雀庵の「開戦前夜/9 斗南藩の根性から学ぶ日本精神」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/420(2022/1/20/木】2年ほど前の秋に津軽半島と下北半島を旅行したが、全体的には海辺の小さな町は迫りくる山裾にへばりついているようで、「何して食っているのだろう、これという産業がないようだが・・・」という感じ。寒い季節になったから水産業は冬休みになっていたのかもしれない。
ところが下北半島の「むつ市」あたりは「陸奥、むつ、みちのく」、つまり最北端のような田舎の風情とかノンビリした雰囲気かと思っていたら、あちこちで「下北半島縦貫道路」など建設が進められていて、なにやらバブル時代のようなイケイケドンドン風。しかし、そこに感じる空気は「緊張」「ナニクソ!の根性」で、なにか街自体が「怒っている」ような印象だった。
殺伐という「人間関係・雰囲気・風景などに潤いや暖か味のないさま」ではないけれど、「絶対負けないぞ! 貫徹するぞ!」という必死の思いのような・・・
以来、折に触れて「あれは何だったのだろう」と思い出すのだが、星 亮一著「斗南藩 『朝敵』会津藩士たちの苦難と再起」を読んだら、「島流しというか僻地に追放され死屍累々、艱難辛苦を強いられたら、どんな試練にあっても負けまいぞ!」となるはなあ、と何となく納得した。戊辰戦争から160年経っても「薩長許すまじ」という気概は会津人、特に会津藩士の末裔にしっかり受け継がれているようだ、まるで昨日のことのように。
ユダヤ人は祖国を失い追放されたが2000~3000年後にイスラエル国を再建したから、100年200年前なんて昨日のことで、「恩讐の彼方に」とはいかないのが普通なのだろう、特に男は。実際、小生は1945年以降の Made in USA の日本を残念に思い、日本再生=富国強兵、自主独立、アジア発展を目指しているのだから。
そう言えば日露戦争でロシア兵として従軍したユダヤ人は捕虜となって日本に抑留されたが、その一人だったトルンペルドールは「小国日本が大ロシアに勝った、頑張れば我々もユダヤ国家を再興できる!」とシオニズム運動(祖国再建)を始め、それが今のイスラエル国家に繋がったのだ(同国大使館による)。「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」 米沢藩主、上杉鷹山は今なお日本人を鼓舞している。立つんだ、ジョー!
下北半島に「流刑」になった会津藩士の一族郎党は、廃藩置県までの2年ほどの短期間ながら「斗南藩」になった。斗南藩という藩名の由来は定かではない。この名称を誰が考案したのか、どういう意味なのかはっきりは分からないが、知られてはまずいから伏せられたに違いない。
オリジナルは中国詩文の「北斗以南皆帝州」、あるいは「星座における射手座=会津の射手が矢をサソリ座=薩長に向けている」など諸説がある。含意は多分「南(薩長)と斗(戦)う」だろうが、未だに謎のままだ。
会津藩士は会津藩そのものが無くなってしまったのだから、本州最北端の斗南藩、あるいは海峡を越えて北海道へ移住する人が多かった。大会社がつぶされて辺境の地に零細規模ながら移転させられたものの、武士階級は250年間も「公務員=統治」が仕事で、現場の「農工商」のノウハウはないのだから多くの藩士は会社の移転先に着いていかざるを得ないという感じ。「御家再興」起死回生の夢に賭けざるを得なかったのだが・・・
古人曰く「良い予感は概ね外れ、悪い予感はよく当たる」。会津藩は幕府から京都守護職を任じられたのが運の尽きになった。拒否できない。ババを引いたようなものだ。新撰組など幕府の治安部隊を指揮して頑張ったが、尊皇の思いが強い慶喜が「もはやこれまで」と戦線離脱したのだから会津藩将兵は会津に帰還するしかない。
慶喜が遁走した時点で既に佐幕派は負けたのだが、討幕派は「はい、そうですか、ノーサイド」とはならない。当時の戦争の世界的常識は「徹底的に敵を叩き潰さないと報復リスクを招く」だから容赦しない。軍功を欲しがるのか? ケジメなのか? 武士道を忘れたか?
