オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

土の記 高村薫

2017-11-20 | 読書
はてしない死の堆積物である土壌。その上で精緻な耕作を営む日本の農業社会。都市部からすれば異空間である農村を舞台に老人が主役の異色作。衝撃のラストが光る。
高村薫はサスペンス小説家だと思っていたので興味が湧いた。
 
しかし、土壌にも農業にも釣りにもナマズにも興味の希薄な私には眠気だけが湧き、読み進むのが難儀であった。過去のシ-ンが退屈な日常の中で伊佐夫の想念となって頻繁によみがえる。何度も同じ想念が現れるので、読んでる自分がボケて来たのかと思った。次には老年の作者が認知症気味で同じことをくどくど語っているのかと思った。最後の大団円だけが興味ありと言うことで我慢して読んだが、延々とボケていく老人の退屈な日常の想念が描かれる。最後のぺ-ジに台風が来て土石流が起こり、26人が死亡したことが新聞記事の如く記述される。長い長い老人の堂々巡りの想念が突然、絶えて終わった。
 
 
な-んだ。そんな当たり前の終焉か。大震災以来、異常気象も相まって、世界中に大災害が起こっている。日本を見回しても、今まで考えられなかった北海道で台風の災害が起こったり、小さながけ崩れで住民が犠牲になったり、想定外の豪雨で川が氾濫して家もろとも流されたり、大災害は日常化している。単なる安易な方法で物語を終結させただけのことである。
 
 
注目すべきは作者の土壌と農耕への関心の高さである。
 
もともと地学という教科が好きだったそうだ。都会育ちの作者が農耕に詳しいのも驚きであった。彼女の徹底した取材力の賜物か。
本人の話では小説で描いた稲作の技術は、ごく一般的に行われているものだそうで、稲という作物は個体差が小さいので、蓄積された経験が正確に数値化され、知的集約的産業になり得る。
主人公・伊佐夫を七十過ぎという年齢に設定したのも農村のリアルだったからだという。特筆すべきところの全くない人物。東京育ちで大手電機メーカー勤務という点でインテリではある。老人のボケる過程をリアルに描きたかったから、舞台として農村を選んだということか。
 
小説の冒頭ですでに妻は死んでいて、その原因となった不貞と交通事故のモチーフが全編を通じて伊佐夫の胸中を去来する。妻を恨み続けることもなく、夢の中に繰り返し登場し、妻の亡霊と一緒に暮らしていると言っても過言ではない。死と性の欲望に満ちているのも農村では当たり前だろう。妻昭代の妹である久代が、かつて懐いた恋心を伊佐夫に吐露するシーンがある。行方不明の老女も色欲に溺れた末の失踪だったらしい。加齢とともにあけすけになるエロスが生々しい。田舎という所は性に対してあけすけで、地方によっては夜這いの風習が生きている。姉が死ねば妹と再婚することも珍しくはない。
 
そして、多くの死が扱われ、日常化している。妻を亡くした伊佐夫は東京にいる兄を失い、久代の亭主が死に、女子高生が遺体で発見される。しかし、折り重なる死のイメージは、日常に埋没して陰惨な雰囲気は全くない。土壌の有機成分が動植物の折り重なる死によって出来ているように、田舎で暮らしていると死は特別なものではなく、先祖の墓が家のすぐそばにあって生活の一部となる。
 
年寄りが感じる世界では、深刻さが似合わないのかもしれない。凡庸な主人公が登場し、瑣末な日常が描かれる。そんな設定でも面白い小説は書けるのか。作者の実験なのだろう。
 
戦後1600万人と言われた農業人口は、現在200万人に減り、平均年齢は66歳を超えた。
それで、この100年で爆発的に増えた日本の人口が、2050年には、3000万人も減り、100年後には、江戸時代末期並みになるかもしれないと言う、政府も認めている現状の延長戦の人口予測をみると、
2050年を待たずに、日本の美しい農村風景は、荒廃してしまうかも知れない。人口は大都市に集中し、人も居ないし、作って儲かる作物もない。家族を養える仕事も田舎にはない。TPP加盟を待たずとも、早晩、三ちゃん農業、二ちゃん、そして一ちゃん農業となり破たんは目前だ。自由化して、農業は崩壊し、村が無くなり、水田が草だらけに荒れ果てる。棚田のように日本の農家は観光地として細々と経営していくことになるのかもしれない。
 
大宇陀の山は今日も神武が詠い、祖霊が集い、獣や鳥や地虫たちが声高く啼き合う。始まりも終わりもない、果てしない、人間の物思いと、天と地と、生命のポリフォニ-。 (帯書き)
ポリフォニー (polyphony) とは、複数の独立した声部(パート)からなる音楽のことで、ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。それぞれの声部が、旋律線の横の流れを主張しながら、対等の立場でからみあっていく。各声部にホモフォニーのような主従の関係がなく、それぞれ独立している。ヨーロッパの宗教的声楽曲の歴史とともに高度な発展をとげ、バロックの時代まで作曲様式の主流をなした。

バラカ

2017-11-14 | 読書
 関係者が相次いで消えてゆくなか、バラカは人間の欲望や権力に翻弄されながらも、強く生きようとする。エピローグでは、国家の周縁に当たる北海道の東端でようやく安住の地を見つけたバラカの姿が描かれる。
 
 
 東日本大震災直後の日々、多くの人の頭をよぎった「ありえたかもしれない日本」を舞台にした桐野夏生(64)の『バラカ』(集英社)は、平成23年夏から4年にわたり月刊誌で連載された。
 震災当日、桐野さんは自宅で執筆中だったが、「フィクション以上の悲劇を見て、自分の仕事は何もできない虚業だと思ってがくぜんとした」という。当時、東京の湾岸地区のタワーマンションに住む母親たちを描く『ハピネス』を連載中だったが、「目の前の現実と乖離しすぎて、こんなことを書いていていいのかとむなしくなった」という。新連載は、今の状況を書くしかないと構想を大幅に変更し、2カ月遅れでスタートさせた。
あの日の震災で、福島第一原発がすべて爆発した。東京は避難勧告地域に指定され住民は西に逃げた。首都機能は大阪に移り、天皇も京都御所に移住した。2020年のオリンピックは大阪に開催地が変更された。震災から8年がたち、放射線量が下がってもまだ住民の半分以上が戻らず、東京の空き家では地方から来た若い日本人や外国人労働者がルームシェアしながら住んでいる。
 
 タイトルの「バラカ」は、震災後に警戒区域で発見された一人の少女の名前。日系ブラジル人として生まれながら、中東のドバイで人身売買により日本人夫妻の子とされたバラカは、東京で震災にあい、被曝して甲状腺がんの手術を受ける。そして日本各地を転々とするうち、自分たちの運動のシンボルとして利用しようとする原発推進派や反原発派と遭遇する。こうしていつしか原発をめぐる政治の渦中に巻き込まれてゆく。バラカという名は、スペインの詩人、ガルシア・ロルカの移動劇団「バラッカ」からとった。バラックと同意で、居場所がない存在という意味に、アラビア語の「神の恩寵」という語義も重ねた。
 
 
 ドバイの赤ん坊市場でバラカを買って日本に連れ帰った女、その夫でミソジニー(女性憎悪)をあらわにする男など、登場人物は欲望をむき出しにした人物が多い。
「震災後、差別や憎悪など嫌なものが噴出したように思う。そうしたものをすくいとり、提示していきたかった」
 誹謗中傷の増幅器となっている偏向ネット社会の不気味さも描かれ、現代のリアルな雰囲気が嫌になるほど醸成され、フィクションでありながら、ドキュメンタリ-のような迫力で迫ってくる。特に震災前の男女のむき出しの欲望が描写され、その腐敗した蒸せるような感覚が読む者を圧倒する。
「人は死ねば生ごみと一緒だ」広告業界から葬儀屋に転身した川島の言葉は座間の事件が起きた今、実感となった。
華やかなマスコミ関係で働くキャリアウ-マンの競争社会、結婚や子育てに逃げたくなる気持ち、それでもなお、意地で貫き通す自立。バラカにそそぐ愛情も自分本位のものでしかない。子供に対する親の愛情そのものが自分勝手なものであるとは思うが・・・・・・
 
