オータムリーフの部屋

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原発導入のシナリオ(1994年 NHK)

2013-09-18 | 原発
1994年放映のNHKドキュメンタリー「現代史スクープ・ドキュメント」『原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~ 』は、日本の原発導入は、その背後に、西側核軍事ブロック構築という、アメリカの軍事外交戦略があったことを暴露している。
原子力の平和利用は米国核軍事戦略構想と表裏一体で、日本の反核世論を潰す目的と核武装で積み上がったアメリカの濃縮ウランを消費する目的で推し進められた。平和利用という幻想と美名の下に原発導入が図られたのである。
 その導入の過程を見るに、マスコミのプロパガンタがあれば、世論操作などたやすいと言う実態が見えてくる。正力がいなければ、原発導入は頓挫していたか、大幅に遅れていただろう。しかし、反原発の運動が骨抜きになっていく経過を見るにつけ、福島があってもまだ負け続ける日本の脱原発運動に無力感を感じてしまう。 
日本にある原発54基すべてが、米国で開発された加圧水型軽水炉(PWR)と沸騰水型軽水炉(BWR、改良型4基を含む)であり、濃縮ウランは、当初米国からの輸入に100%頼っていた。当初に比べれば、フランスやイギリスなど輸入先の拡大が図られてきたものの、20004―2010年の濃縮ウランの輸入の7割がいまだ米国からの輸入である。再稼働を要請するアメリカの下心もここにある。日本は有り余る濃縮ウランの良いお客さんなのである。
 原子力委員会の『昭和62年版原子力白書』によると、日本の原発事業者が米国以外からの濃縮ウランを混焼する場合、30%を上限にする契約を結んでいた。さらに重大なのは、1988年の日米原子力協定で、「核燃料サイクル施設」の建設をはじめ危険な計画が新たに大きく動き出したことだ。協定の付属書4は、使用済み核燃料からウランやプルトニウムを取り出して再び燃料にする「六ケ所村商業用再処理施設」(青森県)や、使用した以上の燃料(プルトニウム)を生み出せるとした高速増殖炉「もんじゅ」(福井県)などを列挙し、米国の同意を得ている。米国自身は技術的に未完成だとして再処理施設の運転は1972年に中止された。米国では1960年代後半から数工場が建設されたが、NFS社のウェストバレイ工場(WVRP)のみが処理実績を持つ。次世代大型工場に当たるAGNS社のバーンウェル工場(BNFP)は、カーター政権の核不拡散政策のあおりで国内再処理凍結に会い、完成したもののプロジェクトは中止になった。現在、アメリカは、使用済燃料を高レベル固体廃棄物として深部地層処分する方針で中間貯蔵、永久処分の施設準備に向かっている。



以下、NHK放送から抜粋
 1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁で水爆実験ブラボーの爆発実験を行った。この実験で放出された死の灰が近くで操業中のマグロ延縄巨船、第五福竜丸に降り注ぎ、乗組員32人が被曝した。広島・長崎に次ぐ3回目の被曝事件として、日本では激しい反米世論と放射能パニックが沸き起こった。この頃、一人のアメリカ人が銀座で日本人と密談を交わしていた。二人は日米関係に亀裂が入ることを恐れ、ある計画を具体化すべく、協力を交わした。その日本人の名は柴田秀俊、当時日本テレビの重役であった。

 柴田秀俊は日本の初期の原子力に関わる膨大な資料を残している。そこから日米が手を組み、反核感情が高まる日本に原子力発電を導入するまでのシナリオが鮮明に浮かび上がってくる。

 原爆でアメリカに遅れを取ったソヴィエトは、1953年8月12日、アメリカに先んじて実用的な水爆の開発に成功した。4ケ月後、アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連総会で世界に向けて演説を行った。
「私は提案したい。原子力技術を持つ各国政府は、蓄えている天然ウラン、濃縮ウランなどの核物質を、国際原子力機関(IAEA)をつくり、そこにあずけよう。そしてこの機関は、核物質を平和目的のために、各国共同で使う方法を考えてゆくことにする」
 原子力の平和利用を呼びかけたこの提案は、画期的な核軍縮提案と見られた。核分裂性物質ウラン235(U-235)の濃度を上げた、いわゆる濃縮ウランが核兵器に使われる。アメリカの提案は、核兵器用に生産した濃縮ウランを、原発など民間に転用することにより、軍縮を進めようというものであった。