(明治維新前の米国南北戦争では、北軍は降参した南軍将兵をずいぶん虐待したようだ。これは北軍として戦ったアンブローズ・ビアス著「いのちの半ばに」によるが、今でも北部の民主党支持者≒アカは南部を侮辱、挑発しているよう。嫌なものだが、人間の性か?)
薩長政府、特に会津藩と幕府に松陰先生や多くの同志を殺された長州藩は、会津藩をとことん憎んだ。とりわけ木戸孝允(桂小五郎)は自身も殺されそうになった私怨もあったから、降伏した会津藩に容赦しなかった。彼が会津藩追放のために用意しただろう下北半島は、報復のための文字通りの「流刑地」、寒冷のみならず農業に向かない痩せ地が多く、まさに地獄の様相だった。(木戸孝允は女々しくないか。粘着質のようで、さっぱりした感じがしない。小生の偏見か? そのうち調べてみよう)。「斗南藩 『朝敵』会津藩士たちの苦難と再起」から。
<明治2/1869年11月に再興を許された斗南藩。 翌年4月から始まった斗南移住は明治新政府による有無を言わせぬ命令だった。2万1080人の移住に必要な経費は(交通費、食糧、住宅建設、農業・牧畜などが安定するまでの3年間で)67万両(現在の422億円)で、拝借願を新政府に申請した。しかし、政府から不裁可とされ、特別の詮議で17万両(107億円)、米1200石を下賜するので速やかに移住せよ、との命令があった。
必要経費の3分の1である。にもかかわらず、移住しなければ厳重に処分するともあった。補助金の増額がなければ、領地は従来どおり会津若松とすべしと迫ったが、これも拒否された。すでに移住は始まっていた。あまりにも冷たい処置に山川浩(大参事)ら幹部は呆然自失、言葉を失った。
広沢安任(少参事)はここに来て初めて罠にはまったことを知った。しかし撤退も許されない。継続的に補助金の増額を申請するしかないとし、移住を継続することに決するしかなかった。雀の涙の資金では失敗が目に見えている。首脳部は夜も眠れぬ日々が続いた。
山川らの見通しが甘いと言えばそれまでだが、藩士の謹慎はすでに2年も続いている。家族は離れたままだ。最終的な詰めをする余裕もなく移住が始まったのだ>
最果ての下北半島への移住・・・そこは新天地どころか食事もまるで「餌」のような地だった。
<会津藩の奉行、350石の上級武士・間瀬新兵衛の次女・みつ(41歳)も一族5人を率いて三戸(さんのへ)にやってきた。父・新兵衛と弟・岩五郎は城下の戦闘で戦死、末弟の白虎隊士・源七郎は飯盛山で自決、女たちだけが残された。
天気の日は面白いほど歩くことができたが、雨降りの時は心細く、大雨になると着物は濡れ、袖口から雫がしたたり落ちた。みつが率いたのは母のまつ60歳、弟の妻雪24歳、幼児清吉3歳、妹ののぶ35歳、つや33歳である。交代で清吉をおんぶした。
盛岡の次の宿、沼宮内(ぬまくない、現岩手町)は好天だったが、翌日から雪となり、おまけに山道にかかり、道が遠く次の宿、三戸(さんのへ)にたどり着かない。ついに夜になってしまった。松明(たいまつ)もなく18人ほどが立ち往生した。宿を探したが、泊めてもらえず、夜中になってやっと三戸に着くことができた。
割り当てられたのは三戸郡大向井村の谷儀平の家だった。割り付けられた部屋は手狭なので、15畳敷の間を借り、渡された南京豆を煮たところ籾(もみ)やクズばかりで食べるのに苦労した・・・>
350石取りと言えば大幹部の身分だが、新政府は情け容赦しない、会津藩士は上から下までまさに地獄へ落とされたよう。以下は高嶺幾乃子(きのこ)の証言。
