南区別所だいすき 浦和

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さいたま市史・通史五章/鷹場制度と浦和・・・常盤公園(浦和御殿)

2010-06-29 14:47:28 | 日記
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 江戸時代の浦和領1万石(ほぼ現在のさいたま市一帯)が将軍家と紀伊家ほかの鷹狩場だった。
 浦和御殿は休息所またわ宿所だった。
 玉蔵院の山門は浦和御殿の正門だった。(現在の山門は元禄の大火ご再建)
 未確認だが、鷹狩の宿所が浦和から蕨城にうつされた?ということだが?
 「徳川実記」によると、「家康」は1607年と1613年の2度浦和にきたきろくがある
 鷹狩の人数はかなりの数になうので、宿場一帯か本陣以下しゅくしょとなった。
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 さいたま市博物館の昨年の「たかがり展」ではこれの研究がかなり進んでいることが
 解り易くてんじされていた。
 
 別所との関わりだが、明確な資料は未だあらわれていないが、当然狩場の地域であり
 補助要員として、相当の人数を供出したことがそうぞうされる。あるいは狩がこなわれた
 ことも想像してよいかとかんがえられるが?資料・言い伝え・近隣からの傍証をまちたい。

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「埼玉県史」と「浦和市史」を全巻読み通すのはたいへんだけど、ことオラガ村さのこととなればよまざるを得なくなり
・・読んでると「あれはどうした」「あのころはどうだった」・?となってしまって こんどはとまらなくなるようだよ。 その都度図書の貸出期間
が自動延長されて2か月もかえさなかったことがしばしばだった。(僕の場合だが)。
それと、空想力が知らず知らずのうちに育ってくるのももう一つのメリットだ。つまり、タイムマシンを体内時計としてセットされるってことだ。
これをしっかりそだてると、例えば雨の降る日に「常盤公園に行ったとするとそこでは雨の鷹狩からもどった本多の部隊が」びしょびしょになりながら
手柄話に興じてお酒を柄杓でくみかわしてる場面が「見えたり・きこえたり」するようになるんだ。タダで映画を見てるのと同じことになるんだよ。
こんな装置をぜひ身につけてください。これでひいては人生に大きく+にはたらくことまちがいなしですよ~。


浦和宿本陣あと(旧星野家のあったところ)ここも、鷹狩の宿所になったところだ。


はれまのハイわたくし 取材中です。

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