しかし、この提案の裏には、アメリカの核戦略における、もうひとつの大転換があった。アンゼンハワーアメリカ大統領の演説の5日前に行われたアメリカ国家安全保障会議の文書には「アメリカは同盟国に対して核兵器の効果や使用法、ソヴィエトの核戦力について情報を公表していくべきである。」と書かれていた。
 それはNATO(北大西洋条約機構)など、同盟諸国にアメリカの核兵器を配備しようとする計画であった。

 ソヴィエトはアメリカの二枚舌を非難して、原水爆の無条件禁止を世界に訴えた。
東京には、当時虎ノ門のアメリカ大使館別館にUSISが設置されていた。USISは新聞や放送、映画などのメディアを通じて、アメリカの原子力平和利用計画の宣伝を進めていた。
「我々USISは、日本での原子力平和利用の宣伝活動に特に力を入れました。日本はいかなる形の原子力計画に対しても反発していたからです。」

 アイゼンハワー米国大統領の演説から、わずか3ヶ月後1954年3月1日、ビキニ環礁で秘密裏の水爆実験が実行された。秘密だった実験は、第五福竜丸の被曝事件によって世界中に知れ渡った。やがてビキニ近海で取れたマグロから放射能が検出され始めた。食料品の汚染は、日本国民の不安を掻き立て、アメリカの核実験に対する反発が強まった。 さらに、雨からも微量の放射能が検出され、野菜や牛乳などにも汚染の疑いが起こり、放射能パニックが広がった。
元USIS局次長ルイス・シュミット
 「私たちがせっかく積み重ねて来た努力が水の泡になってしまいそうでした。全く最悪の事態だったと言っても良いでしょう。第五福竜丸事件の後、日本人はアメリカの原子力平和利用計画に疑いを強めるようになってしまったのです」
 柴田秀俊はビキニ事件が起こした大きな波紋を次のように記している。
「日本は唯一の被曝国であり、こと原子力と言うとたちまち人々の神経を刺激し、怒髪天を突く。原爆アレルギーの最たる国である。日本人全体の怒りと恨みは、それこそキノコ雲のように膨れあがり爆発した。」

 柴田秀俊は第五福竜丸事件のあと、銀座の寿司屋で一人のアメリカ人と接触を重ねていた。 「このまま放っておいたら、せっかく営々として築き上げてきたアメリカとの友好関係に決定的な破局を招く。日米双方とも対応に苦慮する日々が続いた。日本には『毒をもって毒を制するという諺がある。原子力というのは諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に歌い上げ、日本国民に希望を与える他はない。この時、アメリカを代表して出てきたのがD・S・ワトソンという、私と同年輩の、肩書きを明かさない男だった。」

 その後、取材班はメキシコに住むワトソンと接触。
ワトソン:「私がアメリカ政府のどこに属して、どこに報告していたのかは、当時、柴田秀俊にも伝えませんでした。日本に来ている公式の目的についても同じです。柴田秀俊も私に対して同様の態度を取っていました。私が言えるのはそれだけです。柴田秀俊は明らかに首相官邸と関係を取り合っていました。私は日本の首相から出された様々な提案を、柴田秀俊を通じて受け取っていました。それはテレビ局の重役がするような提案ではありませんでした。全くレベルの違うものでした。」

 対日政策の進行状況を記した当時のアメリカ国務省の報告書。第五福竜丸事件後の対日政策について、次のように記されている。
 「核兵器に対する日本人の過剰な反応は、日米関係にとって好ましくない。核実験の続行は困難になり、原子力平和利用計画にも支障を来す可能性がある。」

ワトソン:「日本では新聞を抑えることが必要だ、ということが、はっきり解っていました。それも大きな新聞を抑えることです。日本の社会は、新聞に大きく影響を受けます。日本人は一日に最低三紙に目を通し、それから自分の意見を組み立てるのです。 ですから、この仕事で成果を上げるには、誰よりも先に、正力さんに逢って話をしたほうが良いと思いました」

内務省の警察官僚だった正力松太郎は、大正13年、官職を退いて読売新聞の経営に乗り出した。正力が買収した時、発行部数が、僅か五万部ばかりだった読売新聞は、正力の斬新な企画力と、紙面改革によって、急速に部数を拡大した。

正力松太郎は「プロ野球の父」、「テレビ放送の父」、「原子力の父」とも呼ばれる。関東大震災に際し「不逞朝鮮人が井戸に毒物投入を計画している!」のデマを流した張本人が、当時内務官僚だった正力松太郎であったことは、後日の正力自身の告白証言からも明らかにされた。戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後の正力がCIAの意向に従って行動していたことを、早稲田大学教授の有馬哲夫がアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし反響を呼んだ。「podam」、「pojacpot-1」というコードネームで活動していたと言う。