<二戸(にのへ)に移住した高嶺幾乃子も貴重な話を残していた。幾乃子は会津藩士の高嶺忠亮(ただすけ)に嫁ぎ、秀夫、二郎、秀三郎、秀四郎の4人の母になった。二郎は2歳で夭折。夫は京都在勤中に病死した。長男秀夫は幼児から神童と言われ、15歳で主君松平容保の小姓となった。
会津戦争の時、幾乃子は夫の両親の忠恕76歳、おえつ72歳、秀三郎10歳、秀四郎8歳を連れて城外に脱出し、知り合いの農家に匿われた。
明治3年9月末、一家は斗南に移ることになり、新潟から船で野辺地に着き、西越田中(さいごしたなか、現三戸郡新郷村)に向かった。割り当てられた農家に住み、ここでは一人玄米3合限りで他に何も出ず、毎日お粥ばかり食べ、難儀な月日を2年余り送った。
舅は庄屋、田島勘兵衛の息子に書物などを教えていたが、ここで亡くなり、勘兵衛の墓地に埋葬した。その後、勘兵衛の家に半年ほどいるうちに廃藩置県があり、各自は好きなところに行けるようになった。ちょうどその時に新政府から来た役人が長男秀夫のことを話し、「立派な人間になっているからぜひ東京に行くのがよい」と勧めてくれた。
早速、秀四郎を連れて盛岡から川船で北上川を下り、仙台、福島から若松に寄り、佐瀬家の養子になっていた秀三郎も一緒に連れて二本松、郡山、白河から大田原に出て川船を繋いで東京の新橋に着き、慶應義塾に学ぶ秀夫のところに着くことができた。明治6年のことである。
秀夫は慶應義塾で学びながら教師を務め、月給16円を貰っていた。明治8年7月、秀夫は恩師福沢諭吉の推薦で文部省のアメリカ派遣の留学生に選ばれ、ニューヨーク州オスウィーゴー師範学校で教育学を学ぶ機会を得た。3年後帰国し、東京高等師範学校に奉職、晩年は東京女子高等師範学校(お茶の水女子大)校長を務めた。
(幾乃子にまつわるいろいろな)回想録を読むと、会津藩の知的水準は極めて高いものであることが分かる。また、福沢諭吉が積極的に会津の青年を慶應義塾に受け入れ、勉学の機会を与えていたことも分かる。今でも会津若松には曽祖父、祖父、父、本人と一家四代が慶應義塾に学んだ酒の蔵元もある>
“福翁”福沢諭吉先生は偉かった。一方で薩長土肥“広報部長”の司馬遼太郎は著書「街道をゆく 北のまほろば」で「斗南という藩名には希望が溢れている」と書いた。司馬遼は方向音痴の面があり「私は正義病」が強すぎる、もう少し謙虚になって“朝日メガネ”を外して調べてみればいいのにと小生は残念に思うが、そう思う人は結構いるようだ。司馬遼はこう書いている。
<戊辰(1868)、薩摩と長州が新政府を創って、世を動かす側に立った。一場の劇とすれば、会津藩は旧勢力とともに滅びる方の役回りになった。末路において悲劇的だった。
籠城をし、開城をし、わずか3万石に減らされて、下北半島に移された。なおも生きようとしたけなげさは「斗南」という藩名に変えたことでもうかがえる。“これより北はない”という語感が言外にあって、しかも希望に溢れている。
開拓は容易に進まなかった。厳冬の中で単衣をかさねて過ごすものが多く、食べ物といえば、わずかな扶持米と稗(ひえ)、それに山野の葛(くず)や蕨(わらび)、オシメだった。オシメとは、浜辺に打ち上げられている昆布や若布(わかめ)の根を細かく刻んだものである。あまりの粗食に、若くして頭髪の抜け落ちた者もいた>
生き地獄だったことを知りながら「希望に溢れている」とうれしそうに書く神経、まるでGHQを解放軍と大歓迎した共産主義者そっくり。“朝日メガネ”のバイアスがかかっているから赤を白、白を黒と言う。
司馬遼は陳舜臣との「対談 中国を考える」(1974年)でこう語っている。
