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中露北を包囲し自滅させるべし

2025-04-29 10:00:06 | 戦争
中露北を包囲し自滅させるべし
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」393/通算824 2025/令和7年4/29 火曜】 政府の公式サイトによると今日から「昭和100年プロジェクト」が始まった。曰く――
<2025年は昭和元年からちょうど100年目にあたります。この節目に「昭和100年プロジェクト~昭和から100年、そして未来へ」を始動します。戦争から戦後の復興、高度経済成長、バブル経済など昭和は激動の時代でした。
現在では国民の約7割が昭和生まれ、約3割が平成以降の生まれとなり、昭和を知らない世代も増えています。昭和を動かした政治以外のいろいろな出来事を、今の時代に生きる人々に伝達していくために、昭和100年を新たな側面から表現し、幅広く発信していきます>以上。
現在は「第三次世界大戦」の熱戦前夜である。単なるお祭りにならぬことを期待したい。
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産経2025/令和7年4/28 シンガー・ソングライターのさだまさし氏の「月曜コラム 山笑う春に思う」は秀逸だった。氏と小生は同世代、両親は大正か敗戦前の昭和の「大日本帝国」臣民だろう。WIKIにはこうある。

<さだ まさし(1952年4月10日~)は日本のシンガーソングライター、俳優、タレント、小説家。本名、佐田雅志(読み同じ)。長崎県長崎市出身。さだ企画所属。國學院大學、東京藝術大学客員教授。
フォークデュオのグレープでメジャーデビューし、「精霊流し」が大ヒット。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。2019年10月6日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は4400回を越えている。

トークの軽妙さは大きな魅力とされており、自身のコンサートではMC(司会進行役)でもお客を楽しませ、また、テレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。政治・社会問題に対する持論も度々展開しており、生まれ育った長崎および日本への強い愛情と世界平和を希求する思いを発信し続けている。小説家としても活動し『解夏』『眉山』などの作品を発表している>
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さだまさし氏は売れていない頃はアルバイトでペンキ塗りをしていたそうだ。ペンキといえば・・・小生はその頃は独房での体調不良もあって保釈され、東京都目黒区鷹番三丁目にある東急電鉄「学芸大学駅」の業者向け建材店(後になって知ったが、自殺した横浜市大中核派の先輩、奥浩平が憧れた革マル派シンパの女性の実家!)に勤めていたのでペンキも売っていたが、小生を中核派に誘った同志の「T」も親からの仕送りが途絶えて学芸大学駅の隣町の「祐天寺」でペンキ塗りをしていた。
(頭脳明晰で横浜市大特待生だった「T」はその後、大学を中退(小生同様、多分除籍)、苦労しながらやがて九州で手広く事業を推進していたが、数日前からJT(日本たばこ産業)のPCが壊れて今は「休業を余儀なくされている」と嘆いていた。メディアにとってJTは大スポンサーだから報道しないようだ。「長い物には巻かれろ」がルールだろう)閑話休題。

小生はさだまさし氏とは不思議な縁があるようで、「関白宣言」以来、何となく氏には親近感がある。以下、産経掲載のさだまさし氏の「山笑う春に思う」から転載する。
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<三春(さんしゅん)の季語に「山笑う」がある。針葉樹林の山々の濃い緑の中に広葉樹の若く浅い緑が霞(かすみ)のように湧き、そこに桜色がまだらに散りばめられて仄(ほの)かに艶めく光景は本当に山が笑うようでまことに人の言葉は美しいと思う。

これは北宋の画家、郭熙(かくき)の「春山淡冶(かくき)にして笑うが如く」が語源と言われ、この人の文から、夏は「山滴(したた)る」秋は「山粧(よそ)う」冬は「山眠る」という見事な表現が千年の時を超えて今に伝わっている。

人の言葉はこのように広く味わい深く、人に伝わってほしいものだ。中国文化との繫(つな)がりが、彼の文言の行間を愛(め)でられる程に深くて長いという証(あかし)だろうが、外来語の良きものを母国語に取り込み千年も共に暮らし育ててきた先人の志の成果だろう。