 昭和28年、正力は新たな事業拡大に乗り出し、日本初の民間テレビ局「日本テレビ放送網」を創設した。正力は新聞とテレビの二大メディアを手中に収めていた。ワトソンは柴田秀俊の仲介で、正力松太郎と会談する機会を持った。ワトソンによれば、会談は第五福竜丸事件の起きる前から既に行われていたという。

ワトソン:「正力は実に鋭い男で、的確な質問をしてきました。私はすぐに本題に入り、原子力の平和利用について話をしました。日本は原子力の平和利用にうってつけの国である。なぜなら国内にエネルギー源がほとんどない。それが私の話のポイントでした。すると、それを聞いていた正力は、目を輝かせたのです」

通産省工業技術院初代原子力課長:堀純郎さん---正力が原子力にそれほどの興味を示した理由について
「日本は貧困の結果、共産化するかもしれないと危惧していた。特にエネルギーが不足しているから、原子力というエネルギーを開発して貧乏を救済し、ひいては共産化を防ぎたいと‥‥」

 アメリカの水爆実験から半年後、第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが死亡。
 死因は放射能症とされた。水爆実験に対する日本人の強い反発にどう対処すべきか、アメリカの方針が列挙されたホワイトハウスの文書には、次のような一節がある。
 「漁民の病気の原因は、放射能ではなく、飛び散った珊瑚礁の化学作用によるものである、とする」
 水爆実験の責任を取ろうとしないアメリカに対し、日本国内では抗議運動が広がっていった。社会党や共産党など、左翼勢力はアメリカを「戦争勢力」と位置づけ、アメリカと結びついた保守政権への攻撃を強めていった。 アメリカは日本の政治情勢に神経を尖らせていた。極東での反共の砦となるべき日本の政治基盤が安定しないことを懸念していたのである。
元米国務相日本課 リチャード・フィン
 「アメリカに対して友好的だった吉田茂政権は弱体化する一方でした。これに対し、左翼はアメリカの核実験を非難することによって、勢力を増し、日本を乗っ取る危険性さえ生まれていました」

 ソヴィエトもまた、こうした日本の情勢に注目していた。日ソの国交回復を果たし、日本をアメリカから引き離す好機ととらえていた。
 フルシチョフ書記長:「広島と長崎に原爆を落としたのは、ほかならぬアメリカだ。被爆者やその家族、政治家は強い不満を持っている。もし、ソビエトの大使館が東京にできれば‥‥日本の政治に不満を持つ人々が、われわれの大使館に接触してくるようになるだろう」
 
内外の政治情勢が緊迫する中で、柴田秀俊はワトソンと銀座で会い、一つの計画を持ち掛けた。
 それは、民間使節の形を取った原子力平和使節団をアメリカから招き、原子力の平和利用を広く一般国民にPRしようというものであった。

 その年1月、アメリカは世界に先駆けて、原子力潜水艦ノーティラスを完成させた。
 ゼネラル・ダイナミック社は、その開発メーカーであった。ゼネラル・ダイナミック社の社長、ジョン・ホプキンス氏は、原子力平和利用計画に熱心で、海外での市場開拓をアメリカ財界で提唱している人物だった。 柴田秀俊はアメリカのテレビ関係者を通じて、このジョン・ホプキンス氏と連絡を取り、平和使節として来日するよう、要請した。
正力松太郎の手書きの手紙
「原子力の平和利用の先覚者なる貴下の訪日は、日本の反原発運動に対する最も効果的な反撃となることは、小生の深く確信するところであります」
読売新聞朝刊
「米の原子力平和使節」 「明日で遅すぎる 原子力平和利用」 「ホフキンス氏来日を前に 火に代わる新しき熱源」 「ナゾも不安もない」 「野獣も飼ならせば家畜」

 明けて、1955年、読売新聞は元日の朝刊にアメリカ原子力平和使節団の招聘を告げる社告を掲載した。これ以後、五ヶ月に渡り、原子力平和利用のキャンペーン記事がたびたび読売新聞紙上に登場することになる。


 この頃、ソヴィエトは世界初の商業用原子炉の開発に成功した。そして、ソヴィエトは諸外国に対し、原子力平和利用の技術援助を行う用意のあることを明らかにした。アメリカではまだ最初の商業用原発の建設が始まったばかりだった。アメリカは大きな政策転換を図った。 アイゼンワーは、原子力の国際管理案をいったん棚上げする。そして、アメリカが個別に、二国間で協定を結ぶという方針を打ち出したのである。