「中国では法律より道徳が先行する。中国でやってることは非常に大事で、人間が生きるということ、それを中国に学んで行かないといけない。社会主義というと、すぐアレルギーを起こす人が世界的にいるけど、中国はイデオロギーでやっているんじゃなくて、中国民族はどうしたら生きられるかと問題を根源的に戻してやっている。これを少し見習って、仮に自民党が社会主義をやったっていい、共産主義はなにも代々木の専売じゃないんだから、誰がやったっていい、またそんな“主義”をつけんでもいいわけだ。つまりそうしてやっていかないと我々は滅びるんじゃないかという気がする」
司馬遼が訪中した1974年は文革末期の鎖国状態、中共は毛沢東の文革と四人組の暴走でボロボロになっていたが、建国以来、訪中客を洗脳して中共の宣伝家に仕立て上げるのが中国国家旅游局国際旅行社の仕事だから嘘八百は実に上手かった。まるで映画舞台のようにシナリオを創り、役者を配置した。疑うことを知らない日本人は皆、騙された。小生の知るところでは「これ、ヤラセみたいでおかしい」と気付いたのは岩波書店(=日共)の女性社員たった一人だけだったが、彼女は社内で孤立し辞職せざるを得なくなった。
「人は嘘を言わない」と信じている学者やインテリ、善男善女は訪中すると皆「中共は素晴らしい」と洗脳され、中共をヨイショしまくって、やがて毛の死後、トウ小平の改革開放時代になると「ころっと騙されたバカ」と評価されるようになった。“朝日メガネ”の司馬遼もそうなるだろう。既にそうなっているか?
星 亮一氏は「斗南藩 『朝敵』会津藩士たちの苦難と再起」のあとがきでこう書いている。
<司馬は斗南藩を率いた広沢、永岡久茂(少参事)、山川の名をあげ、見事なものだったと褒めた。そして「希望に溢れている」と語ったが、本当にそうだったのだろうか。私には疑問だらけの斗南藩だった。戊辰戦争は会津藩の落城で終わったはずだった。蝦夷地や斗南への移住なしで戦後処理をできなかったのか。その疑念が消えないからである。
鳥羽伏見の戦いの後、会津は何度も恭順の意を表明したが、無視され続け、ついに婦女子を含め戊辰戦争に突入、矢折れ刀尽きてついに落城、無念の涙を吞まざるを得なかった。
下北の地が、破れた会津藩に耐えられないものであることは、南部藩からの情報で岩倉具視、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らも知っていたに違いなかった。それを承知で挙藩流罪を決めたことは、明治政府の犯罪行為と言えるものだった。会津厳罰を言い続けた木戸孝允の罪は大きいと言わねばならない>
歴史は勝者が創るという。勝者が描く歴史、敗者が描く歴史、いろいろ勉強しないと全体像に近づけない。敗戦後の日本はGHQにより「勝者米国による歴史」を押し付けられてきた。それでは真実とは遠い、教訓にもならない。ここ20年ほどで日本人はようやく“朝日・毎日・共同・岩波的メガネ”のバイアスから距離を置くようになってきた。習近平・中共が暴れまくれば日本人は急速に日本人を取り戻すだろう。
北京冬季五輪後の3月あたりから“戦狼”習近平は狼煙を上げるに違いない。台湾・尖閣有事である。日米豪台などは中共包囲網を強め、中共軍が突破を狙ったら一気呵成に叩き、内乱に誘導し、習近平一派を排除すべし。中共軍は民族として近現代戦の経験が少ない上に一人っ子でかなり脆弱だろうと言われるが、根拠のない憶測に惑わされず、緊張感を持って「猟犬は人食い虎を捕らえるに全力を尽くす」で行くべし。釈迦に説法だが、各々方、ゆめゆめご油断召さるな、斗南藩の根性、日本精神で行こう!
