して、両軍の英霊の冥福を祈った。
B29のパイロットは、それぞれがその町を爆撃しに来た人達だ。しかも、軍事施設でなく、多くの民間人が犠牲になるように、木の家を焼く為の焼夷弾という爆弾を落とし、多くの日本人達を焼き殺して来た。しかし、その人達にも家族がいて、帰りを待っている。敵国とはいえ、祖国の為に命をかけた人を敬う文化がある。憎いのは戦争そのものであり、人が亡くなったら弔うのが当然の行為だと思う文化が日本にはある。