 アメリカは協定締結国に対し、濃縮ウランや原子力の技術情報を供与することになった。アメリカは、濃縮ウランを外交カードとしてアメリカの勢力下に置こうとしたのである。
 アメリカ原子力委員会は、日本政府とも原子力協定を結ぼうと、ワシントンで日本側に対する打診を行っていた。当時の原子力安全委員会国際部長ジョン・ホールは日本政府と公式な交渉を始める時期を模索していた。
元原子力安全委員会国際部長ジョン・ホール:「第五福竜丸事件のせいで日本が神経過敏になっていることは良く解っていました。第五福竜丸事件の決着と原子力協定の公式交渉の時期が重なるのは、避けるべきだと思いました。そこで、交渉の時期を遅らせて、春にすべきだと私は提案しました。春ならば、交渉妥結後、すぐにアメリカ議会の承認を得ることも出来るからです」

 昭和29年、日本政府は2億3500万円の原子力研究予算を成立させていた。しかし、学会には原子力に対する反発が強く、ウラン入手の目途すら立たない状態が続いていた。1月4日、第五福竜丸事件はアメリカ政府が補償金200万ドルを日本政府に支払うことで決着した。アメリカの法的責任は一切問わないことを条件とする政治決着であった。アメリカからの提案は、原子力協定をめぐる膠着状況に突破口を開くものだった。

 その1週間後の1月11日、日本政府に当ててアメリカから濃縮ウラン受け入れを打診する書類が届けられた。しかし、外務省はこのことを外部に対して一切秘密にした。
元外務相国際協力局第三課長 松井佐七郎さん
 「皆反対したんだよ。平和利用という名のもとに軍事利用に走るようじゃかなわんという、懸念があったからね。やっぱり相当慎重に足下を見て、ひとつひとつ、当たりを見渡していかざろう得なかったんですよ」

 その3日後の1月14日、ソヴィエトは中国、東欧五カ国に対して、原子力技術や濃縮ウランの援助を行うと発表した。ソヴィエトも独自に二国間協定を結び、核のブロックを作ろうとしたのである。
1955年4月14日 朝日新聞朝刊
「原子炉用ウラニウム 米から配分受申入れ 政府、近く態度決定」
 一方、外務省がひた隠しにしていたアメリカからの濃縮ウラン提供の申し入れは、3ヶ月後、朝日新聞のスクープによって明るみに出た。以降、日本国内の世論は、受け入れの是非を巡って二つに割れていく。
 一週間後に開かれた日本学術界会議の総会でも、この問題を巡って議論が沸騰した。受け入れに反対する科学者たちは、原子力を通じて日本がアメリカの軍事ブロックに組み込まれる可能性を指摘し、あくまで自主開発すべきであると主張した。

武谷三男:「そりゃ勿論、アメリカがやってるいろんなことを見ていてですね‥‥あぁ、これはヤバイと‥‥つまり軍事との区別が無いわけですよね、アメリカでは‥‥。英国でもそうですよね。軍事のおこぼれが、平和利用っていう格好になっていて‥‥そういう出発ですからね‥‥」

 柴田秀俊の資料に、学術会議の主要メンバーの思想傾向を調べた書類が残っている。『警察庁と公安調査庁調べ』と記された、1955年当時のものと推定される資料である。当時、共産党寄りと見なされた学者には、赤丸が印されている。


 二月、正力松太郎は、突如、富山二区から衆議院選に立候補することを表明した。正力は、保守合同による政局の安定と、原子力平和利用推進を二大公約に掲げた。この選挙で正力は初当選し、原子力に向けた大きな足がかりを得たのである。

原子力平和利用懇談会発足(1955年4月28日)
 正力は早速財界に働きかけて、原子力平和利用懇談会を発足させ、自ら代表世話人に就任した。経団連の石川一郎会長を筆頭に、電力業、電力業界を始め、財界の主要メンバーが集まった。学会からも原子力の導入に積極的な科学者が集められ、平和使節団受け入れの準備が整えられていった。

ワトソン:「正力の存在がなければ、これだけの人は集まらなかったでしょう。特に、科学者たちは地位を失う事を恐れていて断れなかったように見えました」

 当時、日本では慢性的な電力不足の解決の為に、大型ダムが次々に作られていた。しかし、建設費が次第に高騰し、水力発電は限界に近づいていた。火力発電所もまだコストが高く、将来の石炭不足も予想されていた。産業界は新たなエネルギー源を模索していたのである。正力はアメリカから提供されたデータを使って、水力や火力より、原子力発電の方が経済的であると、財界を説得した。正力は原子力発電の安全性についても説明した。財界紙に掲載された正力の文章には、「原子炉から出る死の灰も、食物の殺菌や、動力機関の燃料に活用できる」と書かれている。
 