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/420(2022/1/20/木】2年ほど前の秋に津軽半島と下北半島を旅行したが、全体的には海辺の小さな町は迫りくる山裾にへばりついているようで、「何して食っているのだろう、これという産業がないようだが・・・」という感じ。寒い季節になったから水産業は冬休みになっていたのかもしれない。
ところが下北半島の「むつ市」あたりは「陸奥、むつ、みちのく」、つまり最北端のような田舎の風情とかノンビリした雰囲気かと思っていたら、あちこちで「下北半島縦貫道路」など建設が進められていて、なにやらバブル時代のようなイケイケドンドン風。しかし、そこに感じる空気は「緊張」「ナニクソ!の根性」で、なにか街自体が「怒っている」ような印象だった。
殺伐という「人間関係・雰囲気・風景などに潤いや暖か味のないさま」ではないけれど、「絶対負けないぞ! 貫徹するぞ!」という必死の思いのような・・・
以来、折に触れて「あれは何だったのだろう」と思い出すのだが、星 亮一著「斗南藩 『朝敵』会津藩士たちの苦難と再起」を読んだら、「島流しというか僻地に追放され死屍累々、艱難辛苦を強いられたら、どんな試練にあっても負けまいぞ!」となるはなあ、と何となく納得した。戊辰戦争から160年経っても「薩長許すまじ」という気概は会津人、特に会津藩士の末裔にしっかり受け継がれているようだ、まるで昨日のことのように。
ユダヤ人は祖国を失い追放されたが2000~3000年後にイスラエル国を再建したから、100年200年前なんて昨日のことで、「恩讐の彼方に」とはいかないのが普通なのだろう、特に男は。実際、小生は1945年以降の Made in USA の日本を残念に思い、日本再生=富国強兵、自主独立、アジア発展を目指しているのだから。
そう言えば日露戦争でロシア兵として従軍したユダヤ人は捕虜となって日本に抑留されたが、その一人だったトルンペルドールは「小国日本が大ロシアに勝った、頑張れば我々もユダヤ国家を再興できる!」とシオニズム運動(祖国再建)を始め、それが今のイスラエル国家に繋がったのだ(同国大使館による)。「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」 米沢藩主、上杉鷹山は今なお日本人を鼓舞している。立つんだ、ジョー!
下北半島に「流刑」になった会津藩士の一族郎党は、廃藩置県までの2年ほどの短期間ながら「斗南藩」になった。斗南藩という藩名の由来は定かではない。この名称を誰が考案したのか、どういう意味なのかはっきりは分からないが、知られてはまずいから伏せられたに違いない。
オリジナルは中国詩文の「北斗以南皆帝州」、あるいは「星座における射手座=会津の射手が矢をサソリ座=薩長に向けている」など諸説がある。含意は多分「南(薩長)と斗(戦)う」だろうが、未だに謎のままだ。
会津藩士は会津藩そのものが無くなってしまったのだから、本州最北端の斗南藩、あるいは海峡を越えて北海道へ移住する人が多かった。大会社がつぶされて辺境の地に零細規模ながら移転させられたものの、武士階級は250年間も「公務員=統治」が仕事で、現場の「農工商」のノウハウはないのだから多くの藩士は会社の移転先に着いていかざるを得ないという感じ。「御家再興」起死回生の夢に賭けざるを得なかったのだが・・・
古人曰く「良い予感は概ね外れ、悪い予感はよく当たる」。会津藩は幕府から京都守護職を任じられたのが運の尽きになった。拒否できない。ババを引いたようなものだ。新撰組など幕府の治安部隊を指揮して頑張ったが、尊皇の思いが強い慶喜が「もはやこれまで」と戦線離脱したのだから会津藩将兵は会津に帰還するしかない。
慶喜が遁走した時点で既に佐幕派は負けたのだが、討幕派は「はい、そうですか、ノーサイド」とはならない。当時の戦争の世界的常識は「徹底的に敵を叩き潰さないと報復リスクを招く」だから容赦しない。軍功を欲しがるのか? ケジメなのか? 武士道を忘れたか?
