バラカ
次に猫殺しに走る。「風邪の引き始めのような、あの全身の骨を擽(くすぐ)られるような、いても立ってもいられなくなる奇妙に心地よい痺れと恍惚感……。間違いない。“ソレ”は性的な衝動だった。」 愛する人を奪った「死」に対する「自分の勝利」、「死を手懐ずける」ことにエクスタシーを感じた。その快楽から次々と猫殺しを重ね、解体することが快楽となった。そして徐々に「“人間”を壊してみたい」との思いに囚われていく。
「僕は、淳君が怖かった。淳君が美しければ美しいほど、純潔であればあるほど、それとは正反対な自分自身の醜さ汚らわしさを、合わせ鏡のように見せつけられている気がした。僕は、淳君に映る自分を殺したかった。僕と淳君との間にあったもの。それは誰にも立ち入られたくない、僕の秘密の庭園だった。何人たりとも入ってこれぬよう、僕はその庭園をバリケードで囲った。淳君の愛くるしい姿を、僕は今でもありありと眼の前に再現できる。」
そしてAは淳君を殺害し、頭部を切断。頭部を自宅風呂場に持ち込み全裸になり鍵をかけた。
「磨硝子の向こうで、僕は殺人よりも更に悍(おぞ)ましい行為に及んだ。行為を終え、再び折戸が開いた時、僕は喪心の極みにあった。僕はこれ以降二年余り、まったく性欲を感じず、ただの一度も勃起することがなかった」
本書でA自身が「性障害」だと認め、その犯行と性的衝動の関係が赤裸々に描かれる。しかし、こうした猟奇的犯罪に対し、加害者自らが分析し世に問うことが犯罪研究や抑止になるとは到底思えない。逮捕から少年院での生活、現在に至るまでの生活は、淡々と散文的に描かれているのに対し、性的衝動の描写は、文学的ともいえるエクスタシーが伝わって来る。過剰な表現で鮮やかに語られる狂気のリアリティがおぞましい。
Aが犯行について回想するとき、性的サディズムの興奮が呼び起こされ、自己の犯罪を衝動殺人として肯定しているように読める。犯罪学の専門家の間では、性犯罪者の矯正は困難だという見方がある。Aにとって手記の中で狂気を発露させることが再犯への抑止力になり得るのだろうか……。手記を読む限り、性的衝動を抑えきれなくなり、公表することでエクスタシーを追体験し、生きている実感を取り戻そうとしているように思えた。
こんな自分にも、失いたくない大切な人が大勢いました。そんなかけがえのない、失いたくない、大切な人たちの存在が、今の自分を作り、生かしてくれているのだということに気付かされました。僕が命を奪ってしまった淳君や彩花さんも、皆様にとってのかけがえのない、取替えのきかない、本当に大切な存在であったということを思い知るようになりました。
僕はこれまで様々な仕事に就き、なりふりかまわず必死に働いてきました。職場で一緒に仕事をした人たちも、皆なりふりかまわず、必死に働いていました。病気の奥さんの治療費を稼ぐために、自分の体調を崩してまで、毎日夜遅くまで残業していた人。仕事がなかなか覚えられず、毎日怒鳴り散らされながら、必死にメモをとり、休み時間を削って覚える努力をしていた人。積み上げた資材が崩れ落ち、その傍で作業をしていた仲間を庇って、代わりに大怪我を負った人。懸命な彼らの姿は、とても輝いて見えました。誰もが皆、必死に生きていました。ひとりひとり、苦しみや悲しみがあり、人間としての営みや幸せがあり、守るべきものがあり、傷だらけになりながら、泥まみれになりながら、汗を流し、二度と繰り返されることのない今この瞬間の生の重みを噛みしめて、精一杯に生きていました。
