宗教法人 鈴川キリスト教会

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

2010年1月30日礼拝メッセージ要旨

2010年02月20日 | 礼拝メッセージ
~キリストの謙卑に見習う~

                    山形クリスチャンフェロシップ牧師 渋谷 望

 ピリピ2章1節―11節  

 私たちはどうすれば、キリストの謙卑に見習うことができるのでしょうか。その秘訣を学んで見たいと思います。罪のこの世にあって私たちが整えられるために必要なことは、キリストに見習うということです。

1、へりくだって互いに人を自分よりも優れたものと思うということ。
 クリスチャンとはこの世のものではなく、キリストにあって真の慰めを得ている者たちです。私たちはキリストから受けている本当の愛によって、他の人々を励ますことができるのです。パウロは教会の一致の妨げる、自己中心や虚栄を避けるように勧めます。人間が自己中心になり、自らの虚栄に固執する時に争いが起きます。虚栄を捨てて、他者を人文よりも優れていると思うことが必要です。しかし、生まれながらの罪人にはできないことです。それは、ただキリストにより、聖霊の恵みによってできることなのです。

2、自分だけではなく、他の人をもかえりみるということ。
 教会のクリスチャンの同士の交わりにおいては、自分のことだけではなく、他の人をも省みるということはとても必要です。生まれながらの罪びとは、人間は誰しも自分が大切だと思い、自分さえよければそれでいいという考えを持ちがちです。それは、生まれながらの人が等しく持っている罪の性質です。それらを、ただ神のあわれみによって変えていただかなくてはなりません。

3、キリストを見習うということ。
 今までみた、互いに人を自分よりも優れたものと思うことと他の人を省みるということは、次のキリストの謙卑に見習うということによってできることです。2章6節からは古い賛美歌の引用で、キリストの受肉、十字架、昇天、栄化が歌われています。パウロは、キリストのへりくだりこそが、教会の基盤であることを語っています。
 キリストは神の栄光をもっておられるのに、それを捨てることができないとは考えないで、遜り、人間と同じような有様で地上にお生まれ下さいました。
 主イエスは私たちの罪のために、十字架の上で、神にのろわれたものになってくださり、一時的に栄光を捨ててくださいました。しかし、父なる神は復活した、主イエスに栄光を与えられました。私たちもキリストのように自分の栄光を、自ら放棄する時に、キリストに従うことができるます。そして、キリストから本当の栄光を受けることができるのです。


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