登場人物は自分の欲望を抑えようとしないから、人身売買、男色、財産目当ての色仕掛け、暴力なんでもござれである。リアルな社会で起こっている強烈な負のエネルギーが渦巻く。
「人が(震災を)『忘れる』ということも負のエネルギー。明るくて未来に向かうものなんて、到底書けなかった。」 日本はどうなってしまうのか-。そんな思いのまま連載を脱稿したそうだ。
単行本化の際につけた短いエピローグに、かすかな希望を添えたという。
 
勝手に売り買いされ、被曝させられ、反原発派にも推進派にも象徴として祭り上げられるバラカはディストピアを生きている。しかし、希望の象徴として存在し続ける。
 
現実の日本は女性差別を筆頭とする差別意識が蔓延している。白人至上主義など非難する資格はないと思っている。差別は社会が疲弊するほど顕わになる。震災からの避難者がいじめにあっている事実は今の日本が疲弊している事実を雄弁に語る。相模原事件が起こるのも、大多数の心に根づく差別意識が顕在化したものだ。
震災前でも社会は疲弊していた。そこに大震災と原発のメルトダウンが起こった。わずか6年程度で、震災も原発爆発も忘れたように東京オリンピックに狂奔する日本にどんな災難が降ってくるか。
北朝鮮との戦争。南海トラフを震源とする未曽有の大震災、富士大噴火、東京直下型地震・・・・・
 
地震大国に54基もの原発を作り、使用済み核燃料の後始末もできない有様で再稼働をしようとする日本。トップが狂気なのだから、国民の精神が蝕まれるのも無理はない。
 
作者は絶望にいたたまれなくなって、希望を添えたつもりかもしれないが、震災後の物語は蛇足だったように思う。リアルワ-ルドに蔓延する狂気は強烈すぎて希望で覆うには無理がある。安っぽいお伽噺にしかならない。
 
この小説を読んで、気分が悪くなり、体調を崩した。小説を読んでこんなことになったのは初めてである。それだけ、自分自身が疲弊し、後戻りできないディストピアで暮らしているということかもしれない。昨日と変わりない平凡な日常を送れることを希望に、いつ訪れるとも知れない終焉を考えないようにして・・・・・
 

虹色のチョ-ク

2017-08-12 | 読書
「彼らこそ、この会社に必要なんです」と言い切る大山社長。
神奈川県川崎市にあるチョーク製造会社・日本理化学工業株式会社は、昭和12年に小さな町工場からスタートした。昭和36年に二人の少女を雇い入れたことをきっかけに、障がい者雇用に力を注ぎ、「日本でいちばん大切にしたい会社」として全国から注目を集め続けている。現在も社員83名のうち、62名が知的障がい者。一人一人の能力に合った仕事を作ることで、彼らが製造ラインの主戦力となり、社員のほとんどは定年まで勤め上げる。彼らの作るダストレスチョークは業界シェア1位を誇る。今でこそ福祉と経営の両面で注目を浴びるが、ここに辿り着くまでには数々の苦悩と葛藤があった。
本書は、日本理化学工業の会長や社長、働く社員、さらには、普段語られることの少ない障がい者のご家族へのインタビューを通して、「働く幸せ」を伝える。
 
ニュース番組の特集で知った本に興味を感じ、読んでみた。障碍者雇用に成功した会社は働く者に幸せを与える会社だった。
知的障害者の雇用が始まったのは先代大山会長の代だった。養護学校の先生の訪問を受け、障碍者の雇用を最初に頼まれたとき、「知的障碍者にできる仕事はない」と薄情な応対だった。3度目の訪問で先生の言葉に心が動き、2週間の期限で2人の障碍者を受け入れることになった。「就職先がないと、親元を離れ、一生施設で暮らすことになります。働くという経験のないまま、生涯を終えることになります。一度でもいいから、働くという経験をさせたいのです。」
2人は予想外に熱心に働き、健常者のサポ-トもあって、正規雇用されることになる。しかし、会長は「福祉施設にいた方が楽で幸せで守られている。労働は彼女たちにとって苦役だと思っていたので、彼女たちが仕事上のミスで叱責され、来なくていいと言われても、会社で働きたいと泣き出す姿を見て不思議だった。障害者を働かさせているという状況に後ろめたささえ感じていた」という。
その気持ちが大きく変わったのは、禅僧の言葉だった。「物や金をもらうことが人としての幸せではない。人に愛されること、褒められること、人の役に立つこと、人に必要とされること。施設や家庭では愛されることはできても後の三つの幸せは働くことで得られるのですよ。」
大山会長の挑戦はここから始まる。健常者の援助や指導があればこそ可能だった障害者の雇用。面倒を見るもの、見てもらうものの軋轢と不満が高まっていった。健常者と障碍者の忘年会を別々に行っていたこともあった。とりあえず、お世話手当なるものを支給して、不満を抑えることにしたが、主従関係を放置していたのでは、健常者にも障碍者にも幸せを感じてもらえないと感じ始める。
 
一番福祉行政が進んでいた美唄市に工場を建設しようと決めた大山会長は世界一の工場にしたいとアメリカの工場を視察することを思い立った。しかし、アメリカの工場は知的障碍者の雇用はなく、しかも公的な援助の下で成り立つ民間ではありえない工場だった。アメリカの真似では経営が成り立たないことを知った大山会長の独創的な改革がここから始まる。
障害者が理解できる仕事の段取りを緻密に考え実践していくことになる。駅からの道の信号機を守って通勤できることに着目して、色合わせによる作業の工夫を発端に障害者が第一線の労働者たる方法を確立し、最低賃金を払い続けることを可能にした。人の幸せのために投げたものがブ-メランのように自分の幸せとなって戻ってきているという。
 
大山康弘会長は「全ての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(憲法17条)を「皆働社会」と呼び、その実現を人生の目的とし、会社を実現させている。
「人間の幸せはものに不自由しない幸せと心が満たされる幸せ、その二つが必要なのです。」
 
2009年、大山会長は渋沢栄一賞を受賞した。その授賞理由がちょっとオカシイ。大山会長ものけぞったという。
「重度の知的障碍者を施設が請け負った場合、職員や医者の人件費を含めると40年間で一人に2億円かかるという。定年まで働くなど、40年間働いた人は5人に上り、10億円の税金を節約した貢献を認められた」と言う。???しかし、税金削減を目的に障害者を雇用することを奨励すると、ロクなことにはならないだろうと感じた。
 
真剣で妥協を許さない真摯な働く姿勢。そして笑顔。仕事が喜びというのは理想である。働くことは健常者にさえ苦役であると思える現代。知的障碍者の雇用で健常者にも幸せを実現させた日本理化学工業の功績は大きい。人と触れあうことで改革と変革は確実に拡がっていく。
障害者は就職してもその力を発揮することは難しく、雇用側にもスキルが必要であることを知った。健常者側の意識の変革がまず必要だろう。仕事をする者の笑顔に勝る功績はないことを感じさせてくれた本である。そして、実は私たち健常者の方が心に差別と言う「障がい」を持っていると言う気づきもあった。
人間には、役割はあっても、優劣などない。終身雇用の会社が当たり前だった1970年代の職場は和気あいあいとして、トラブルもあったけど、笑顔と安心に満たされた職場だった・・・・・。

国のために死ねるか

2016-07-24 | 読書
自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 (伊藤祐靖 著)
 
特別警備隊の先任小隊長として、その創設に関わったが、きっかけとなったのは、1999年の能登半島沖不審船事件だった。
日本人を拉致している最中である可能性が高い不審船を発見、追跡。自衛隊史上初めて「海上警備行動」が発令され、激しい威嚇射撃の末、ついに不審船を停船させた。停船させたあと、不審船に立入検査隊を送り込む必要があったが、当時の海上自衛隊には、特殊部隊も立入検査の訓練もなかった。防弾チョッキさえないという状況だった。相手は北朝鮮の工作員である可能性が高く、立入検査隊を送り込めば、「全滅」するはずだった。
 