この十一年間、僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべてが自業自得であり、それに対して「辛い」、「苦しい」と口にすることは、僕には許されないと思います。でもぼくはそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにいられませんでした。あまりにも身勝手過ぎると思います。本当に申し訳ありません。せめて、この本の中に「なぜ」にお答えできている部分が、たとえほんの一行であってくれればと願ってやみません。土師淳君、山下彩花さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。本当に申し訳ありませんでした。
「辛い、苦しいと口にすることは、許されないと書きながら、書くことが、僕に残された唯一の自己救済、たったひとつの生きる道」と書く。
日本兵とその手先の中国人が蓋山西の家を襲い、野菜を貯蔵する穴に隠れていた彼女を引き摺って行った。幼い息子が「母ちゃん母ちゃん」と追いすがると、それを兵隊が蹴飛ばした。彼女はロバの背に縄で括られ、日本軍の駐屯地へ連れて行かれた。そしてトーチカに監禁された。21歳だった。この時の最初の夫は、国民党員で、日本軍侵入以前に、妻と幼い子供を残して行方をくらましていた。
この時に村から強制連行された女性や少女は6人。13歳の侯巧蓮は夜中に起こされ銃口を突きつけられた。外へ出ると家は焼かれた。戻ってこれないようにするためだ。彼女らは駐屯地内に閉じ込められ次々と輪姦された。少ない日で5人、多い日で20人! 抵抗すると殴られ蹴られ、日本刀で「斬るぞ」と脅され手を縄で縛られた。
蓋山西は年下の少女をかばい、代わりに兵隊のレイプを受け入れた。14歳の陳林桃は夫が抗日ゲリラの八路軍に参加していたため、朝は「八路軍の情報を教えろ」と拷問を受け、午後は兵隊に夜は小隊長の木坂や班長の伊藤に強姦された。
戦後結婚した2番目の夫は、共産党の地区指導者だった。ガイサンシー自身も女性による委員会の委員長などを元々務めていたのだが、慰安婦だった者にそのようなポストは似つかわしくないと、辞めさせられた。家では家庭内暴力にさらされ、その後別れることになる。
三番目の夫は村でも最悪の、性病あがりの男であった。保守的な彼女の村では、女性が一人で生きていくことは許されない。そこで、村の中でも一番醜い男のもとに、ガイサンシーは嫁ぐのだが、この男は彼女を一人の人間として尊重してくれた初めての男性だった。この夫に先立たれて後、もはや彼女は心身の後遺症の苦しさに耐え続けることができず、自ら命を絶った。
強姦好きの伊藤班長は八路軍に殺されたが、美人の蓋山西に群がった中隊の男たち百数十名は、第62師団に編成し直され激戦地沖縄に向かい、全滅したという。中国で女性を虐待し、日本では沖縄県民を守るどころか、道連れにした。
映画にもなり、映画では、現地に駐屯していた数名の元日本兵が証言する。加害事実について口を閉ざす者もいたが、ある元兵士は「当時は罪の意識は全くなかったが、許せないことをやってしまった」と告白する。
保守派は「マルクスの本がベストセラーになるのは、アメリカの歴史はじまって以来の危機だ」と警戒し、リベラル派の経済学者、ポール・クルーグマンは「ピケティは不平等の統一場理論を発見した」と絶賛した。この本は、世界で所得分配の不平等が拡大している事実を明らかにし、その原因が資本主義にあると主張している。
1970年から2010年までにアメリカの賃金の中央値はほとんど同じだが、上位1%の人々の所得は165%増え、GDP(国内総生産)の20%を超えた。格差の拡大は一時的な問題だと思われ、戦後ずっと多くの国で所得分配は平等化しているとされてきたが、ピケティのチームは過去300年の各国の税務資料を調査した結果、戦後の一時期を除いて格差は拡大してきたという事実を明らかにした。不平等度は、ヨーロッパでは20世紀の初めには今のアメリカと同じぐらい高かった。それが1910年以降、下がったのは、二度の世界大戦と大恐慌で資本が破壊されたためだ。特に海外投資が植民地の独立によって失われたため、戦後ヨーロッパの資本分配率は下がり、アメリカより平等になった。70年代までの平等化の時代は世界大戦と大恐慌の賜物で例外的だったのだ。