文章の本当の深さ美しさはその行間に潜む。言葉の狭間(はざま)に眠る湿度や温度の気配、色合いなどの景色、時の流れ、言葉によって享受出来(でき)る心の情景まで掘り起こして感じることを「行間を読む」というのだが、もうそれが難しい時代になった。

コンプライアンス、ガバナンス、ハラスメント、エビデンスと、こちらが正確な理解が出来ないような英単語を、哀れなほど拙(つたな)い日本語に散りばめられて喋(しゃべ)られると、何やら本音をはぐらかされるようで、ついあなたどこの国の方ですかと尋ねたくなる。
外国語が文脈を伴わずに単語だけ輸入されるのは「属国文化の特徴」と言うが、これは日本が文化的にもアメリカの属国であることを示すもののひとつ。

だが日本人の日本語が下手になったのには他にも原因がある。行間が読めず人との会話が下手な理由は、文章を読まず人と話をしないからだ。従って漢字が読めず語彙も乏しい。他人と没交渉でも生きられる社会は人の心から体温と思想を奪う。受験など点数が全てという社会制度にも多々問題があるが、その制度で出世した人物にとってはそこが拠り所(よりどころ)だから決してそれを変えようとしない。こうして社会は劣化して行く。

新聞も読まずテレビも観ず、ラジオを聴かなくても情報に囲まれているという薄気味悪い時代。しかもそれらの情報には巧妙な噓(うそ)や下衆(げす)な邪推や曖昧な伝聞まで含まれる上、責任も取らず検証さえしないから流言飛語が野放しになる。こんな無責任な情報と「報道」とは次元が全く違う。

新聞のコラムだから言うのではない。新聞を読む人が減ったことは日本語にとっても報道にとっても極めて深刻なのだ。新聞を読む人が減れば新聞社は良い書き手を育てることが出来ない。良い書き手が減れば良い読み手は育たない。こうして我々は国語からこの国を失いつつある。(さだまさし 昭和27年生まれ。音楽、小説など幅広いジャンルで活躍>以上
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小生思うに「暗愚はやがて国を亡ぼす」。「寄せては返す波の如し、○○につける薬なし」とも。プーチンや習近平、北朝鮮の威嚇的な乱暴狼藉により、自由民主陣営は「このままでは亡国になる、戦時に備えるべし」とようやく危機感を高めるようになってきた。中露北を包囲し、自滅させるべし。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ1か月ほど音沙汰がなく心配しています)
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp


三島由紀夫と宮崎正弘先生

2025-04-24 19:31:53 | 戦争
三島由紀夫と宮崎正弘先生
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」391/通算822 2025/令和7年4/24 木曜】 前回WIKIを引用してこう書いた。<三島由紀夫らによる陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での衝撃的な決起事件は日本社会に大きな衝撃を与え、民族派から派生した新右翼を生み出すなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた。「民族派から派生した新右翼」・・・なんとなく三島と論客の宮崎正弘先生がタッグをくんで生み育てたような印象を受ける>

宮崎先生の論稿はほぼ毎日、目を通しているが、レベルが大学院生のようで、小生(大学除籍の前科者)には難し過ぎて咀嚼するのに苦労することが多い。高校生、大学生でも分かるようにして頂ければ有難いのだが・・・愚痴はさて置き以下、WIKIから引用する。
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宮崎正弘(みやざき まさひろ、1946/昭和21年7月19日生まれ、78歳)は、日本の国際政治評論家、作家、ジャーナリスト。拓殖大学日本文化研究所客員教授。「南シナ海問題を考える会」代表。石川県金沢市出身。最終学歴:早稲田大学教育学部除籍

経歴:金沢市立十一屋町小学校、金沢市立野田中学校、石川県立金沢二水高等学校卒業。早稲田大学教育学部英語英文学科除籍。早大在学中は日本学生同盟に所属し「日本学生新聞」編集長を務めた。

雑誌「浪漫」企画室長を経て、貿易会社を経営。1982年、講談社から「もうひとつの資源戦争」を刊行し、論壇へデビュー。以降、「日米先端特許戦争」「軍事ロボット戦」「中国、次の10年」「中国大分裂」「人民元大暴落」「中国広東軍、反乱す」「金正日の核弾頭」などの著作がある。
「日米安保条約二十年記念セミナー」(日本側代表 岸信介元首相、米側フォード元大統領)では委員会広報を担当、以後「日本安全保障研究センター」(加瀬英明理事長)の事務局長を二年ほど兼務。