「自分たちが行くことに意味があるのか」と質問してきた部下に「つべこべ言うな。今、日本は国家として意思を示そうとしている。あの船には、拉致された日本人のいる可能性がある。国家はその人たちを何が何でも取り返そうとしている。だから、我々が行く。国家がその意思を発揮する時、誰かが犠牲にならなければならないとしたら、それは我々がやることになっている。その時のために自衛官の生命は存在する。行って、できることをやれ」と命じた。
ただ、その気持ちを押し付けるつもりはなく、当然、相手も反論してきて、議論になると思っていた。
ところが、彼は反論するどころか、「ですよね」と、粛々と立入検査の準備を始めてしまった。
むしろ、わたしのほうが、「それだけかよ……『ですよね』だけで行っちゃうのかよ」と思うと同時に、彼の人生すべてを背負ってしまった責任の重さに戸惑いました。
ある隊員などは、防弾チョッキの替りのつもりなのか、『少年マガジン』をガムテープで胴体に巻きつけていました。とても滑稽な姿なのですが、わたしは、その清々しく、美しいとしか言いようのない表情に見とれていました。彼らは、命令を下されてからわずか10分の間に、この世のことはすべて諦め、“わたくし”をすべて捨て去ったのです。
あの時、わたしは、70年前に特攻に向った先輩たちも、きっと同じ表情をしていたのだろうと感じました。
この時は、不審船が、再び猛スピードで動き出し、北朝鮮の領海に逃げ込んだため、実際に隊員たちを送り出すまでには至らなかった。
 
こういう任務には、「向いている人」と「向いてない人」がいるということを痛感した出来事でした。立入検査隊員たちは自分の死を受け入れるだけで精一杯で、いかにして任務を達成しようかということまで考える余裕はありませんでした。ところが、世の中には、「自分が死ぬのは仕方ないとして、どうやって任務を達成しようか」と考える人間もいるんです。そういった特別な人生観の持ち主を選抜し、特別な武器を持たせ、特別な訓練をさせなくては、任務を達成することはできない。そのことを痛感しました。
 
わたしに言わせると、そういった人間は100メートル先にいてもわかる。特殊部隊に「向いている人」の多くはコントロールが効かない人なんです。
 
コントロールの効く人とは、言い換えると枠の中にいる人です。そして、普通の人を枠の中に入れるには、飴と鞭を上手に使えばいい。たとえば、子どもなら、これをしたら廊下に立たせますよ、これをしたら親を学校に呼び出しますよ――これが鞭です。罰則と言ってもいい。大人になっても、罰金とか懲役とか、極端な例では、これをしたら死刑になりますよ、というのがそれです。それに対して、これをすれば褒めてあげます、もしくは名誉が与えられますというのが飴です。こういうことを繰り返していくうちに、人は枠の中に入っていきます。ただ、ほとんどの人は、その罰則が正しいのかどうか深く考えて受け入れているわけではない。ただ親が、世間が、上司が、役所がそう言うからそうしている。自分が本当は正しいと思うことをしたら罰則が待っている。それでもやるのか、やらないのか――そういった葛藤をしたことがないと思います。
 
ところが、世の中には、飴にも鞭にも関心がない人がいる。彼らは、「枠」、つまり外側から与えられた価値観では決して満足できない、自分自身の価値観に忠実な人間です。罰則があろうとなかろうと、自分が正しいと信じたことをやる。そして、共通して思っているのは、「満足して死にたい」ということ。金持ちになってベンツを乗り回しても、満足できない人たちなんです。ただ、こういう人は、だいたい不器用で、組織の中では居場所を見つけられないんですね。自衛隊は、ある意味、究極の“お役所”ですから、こういった人たちは、そこからはみ出していました。こういう人たちこそ、自分の命を投げ出してでも、公のために奉仕したい、という強烈な思いを持つことができるのです。最初に隊員を集めた時、よくもまあ、これだけはみ出し者ばかりを集めたものだと言われましたが、彼らがいたからこそ、特殊部隊はできたのです。
 
普通の軍人と違って、特殊部隊は一人でいろんなことができなくてはなりません。射撃も、爆破工作も、格闘も、潜水も、パラシュート降下も……例えるなら、陸上の十種競技のようなものです。十種競技の選手は幅跳びも、短距離も、砲丸投げも、個別の競技で抜群の成績はとれなくても、満遍なく好成績をあげる力があります。特別秀でているものはなくても、すべてそこそこできるという資質、場合によっては器用貧乏と言われたりもしますが、それが特殊部隊には向いているのです。さらに、いろんなことをやるためには、まず勤勉であること。次に器用であること。そして飲み込みが早いこと。若干飽きっぽいところも大切です。これらはすべて日本人の性質に合っているんです。
 
能登沖不審船事件に戻りますと、立入検査隊員を送り出さんとする時、伊藤さんは、「“わたくし”を捨てきった彼らを、それとは正反対の生き方をしているように見えてしまう政治家なんぞの命令で行かせたくなかった」と、書いている。命令を拒否する可能性もあると言い、その代わり、命令を拒否する根拠の中に、“わたくし”の文字は一片もない自信があると言う。だから、拒否しますし、部下にも私の命令を拒否しろと言っていた。
 
しかし、考えてもみてください。人間に対して、「死んでこい」と命令を出すのだから、納得できるだけの理由を示す、というのはおかしなことでしょうか? あれだけの苦痛を毎日積み重ね、その時のために、心と身体を整えている者達に、すべてを捨てさせる訳ですから、それにふさわしいロジックと情熱と、できればオーラをもって、命じるべきです。これは、シビリアン・コントロールうんぬん以前に、最低限の“礼儀”だと思います。自衛官は奴隷ではありません。「死ななくてはならない」理由が、「上がそういっているから黙って行け」とか「規則で決まっているから仕方ないだろう」で行かせる訳にはいきません。その代わり、命令権者自身に私心がなく、心から正しいと思う理由を示すのならば、何だってやるのが我々です。そんなことをしたら、規律が成り立たないじゃないか、などと言う人は、軍事組織のことをよく知らないのだと思います。
 
特殊部隊員の適性と同じことで、罰則に縛られて正しいと思うことができない人間は信用できません。信用できない人間の命令は受け入れることも、作戦行動を一緒にとることもできません。これは、今の自衛隊の組織でもそうです。私が言いたいのは、そういうことなのです。
 
戦前が善で戦後が悪、戦前が悪で戦後が善、いろいろ言われますが本質的には何も変わってないと思います。典型的なのが責任の取り方で、太古以来、この国では「個人の責任」が育ちにくい土壌があったと感じています。軍隊で言うならば、全員スタッフ(参謀)で、責任を取る指揮官が誰なのかを明らかにしない。
もちろん傾向としてですが、1000年以上前から、矢おもてに立ってしまうようなこと、責任をとることは、天皇陛下一人にお任せして、他の者はいい意味で重圧より解放された状態で、どうあるべきかを考えることができていた。そうすれば能力を発揮する人が多い国民性があるような気がするんです。こういった日本人の気質に基づく長い習慣と他国のいいところを融合させた今からの国の形を創らなければならない時期だと思います。
本書は、我々はどういう国家・国民になるべきで、それにはどうしたらいいのか考えるきっかけにして欲しいという想いの本なのです。
 
昨年、安倍首相はテレビ番組に出演し、『私はお国のために死ねる。○か×か?』という質問に△のパネルを挙げていた。
「たかじんのそこまで言って委員会」で本当に△を挙げていた。「いや、そういうことは軽々しく言えないです」と言っていたらしく、津川雅彦が親切に「総理になった時に死ぬ覚悟は出来てるでしょ?」と確認してあげたのに、「死ぬ覚悟が出来てるなんて言っても嘘っぽく聞こえてしまうだろうなと思うので」と逃げたという。
一国の首相であり、自衛隊の最高責任者が「国のために死ねる」と嘘でも明言できないなんて、驚異的だ! 守るのは自分の命であり、国家の命運ではないということを心しておかねばならない。
 