ピケティはこの現象を資本蓄積が増えると資本分配率が上がり、さらに不平等化が進むと結論付けた。
ヨーロッパではアメリカほど資本蓄積が進まなかったので、分配は平等で戦後の成長率は高かった。資本収益率が成長率より低いと、分配は平等化して成長率は高まる。戦争に負けて資本が破壊された日本とドイツの成長率が高かったのも、ピケティの理論によれば必然の事象だったわけだ。日本の場合は、一人あたりGDPがイギリスに追いついた段階で成長が止まり、バブルが崩壊し、新興国の参入で世界の成長率が上がったが、資本蓄積が進むにつれて資本収益率が上がり、不平等化が進んだ。
このような資本過剰は、人口が減少して成長率の下がる国でもっとも顕著にあらわれ、その典型が日本だ。「労働生産性の差が所得格差になる」と言う経済学の理論は単純労働にしか当てはまらない。ルパート・マードックが年収2500万ドルもらっているのは、彼が平均的な労働者の1000倍働いているからではなく、その子の所得が高いのは親の財産を相続できるからなのは自明の事実だ。
日本では、2000年代に入って名目賃金が下がり続け、非正規社員の比率が労働者の4割に近づく一方、企業の内部留保は積み上がる一方だ。資金を借りて事業を行なうための企業が、リスクを取らないで貯蓄していることが日本経済の萎縮する原因であり、デフレはその結果にすぎない。
では、この格差を是正するにはどうすればいいのか。ピケティの主張する累進課税やグローバルな資本課税に賛同する者はほとんどいない。課税の中心を所得から富に移すべきだという彼の主張は合理的であるが。
1885年(明治18年)、福岡県に生まれた国岡鐵造は、神戸高等商業(現神戸大)卒業後、神戸の酒井商会での丁稚奉公を経て、満25歳で独立。1911年(明治44年)に福岡県門司市に機械油を取り扱う国岡商店を開いた。神戸高商在学中に東北の油田を見学していた鐵造は当時日本に200台程度しかなかった石油発動自動車は今後増え、「いずれ日本の軍艦も石油で走る時代が来る」と思っていた。鐵造は、日邦石油から機械油を卸してもらい、独自に調合した機械油を明治紡績に売ることに成功。また、門司の対岸の下関で37隻の漁船を持っている山神組(現・日本水産)に軽油を売ることになる。当時、元売りの日邦石油の門司の特約店は対岸の下関では商売をしないという協定があったが、鐵造は、伝馬船(手漕ぎ船)を使って、海の上で、山神組の船に軽油を納品した。日邦石油の下関支店に抗議が殺到し、支店長の榎本誠が鐵造を呼び出す。鐵造は、海の上で売っているのだから協定違反ではないと開き直る。「この気骨ある若い男の芽をこんなことで摘んではならない」と感じた榎本は、黙認。国岡商会の伝馬船は「海賊」と呼ばれ、関門海峡を席巻した。
しかし、縄張り意識が強い日本市場に新参者が食い込むことは難しい。鐵造の目は外国へ向いていく。国岡商会は、アメリカのスタンダード石油が牛耳っている満州に進出し、満鉄で、スタンダード石油のシェアを奪う。アメリカは石油の日本への輸出を禁止し、窮地に陥った日本は、東南アジアの油田地帯を占領するため、米英に宣戦布告。日邦石油や日本鉱業など4社の石油部門が統合され、国策会社・帝国石油が誕生した。鐵造は日章丸というタンカーを造ったが、1度も運行することなく、日本軍に提供した。国が転覆する時に、一企業の利益などなんの意味もない。日章丸はほどなく海の藻屑と消える。敗戦により、鐵造は、海外の資産全てを失い、膨大な借金だけが残った。鐵造は既に還暦を迎えていた。
鐵造は「国岡商会のことよりも国家のことを第一に考えよ」という信念を貫く。