この間、キッシンジャー元国務長官、レイ・クライン元CIA次官らを招いての日米安保シンポジウムなどを開催した。1983年夏、米国教育局の招待でクレアモント研究所(英語版)に1ヶ月遊学。1984年にはニクソン米国元大統領と単独会見し、同大統領の「リアルピース」を翻訳・刊行した。また、同年出版した『アメリカ先端ビジネスの深謀』では日本で最も早い時期に、ドナルド・トランプのビジネスを紹介した。
前後に、ペンタゴンペーパーや米議会でのレフチェンコ証言録、第五世代のハイテク報告など翻訳も多く手がけた。またラジオ日本、ラジオ短波で週三回ほど番組を担当(後者は毎週土曜早朝にロスのマネー局と二元中継だった(一部英語))。

ソビエト連邦の崩壊までの数年は米国、ソ連関係の著作が多く、ベルリンの壁崩壊前後は合計十回ほど、ロシア各地、バルト三国、東欧諸国を取材し『ソ連の没落』『新生ドイツの大乱』。イスラエルのラビ外相に単独インタビュー、イラクの「アラブ平和会議」にも招かれ『湾岸戦争の嘘と真実』『テロリズムと世界宗教戦争』などを発表した。2000年代以降は中国関係の著作が激増している>以上抜粋
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「知の巨人」のようだが、宮崎先生は「三島由紀夫『以後』」という著作もあり、こう書いているという(今は絶版のよう)。
<あのとき(三島らの決起)の森田(必勝)はかつての特攻隊員が恋人や親たちと別れるような、言葉では言い尽くせないほど純真で清潔な、人間が死を決意したときに見せる引き締まった顔を見せた。決死隊と残留部隊は緊張感で張りさけそうな気持ちを抑えて、涙とともに別れた>

WIKIによると森田必勝(もりた まさかつ、自称:ひっしょう。1945/昭和20年7月25日~1970/昭和45年11月25日は、日本の政治活動家。三島由紀夫が結成した「楯の会」の第二代学生長。三島と共に憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺した。三島の単なる伴走者や主従関係の「従」ではなく、むしろ森田必勝が「主」となり三島らを引っ張っていったのではないか、という見解もしばしば見受けられる。
慰霊祭は、毎年11月25日に行なわれる「三島由紀夫研究会」(日本学生同盟、通称:日学同)による追悼集会「憂国忌」のほか、4年の実刑判決を受けた3人が仮出所した翌年の1975/昭和50年以降、元楯の会会員たちによる慰霊祭も毎年行われているという。
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江田島と三島復活の時代に

2025-04-24 08:03:46 | 戦争
江田島と三島復活の時代に
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」390/通算821 2025/令和7年4/23 水曜】 

産経2025/4/22 文芸批評家・新保祐司氏の「正論 『江田島』体験入隊で考えたこと」は秀逸だった。氏は71歳、小生は74歳だからほぼ同世代。小生は腰痛で「いつお迎えが来ても従容として天命に従おう」といささか諦観気味だが、新保氏は「進歩、前進あるのみ! 投げたらそこでオシマイだ!」、まるでスラムダンクの安西先生みたいである。「新保先生、ボクも頑張ってみます!」という気分になったが、足手まといになったり、何もしないまま燃え尽きちゃったり・・・江田島遥かなり? 以下転載する。

<◎:シニア世代へのすすめ/// 4月初めに江田島(広島)に行った。海上自衛隊の第1術科学校で2泊3日の体験入隊をするためである。入隊を依頼するにあたって提出した書類には、その目的として「国防の最前線に立つことを志願した青年たちが訓練を受ける学校で、自らも訓練の一部を受けることにより、国防の意識を高めるとともに自衛隊への敬意を深める」と記したが、それを十分に達することができた。

私は、恐らくこれまで体験入隊をした人間の最高齢(71歳)ではないかと思うが、少し年下の2人の友人と入隊した。訓練は、基本教練、総員起床、甲板掃除、手旗、航海科、砲術科、体験航海など多岐(たき)にわたり、「自らも訓練の一部を受ける」ことができる実施計画であった。