(明治維新前の米国南北戦争では、北軍は降参した南軍将兵をずいぶん虐待したようだ。これは北軍として戦ったアンブローズ・ビアス著「いのちの半ばに」によるが、今でも北部の民主党支持者≒アカは南部を侮辱、挑発しているよう。嫌なものだが、人間の性か?)
薩長政府、特に会津藩と幕府に松陰先生や多くの同志を殺された長州藩は、会津藩をとことん憎んだ。とりわけ木戸孝允(桂小五郎)は自身も殺されそうになった私怨もあったから、降伏した会津藩に容赦しなかった。彼が会津藩追放のために用意しただろう下北半島は、報復のための文字通りの「流刑地」、寒冷のみならず農業に向かない痩せ地が多く、まさに地獄の様相だった。(木戸孝允は女々しくないか。粘着質のようで、さっぱりした感じがしない。小生の偏見か? そのうち調べてみよう)。「斗南藩 『朝敵』会津藩士たちの苦難と再起」から。
<明治2/1869年11月に再興を許された斗南藩。 翌年4月から始まった斗南移住は明治新政府による有無を言わせぬ命令だった。2万1080人の移住に必要な経費は(交通費、食糧、住宅建設、農業・牧畜などが安定するまでの3年間で)67万両(現在の422億円)で、拝借願を新政府に申請した。しかし、政府から不裁可とされ、特別の詮議で17万両(107億円)、米1200石を下賜するので速やかに移住せよ、との命令があった。
必要経費の3分の1である。にもかかわらず、移住しなければ厳重に処分するともあった。補助金の増額がなければ、領地は従来どおり会津若松とすべしと迫ったが、これも拒否された。すでに移住は始まっていた。あまりにも冷たい処置に山川浩(大参事)ら幹部は呆然自失、言葉を失った。
広沢安任(少参事)はここに来て初めて罠にはまったことを知った。しかし撤退も許されない。継続的に補助金の増額を申請するしかないとし、移住を継続することに決するしかなかった。雀の涙の資金では失敗が目に見えている。首脳部は夜も眠れぬ日々が続いた。
山川らの見通しが甘いと言えばそれまでだが、藩士の謹慎はすでに2年も続いている。家族は離れたままだ。最終的な詰めをする余裕もなく移住が始まったのだ>
最果ての下北半島への移住・・・そこは新天地どころか食事もまるで「餌」のような地だった。
<会津藩の奉行、350石の上級武士・間瀬新兵衛の次女・みつ(41歳)も一族5人を率いて三戸(さんのへ)にやってきた。父・新兵衛と弟・岩五郎は城下の戦闘で戦死、末弟の白虎隊士・源七郎は飯盛山で自決、女たちだけが残された。
天気の日は面白いほど歩くことができたが、雨降りの時は心細く、大雨になると着物は濡れ、袖口から雫がしたたり落ちた。みつが率いたのは母のまつ60歳、弟の妻雪24歳、幼児清吉3歳、妹ののぶ35歳、つや33歳である。交代で清吉をおんぶした。
盛岡の次の宿、沼宮内(ぬまくない、現岩手町)は好天だったが、翌日から雪となり、おまけに山道にかかり、道が遠く次の宿、三戸(さんのへ)にたどり着かない。ついに夜になってしまった。松明(たいまつ)もなく18人ほどが立ち往生した。宿を探したが、泊めてもらえず、夜中になってやっと三戸に着くことができた。
割り当てられたのは三戸郡大向井村の谷儀平の家だった。割り付けられた部屋は手狭なので、15畳敷の間を借り、渡された南京豆を煮たところ籾(もみ)やクズばかりで食べるのに苦労した・・・>
350石取りと言えば大幹部の身分だが、新政府は情け容赦しない、会津藩士は上から下までまさに地獄へ落とされたよう。以下は高嶺幾乃子(きのこ)の証言。
