オータムリーフの部屋

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新9条を提起する護憲派

2015-11-13 | 政治
ノーベル平和賞の有力候補とうわさされた「憲法九条を保持している日本国民」と「九条の会」は受賞を逃した。だが、集団的自衛権の行使も容認する九条の惨状に思いをいたせば、そもそも平和賞に値するのか。安倍政権の暴走に憤る人たちの間からは、新九条の制定を求める声が上がり始めた。戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた「専守防衛の自衛隊」を明確に位置づける。解釈でも明文でも、安倍流の改憲を許さないための新九条である。 (東京新聞 中山洋子、池田悌一、佐藤圭)
 
なぜ、平和国家を志向する人たちが「改憲」を持ち出すのか。、『自衛隊は合憲』という歴代政権の主張も九条を素直に読めば無理がある。安倍政権の“解釈改憲”はすさまじく憲法規定を逸脱した立憲主義の放棄である。
確かに、九条の条文と現実の乖離は、極限に達したかに見えるが、だからと言って、改憲してそのかい離を小さくしてやろうとでもいうつもりか。
九条の生い立ちを考えると、原案は自衛権も放棄している。その後の修正案で「国際紛争を解決する手段としては」などの文言が挿入され、解釈の余地が残った。
 
曖昧さを排除し、解釈改憲の余地を残さないための新9条とやらは、まず一項で侵略戦争を放棄。二項で個別的自衛権の行使としての交戦権を認め、集団的自衛権の行使は放棄する。三項で「前項の目的を達するために」と縛りをかけた上で自衛隊の保持をうたう。
 
「新9条」の提案に対する「9条護憲派」からの反応は、概ね否定的で、その典型は、東京新聞「本音のコラム」の斎藤美奈子氏の「敵に送る塩?」だ。
 『ま、議論だけなら、いくらでもおやりになればいい。だけど私が官邸の関係者なら「しめしめ」と思いますね。・・・「だな。改憲OKの気分がまず必要だからな」』
『「みなさまロマンチストだなあ」の思いも禁じえない。現行の条文でも「地球の裏側まで自衛隊を派遣できる」と解釈する人たちだ。条文を変えたら、おとなしく従うってか。』
『このタイミングで、あの政権下で、改憲論を出す。彼らはウハウハである。「あとは新九条論者と護憲論者の対立を煽るだけですよ、総理」「だな・・・」』
 
非武装が平和憲法の核心であり、戦後日本人の理想であったことを、護憲派は忘れてしまったのか。東京新聞と3人の論者は、現行憲法と現実との間に乖離がありすぎるから、どんどん解釈で法制を暴走させ、憲法をなし崩しにされてしまうのだと説明する。9条を変えて自衛隊と個別的自衛権を認め、集団的自衛権を禁止すれば、条文の縛りが効いて政権による勝手な解釈を止められると言う。
立憲主義の何かもわからない連中に、憲法の縛りなど通用しない。今回の集団的自衛権にしても、政府与党の少しは頭のある連中ですら、砂川判決で自衛権を認めたから合憲だなどという卒倒しそうなこじつけを持ち出してきた。憲法を破壊する勢力が政権に就けば、憲法的には不可能な政策でも断行するし、法制局の解釈体系すら首相の一声で壊滅させてしまう。
新9条で最も危険なのは、個別的自衛権が容認され、交戦権が認められることだ。個別自衛権を拡大していけば、一心同体の同盟国を守る権利は当然のように認められるだろう。在留邦人の安全を保障するという任務が個別的自衛権で正当化されると、自衛隊が海外派兵されることも容認となる。満州は日本の生命線だと喧伝され、自衛の名目で侵略戦争が拡大していった。現在、朝鮮半島有事は個別的自衛権行使の範囲という常識になっている。
現実と距離の甚だしい憲法だからこそ、歯止めとして機能した。アーミテージは憲法9条を邪魔なバリケードだと呪い、その除去を扇動してきた。その功績に旭日大綬章まで贈呈されたのである。
小選挙区制が実現してしまったときも、左翼の切り崩しが功を奏したが、今回も左翼リベラルの東京新聞が、新9条を提起している。
 
ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」
戦争法成立の今、なぜ「戦争法廃止」に集中するのではなく、「新九条論」の提起なのだろうか。
今回の安倍流解釈改憲への反対運動は、「自衛隊は違憲、安保も違憲。自衛権の発動としても一切の武力行使はできない」という伝統派護憲陣営(A)と、「自衛隊は合憲、安保も合憲。集団的自衛権の行使は違憲だが、個別的自衛権の行使としてなら武力行使は可能」という旧来の保守本流の専守防衛陣営(B)との連合だった。A陣営は、B陣営との連携のために、Bの主張を前面に押し出した。安倍政権と自公両党が、現状を大きく変えようと強権の発動をしている以上、現状を維持しこれ以上悪化させないためにはB論で一致することとなる必然性があったからだ。その逆の連携のあり方は非現実的で、あり得ることではなかった。一見すると(A+B)の全体が、あたかもBの見解で統一されたかのごとき観を呈したが、実際にはA陣護憲派は、その見解を留保していたのだ。
共闘とは、小異を捨てて大同に就くこと。自説を曲げることでも捨てることでもない。A陣営の多くが、安倍流の解釈改憲に対抗するための有効な運動体形成のために、一致点を前面に立てていたということを深く認識すべきである。これまでのこととしてだけでなく、これからの「戦争法廃止」「明文改憲反対」を中心とする運動にも重要なこととして。
新九条論は、B陣営の一部の心ない動きである。A論に配慮するところなく、A論を真っ向否定したB論での明文改憲提案なのだから。運動の統一や連帯に配慮を欠いた独走というほかはない。
私見では、今井案も伊勢崎案も「普通の国の普通の憲法」に過ぎない。保守派が大喜びで、こぞって賛成するに違いない。こうして、具体的な修正案に照らすと九条の価値が浮かび出る。九条の価値は飽くまで理想としてのその存在自体にある。この理想を貶めるあらゆる明文改正案が光を失う。これ以上の新九条論の跋扈なからんことを願う。九条については、理想を堅持しつつ、営々と現実を理想に近づける努力を重ねるべきことが大切なのだ。性急な明文改憲など愚策でしかない。
 
解釈改憲反対派の勢力を分断しようとする意思が感じられる。そんなことは安倍政権が退陣してから言ってもらいたいものである。安倍政権を倒し、安倍政権発足前に日本を「取り戻す」・・・・それが最重要事項であり、烏合の野党が大同団結を妄想する現状で、よくも新9条などと言えたものだ。

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