もちろん、ほんの「一部」に過ぎないが、この学校で「国防の最前線に立つことを志願した青年たち」が受けている訓練の厳しさを多少なりとも感じ取ることができた。それは、「自衛隊への敬意を深める」ものであった。基本教練、総員起床、甲板掃除などの規律と所作は、普通の日常生活にも必要なものであり、老後を気ままにのんびりと過ごしたいなどという考えを吹き飛ばすに足るものであった。

見学は、大講堂、教育参考館、表桟橋、戦艦「陸奥」砲塔、八方園(?)などを回った。実は、江田島を訪ねるのは、2度目であり、最初は十数年前に幹部候補生学校で講演をするためであった。そのとき、教育参考館などは見たのだが、八方園は初めてであった。

◎:「海軍兵学校之碑」に思う/// 少し小高いところにあって、そこには「海軍兵学校之碑」が建っていた。大きな石柱を見上げながらしばし無言で佇(たたず)んでいた。教育参考館に展示された英霊の写真や遺書は、今回もやはり感銘深いものであった。そして、三島由紀夫のエピソードを教えてもらった。

1993年6月23日付の朝日新聞夕刊に載っているもので「語り継ぐ 学徒出陣50年」という連載記事の3回目である。70年11月25日の自決の1カ月ほど前の10月の或(あ)る朝7時半頃、三島は教育参考館を訪れた。館の事務所には30通ほどの遺書の束があり、三島はその1通を取り上げて読むと、「すごい名文だなあ。命がかかっているんだからかなわん。おれは命をかけて書いていない」といい、声を出して泣きだしたという。元館長の回想だが、三島自身は、或る対談で「僕はね、この間、江田島の海上自衛隊に行って特攻隊の遺書を一つずつ全部みたけど、非常に心を打たれた」と語っている。

「国防の意識を高める」というのは、単に国防のことに興味を持ったり、その必要性を訴えたりすることにとどまるものではあるまい。三島のように「非常に心を打たれた」体験が不可欠であり、言論人であれば自分は「命をかけて書いて」いるかという自省を忘れないことに他ならない。私が、体験入隊を志願したのも、口舌の徒になってはいまいかという危機感からであった。

中級学生数名との意見交換という時間も設けられていた。「国防の最前線に立つことを志願した青年たち」の生の声を聞ける貴重な機会であった。皆、いい表情をしていて発言も素直である。私の世代である昭和の老人たちは、何かというと「今の若い者は云々(うんぬん)」と言いがちである。
しかし、この中級学生だけではなく、間近に接することができた第1術科学校で訓練を受けている青年たちの言動は立派で規律あるものであった。

◎:守る立場と守られる立場/// 確かに世間の若い者にはちょっとどうかなと思う者がいるが、それは老人にも同じくらいいるであろう。意見交換の中では、人間の世界には、守る立場と守られる立場があるが、私は守る立場を選んだという発言が印象深かった。力強い決意である。

翻って思えば、戦後80年間の日本では、守られる立場が大勢だったのではないか。安全保障においては、米国に守られる立場であり、社会的にも国家から守られる立場につくという安易さに流れているように思われる。

日本が自立した国家になるということは、日本が自分で平和を守る立場に立つことであり、日本人が社会生活の様々な局面で、守る立場を選ぶことに他ならない。ケネディ大統領の就任演説における有名な「国が諸君に何をしてくれるかを問うな。諸君が国に対して何ができるかを問え」という呼びかけは、1961年のことであった。日本人は、半世紀余り経(た)った今日、改めてこの言葉に向き合わなければならないのではないか。