<二戸(にのへ)に移住した高嶺幾乃子も貴重な話を残していた。幾乃子は会津藩士の高嶺忠亮(ただすけ)に嫁ぎ、秀夫、二郎、秀三郎、秀四郎の4人の母になった。二郎は2歳で夭折。夫は京都在勤中に病死した。長男秀夫は幼児から神童と言われ、15歳で主君松平容保の小姓となった。
会津戦争の時、幾乃子は夫の両親の忠恕76歳、おえつ72歳、秀三郎10歳、秀四郎8歳を連れて城外に脱出し、知り合いの農家に匿われた。
明治3年9月末、一家は斗南に移ることになり、新潟から船で野辺地に着き、西越田中(さいごしたなか、現三戸郡新郷村)に向かった。割り当てられた農家に住み、ここでは一人玄米3合限りで他に何も出ず、毎日お粥ばかり食べ、難儀な月日を2年余り送った。
舅は庄屋、田島勘兵衛の息子に書物などを教えていたが、ここで亡くなり、勘兵衛の墓地に埋葬した。その後、勘兵衛の家に半年ほどいるうちに廃藩置県があり、各自は好きなところに行けるようになった。ちょうどその時に新政府から来た役人が長男秀夫のことを話し、「立派な人間になっているからぜひ東京に行くのがよい」と勧めてくれた。
早速、秀四郎を連れて盛岡から川船で北上川を下り、仙台、福島から若松に寄り、佐瀬家の養子になっていた秀三郎も一緒に連れて二本松、郡山、白河から大田原に出て川船を繋いで東京の新橋に着き、慶應義塾に学ぶ秀夫のところに着くことができた。明治6年のことである。
秀夫は慶應義塾で学びながら教師を務め、月給16円を貰っていた。明治8年7月、秀夫は恩師福沢諭吉の推薦で文部省のアメリカ派遣の留学生に選ばれ、ニューヨーク州オスウィーゴー師範学校で教育学を学ぶ機会を得た。3年後帰国し、東京高等師範学校に奉職、晩年は東京女子高等師範学校(お茶の水女子大)校長を務めた。
(幾乃子にまつわるいろいろな)回想録を読むと、会津藩の知的水準は極めて高いものであることが分かる。また、福沢諭吉が積極的に会津の青年を慶應義塾に受け入れ、勉学の機会を与えていたことも分かる。今でも会津若松には曽祖父、祖父、父、本人と一家四代が慶應義塾に学んだ酒の蔵元もある>
“福翁”福沢諭吉先生は偉かった。一方で薩長土肥“広報部長”の司馬遼太郎は著書「街道をゆく 北のまほろば」で「斗南という藩名には希望が溢れている」と書いた。司馬遼は方向音痴の面があり「私は正義病」が強すぎる、もう少し謙虚になって“朝日メガネ”を外して調べてみればいいのにと小生は残念に思うが、そう思う人は結構いるようだ。司馬遼はこう書いている。
<戊辰(1868)、薩摩と長州が新政府を創って、世を動かす側に立った。一場の劇とすれば、会津藩は旧勢力とともに滅びる方の役回りになった。末路において悲劇的だった。
籠城をし、開城をし、わずか3万石に減らされて、下北半島に移された。なおも生きようとしたけなげさは「斗南」という藩名に変えたことでもうかがえる。“これより北はない”という語感が言外にあって、しかも希望に溢れている。
開拓は容易に進まなかった。厳冬の中で単衣をかさねて過ごすものが多く、食べ物といえば、わずかな扶持米と稗(ひえ)、それに山野の葛(くず)や蕨(わらび)、オシメだった。オシメとは、浜辺に打ち上げられている昆布や若布(わかめ)の根を細かく刻んだものである。あまりの粗食に、若くして頭髪の抜け落ちた者もいた>
生き地獄だったことを知りながら「希望に溢れている」とうれしそうに書く神経、まるでGHQを解放軍と大歓迎した共産主義者そっくり。“朝日メガネ”のバイアスがかかっているから赤を白、白を黒と言う。
司馬遼は陳舜臣との「対談 中国を考える」(1974年)でこう語っている。
