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明日の葉っぱ(8×8)=69

思いつくまま 気のむくまま書いてます。

トラベリングバス 矢沢永吉

2019-06-21 19:28:48 | 僕の音楽日記
西岡恭蔵
矢沢永吉
作品の中で
ブラスサウンドが効いてて
好きな作品だ。

矢沢永吉さんの作品でブラスロックのアレンジでの作品としては
ピカイチ!
音圧に負けない強いボーカルだから
演奏と対等に渡り合える。

重厚は音圧で
シャウトする永ちゃんのライブ
パフォーマンスは圧巻!


1976年作品だが、
今尚歌われてても
古さも感じない

矢沢永吉さんのサウンドは
計算され尽くしている
緻密なところと
大胆なところと
メリハリのある音を
また、枯れることのない
ボーカルで歌い上げている
今尚第一線で歌っている
ロッカー矢沢永吉!

キャロル解散後
ソロになって出した
アルバム 「A Day」に収録。
勢いのある20代から30代に渡るころ
の作品だけど今尚、今の雰囲気で今の魅力で歌い上げている
若い時の「トラベリングバス」もいいけど
69歳の「トラベリングバス」も味があっていいものだ。

ロックボーカリスト
矢沢永吉。
まだまだ疾走している




僕のコダクローム ポールサイモン

2019-06-21 12:40:38 | 僕の音楽日記
コダクロームは2009年に生産が終わってる。
「鉛筆のように簡単に使えるような写真機』という企業ビジョンを持ってスタートした。コダック社

思い出を撮る
カメラのフィルムは
フジカラーか、
コダックか、
カメラ屋さんには
緑と黄色のカラーのフィルムが
並んでいて、

今日はどちらを買おうか、なんて
ちょっといい写真を撮るときなんて、コダックを買って使っていた気がする。

そう遠い昔じゃないのに、
もう、随分月日が経ってしまって、
カメラは今やスマホで高画質の画像が
手に入るし、好きな時に
好きなタイミングで
スマホで済んでしまうそんな時代。

デジタル化がここまで急速に
市場を変えてしまったそのスピードに
コダック社はついていけなかった
敗因が
今日が、ある。
富士フィルムは
フィルム事業は縮小 変貌変化させ
今尚
その社名は存続し、
色褪せずにいる。

写真が色褪せていくように
消えていってしまった。

二大フィルム
コダック
富士カラー

24枚撮 36枚撮

お出かけの時

卒業、入学の時

生活の側に
カメラ、フィルムはいつも側にあった。

カメラに向かって
少し おスマシしながら
ポーズをとったり
ピースサインしたり、
おどけたり
変顔したり
カメラを向けると
その瞬間
違う雰囲気がそこには現れる。
カメラが作り出す独特の空気感

写真写りが悪いことを気にする人や
カメラを向けると照れてしまう人

ちょっと前まで
少し前の時代には
そんな照れるひとが多かった。

今や一人に1つ一台のカメラ付き
電話。

あの頃カメラのファインダーを覗いて
見た未来は
フィルムを現像したその写真には
今日のような未来が写っていたのだろうか?


フィルムは色褪せることはあっても

僕のコダクロームは
色褪せない名曲。
ポールサイモンの大好きな曲だ。















高校で教わったあのガラクタたちのことを思い出すと
不思議だね そう思わない
だって学校の勉強ができなくても
それで傷ついたことなんてありゃしない
壁の落書きだって読めちゃうんだからさ

コダクローム
素敵な明るい色と
夏の緑を僕らにくれる
世界中の太陽輝く1日だってね
ナイコン(ニコン)のカメラを手にいれたよ
写真を撮るのに夢中なんだ
だからさ母さん、僕のコダクロームを取り上げないでよ

僕が独身だった頃の
知り合いの女の子全部を写真に撮って
この夜のために持ってきたとしても
僕の甘い想像力のためには
役に立ちそうもないな
だって白黒の写真だと
すべてがつまんなく見えちゃうんだよ