わずか2泊3日の入隊であったが、「国防の最前線に立つことを志願した青年たち」の訓練の一部を体験することができて、帰ってからの日常生活も緊張感に貫かれたものになった。私の世界も彼らと地続きであることを実感する。シニア世代の日本人に、自らを振り返る機会となる体験入隊を勧めたいと思う。(しんぽ ゆうじ)>以上
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そう言えば三島由紀夫の自裁を知ったのは1970/昭和45年11月25日(水曜日)だった。小生は19歳、大学2年、70年安保騒動は「壮大なゼロ」で終わり、なんとなくボーゼンとしていた時期だった。前日の夕刻から東急東横線の慶應義塾大学日吉キャンパスに近い先輩のアパートで仲間と共に花札(おいちょかぶ)をして一休みしていたら、ラジオから三島の自決を知った。小生は外に出て「何のためなのか、なぜ死にたくなったのか・・・」といぶかしんでいた。
帰宅してからTVニュースを見たり著作「金閣寺」を再読したりしたが、要は「老残の身をさらしたくない、格好良く死にたいということなのだろう」と、いささかがっかりした。以下、WIKIから引用する。

<◎:三島由紀夫・楯の会・三島事件/// 1970年(昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫(本名・平岡公威、ひらおか きみたけ)が、憲法改正(憲法第9条破棄)のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって「楯の会事件」とも呼ばれる。

概要:1970/昭和45年11月25日(水曜日)場所:陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地、午前10時58分頃 – 午後0時20分頃。三島由紀夫、森田必勝ほかで成る民兵組織「楯の会」のメンバー5名が市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部を訪問し、益田兼利総監を拘束。幕僚らを斬りつけた後、三島がバルコニーで自衛官に決起の檄を訴え、その後総監室で三島と森田が割腹自決に至ったクーデター未遂事件。「三島事件とも。

◎:日本社会に大きな衝撃/// この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家が起こした異例の行動に一様に驚きを示した。衝撃的なこの事件は日本社会に大きな衝撃を与え、民族派から派生した新右翼を生み出すなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた>以上
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「民族派から派生した新右翼」・・・なんとなく三島と論客の宮崎正弘先生がタッグをくんで生み育てたような印象を受けるが、次回に調べてみよう。
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「我が街 宿河原」/2

2025-04-20 16:34:47 | 戦争
「我が街 宿河原」/2
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」388/通算819 2025/令和7年4/20 日曜】 さてさて、話は変わります。いささか私事のようで恐縮ですが、私は神奈川県高座郡座間町入谷、「鈴鹿明神社」そばの農業兼便利屋(どんな問題でも対応する何でも屋)の家に生まれました。3歳の時(1954/昭和29年)に父の生まれ故郷の宿河原に引っ越しました。大型トラックの高いところの助手席に乗った父母に抱かれながら街を見下ろす・・・初めての経験です。見るものすべてが強烈で、それが世の中を知る第一歩になりました。

大東亜戦争(太平洋戦争、第2次世界大戦)の勃発後、宿河原の大規模農家の次男だった父は職業軍人を目指し近衛師団に採用されました。天皇と宮城(皇居)を警護するのが仕事です。敗戦濃厚の際は、敗戦を伝える天皇陛下の「玉音放送(レコード盤)」を阻止するクーデター「宮城事件」に一兵卒として動員されています。ちょっと長いですがWIKIから引用します。

<1945年(昭和20年)8月14日未明にポツダム宣言受諾が決定し、それを昭和天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせる「玉音放送」を放送することが決まった。8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが近衛第1師団長森赳中将へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。

拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの叛乱を知り、叛乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる。のちにこの事件は半藤一利により『日本のいちばん長い日』として小説化、さらに映画化された>以上

小生が16歳の1967/昭和42年に父が「映画を見に行こう」と誘いました。『日本のいちばん長い日』でした。玉音盤争奪戦の模様をリアルに描いており、父は「そうだったのか!」と感動していました。尋常高等小学校卒の父は頭脳明晰、成績優秀ながら、仕事で日経新聞をチェックするだけで「読書の習慣」はまったくありませんでした。教養・学問系読書や産経新聞が大好きな小生にとっては残念なことですが・・・

敗戦後の父は座間町入谷の“シーチン”家の「戦争寡婦」と結婚しました。近くに米軍基地「キャンプ座間」(Camp Zama)があり、とりあえず神奈川県の準公務員としてそこに派遣されました。キャンプ座間には在日米陸軍司令部、米陸軍第1軍団司令部などが置かれていましたが、その費用はすべて「敗戦国日本」の負担です。