「国のために死ぬという愛国心をどう教育するかが非常に重要だ」と頭を悩ましている政治家は多いだろう。愛国教育の先にあるものは、国家のために死ねということだ。その先にまっているのは徴兵制。国防と言ってみたところで、本土防衛のための国防軍ではない。 世界に展開する米軍の傘下で動員される軍隊だ。従って、何のために死ななければならないの? という問いに答える必要が出てくるが、それが「愛国教育」だ。財界や米軍のために死んでくれと言えないから、天皇の元首化が必要になる。
 
しかし、今の若者に通用するとは思えない。日本だけでなく、世界中の若者に国のために死ぬなんて言うメンタリティを植え付けることができるとは思えない。 伊藤さんの言うように、自分の特殊な価値観を持っていて、その価値観に忠実な人だけだろう。それは時に狂信的に見えるかもしれない。
 
海外の反応
何で死ななくちゃいけないんだ。 他の国に移住するわ。(ノルウェー)
  
 戦うわ。 まぁ常に滅亡の危機にある国だしな。(イスラエル)
  
 俺はやるぜ。何しろカスみたいな人生だからな。(ノルウェー)
     
 国のためには死にたくない。 愛する人々を守るためなら死んでもいい。(ドイツ)
  
 その時、守るものがあるかどうかで決まる(ベルギー)
 
 正直、”No”が現実的な答えだろ(チリ) 
 
 俺はムリ。 俺が戦うのは楽しみを求める時だけだ。(アゼルバイジャン)
   
 本当にどうしようもなくなったら、まぁな(アメリカ)
 
 ゴメンだね。 このクソみたいな国の平和のために死ねるか。(スウェーデン) 
 
 ↑
 おいおい、そしたら誰が移民たちを守るんだ?(フィンランド)
 
 自分の国はゴメンだが、彼女の国のためになら戦ってもいい(イラン)
   
 やってやるぜファシズムの連中め(ロシア) 
 
 俺の命はこの国より重いと思ってる(フィンランド)
   
 ファック、Noに決まってる(アメリカ) 
 
 国のためじゃなくて、もう少し違うことのために戦いたい(チェコ)
 
俺の生命 > その他世界の全て(ドイツ)
 
日本の反応
こういうのは幸せなやつがやるべき。 俺みたいなやつが他の幸せなやつを守るために戦うわけないだろ
 
国というか家族のためだったら戦うってやつはいると思う。
 
 
狂信的だけど、 そんな人がいる国のほうがいいだろうね。 今は政治家も官僚も私服を肥やすことしか興味がない。 愛国心さえあればもっとマシになったかも
これいいね。確かに・・・・国民を愛国教育する前に、まず自分たちが愛国心を持つべきだよ。必要なら、自衛隊に入隊して性根を入れ替えてもらったら???

北野武『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』

2015-10-25 | 読書
 タイトルだけを見ると、うさん臭いが、中身は道徳そのものを疑い、問い直す。
「時代を作る人は、いつだって古い道徳を打ち壊してきた。誰かに押しつけられた道徳ではなく、自分なりの道徳で生きた方がよほど格好いい。自分なりの道徳とはつまり、自分がどう生きるかという原則だ。今の大人たちの性根が据わっていないのは、道徳を人まかせにしているからだ。それは、自分の人生を人まかせにするってことだと思う」
 
第一章 道徳はツッコミ放題
時代が変われば、道徳も変わる/これから人生が始まる小学生に自分を見つめさせて、なんの意味があるのか/人の心の優しさにつけ込む詐欺師は、とても道徳的に見える/道徳は人間のもの。サルだのクマだのに語らせてはいけない
 
第二章 ウサギはカメの相手なんかしない
現代では、ウサギは競走中に昼寝しないし、そもそもカメなんて眼中にない/インターネットで馬鹿が利口になるわけじゃない/現代は、人間関係がゼロでも生きられる時代/数字で見れば、明らかに社会のモラルは向上している
 
第三章 原始人に道徳の心はあったか
氷河期に突入した7万年前、道徳の卵が生まれた!?/金持ちよりも、貧乏人の親の方が、子どもを厳しく躾ける/誰かに押し付けられた道徳に、唯々諾々と従うとバカを見る/勤勉や勤労が道徳なのは、いったい誰のためなのか
 
第四章 道徳は自分で作る
昔ながらの精神主義は、働きアリを作るには都合がいい/俺たちに断りもなく、どこの誰が、現在の道徳を決めたのか/友だちが一人もいなくなって、幸せに生きてる奴はたくさんいる/大学を辞めるまでの俺は、母親の道徳観の中で生きていた
 
第五章 人類は道徳的に堕落したのか?
さまざまな宗教を取り入れる日本人の知恵を世界に広めよう/食い物とは、他の生きものの「命」だ/環境破壊の問題も、要するに人間が道徳を忘れたから起きた/これから先は、個人の道徳より、人間全体の道徳がずっと大切になる
 
 
〈道徳なんてものは、権力者の都合でいくらでも変わる。少なくとも、いつの時代も、どんな人間にとっても通用する、絶対的な道徳はないっていうことは間違いない。それだけは頭に入れておいた方がいい〉
〈道徳は社会の秩序を守るためのもの……といえば聞こえはいいけれど、それはつまり支配者がうまいこと社会を支配していくために考え出されたものだ〉
 そして、文科相の学習指導要領の「社会全体のモラルが低下している」という一文には、〈俺の個人的感想をいわせてもらえれば、社会のモラルは良くなった気がする〉〈モラルが低下したというのは、要するに自分のモラルに自信がなくなっているということだろう〉
〈学習指導要領には、「児童の道徳性の育成に、大きな影響を与えている社会的風潮」のひとつとして、「物や金銭等の物質的な価値や快楽が優先される」とある。それはあんたたちのことだろう!景気が良くなれば、世の中すべてが上手くいくみたいなことをいっているのは、いったいどこの誰だろう〉
 〈学習指導要領には「正直に明るい心で元気よく生活する」「友達と仲よくし、助け合う」といった害のない言葉がならぶ。正直に生きるとか、みんな仲良くするってことを突き詰めたら、どうしたって商売とか経済活動を否定しなきゃいけなくなる。南北問題にしても、結局は誰かが儲けりゃ誰かが損するという話を、地球規模でやっているだけの話だ。人件費が日本の何分の一っていう国があるから、日本の経済は成り立っている。俺たちが豊かな暮らしを享受しているのは、どこかの国の貧困のおかげだ。その貧乏な国を豊かにするためには、日本はある程度、自分たちの豊かさを犠牲にしなきゃいけないわけだ。 そういうことを、学校の先生は子どもたちに話しているのだろうか。話している先生もいるかもしれないが、少なくともこの国では、そういう先生はあんまり出世しないだろうなあとも思う。そんな状況で、子どもに道徳を教えるってこと自体がそもそも偽善だ〉
〈ものすごく単純な話で、子どもたちに友だちと仲良くしましょうっていうなら、国と国だって仲良くしなくてはいけない。子どもに「いじめはいけない」と教育するなら、国だってよその国をいじめてはいけない。武器を持って喧嘩するなんて、もってのほかだ〉
〈「隣の席のヤツがナイフを持っているので、僕も自分の身を守るために学校にナイフを持ってきていいですか」って生徒が質問したとして、「それは仕方がないですね」と答える教師はいるだろうか。いるわけがない。
 だとしたら、隣の国が軍備拡張したからって、我が国も軍備を増強しようっていう政策は、道徳的に正しくないということになる。いかなる理由があっても喧嘩をしてはいけないと子どもに教えるなら、いかなる理由があろうと戦争は許されないってことになる。ところが、大人たちはどういうわけか、そっちの話には目をつぶる。子どもの道徳と、国家の道徳は別物なのだそうだ。戦争は必要悪だとか、自衛のためには戦争も辞さぬ覚悟が必要だなんていったりもする〉
〈道徳を云々するなら、まずは自分が道徳を守らなくてはいけない。それができないなら、道徳を語ってはいけないのだ〉
〈誰もが田んぼを作っていた時代に、「和をもって貴となす」という道徳には根拠があった。田んぼの水は公共財産みたいなものだから、誰かが勝手なことをして、水を自分の田んぼにだけ引いたりしたら、他の人が生きられない。田植えにしても稲刈りにしても、近所や親戚が協力してやるものだった。周囲との衝突を嫌う日本の文化が、日本的な道徳の根拠だろう。だけど、そういう時代はとっくの昔に終わってしまっている。昔ながらの日本的な道徳観を支えているのは、単なる郷愁くらいのものなのだ〉
〈誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々と従うとバカを見る。それはもう、すでに昔の人が経験済みのことだ〉
 