官僚的な石油配給公団や、旧体質の石油業界に反発しながら、タンクを購入し、タンカーを建造する。日本の石油会社は株式の50%譲渡など屈辱的条件で外資の傘下に入り生き残りを模索していた。鐵造には、外資が入っていない民族資本の国岡商会がなくなれば、日本の石油業界は外国に支配されるという危機感があった。やがて、朝鮮戦争が勃発。日本はアメリカ軍の補給基地となり、反共の防波堤として、日本に製油所施設や精錬能力が必要とされるようになった。
鐵造は、バンク・オブ・アメリカから400万ドルという巨額の融資を受けて、石油業界と金融業界の度肝を抜き、「セブン・シスターズ(七人の魔女)」と呼ばれる石油業界のメジャーの目を盗み、外国からガソリンを輸入。「アポロ」と名づけて、全国の国岡商会の営業所で驚くほどの低価格で販売する。 そんな鐵造のもとに、イランの石油を買わないかという申し出が舞い込む。1950年代に、イランの政治家・モサデクを委員長とする「石油委員会」が議会にイランが悲惨な状況から抜け出すには石油国営化しかないと答申し、議会は石油国有化を可決。利権を失ったイギリスの国営会社アングロ・イラニアンは猛反発し、イランの原油を積んだイタリアのタンカーを拿捕。イギリスは、「イランの石油を購入した船に対して、イギリス政府はあらゆる手段を用いる」と宣言する。 イランにタンカーを送る会社はなくなった。 1953年、イギリスによるイラン石油の禁輸措置を無視し、出光興産が自社のタンカー日章丸二世をイランに派遣した。日本には、サンフランシスコ講和条約によって主権回復することになったものの、まだ進駐軍が居座っていた。日本政府はアメリカやイギリスの顔色をうかがわないとやっていけない。そんな時代に小さな石油会社が戦勝国のイギリスに一泡吹かせた大事件であった。イランへ原油を引き取りに行った日章丸の新田辰男船長も、イランとの契約を成し遂げた佐三の弟や重役も、それを支え抜いた部下たちも、とにかくすごいツワモノだ。当時の東京銀行、東京海上火災保険、通商産業省があえて法律違反を犯してでも出光の決断を支える。あえて出光を助けてやろうという、国を思うサムライたちが、銀行にも保険会社にも官僚にもいた。積荷の所有権を巡ってイギリスは出光興産を提訴したが、出光が全面的に勝利し、戦勝国に対する毅然とした姿勢が日本国民を勇気付けた。
こんなすごい男がいたのか。出光について知っていたのは名前ぐらいだった。この本のクライマックスというべき日章丸事件についてはまったく知らなかった。当時の新聞には連日1面トップで報道されていたという。
確かに出光は昭和20年代には奇跡としか言いようのないすさまじい働きをしたが、出光だけが頑張っても日本が復興できるわけがない。当時、私欲を捨てて国民のために働く経営者がたくさんいた。だから奇跡の復興につながった。その後の高度経済成長も、数知れぬ「無名の出光佐三」がいたからできたことだろう。
今の経営者と決定的に違うのは、社員を会社の財産だと考えるところにある。終戦直後、人員整理しかないと進言した幹部社員に「何をがっかりしている。一番の財産がまだ残っているではないか」と励ました。60歳で財産を失った男が全社員を鼓舞し、事業を立て直した力強さと勇気に驚嘆する。戦中までの出光は海外事業がほとんどで、敗戦ですべてを失った。大財閥会社が軒並みリストラを行っている中、出光は馘首しなかった。「家族だからどんなに苦しくても切れない。同時に、最高最大の財産を手放すわけにはいかない。」新人を新しい子供が生まれたと考え、自分の睡眠時間を削っても自立を促すべく教育した。社員を消耗品・コストとしか考えない今の経営者には考えられない発想だろう。