父の最初の仕事は米軍将兵や同行した妻子のための炊事でした。「欲しがりません勝つまでは」と粗食に耐えていた人々にとって、米兵が食べ残した残飯はとても美味しかったのでしょう、小生に「お前はアメコウ(アメリカ人の蔑称)の残飯で育った」と笑いながらしばしば言っていました。この「残飯」ですが、米兵のなかには残飯にタバコの吸い殻を入れるなど根性の悪いゲス野郎もいて、父は吸い殻や汚物を排除したもの、特に肉類を家に持ち帰ったのです。

アメコウもピンからキリまで色々ですが、炊事担当時代、父は米兵から「態度が悪い」と右目のあたりを撲られ、その痕が亡くなるまで続いていました。プライドの高い近衛兵だった父にとって、それは随分、屈辱的なことだったでしょう。そんな折、1950年に「朝鮮戦争」が始まると占領下で逼塞していた旧日本軍が主に米軍の後方支援で大活躍をするようになり、父もプライドを取り戻していくようになりました。(次号に続く)
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アカは数年もすれば自滅する

2025-04-15 10:55:40 | 戦争
アカは数年もすれば自滅する
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」384/通算815 2025/令和7年4/15 火曜】 「苦労する良かろう、楽する悪かろう」とか「若い時の苦労は買ってでもせよ」という箴言がある。そういう意欲もなくチャラチャラ遊び呆けていると後でロクなことにならないぞ、という先人からの教えである。
産経2025/4/14月曜コラム 川淵三郎Jリーグ初代チェアマンの「国士の登場を待ち望む」から。

<日本の政治がもどかしくてならない。米国のトランプ、ロシアのプーチン両大統領、中国の習近平国家主席ら大国のリーダーが強権を発動して世界の先行きは不透明だというのに、石破茂首相は日本が進むべき方向性を国民にまったく示せないでいる。

国会で「政治とカネ」の議論を戦わせている場合ではない。石破首相が自民党衆院1期生に商品券を配布した愚かさにはあきれるが、その追及に躍起の野党も愚かだ。世界情勢が激動する中、国家と国民のために議論しなければならないことは山ほどある。

中国は台湾に抱く野心を隠そうともせず、ロシアによるウクライナ侵攻も続いている。日本にとって対岸の火事とでも思っているのだろうか。中国の野心は尖閣諸島にとどまることなく沖縄へ、ロシアのウクライナ侵攻は北海道へとつながっていきかねない。

外交による平和的解決を最優先しても、軍事力の後ろ盾がない外交はあり得ない。トランプ大統領が「米国は日本を守らなければならないが、日本は米国を防衛する義務はない」とまっとうに指摘する片務的な日米安全保障条約をあてにしていいはずもない。

にもかかわらず、「戦力を保持しない」などとする厳しい国際情勢とかけ離れた憲法第9条の改正論議すら一向に深まらない。石破首相や未来のリーダー候補に、国民の生命と財産を守るという政治家に求められる自覚はあるのだろうか。「平和ボケ」していると言わざるを得ない。

適材適所で国事にあたっているのかさえ疑わしい。石破首相は自身の内閣を、私情を捨てた国益最優先の布陣と胸を張って言えるのだろうか。自身を宰相へと押し上げた論功行賞だとしたら、つけは国民に押し付けられることを肝に銘じてもらいたい。

日本で批判的に報じられがちなトランプ大統領には、リーダーとして見習う点もある。最たるものは大胆な行動力だ。むちゃな関税の発動は論外だとしても、自身の信念に基づいて国益を追求する思い切った政策を次々に打ち出していく姿勢は日本の政治家にはないところだ。

リーダーの決断は多大な影響を及ぼすため、誤りがないのに越したことはない。しかし、誰であっても人間に無謬はあり得ない。大切なのは信念に固執するのではなく、虚心坦懐に周囲の声に耳を傾け、誤っていると気付けば軌道修正する「君子豹変」だ。

日本の政治家にも人材はいるはずだ。声を上げると権力者に潰されるという怖さはあって当然だが、待ち望まれているのは身を捨ててでも立ち上がる国士だ。自身は浮かばれないかもしれない。それでも尊い志は消えることなく、いつの日か花は開く>以上
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力づけられる良い論稿である。以下の産経2025/4/9 前駐中国大使、立命館大学教授・垂秀夫氏の「正論 対中外交に安易な期待は禁物」も良かった。
 