コダクローム
素敵な明るい色と
夏の緑を僕らにくれる
世界中の太陽輝く1日だってね
ナイコン(ニコン)のカメラを手にいれたよ
写真を撮るのに夢中なんだ
だからさ母さん、僕のコダクロームを取り上げないでよ

だからさ母さん、僕のコダクロームを取り上げないでよ

1975年の吉田拓郎 その30 月刊明星 12月号

2019-06-20 15:29:13 | #1975年の吉田拓郎
吉田拓郎と明星
 
意外とアイドル雑誌に出ていた
拓郎さん。
 
なんていっても
フォークのプリンス(貴公子)
だったわけだから
 
天地真理さんとの対談
新婚旅行の様子
沢田研二さんとの対談
金沢事件後の手記
つま恋の様子
など結構
載ってたりしてました。
 
だいたいテレビに出てないアーティストが
明星に載るっていうのが
凄い事。
時代の寵児だったわけだ。
 
僕が吉田拓郎さんのファンになって
すぐ、ほやほやの頃だったか?
 
クラスの女の子が1975 12月号
の月刊明星を持っていた。
この表紙だ!
12月号ということは…
11月の末頃の発売だったんだろうと思う。
 
付録に
『吉田拓郎自選35曲集』付き
とあった。
 
それが欲しくて
 
その子にそこだけ切り離して
無理矢理頼み込んでもらったページが
未だに手元にある。
 
そこには
つま恋を終えたばかりの拓郎さんのその時の写真と
拓郎さんの語った言葉が載っていた。
 
 
と、まあ カッコイイというか
カッコつけてるというか
言葉に重みがあった。
やっぱりヒーロー吉田拓郎だ。
 
ちなみに
その時の35曲は
 
となりの町のお嬢さん
知識
落陽
ペニーレーンでバーボン
親切
野の仏
祭りのあと
人生を語らず
リンゴ
伽草子
金曜日の朝
おやじの唄
おきざりにした悲しみは
結婚しようよ
春だったね
旅の宿
ある雨の日の情景
イメージの詩
夏休み
青春の詩
ビートルズが教えてくれた
おろかなるひとり言
今日までそして明日から
ともだち
どうしてこんなに悲しいんだろう
マークⅡ
水無し川
たどり着いたらいつも雨ふり
シンシア
襟裳岬
あゝ青春
我が良き友よ
いつか街で会ったなら
風の街
 
35曲だった。
 
 
 

1975年の吉田拓郎 その29 提供曲 風の街 山田パンダ

2019-06-19 20:10:37 | #1975年の吉田拓郎
拓郎さんが懐かしむように
慈しむように
この歌を大切に思ってきた
ことが
最近なんとなくわかる気がする。
 
作詞 喜多條 忠さんは
何度も言うけど
73年の神田川から74 75年と本当に
良い作品を書き続けてきた。
 
原宿が若者の街として
その中心で文化を回している
その自負の中にいた一人
拓郎さんもやはりあの頃の風景
あの頃の香り
一生懸命だった青春の時を
過ごした原宿の街
新宿から原宿へ移り変わり
渋谷 六本木と文化と
流行発信が移りゆく
時に、
確かにその流れの中に身を置いていた
今はもうその面影を探すのが
難しいのだろうが
歌の中には
その情景が今も鮮明に
良かった時代を
映し出してくれているはずだ。
 
 
「風の街」
風は流行を意味し、その華やかな街に
身を置いて自分の存在が
輝いていた頃
懐かしむことも悪くない。
あの頃があって、今がある。
 
そしてその風は流行という風は
気まぐれでまた、どこか違う場所へ
吹き始める。
 
常にその波に乗っていたいと
願い
その風に吹かれていたいと
思う
 
若さだけが得られるその
特権という名の風は
変わっていくもので
そこにいたものたちを
取り残し
置き去りにしていく。
 
 
1975年は分水嶺の年
激しかった70年前半の物々しさ
がひと段落し、
これから風向きが変わろうとしていく
そんな変わり目の年
潮目が変わった年
「風の街」
はまさしくそのことを象徴的に
 
僕と君で歌っている。
 
♪道の向こうで手を振った
大きな声でサヨナラ言った
アイツをふっと思い出す
今も元気でいるだろうか?
 