財界紙『先見経済』紙面記事 原子力の産業利用
「死の灰」の活用 全てのバイ菌も即座に死滅

 一方、アメリカ国家安全保障会議は、海外との原子力協力について、次のような方針を採用していた。
「向こう10年間に、経済的に競争力のある原子力発電をすることは期待できない。しかし、ソヴィエトは原子力開発を力急ピッチで進めており、アメリカが冷戦に置いて、リーダーシップを奪われる可能性がある。電力コストの高い日本は、原子力発電を成功させる最も有力なターゲットである。」

読売映画社ニュース
「ホプキンス氏一行来日」
 「アメリカから読売新聞社が招いた原子力平和利用の民間施設、フプキンス、ローレンス、ハウスタットの三氏が、5月9日来日し、読売新聞社社主、正力松太郎氏らと堅い握手を交わし、花束を受けました」 
 一行は鳩山総理大臣や、政財界の主要人物と精力的に会談を重ね、濃縮ウラン提供の前提となる日米原子力協定の早期締結を促した。
 一方、国民へのPRの為に、「原子力平和利用大講演会」が企画された。講演会は人気を集め、会場となった日比谷公会堂の周りには長蛇の列が出来た。会場に入りきれない街頭テレビが設置され、講演の様子や広報映画が写し出された。
アメリカの宣伝映画
「核分裂によって発生した熱が発電に使われます。アメリカでは、大型の原発を建設中で、完成すればすぐに、すべての都市に電力を供給できるようになるでしょう。船や飛行機に原子力を使えば輸送革命が起きるでしょう。原子力に対して、知性に基づく確固たる態度で臨むことは原子力時代における子どもたちの未来に関わる問題なのです。


柴田秀利の手記より
 「読売は二頁を裂いて、この講演内容を掲載し、テレビは娯楽番組を外して、その全容を生中継し、国民大衆の啓蒙に資することができた。こうして原爆にも怯え、憎み、反対の狼煙ばかりを上げ続けてきた日本に、始めて『毒は毒をもって制する』、平和利用への目を開かせるかけ声が、全国に波及したのだった。舞台裏に身を潜めながら、私は喜びと感動にうち震えていた」

 政府側の動きも活発化していた。濃縮ウラン受け入れを検討してきた原子力利用準備調査会は、5月19日、会合を開き、受け入れを決議したのである。

 1955年6月21日、日米原子力協定がワシントンで仮調印された。第五福竜丸事件から1年3ケ月後の事である。この条約により、日本に濃縮ウランが始めて供給されることになった。半年後、正力松太郎は原子力担当大臣として、第三次鳩山内閣に入閣した。その時、正力は、アイゼンハワー米大統領に向けて、一通の書面をしたためている。
正力松太郎:「原子力平和利用使節団の来日が、日本での原子力に対する世論を変えるターニングポイントになる、政府をも動かす結果になりました。この事業こそは、現在の冷戦に於ける、我々の崇高な使命であると信じます。正力松太郎」

 日本で原子力による電力の供給が始まるのは、アメリカが予想した通り、ほぼ10年後の1966(昭和41)年のことであった。

 アメリカは1958年までに39ケ国と原子力協定を結び、ソヴィエトに対抗していった。協定により、核物質の軍事転用は禁止された。それは、各国が米ソの核兵器ブロックの中に組み込まれていく過程であった。

 1957年、アメリカ国家安全保障会議に提出された報告書は、原子力平和利用計画を次のように評価している。
 「過去三年、核実験に反対する激しいプロパガンダが行われたが、アメリカの立場は、自由主義諸国の支持を得ることが出来た。原子力平和利用が果たした役割は、計り知れないものがある」

 1953年、"Atoms-for-Peace「平和のための核」"を旗印として、アメリカ合衆国大統領のアイゼンハワーは、核物質の国際管理と民間転用を、国際連合総会演説で訴えた。
 このアイゼンハワー米大統領の国際連合総会演説から4年後の1957年に、国際原子力機関IAEAが発足した。
 しかし、IAEAが直面したのは、むしろ、平和利用を装った核兵器開発の疑惑であった。IAEAは大国の核保有を認めたまま、核査察でも課題を抱え続けている。
 第五福竜丸事件から40年、原発は、今日本の電力の3割をまかなっている。

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