本書のタイトル『「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』は、〈年寄りに席を譲るのは、「気持ちいいから」〉と子どもに説明がなされていることから来ている。
〈誰かに親切にして、いい気持ちになるっていうのは、自分で発見してはじめて意味がある。「いいことしたら気持ちいいぞ」と煽る道徳の教科書はまるで、インチキ臭い洗脳だ〉
 
ハハハ、たけしの痛快な毒舌全開と言うところだ。
権力者の自己都合によって道徳は生まれる。そんなものに簡単に騙されるようでは、支配層に利用されるだけの人生になる。道徳は、時代精神によって、いとも簡単に変わっていく。平和が終わり、独裁国家になれば、今の道徳はすべて瓦解する。

絶歌 神戸連続児童殺傷事件

2015-06-13 | 読書
1997年に神戸市内で連続児童殺傷事件を起こした元少年が手記を出版することに対して、遺族が6月10日「今すぐに出版を中止し、本を回収して」と訴えた。
当時14歳だったため、少年法に配慮して「少年A」とマスコミで報じられた男性は、現在32歳。1997年2月から5月にかけて、神戸市須磨区内に住む児童5人を襲い、小学4年生の女児と小学6年生の男児を殺害、3人に重軽傷を負わせた。「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」の名前で犯行声明を地元の新聞社に送って、社会に大きな衝撃を与えた。刑事罰の対象年齢を16歳から14歳に引き下げる少年法改正のきっかけになったと言われている。
 
版元である太田出版の岡聡社長は「少年犯罪が社会を驚愕させている中で、彼の心に何があったのか社会は知るべきだと思った」と話している。
 
男性は手記の中で、事件前からの性的な衝動を告白。事件に至るまでの精神状況や、2004年に関東医療少年院を仮退院した後、日雇いアルバイトで生計を立てていたことなどを記している。巻末では遺族や被害者家族への思いも綴った。
 
 
神戸連続児童殺傷事件の犯人が書いた手記の本『絶歌』(太田出版)が、インターネット上にアップロードされ、無料で読める状態になっている。ページをカメラで撮影し、そのままインターネット上にアップロードしているようだ。常識的に考えれば、ページを無断でアップロードする行為はモラルに反する行為。この本を出版したことに対して、多くの人たちから批判の声が出ている。印税の使われ方に関しても議論されている。本を発売した太田出版に対する怒りを「ページの無断アップロード」というかたちで表現しているのかもしれない。
 
 
 これまでの猟奇的事件を起こした犯罪者の手記にあるように、自己正当化の弁明に終わっているのではないかという危惧がある。犯罪に至る前後の記述は文学的で筆力がある。恐ろしいほど客観的で、真の犯行動機、自分の性癖にまで踏み込んでいる。
 最愛の祖母の死がきっかけとなり、「死とは何か」という問いに取り憑かれたという当時10歳だったAは、祖母への思い出に浸るため、生前祖母が暮らした部屋に行きそこで初めての精通を経験したという。その詳細が生々しく語られる。「遠のく意識のなかで、僕は必死に祖母の幻影を追いかけた。祖母の声、祖母の匂い、祖母の感触……。涙と鼻水とよだれが混じり合い、按摩器を掴む両手にポタポタと糸を引いて滴り落ちた。僕のなかで、“性”と“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。」
 次に猫殺しに走る。「風邪の引き始めのような、あの全身の骨を擽(くすぐ)られるような、いても立ってもいられなくなる奇妙に心地よい痺れと恍惚感……。間違いない。“ソレ”は性的な衝動だった。」 愛する人を奪った「死」に対する「自分の勝利」、「死を手懐ずける」ことにエクスタシーを感じた。その快楽から次々と猫殺しを重ね、解体することが快楽となった。そして徐々に「“人間”を壊してみたい」との思いに囚われていく。
 「淳君が初めて家に遊びにきたのは、ちょうど祖母が亡くなった頃だった。その時から、僕は淳君の虜だった。祖母の死をきちんとした形で受け止めることができず、歪んだ快楽に溺れ悲哀の仕事を放棄した穢らしい僕を、淳君はいつも笑顔で無条件に受け容れてくれた。淳君が傍らにいるだけで、僕は気持ちが和み、癒された。僕は、そんな淳君が大好きだった。」
 「僕は、淳君が怖かった。淳君が美しければ美しいほど、純潔であればあるほど、それとは正反対な自分自身の醜さ汚らわしさを、合わせ鏡のように見せつけられている気がした。僕は、淳君に映る自分を殺したかった。僕と淳君との間にあったもの。それは誰にも立ち入られたくない、僕の秘密の庭園だった。何人たりとも入ってこれぬよう、僕はその庭園をバリケードで囲った。淳君の愛くるしい姿を、僕は今でもありありと眼の前に再現できる。」
 そしてAは淳君を殺害し、頭部を切断。頭部を自宅風呂場に持ち込み全裸になり鍵をかけた。
「磨硝子の向こうで、僕は殺人よりも更に悍(おぞ)ましい行為に及んだ。行為を終え、再び折戸が開いた時、僕は喪心の極みにあった。僕はこれ以降二年余り、まったく性欲を感じず、ただの一度も勃起することがなかった」

 本書でA自身が「性障害」だと認め、その犯行と性的衝動の関係が赤裸々に描かれる。しかし、こうした猟奇的犯罪に対し、加害者自らが分析し世に問うことが犯罪研究や抑止になるとは到底思えない。逮捕から少年院での生活、現在に至るまでの生活は、淡々と散文的に描かれているのに対し、性的衝動の描写は、文学的ともいえるエクスタシーが伝わって来る。過剰な表現で鮮やかに語られる狂気のリアリティがおぞましい。
 Aが犯行について回想するとき、性的サディズムの興奮が呼び起こされ、自己の犯罪を衝動殺人として肯定しているように読める。犯罪学の専門家の間では、性犯罪者の矯正は困難だという見方がある。Aにとって手記の中で狂気を発露させることが再犯への抑止力になり得るのだろうか……。手記を読む限り、性的衝動を抑えきれなくなり、公表することでエクスタシーを追体験し、生きている実感を取り戻そうとしているように思えた。
 
被害者の家族の皆様へ(あとがき)
 
 二〇〇四年三月十日。少年院を仮退院してからこれまでの十一年間、僕は、必死になって、地べたを這いずり、のたうちまわりながら、自らが犯した罪を背負って生きられる自分の居場所を、探し求め続けてきました。周囲の人に助けられながら、やっとの思いで、曲がりなりにもなんとか社会生活を送り続けることができました。僕には、罪を背負いながら、毎日人と顔を合わせ、関わりを持ち、それでもちゃんと自分を見失うことがなく、心のバランスを保ち、社会の中で人並みに生活していくことができませんでした。周りの人たちと同じようにやっていく力が、僕にはありませんでした。もうこの本を書く以外に、この社会の中で、罪を背負って生きられる居場所を、僕はとうとう見つけることができませんでした。