日本経済はバブル崩壊後、右肩下がりで低迷が続いている。世界的金融危機リーマンショックが追い打ちをかけた。「100年に一度の大不況だ」と言う。そこに東日本大震災が襲った。日本は大きな痛手を受け、一種のあきらめムードが広がっている。しかし、敗戦のときの痛手に比べたら、それほど悲観することもない。敗戦後、30年足らずで欧州の国々を追い越して米国に次ぐ第2の経済大国として復活した。そうできたのは、土壇場の勝負師、破天荒な実行力を持つ祖父世代が頑張ったからだ。その底流に流れているのは人材を財産と考える経営哲学だった。日本の企業文化の真骨頂がここにある。出光佐三の95年の生涯が今こそ、日本の経営者のモデルになるべきだと思う。
彼は生涯闘い続けた男だ。国と闘い、官僚や同業者と闘った。組織の下僕・官僚にとっては嫌な男だったろう。日本の石油会社のほとんどがいわゆるセブンシスターズにのみ込まれていく中で一社だけ違うことをやる。人に対する信頼という彼の信条はいつの時代にも通用する。その心情に惚れた人脈がピンチを救い、彼を支える。男が男に惚れると言うことはこういうことなんだと合点が行った・・・・・
「99人の馬鹿がいても正義を貫く男が一人いれば、間違った世の中にはならない。そういう男が一人もいなくなった時日本は終わる。」
山に行く予定が悪天候で没になってしまったので、本屋大賞を受賞した小説を読んでみた。
辞書作りに情熱を注ぐ人々の努力の日々をつづった三浦しをんの小説「舟を編む」だ。
出版社・玄武書房に勤めるちょっと変わり者の馬締光也(まじめ・みつや)が、営業部から辞書編集部に異動となり、そこで彼を迎え入れたベテラン編集者や日本語研究に人生をささげる学者、先輩編集者らとともに、辞書作りに奮闘する。馬締光也は、“言葉好き”にも関わらず、他人のコミュニケーションを取るのが大の苦手だ。営業部では使いモノにならなかった馬締だが、独特の視点で言葉を捉える能力を買われ、新しい辞書「大渡海(だいとかい)」を編纂する辞書編集部に引き抜かれて、辞書づくりの世界にのめり込んでいく。同じ下宿の林香具矢(はやしかぐや)という女性に一目惚れしてしまうが、“好き”という気持ちを伝えられない。先輩編集者の西岡に励まされて無骨なラブレターを書くが、その純朴さがカグヤの心をとらえ結婚に至る。
かなり不器用な青年を描いた作品で映画化もされた。
くそ真面目で女子とまともに目も合わせられない。ただ、自分の好きなことには一生懸命になれる芯の強さは持っている。オタクと言われ、女子に敬遠されがちなタイプなのに、香具矢や周りの人に愛される。どんなに不器用でも、いや不器用だからこそ、自分の想いを必死に伝えようとする姿は、感動的なのかもしれない。
女性はバランスのいい男性よりも何かひとつに秀でている男性の方に惹かれてしまうと言う人もいるが、一般的には要領の良い現代風な男が好かれるだろう。確かに馬締はマジメ一筋、辞書づくりへの情熱はひとつの才能とすら思える。しかし、正直すぎて不器用なので人付き合いは下手だ。つきあう女性はしっかり自立していて、男性を“支えたい”と思えるタイプが良いのかもしれない。その点、香具矢自身も“板前”という職人の仕事をしているせいか、決して相手にもたれようとしない。その関係性は現代的で、女性作家でなければ描けないと思われ、非常に好感がもてた。男女が長く続いていく関係とは、相手に求めすぎない、それぞれが自立しているスタンスが大切なのだろう。
ふたりの恋愛が横軸なら、縦軸は何十年もかかる辞書づくりという大プロジェクトだ。ユーモアたっぷりに辞書の編纂の過程が描かれる。ちょっと風変わりで面白い世界だ。ツイッターやFacebook、LINE等、会わずしてコミュニケーションが成り立つ現代だが、言葉と格闘する馬締の姿を見ていると、言葉の含蓄を考慮して、もっと丁寧に、もっと適切に文を綴っていきたいと思えてくる。若者のメールや話し言葉を聞いていると、絵文字がやたら多く、日本語として意味をなさない部分もあり、日本語が廃れていくのを感じる。
軽くニヤニヤしながら、数時間で読める本だが、10数年と言う時間をかけて辞書を編纂する人々のこだわりと情熱が面白おかしく伝わってくる。楽しめる作品だ。