「中国では法律より道徳が先行する。中国でやってることは非常に大事で、人間が生きるということ、それを中国に学んで行かないといけない。社会主義というと、すぐアレルギーを起こす人が世界的にいるけど、中国はイデオロギーでやっているんじゃなくて、中国民族はどうしたら生きられるかと問題を根源的に戻してやっている。これを少し見習って、仮に自民党が社会主義をやったっていい、共産主義はなにも代々木の専売じゃないんだから、誰がやったっていい、またそんな“主義”をつけんでもいいわけだ。つまりそうしてやっていかないと我々は滅びるんじゃないかという気がする」
司馬遼が訪中した1974年は文革末期の鎖国状態、中共は毛沢東の文革と四人組の暴走でボロボロになっていたが、建国以来、訪中客を洗脳して中共の宣伝家に仕立て上げるのが中国国家旅游局国際旅行社の仕事だから嘘八百は実に上手かった。まるで映画舞台のようにシナリオを創り、役者を配置した。疑うことを知らない日本人は皆、騙された。小生の知るところでは「これ、ヤラセみたいでおかしい」と気付いたのは岩波書店(=日共)の女性社員たった一人だけだったが、彼女は社内で孤立し辞職せざるを得なくなった。
「人は嘘を言わない」と信じている学者やインテリ、善男善女は訪中すると皆「中共は素晴らしい」と洗脳され、中共をヨイショしまくって、やがて毛の死後、トウ小平の改革開放時代になると「ころっと騙されたバカ」と評価されるようになった。“朝日メガネ”の司馬遼もそうなるだろう。既にそうなっているか?
星 亮一氏は「斗南藩 『朝敵』会津藩士たちの苦難と再起」のあとがきでこう書いている。
<司馬は斗南藩を率いた広沢、永岡久茂(少参事)、山川の名をあげ、見事なものだったと褒めた。そして「希望に溢れている」と語ったが、本当にそうだったのだろうか。私には疑問だらけの斗南藩だった。戊辰戦争は会津藩の落城で終わったはずだった。蝦夷地や斗南への移住なしで戦後処理をできなかったのか。その疑念が消えないからである。
鳥羽伏見の戦いの後、会津は何度も恭順の意を表明したが、無視され続け、ついに婦女子を含め戊辰戦争に突入、矢折れ刀尽きてついに落城、無念の涙を吞まざるを得なかった。
下北の地が、破れた会津藩に耐えられないものであることは、南部藩からの情報で岩倉具視、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らも知っていたに違いなかった。それを承知で挙藩流罪を決めたことは、明治政府の犯罪行為と言えるものだった。会津厳罰を言い続けた木戸孝允の罪は大きいと言わねばならない>
歴史は勝者が創るという。勝者が描く歴史、敗者が描く歴史、いろいろ勉強しないと全体像に近づけない。敗戦後の日本はGHQにより「勝者米国による歴史」を押し付けられてきた。それでは真実とは遠い、教訓にもならない。ここ20年ほどで日本人はようやく“朝日・毎日・共同・岩波的メガネ”のバイアスから距離を置くようになってきた。習近平・中共が暴れまくれば日本人は急速に日本人を取り戻すだろう。
北京冬季五輪後の3月あたりから“戦狼”習近平は狼煙を上げるに違いない。台湾・尖閣有事である。日米豪台などは中共包囲網を強め、中共軍が突破を狙ったら一気呵成に叩き、内乱に誘導し、習近平一派を排除すべし。中共軍は民族として近現代戦の経験が少ない上に一人っ子でかなり脆弱だろうと言われるが、根拠のない憶測に惑わされず、緊張感を持って「猟犬は人食い虎を捕らえるに全力を尽くす」で行くべし。釈迦に説法だが、各々方、ゆめゆめご油断召さるな、斗南藩の根性、日本精神で行こう!
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