明日の葉っぱ(8×8)=69

思いつくまま 気のむくまま書いてます。

想い出がいっぱい H2O

2019-05-10 22:06:45 | 僕の音楽日記
1983 325 発売
フォークデュオ
H2O
のアニメの主題歌だったこの歌。
当時カラオケやら
歌えるパブとかで
僕ら飲み仲間たちは
この歌をハモりの歌でよくうたってた。
 
上のパートと
下のパート
分けて
ハモりを聞かせる歌
として
レパートリーにいれていた。
得意げにうまく歌えると
自身もご満悦なのだが
周りの仲間たちも
満足そうな表情で聴いていてくれる
その瞬間が好きだった。
 
80年代は一発屋が多く
期待したH2Oさんも
その後、パッとしなかった。
 
でも未だにカラオケではこの歌
輝きを失っておりません!
 
昔とったなんとか
カラオケでも過去から引っ張り出して
歌ってみたり、
色あせたとおもっているのは
自分の感覚だけで
多少の声の伸びや、声量のなさは
あるにしても、
あの頃夢中で歌った歌は
そのフレーズも
歌ってみれば当時のままで、
 
名曲は色あせないのです。
 
 
作詞はなんと阿木燿子さん
こんなメルヘンチックな歌詞をかけるなんて!
さすがプロ!
 
卒業ソングとして
よく歌われたりもした。
 
この歌にもキラリと光るフレーズがある。
『大人の階段登る 君はまだシンデレラさ』
ってとこ!
 
誰もが通る道
振り返る道
 
想い出がそこには
いっぱい。
 
 
 
 
 
 
 

ほおづえをつく女 風

2019-05-09 21:10:25 | 僕の音楽日記
じつに身勝手なのは
男で
歌の世界とはいえ
 
半年も泣かしてしまう
この男が羨ましいとさえ
思った。
 
まだ、ろくすっぽ
女の人と付き合うことも
できなかった
僕は歌の世界で特に、
この
風の作品としては
変化が見られた
「ほおづえをつく女」を
聴いたあとに
気持ちは落胆し、
嫉妬心や、羨ましい気持ちに
なったものだ。
 
女の人を振って捨てる。
 
この行為は
モテたことのない男からすると
別次元の話で
 
きっとこの歌のモデルになってる女性は
いい女なんだろうなぁと
想像したりして、
 
 
僕はこの歌のイメージでは
ほおづえをつく女の人
「桃井かおり」さんなんかを
想像し、歌の世界に重ねていた。
 
半年も泣き続けるなんて
どれだけ〜!って感じなのだけど
それだけ愛していたのだという証拠。
 
 
だから僕自身恋愛に関しての思いは
愛されるより
愛す方がいいと
思い始めたのも
多分この辺りだったのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

1975年の吉田拓郎 その12

2019-05-09 17:09:00 | #1975年の吉田拓郎
フォーライフレコード
 
 
 
1975
4人のアーティストが
作った船は
音楽という流れを変えることを
目的に出航したと思うのだけれど
 
まずもって
第一弾のレコードは
どんな風になるのか
誰が出すのか?
期待するところだった。
予想どうり
先陣を切って飛び出したのは
泉谷しげるさん!
 
1975 825 発売。
「寒い国から来た手紙」
 
フォーライフでは三男坊的位置にいた
泉谷さん
軽やかなバラードで
拓郎さんも
セブンスターショー
でこの歌をcoverしている。
 
 
次に発売されたのが
1975 925日発売
「となりの町のお嬢さん」
本来B面だった
「流れる」
がA面だったはずなのが、
諸事情で急遽 入れ替わったとか、なんとか?
真相は藪の中。
 
噂の浅田美代子さんがモチーフとか、憶測か飛びつつ…
 
19751025日発売
小室等さんのシングル
「愛よこんにちは」
あまり売れること、売ることに固執してない
小室等さんのスタンスでも
フォーライフという会社の
それも初代社長ということで
名刺がわりの第一弾シングルとなった。
 
記憶にないけど(笑)
 
満を持して
1975 1125日発売
井上陽水さんの
「青空 ひとりきり」
 
フォーライフレコードの4人衆が一ヶ月毎に25日にシングルを四ヶ月連続で発売した。8月から11月まで間髪入れず
打ち上げ花火はあがった。
末っ子のポジションの井上陽水さん
 
満を持して!
という表現が適しているかは別にして…
船出のフォーライフ丸は
とりあえずあたりを見るべく
それぞれの持てる力を新しいレーベルの
マークに刻み
それぞれのファン
そしてマスコミに向けて大きな狼煙をあげた。

1975年の吉田拓郎 その11

2019-05-08 06:55:00 | #1975年の吉田拓郎
フォーライフレコード⓵
 
1975 それは
スッパ抜きの記事から始まった。
 
100億の旗揚げ 井上陽水 吉田拓郎レコード会社設立
という見出しが躍ったのは
2月26日付け
報知新聞。
 
そうそう出来っこないと見られたその夢物語が
意地でも作り、形にしていった
その大きなうねりの中
荒海に船出する小さな小舟のような
そんな若者による
若者だけの若者のための
新しい形のレコード会社設立という
ビックニュースだった。
 
 
4月1日に高輪プリンスホテルで記者会見
そして6月1日に正式に発足されたフォーライフレコード。
 
 
当時のキャッチコピーが
 
「私たちに音楽の流れを変えることができるでしょうか」
だった。
 
フォーライフレコードの出現により
以前
以後の
出来事として
大きく業界地図も塗り変わった。
 
本来力を持たなかった
1アーティストが
所属レコードでの発言権からプロデュース
販売に至るまで携われることに
音楽の流れが変わる
大きな出来事だったと思う。
 
これは送り手の側の革命であり
ぼくたち聴き手側
ファンの側からすると
まだその恩恵はそのあとずっと後から
受けることにはなるのだろうけど
何しろ痛快な出来事として、
表面的にみては
幕末の志士たちのような
革命戦士が四人
記者会見をしてる
その様は
挑戦的でカッコよく映ってた。
 
まるで優雅に水面をスイスイと泳ぐ
水鳥の様に見えても
実際水面下では必死に足をバタつかせ
ていたという
難題が山積されていたという。
 
簡単な船出ではなかっただけに…
大きなアドバルーンを上げたという事実だけが
後にくる
困難な出来事、ハードルをクリアしていく
泥まみれになりながら
レコード会社の体をなしていく
四人の若者の姿をその時
想像することはできなかった僕たちだった。
 
 
「へぇ〜すっげぇ〜なぁ〜」というのが
あの頃の感想。
思えば僕たちレベルにはそのすごさがなかなか伝わってこなかった。
しかし考えれば凄いことで
 
70年代フォークの一つの頂点にあたる
出来事だったのだ。
 
自分たちの手で歌を作り
自分たちの手でレコードを作り
自分たちの手で販売し、
自分たちの手で所属アーティストも
育てる。
 
一つの若者による自己完結ストーリーが
歌の世界でなし得たわけだから。
 
何をもって成功か、別として
フォーライフレコードの設立と
出現で
大きく時代は動いた
1975年だった。