思い出と共に忘れ去られようとしている
風の街で
懐かしすぎる友達や
人に言えない悲しみすら
 
風が流行が運んでしまう
そんな街だった。
 
 
編曲は瀬尾一三さん
コーラスはシュガーベイブ あの山下達郎さんがコーラスパートをアレンジしている。
レコーディングの時
に初遭遇 吉田拓郎と山下達郎
時代がここから変わり動き始めていた。

1975年の吉田拓郎 その28 提供曲 僕のエピローグ 猫

2019-06-19 14:30:55 | #1975年の吉田拓郎
吉田拓郎さんが作詞だけで
作品を提供することは
そうそう珍しいのとではないけれど
 
どんなふうに作って欲しい、どんな
メロディを乗せて欲しいと
思って詩を渡すのだろう
と考える。
 
「僕のエピローグ」は1975年を最後に
解散した猫の最後の歌でもある。
アルバムエピローグにはいってもいるし
シングル発売での
作品として、
タイトルどうり
最後なのである。
作曲は常富喜雄 大久保一久
だ。
カレッジフォークという趣の曲だが
イントロは
ドノバァン の「砂と泡」
を拝借したような感じだ
 
吉田拓郎と駆け抜けた猫
拓郎のバックを担当したり、そしてそれぞれの個性を生かし
猫として活動し始めた矢先75年に解散。
 
この歌は拓郎さんの最初の奥様をイメージして聴いていくと
そのようにも聞こえるし、
まず、そんなことはないのだろうけど
とても切なく、やりきれないそんな思いを
綴った詩になっている。
 
むしろ拓郎さん本人が曲をのせるより
常富さんや大久保さんに
のせてもらったほうが出来上がりとしては
良かったのかもしれない。
 
75年つま恋のセカンドステージで本人歌唱は初披露。
 
その後
歌われてないこの昭和の名曲は
 
今日 拓郎さんは
コンサートツアーで回っている。73歳という年齢だがそれを感じさせない
エネルギッシュなステージを展開している。
本人もエピローグとか、アウトロとか
エンディングを迎える気持ちでステージや
活動の締めくくりを考えている
節がある。
以前75年つま恋を最後に歌手をやめようと考えたこともあったりだとか
86年の2回目のつま恋も
人生最良の日にするといって、
まことしやかに
拓郎 引退!
の文字が一人歩きした。
何度となくつまずきながら
そのままフェードアウトしようと、
幕を引こうという思いを重ねながら
今日まで歌ってきた。
吉田拓郎さん。
 
僕のエピローグ
若い頃のどうしようもない
やるせなさを超えて
今日に繋がる歌として
75年という年に発売されていた。
 
 
白い雲がポッカリ
心の中に浮かんでる
シラケるんだ 口癖の
タバコふかして 夢を見る
あの娘が消えちまったよ
あの娘が消えちまったよ
幸せになれよと
言われたのは
僕の方だったよ
 
風の中で振り向く
あの娘の笑顔がありそうで
やっちまえよと言いながら
喧嘩けしかけ 知らん顔
あの娘が死んじまったよ
あの娘が死んじまったよ
弱虫は嫌いと言ってくれよ
負け犬のこの僕に
 
 
いろんな奴に誘われて
帰らない日も多かった
「淋しいんだ」とつぶやいて
今夜死ぬよと 赤電話
あの娘は行っちまったよ
あの娘は行っちまったよ
生きるなんて辛いと笑っておくれ