ルカの福音書8:26−39
1,悪霊の働き
神が理性を持つ被造物として創造されたのは、人間と御使いだけです。人間は地上において見える世界に住み、御使いは霊的な世界に住む。また、御使いの中には、神に仕える者と、神に敵対している者とがありますが、後者は悪霊と呼ばれています。その悪霊どもをつかさどるかしらがサタンです。悪霊は人間にとりつき、人間を操って、本来あるべきでない状態に陥れる力を持っています。
2,悪霊につかれた人
イェス様の一行は、ガリラヤの向う側のゲラサ人の地に着いきました。この地には、悪霊につかれている男がいて、着物も着ず、家にも住まず、墓場をすみかとしていました。この男はイエス様を見ると、叫び声をあげ、「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください」(23)。また、イエス様が彼に「何という名か」と尋ねられると、「レギオンです」と答えたのです。このように、この男が自己を失って、自分と悪霊の区別もつかない様子や、悪霊の名を名乗るまでに悪霊の支配下に置かれていたという一連の現象は、神が悪霊にその活動をある程度許していたことを裏付けています。
3,悪霊からの解放
悪霊どもはイエス様を知っていました。イエス様を見ると、叫び声を上げました。イエス様に「この人から出て行け」と命じられたからです。悪霊どもはイエス様に、「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように」と願い出ました(31)。ちょうど山のそのあたりにおびただしい豚の群がいて、悪霊どもはその豚の群に入ることを願ったのです。イエス様がそれを許されると、悪霊はその人から出て豚に入り、豚の群はいきなりがけを駆け下って湖に落ち、おぼれて死んだのです。
この出来事は、イェス様が新しい神の民の主としての力と栄光を現す機会となりました。悪霊の働きが許容されていたのは、このためだったのです。悪霊どもに対するイエス様の権成と力を目の当りにするのは、弟子たちにとってこれが初めてではありません。けれども、ゲラサ人(26)という異邦人の地での出来事であること、またその地の人々がイエス様とそのみわざに対して拒否反応を示したことは、これから始まろうとしている弟子たちの宣教活動にとって一つの大切な実物教育となりました。
4,周囲の人々の反応
悪霊につかれていた男は、イェス様によって悪霊を追い出していただいた後、着物を着て、正気に返って座っていました。その有様を見て、人々は恐ろしくなりました。そのうえ、自分たちの飼っていた豚がいきなり湖に飛び込んで集団自殺をするというすさまじい事件があったばかりです。民衆はすっかりおびえてしまい、イェス様に自分たちのところから離れていただきたいと願ったのです。彼らは、イエス様によって将来次々と自分たちの生活に予期しないことが起り、生活が撹乱され、財産が脅かされることを心配したのでしょう。一人の人間が悪霊の支配から解放され、救われたことを喜ぶことはせずに、自分たちの慣習や生活が乱されることを恐れたのです。程度の差はあっても、こうした傾向は今日の私たちの周囲にも容易に見られることです。人がどんなに苦しんでいようが傷ついていようが、世の人々にとって興味があるのは自分の生活であり自分の利益であって、それ以外のことには無関心を貫き通すのです。
5,悪霊からの解放された人
正気に返った男は、イエス様のお供をしたいとしきりに願いました。イエス様は、「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」と言ってこの人を帰されました。この地方においては、この人だけがイエスに遭わされた唯一の証人となり得たからです。それで彼は、自分に起ったことを町中に言い広めて歩きました。
悪霊につかれた人
鈴川キリスト教会牧師
川崎 廣
川崎 廣
1,悪霊の働き
神が理性を持つ被造物として創造されたのは、人間と御使いだけです。人間は地上において見える世界に住み、御使いは霊的な世界に住む。また、御使いの中には、神に仕える者と、神に敵対している者とがありますが、後者は悪霊と呼ばれています。その悪霊どもをつかさどるかしらがサタンです。悪霊は人間にとりつき、人間を操って、本来あるべきでない状態に陥れる力を持っています。
2,悪霊につかれた人
イェス様の一行は、ガリラヤの向う側のゲラサ人の地に着いきました。この地には、悪霊につかれている男がいて、着物も着ず、家にも住まず、墓場をすみかとしていました。この男はイエス様を見ると、叫び声をあげ、「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください」(23)。また、イエス様が彼に「何という名か」と尋ねられると、「レギオンです」と答えたのです。このように、この男が自己を失って、自分と悪霊の区別もつかない様子や、悪霊の名を名乗るまでに悪霊の支配下に置かれていたという一連の現象は、神が悪霊にその活動をある程度許していたことを裏付けています。
3,悪霊からの解放
悪霊どもはイエス様を知っていました。イエス様を見ると、叫び声を上げました。イエス様に「この人から出て行け」と命じられたからです。悪霊どもはイエス様に、「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように」と願い出ました(31)。ちょうど山のそのあたりにおびただしい豚の群がいて、悪霊どもはその豚の群に入ることを願ったのです。イエス様がそれを許されると、悪霊はその人から出て豚に入り、豚の群はいきなりがけを駆け下って湖に落ち、おぼれて死んだのです。
この出来事は、イェス様が新しい神の民の主としての力と栄光を現す機会となりました。悪霊の働きが許容されていたのは、このためだったのです。悪霊どもに対するイエス様の権成と力を目の当りにするのは、弟子たちにとってこれが初めてではありません。けれども、ゲラサ人(26)という異邦人の地での出来事であること、またその地の人々がイエス様とそのみわざに対して拒否反応を示したことは、これから始まろうとしている弟子たちの宣教活動にとって一つの大切な実物教育となりました。
4,周囲の人々の反応
悪霊につかれていた男は、イェス様によって悪霊を追い出していただいた後、着物を着て、正気に返って座っていました。その有様を見て、人々は恐ろしくなりました。そのうえ、自分たちの飼っていた豚がいきなり湖に飛び込んで集団自殺をするというすさまじい事件があったばかりです。民衆はすっかりおびえてしまい、イェス様に自分たちのところから離れていただきたいと願ったのです。彼らは、イエス様によって将来次々と自分たちの生活に予期しないことが起り、生活が撹乱され、財産が脅かされることを心配したのでしょう。一人の人間が悪霊の支配から解放され、救われたことを喜ぶことはせずに、自分たちの慣習や生活が乱されることを恐れたのです。程度の差はあっても、こうした傾向は今日の私たちの周囲にも容易に見られることです。人がどんなに苦しんでいようが傷ついていようが、世の人々にとって興味があるのは自分の生活であり自分の利益であって、それ以外のことには無関心を貫き通すのです。
5,悪霊からの解放された人
正気に返った男は、イエス様のお供をしたいとしきりに願いました。イエス様は、「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」と言ってこの人を帰されました。この地方においては、この人だけがイエスに遭わされた唯一の証人となり得たからです。それで彼は、自分に起ったことを町中に言い広めて歩きました。