 こんな自分にも、失いたくない大切な人が大勢いました。そんなかけがえのない、失いたくない、大切な人たちの存在が、今の自分を作り、生かしてくれているのだということに気付かされました。僕が命を奪ってしまった淳君や彩花さんも、皆様にとってのかけがえのない、取替えのきかない、本当に大切な存在であったということを思い知るようになりました。

 僕はこれまで様々な仕事に就き、なりふりかまわず必死に働いてきました。職場で一緒に仕事をした人たちも、皆なりふりかまわず、必死に働いていました。病気の奥さんの治療費を稼ぐために、自分の体調を崩してまで、毎日夜遅くまで残業していた人。仕事がなかなか覚えられず、毎日怒鳴り散らされながら、必死にメモをとり、休み時間を削って覚える努力をしていた人。積み上げた資材が崩れ落ち、その傍で作業をしていた仲間を庇って、代わりに大怪我を負った人。懸命な彼らの姿は、とても輝いて見えました。誰もが皆、必死に生きていました。ひとりひとり、苦しみや悲しみがあり、人間としての営みや幸せがあり、守るべきものがあり、傷だらけになりながら、泥まみれになりながら、汗を流し、二度と繰り返されることのない今この瞬間の生の重みを噛みしめて、精一杯に生きていました。
  
 事件当時の僕は、自分や他人が生きていることも、死んでいくことも、「生きる」、「死ぬ」という、匂いも感触もない言葉として、記号として、どこかバーチャルなものとして認識していたように思います。しかし、人間が「生きる」ということは、決して無味無臭の「言葉」や「記号」などでなく、見ることも、嗅ぐことも、触ることもできる、温かく、柔らかく、優しく、尊く、気高く、美しく、愛おしいものだと感じ取るようになりました。人と関わり、触れ合う中で、「生きている」というのは、もうそれだけで、他の何ものにも替えがたい奇跡であると実感するようになりました。自分自身が「生きたい」と願うようになって初めて、僕は人が「生きる」ことの素晴らしさ、命の重みを、皮膚感覚で理解し始めました。そうして、淳君や彩花さんがどれほど「生きたい」と願っていたか、どれほど悔しい思いをされたのかを、深く考えるようになりました。
 生きることは尊い。生命は無条件に尊い。そんな大切なことに、多くの人が普通に感じられていることに、なぜ自分は、もっと早くに気付けなかったのか。
 この十一年間、僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべてが自業自得であり、それに対して「辛い」、「苦しい」と口にすることは、僕には許されないと思います。でもぼくはそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
 本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにいられませんでした。あまりにも身勝手過ぎると思います。本当に申し訳ありません。せめて、この本の中に「なぜ」にお答えできている部分が、たとえほんの一行であってくれればと願ってやみません。土師淳君、山下彩花さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。本当に申し訳ありませんでした。
 
 
 つまらない苦渋の日常生活では生きられない。周りの善意を痛いほど感じ、生命の尊さに気づいても、なお彼は平凡な日常を生きられない。手記に書いてあったような性的快感を思い出しつつ、その快感を糧に17年間を生きてきたとしか思えない。再犯の可能性は十分だ。性的衝動はその衝動が消えて亡くならない限り、衰えることはない。
 
 「自分に生きる資格が無い、死に値する」と書いておきながら「自分でも嫌になるくらい生きさせて欲しい。」と書く。
 「辛い、苦しいと口にすることは、許されないと書きながら、書くことが、僕に残された唯一の自己救済、たったひとつの生きる道」と書く。
 
 本を書くことでどんな居場所を見つけられるのか。自己表現のため?金のため?他にどんな動機があるだろう。性衝動を抑えるのは難しい。手記を書いても出版しないこともできたはずだ。出版することで自分の正当性を認めさせたい。自己顕示欲を満足させたい・・・・・とても真摯に反省しているとは思えない。とても周りの善意の人の生き方に共鳴しているとは思えない。ましてや、生きる大切さ、生命の尊厳に気づいたとは思えない。罪を悔い改める懺悔の手記とは思えないのだ。

蓋山西(ガイサンシー)と姉妹たち

2014-10-13 | 読書
班忠義は、日中戦争における中国人慰安婦の事実を知るために、中国山西省の貧しい農村を訪れる。ここには、かつて山西省一の美人を意味する蓋山西(ガイサンシー)と呼ばれた侯冬娥(コウトウガ)という女性が住んでいた。彼女は戦争当時、最初に日本軍によって捕らえられ、性暴力を受けた被害者のひとりであったが、すでに自ら命を絶ってこの世を去っていた。村には侯冬娥と同じ境遇を持った十数人の“ガイサンシーの姉妹たち”が住んでいた。彼女たちは家族にも話したことがない少女時代の体験を、赤裸々に語り始める。
 
1942年、中国侵略の泥沼にはまっていた日本軍は、村にトーチカ(鉄筋コンクリート製の防御陣地)を築いて抗日軍と対峙していた。
村長に食料と女を提供するよう命じ、村長は一晩だけという約束で自分の娘を差し出した。隊長は翌日になっても娘を返さずに「連れて行く」と言う。村長は「娘の代わりに美人の蓋山西を連れて行くように懇願する。
日本兵とその手先の中国人が蓋山西の家を襲い、野菜を貯蔵する穴に隠れていた彼女を引き摺って行った。幼い息子が「母ちゃん母ちゃん」と追いすがると、それを兵隊が蹴飛ばした。彼女はロバの背に縄で括られ、日本軍の駐屯地へ連れて行かれた。そしてトーチカに監禁された。21歳だった。この時の最初の夫は、国民党員で、日本軍侵入以前に、妻と幼い子供を残して行方をくらましていた。
この時に村から強制連行された女性や少女は6人。13歳の侯巧蓮は夜中に起こされ銃口を突きつけられた。外へ出ると家は焼かれた。戻ってこれないようにするためだ。彼女らは駐屯地内に閉じ込められ次々と輪姦された。少ない日で5人、多い日で20人! 抵抗すると殴られ蹴られ、日本刀で「斬るぞ」と脅され手を縄で縛られた。
 蓋山西は年下の少女をかばい、代わりに兵隊のレイプを受け入れた。14歳の陳林桃は夫が抗日ゲリラの八路軍に参加していたため、朝は「八路軍の情報を教えろ」と拷問を受け、午後は兵隊に夜は小隊長の木坂や班長の伊藤に強姦された。
 拷問により陳は大腿骨を骨折させられたが強姦は続き、同室の蓋山西と一緒に自殺を図ったが発見されてしまう。陳は親戚が羊60頭、銀貨400元を支払い家に帰れたが、PTSDに悩まされ続けた。 「姉妹たち」というのは、本当の姉妹ではなく、慰安所にいる時にガイサンシーの人柄に触れ、また恩義を受けた少女達が、彼女を「お姉さん」と慕って呼んでいたことからきている。彼女は、年下の少女たちがあまりにもひどい状態の時に(出血が止まらない、気を失っている・・・・等々)、特に残虐な日本兵が来た時に、身代わりを願い出ることによって、「妹」たちをかばったのだった。
 
蓋山西は性器からの出血が止まらず、体がむくみ始め起き上がれなくなった。医者が「もう助からない」と匙を投げたので、一ヶ月後担架に乗せられ意識不明のまま村に戻った。家に帰ったら生後2ヶ月だった娘は餓死していた。貧しいので出血しても血を拭く布が買えなかった。母親が介抱してくれ年末になりやっと立てるようになった。村長に「あんたが行ってくれないと村中焼き尽くされる」と懇願され、翌年また慰安婦になった。今度は2ヶ月だったが、また大出血を起こし、釈放された。家に帰った蓋山西の膨れあがった腹を母親が綿棒でそっと押すと、膿と精液が洗面器一杯出た。出血は彼女が60歳過ぎても続き、「日本人に汚された女」と蔑まれ村人からも差別された。
戦後結婚した2番目の夫は、共産党の地区指導者だった。ガイサンシー自身も女性による委員会の委員長などを元々務めていたのだが、慰安婦だった者にそのようなポストは似つかわしくないと、辞めさせられた。家では家庭内暴力にさらされ、その後別れることになる。
三番目の夫は村でも最悪の、性病あがりの男であった。保守的な彼女の村では、女性が一人で生きていくことは許されない。そこで、村の中でも一番醜い男のもとに、ガイサンシーは嫁ぐのだが、この男は彼女を一人の人間として尊重してくれた初めての男性だった。この夫に先立たれて後、もはや彼女は心身の後遺症の苦しさに耐え続けることができず、自ら命を絶った。

