夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

世界史の進行

2006年07月14日 | 国家論

 

人類にとって平和はもっとも貴いものの一つである。しかし、平和も長く続くと、その貴重さも忘れ去られる。人間の悲しい性なのかも知れない。
先の北朝鮮のミサイル発射実験は、自国の安全を他国に委ねて自由と平和のうちに安眠してきた日本人に、あらためて国際情勢の危機と歴史の現実を教えることになった。

北朝鮮のみならず、イランの核問題や、さらに緊迫してきたイスラエル・パレスチナ問題がある。しかし、最近の出来事は、まだ本格的な歴史的転換を予感させるようなものではない。もし次に大きな歴史的転換点があるとすれば、その一つは、中国の民主化の問題であり、もう一つは、中東におけるイスラエル・パレスチナ問題の帰着だろう。もちろん、現在の北朝鮮問題も、日本にとっては切実な問題ではあるだろうが、やはりそれは極東アジアの地域的な問題であって、世界史的には根本的に重要な問題ではない。

個人的には、このような人類の歴史に何らかの目的を洞察できるのかという哲学的な問題もある。そして、もし洞察できるとすれば、それは何か。多くの歴史家は、こうした問題意識をもたない。彼らはただ、国内外の歴史的重大事件を単に時間的に配列し、記録してゆくだけである。哲学的歴史家だけが、その歴史の中に目的を予感し、あるいは認識して、時にはその必然性を論証しようとさえする。

北朝鮮の問題については、かって、日本人拉致問題との関連で少し考察したことがある。(「日本人拉致被害者の回復」) やはり、北朝鮮にはその国家体制に大きな問題があり、それゆえに周辺の利害関係国も関心を持たざるを得ない。「国際社会」が協力して、現在の「不幸な」北朝鮮のような国家体制を、自由で民主的な国家体制へと転換させてゆくことである。そのために私たちに出来ることは何か。

こうして北朝鮮が問題化することによって、かっての日清・日露戦争、さらに太平洋戦争前夜、そして、すでに半世紀以上も過去になった朝鮮戦争の歴史的背景を、あらためて、平和のうちに惰眠を貪っている日本人にも想起させることになる。朝鮮問題は極東アジアの歴史的な因縁問題でもあるが、ただ、過去と歴史的に異なるのは、曲がりなりにも日本が当時のように、2・26事件のようなクーデターを起こす国ではなくなっているということである。これは現在の日本国を買いかぶりすぎか。


かっての朝鮮戦争は、共産主義ソビエトおよび中国と資本主義、自由主義アメリカとの間の代理戦争として戦われた。北朝鮮の立場からすれば、この戦争は資本主義からの民族解放戦争の意義を持っていたはずである。しかし、二十一世紀に入った今日、すでに共産主義ソビエトは存在せず、社会主義中国は、すでに経済的にはれっきとした資本主義国である。少なくとも、共産主義対資本主義という図式においては、歴史的にはその決着はすでについている。そうした中、北朝鮮はキューバなどとならんで、余命を保っている社会主義諸国の中で、数少ない国の一つである。

そもそも人類の「解放」を目指して建国したはずの社会主義国家が必然的ともいえる過程をたどって軒並みに崩壊したのはなぜか、それ自体は興味あるテーマではあるが、それはここでは問題にしない。

今回の北朝鮮のミサイル発射は、北朝鮮の国家体制がその危機的な様相をさらに深刻化させていることの現れである。それには、ブッシュ政権の北朝鮮への金融封鎖などが効を奏している。制裁法案を成立させた日本も、北朝鮮の解放や拉致被害者の回復を目指して効果的に活用すべきである。地上の天国を目指して建国されたはずの国家がいまや地上の地獄と化している。

かってのクリントン民主党政府に比較して、現在のブッシュの共和党政権は対北朝鮮に対しては原則的に対応している。クリントンの北朝鮮に対する融和的な政策の付けを今支払っているということが出来る。遅かれ、早かれ北朝鮮問題には決着をつけなければならないときがくる。その時が近づいているのではないだろうか。アメリカは北朝鮮問題は極東アジアの問題として、二国間関係に持ち込もうとしている北朝鮮に応じてはいない。決着のカギはもちろんアメリカが握っているが、基本的にアメリカは極東問題に深入りはしたくないのだ。しかし、少なくともブッシュ政権はかってのクリントン政府よりは日本の国益に適っている。

私たちに差し迫った課題は、拉致された日本国民をいかにして取り戻すかである。多くの日本国民が拉致されて来たにも関わらず、それを憲法上の制約といった理由で、不作為の道徳的な退廃を日本国民は許してきた。イスラエルが自国の兵士が拉致されたという理由で、一度は撤退したガザ地区に、拉致兵士の回復のために激しいミサイル攻撃を加えているが、これが本来の国家の姿である。

こうした北朝鮮のような国家体制からその国民をどのように解放するか。さらに大きな歴史的視点で見るならば、軍事的にのみならず経済的にも勢力を拡大しつつある中国およびロシアに日本がどのように対処してゆくのか、そうした権威主義国家から、立憲君主国家日本の自由と独立をどのように確保して行くか。

中国やロシアにとって、北朝鮮がいわゆる自由主義陣営の傘下に入ることは、好ましいことではない。現在の中国、ロシアの政府にとって、アメリカに対して敵対的な政策をとる北朝鮮の存在は、これらの国にとっても防波堤としての役割を果たしている。似たもの同士ということわざがあるように、中国もロシアも北朝鮮とは本質的には似たもの同士だからである。北朝鮮の体制変革は、否が応でも、彼らに、とくに中国に対して自国の体制変革の危機の接近を自覚させることになる。その基本的な構図は、自由な海洋国家と集権的な大陸国家とのせめぎあいである。

今回の北朝鮮のミサイル実験は、日本人のぼやけた国防意識を少しは目覚めさせたという点でも意義がある。日本人も自分たちが守るべき国家の価値とは何かをもう少しまじめに悟り、それを守るためにはそれ相当の犠牲を払うことなくしては享受できないということを知って、道徳的にも謙虚になることだと思う。自由を他民族から与えられた国民は、自由の価値を知らず、それを確保する困難も知らない。国民の多数の現在のノーテンキな意識はそれを実証している。国防の義務について自覚することもない。

まず日本国が正真正銘の自由民主主義国家になり、自衛隊を国防軍に、防衛庁を国防省に改組し、スイスのように徴兵制を制定することである。そこからおのずから、北朝鮮だけではなく、真の目的でもある中国やロシアに対して日本の取るべき態度も決まってくる。今回の北朝鮮のミサイル発射実験もまた、さらに日本国が「真の国家」となってその概念を実現してゆく、歴史の必然的な道程の一コマである。

 

 


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