強姦好きの伊藤班長は八路軍に殺されたが、美人の蓋山西に群がった中隊の男たち百数十名は、第62師団に編成し直され激戦地沖縄に向かい、全滅したという。中国で女性を虐待し、日本では沖縄県民を守るどころか、道連れにした。 

映画にもなり、映画では、現地に駐屯していた数名の元日本兵が証言する。加害事実について口を閉ざす者もいたが、ある元兵士は「当時は罪の意識は全くなかったが、許せないことをやってしまった」と告白する。
今は老婆になった元慰安婦たちも登場する。班監督は「姉妹たち」を何度も訪れ、少しずつ打ち解けた彼女たちは自らの身に起きたことを話すまでになったという。
 
 こんな日本兵を断罪もせず、お国のために犠牲になった英霊として、慰霊なんかできるものではない・・・・・

21世紀の資本論

2014-06-11 | 読書
今アメリカで、マルクスがブームになっている。『21世紀の資本論』と題する専門書がアマゾンのベストセラー第1位になり、フランス人の著者トマ・ピケティがワシントンにやって来ると、ロック・スター並みの聴衆が集まったと言う。まだ、和訳されていない本書を池田信夫氏が明快に解説している。彼の解説はわかりやすく、示唆に富んでいるが、資本主義のご本尊みたいな池田氏がマルクス主義者?の本を「ピケティは正しい」と評価しているのに少なからず驚いた。

 保守派は「マルクスの本がベストセラーになるのは、アメリカの歴史はじまって以来の危機だ」と警戒し、リベラル派の経済学者、ポール・クルーグマンは「ピケティは不平等の統一場理論を発見した」と絶賛した。この本は、世界で所得分配の不平等が拡大している事実を明らかにし、その原因が資本主義にあると主張している。
 1970年から2010年までにアメリカの賃金の中央値はほとんど同じだが、上位1%の人々の所得は165%増え、GDP(国内総生産)の20%を超えた。格差の拡大は一時的な問題だと思われ、戦後ずっと多くの国で所得分配は平等化しているとされてきたが、ピケティのチームは過去300年の各国の税務資料を調査した結果、戦後の一時期を除いて格差は拡大してきたという事実を明らかにした。不平等度は、ヨーロッパでは20世紀の初めには今のアメリカと同じぐらい高かった。それが1910年以降、下がったのは、二度の世界大戦と大恐慌で資本が破壊されたためだ。特に海外投資が植民地の独立によって失われたため、戦後ヨーロッパの資本分配率は下がり、アメリカより平等になった。70年代までの平等化の時代は世界大戦と大恐慌の賜物で例外的だったのだ。
 ピケティはこの現象を資本蓄積が増えると資本分配率が上がり、さらに不平等化が進むと結論付けた。
 ヨーロッパではアメリカほど資本蓄積が進まなかったので、分配は平等で戦後の成長率は高かった。資本収益率が成長率より低いと、分配は平等化して成長率は高まる。戦争に負けて資本が破壊された日本とドイツの成長率が高かったのも、ピケティの理論によれば必然の事象だったわけだ。日本の場合は、一人あたりGDPがイギリスに追いついた段階で成長が止まり、バブルが崩壊し、新興国の参入で世界の成長率が上がったが、資本蓄積が進むにつれて資本収益率が上がり、不平等化が進んだ。
 このような資本過剰は、人口が減少して成長率の下がる国でもっとも顕著にあらわれ、その典型が日本だ。「労働生産性の差が所得格差になる」と言う経済学の理論は単純労働にしか当てはまらない。ルパート・マードックが年収2500万ドルもらっているのは、彼が平均的な労働者の1000倍働いているからではなく、その子の所得が高いのは親の財産を相続できるからなのは自明の事実だ。
 日本では、2000年代に入って名目賃金が下がり続け、非正規社員の比率が労働者の4割に近づく一方、企業の内部留保は積み上がる一方だ。資金を借りて事業を行なうための企業が、リスクを取らないで貯蓄していることが日本経済の萎縮する原因であり、デフレはその結果にすぎない。
 では、この格差を是正するにはどうすればいいのか。ピケティの主張する累進課税やグローバルな資本課税に賛同する者はほとんどいない。課税の中心を所得から富に移すべきだという彼の主張は合理的であるが。
 

海賊と呼ばれた男

2013-09-14 | 読書
 
異端の経営者、出光佐三をモデルにした人物が主人公の本書が、第10回本屋大賞の第1位に輝いた。読者の多くが「人は何のために働くのか」「働くとはどういうことか」を考え直したという。映画化は間違いないだろう。

1885年(明治18年)、福岡県に生まれた国岡鐵造は、神戸高等商業(現神戸大)卒業後、神戸の酒井商会での丁稚奉公を経て、満25歳で独立。1911年(明治44年)に福岡県門司市に機械油を取り扱う国岡商店を開いた。神戸高商在学中に東北の油田を見学していた鐵造は当時日本に200台程度しかなかった石油発動自動車は今後増え、「いずれ日本の軍艦も石油で走る時代が来る」と思っていた。鐵造は、日邦石油から機械油を卸してもらい、独自に調合した機械油を明治紡績に売ることに成功。また、門司の対岸の下関で37隻の漁船を持っている山神組(現・日本水産)に軽油を売ることになる。当時、元売りの日邦石油の門司の特約店は対岸の下関では商売をしないという協定があったが、鐵造は、伝馬船(手漕ぎ船)を使って、海の上で、山神組の船に軽油を納品した。日邦石油の下関支店に抗議が殺到し、支店長の榎本誠が鐵造を呼び出す。鐵造は、海の上で売っているのだから協定違反ではないと開き直る。「この気骨ある若い男の芽をこんなことで摘んではならない」と感じた榎本は、黙認。国岡商会の伝馬船は「海賊」と呼ばれ、関門海峡を席巻した。
 しかし、縄張り意識が強い日本市場に新参者が食い込むことは難しい。鐵造の目は外国へ向いていく。国岡商会は、アメリカのスタンダード石油が牛耳っている満州に進出し、満鉄で、スタンダード石油のシェアを奪う。アメリカは石油の日本への輸出を禁止し、窮地に陥った日本は、東南アジアの油田地帯を占領するため、米英に宣戦布告。日邦石油や日本鉱業など4社の石油部門が統合され、国策会社・帝国石油が誕生した。鐵造は日章丸というタンカーを造ったが、1度も運行することなく、日本軍に提供した。国が転覆する時に、一企業の利益などなんの意味もない。日章丸はほどなく海の藻屑と消える。敗戦により、鐵造は、海外の資産全てを失い、膨大な借金だけが残った。鐵造は既に還暦を迎えていた。
 
 鐵造は「国岡商会のことよりも国家のことを第一に考えよ」という信念を貫く。
 官僚的な石油配給公団や、旧体質の石油業界に反発しながら、タンクを購入し、タンカーを建造する。日本の石油会社は株式の50%譲渡など屈辱的条件で外資の傘下に入り生き残りを模索していた。鐵造には、外資が入っていない民族資本の国岡商会がなくなれば、日本の石油業界は外国に支配されるという危機感があった。やがて、朝鮮戦争が勃発。日本はアメリカ軍の補給基地となり、反共の防波堤として、日本に製油所施設や精錬能力が必要とされるようになった。
 鐵造は、バンク・オブ・アメリカから400万ドルという巨額の融資を受けて、石油業界と金融業界の度肝を抜き、「セブン・シスターズ(七人の魔女)」と呼ばれる石油業界のメジャーの目を盗み、外国からガソリンを輸入。「アポロ」と名づけて、全国の国岡商会の営業所で驚くほどの低価格で販売する。 そんな鐵造のもとに、イランの石油を買わないかという申し出が舞い込む。1950年代に、イランの政治家・モサデクを委員長とする「石油委員会」が議会にイランが悲惨な状況から抜け出すには石油国営化しかないと答申し、議会は石油国有化を可決。利権を失ったイギリスの国営会社アングロ・イラニアンは猛反発し、イランの原油を積んだイタリアのタンカーを拿捕。イギリスは、「イランの石油を購入した船に対して、イギリス政府はあらゆる手段を用いる」と宣言する。 イランにタンカーを送る会社はなくなった。 1953年、イギリスによるイラン石油の禁輸措置を無視し、出光興産が自社のタンカー日章丸二世をイランに派遣した。日本には、サンフランシスコ講和条約によって主権回復することになったものの、まだ進駐軍が居座っていた。日本政府はアメリカやイギリスの顔色をうかがわないとやっていけない。そんな時代に小さな石油会社が戦勝国のイギリスに一泡吹かせた大事件であった。イランへ原油を引き取りに行った日章丸の新田辰男船長も、イランとの契約を成し遂げた佐三の弟や重役も、それを支え抜いた部下たちも、とにかくすごいツワモノだ。当時の東京銀行、東京海上火災保険、通商産業省があえて法律違反を犯してでも出光の決断を支える。あえて出光を助けてやろうという、国を思うサムライたちが、銀行にも保険会社にも官僚にもいた。積荷の所有権を巡ってイギリスは出光興産を提訴したが、出光が全面的に勝利し、戦勝国に対する毅然とした姿勢が日本国民を勇気付けた。
 こんなすごい男がいたのか。出光について知っていたのは名前ぐらいだった。この本のクライマックスというべき日章丸事件についてはまったく知らなかった。当時の新聞には連日1面トップで報道されていたという。
 確かに出光は昭和20年代には奇跡としか言いようのないすさまじい働きをしたが、出光だけが頑張っても日本が復興できるわけがない。当時、私欲を捨てて国民のために働く経営者がたくさんいた。だから奇跡の復興につながった。その後の高度経済成長も、数知れぬ「無名の出光佐三」がいたからできたことだろう。

国岡鐵造は今の経営者たちと対極にある。社員をかけがいのない家族と考えている。タイムカードなし、出勤簿なし、定年なし、一方で労働組合も残業手当もない。近代の企業の経営理念とは相いれない。「社員を信頼して任せているのだから、業務を達成してもらえばよい。なんら社員を拘束するものはない」という考え方だ。しかし面白いことに、今欧米のITの先端企業では、一部そうしたやり方を取り入れている企業もある。
今の経営者と決定的に違うのは、社員を会社の財産だと考えるところにある。終戦直後、人員整理しかないと進言した幹部社員に「何をがっかりしている。一番の財産がまだ残っているではないか」と励ました。60歳で財産を失った男が全社員を鼓舞し、事業を立て直した力強さと勇気に驚嘆する。戦中までの出光は海外事業がほとんどで、敗戦ですべてを失った。大財閥会社が軒並みリストラを行っている中、出光は馘首しなかった。「家族だからどんなに苦しくても切れない。同時に、最高最大の財産を手放すわけにはいかない。」新人を新しい子供が生まれたと考え、自分の睡眠時間を削っても自立を促すべく教育した。社員を消耗品・コストとしか考えない今の経営者には考えられない発想だろう。

日本経済はバブル崩壊後、右肩下がりで低迷が続いている。世界的金融危機リーマンショックが追い打ちをかけた。「100年に一度の大不況だ」と言う。そこに東日本大震災が襲った。日本は大きな痛手を受け、一種のあきらめムードが広がっている。しかし、敗戦のときの痛手に比べたら、それほど悲観することもない。敗戦後、30年足らずで欧州の国々を追い越して米国に次ぐ第2の経済大国として復活した。そうできたのは、土壇場の勝負師、破天荒な実行力を持つ祖父世代が頑張ったからだ。その底流に流れているのは人材を財産と考える経営哲学だった。日本の企業文化の真骨頂がここにある。出光佐三の95年の生涯が今こそ、日本の経営者のモデルになるべきだと思う。

 彼は生涯闘い続けた男だ。国と闘い、官僚や同業者と闘った。組織の下僕・官僚にとっては嫌な男だったろう。日本の石油会社のほとんどがいわゆるセブンシスターズにのみ込まれていく中で一社だけ違うことをやる。人に対する信頼という彼の信条はいつの時代にも通用する。その心情に惚れた人脈がピンチを救い、彼を支える。男が男に惚れると言うことはこういうことなんだと合点が行った・・・・・

「99人の馬鹿がいても正義を貫く男が一人いれば、間違った世の中にはならない。そういう男が一人もいなくなった時日本は終わる。」

舟を編む 三浦しをん

2013-08-02 | 読書

山に行く予定が悪天候で没になってしまったので、本屋大賞を受賞した小説を読んでみた。
辞書作りに情熱を注ぐ人々の努力の日々をつづった三浦しをんの小説「舟を編む」だ。

出版社・玄武書房に勤めるちょっと変わり者の馬締光也(まじめ・みつや)が、営業部から辞書編集部に異動となり、そこで彼を迎え入れたベテラン編集者や日本語研究に人生をささげる学者、先輩編集者らとともに、辞書作りに奮闘する。馬締光也は、“言葉好き”にも関わらず、他人のコミュニケーションを取るのが大の苦手だ。営業部では使いモノにならなかった馬締だが、独特の視点で言葉を捉える能力を買われ、新しい辞書「大渡海(だいとかい)」を編纂する辞書編集部に引き抜かれて、辞書づくりの世界にのめり込んでいく。同じ下宿の林香具矢(はやしかぐや)という女性に一目惚れしてしまうが、“好き”という気持ちを伝えられない。先輩編集者の西岡に励まされて無骨なラブレターを書くが、その純朴さがカグヤの心をとらえ結婚に至る。

かなり不器用な青年を描いた作品で映画化もされた。
くそ真面目で女子とまともに目も合わせられない。ただ、自分の好きなことには一生懸命になれる芯の強さは持っている。オタクと言われ、女子に敬遠されがちなタイプなのに、香具矢や周りの人に愛される。どんなに不器用でも、いや不器用だからこそ、自分の想いを必死に伝えようとする姿は、感動的なのかもしれない。
 女性はバランスのいい男性よりも何かひとつに秀でている男性の方に惹かれてしまうと言う人もいるが、一般的には要領の良い現代風な男が好かれるだろう。確かに馬締はマジメ一筋、辞書づくりへの情熱はひとつの才能とすら思える。しかし、正直すぎて不器用なので人付き合いは下手だ。つきあう女性はしっかり自立していて、男性を“支えたい”と思えるタイプが良いのかもしれない。その点、香具矢自身も“板前”という職人の仕事をしているせいか、決して相手にもたれようとしない。その関係性は現代的で、女性作家でなければ描けないと思われ、非常に好感がもてた。男女が長く続いていく関係とは、相手に求めすぎない、それぞれが自立しているスタンスが大切なのだろう。

ふたりの恋愛が横軸なら、縦軸は何十年もかかる辞書づくりという大プロジェクトだ。ユーモアたっぷりに辞書の編纂の過程が描かれる。ちょっと風変わりで面白い世界だ。ツイッターやFacebook、LINE等、会わずしてコミュニケーションが成り立つ現代だが、言葉と格闘する馬締の姿を見ていると、言葉の含蓄を考慮して、もっと丁寧に、もっと適切に文を綴っていきたいと思えてくる。若者のメールや話し言葉を聞いていると、絵文字がやたら多く、日本語として意味をなさない部分もあり、日本語が廃れていくのを感じる。
軽くニヤニヤしながら、数時間で読める本だが、10数年と言う時間をかけて辞書を編纂する人々のこだわりと情熱が面白おかしく伝わってくる。楽しめる作品だ。