<◎:友華派とみられた石破政権――  石破茂政権の発足後、日中両国は首脳や外相らハイレベルで接触を重ねてきたが、実際のところ中国は、対日外交をどのように進めようとしているのか。3月下旬に来日した王毅共産党政治局員兼外相の言動やその前後の中国側の論評等を通じて、昨今の中国側の対日認識を分析してみたい。

ポイントは4つある。1つ目は中国側は当初、久々に対中友好政権、中国語で「友華派」が誕生したと認識していたということだ。背景には昨年末に首相が訪中に意欲を示したことや、岩屋毅外相が実際に訪中し、日中関係や歴史問題を巡り中国側が「前向き」と受け止める発言をしたことがある。 これは中国の対日政策上、とても都合が良かった。
つまり、2つ目のポイントに移るが、中国としては対中強硬姿勢を示すトランプ米大統領の再登場により、対米関係を非常に警戒しており、日本を含む各国を引き寄せたいと考えていたからだ。いわば、両者の「思惑」が一致していると期待した。

しかし、3つ目のポイントであるが、台湾問題の日本側の対応により、中国側は現在、対日認識を調整しつつある。日米両国は2月の首脳会談後、両岸問題に関し「力または威圧によるあらゆる一方的な現状変更の試みに反対」と明記した共同声明を出した。中国側は日本側がこの共同声明を主導し、米国を改めて台湾問題に巻き込もうとしていると捉えた。

また2月上旬の海上自衛隊の護衛艦による台湾海峡の単独通過に加え、日本政府が3月11日、台湾に対する中国の立場を記した1972年の日中共同声明について「法的拘束力を有するものではない」とする答弁書を閣議決定したことで、中国側は一層不満を募らせた。声明は政治的なコミットメント(約束)であるから、法的拘束力の有無を問われれば、政府は「ない」と答えざるを得ない。だが中国側は日中関係の「政治的基礎」を崩された、と受け止めた。

◎:経済対話に閣僚は王氏のみ―― さらに王毅外相来日のタイミングで、元自衛隊統合幕僚長の岩崎茂氏が台湾の行政院(内閣に相当)の政務顧問に就任したことが明るみに出た。岩屋外相が「政府として関与したものではない」と説明しても、中国側は必ず何か日本政府が関係していると考える。要するに中国側は、友華派と思った石破政権は期待外れで、その対中政策は従来の政権と大差ないと認識を変化させつつあるわけだ。

日中韓外相会議の後に開かれた日中ハイレベル経済対話に王氏以外の中国の閣僚の姿はなかった。6年前の前回は中国の閣僚5人が出席し、昨年末の北京での日中ハイレベル人的・文化交流対話に、岩屋氏が阿部俊子文部科学相を連れて行ったのとは対照的だった。

北京では同時期に国際経済フォーラムが開かれ、王氏は日程の都合上、同行する閣僚を確保できなかったというが、中国側が望めば、違う外交日程を調整できただろう。王氏はトランプ政権への対応で日中韓の関係を固める必要があると判断したものの、台湾問題を巡る石破政権へのあてつけから、他の閣僚が日中の経済対話に参加できない時期をあえて選んで来日したとも考えられる。

中国への投資を強く望んでいるのは不況が続く中国の方だから、経済対話は本来、中国側が熱心にならなくてはならない。自分で自分の首を絞めた形だが、それだけ日本に不満があるということだ。

こうした不満は、すでに2月の日本財界三団体の訪中団に対し李強首相との会見をアレンジしなかったことからも示されていた。

◎:戦略を持って中国に対峙を―― 最後に4つ目のポイントである。日本が「核心」問題の台湾問題で小細工を弄するのであれば、歴史問題で圧力を強めるという手に出てきた。王氏は、未来志向の協力を議論すべき日中韓外相会議の冒頭と共同記者発表で、「今年は中国人民抗日戦争勝利80周年だ」と繰り返した。歴史問題を対日カードとして再利用すべく、石破首相にクギを刺したのだろう。

中国側は日中間の課題の中で、日本側は日本産水産物の禁輸措置の解除を最重視しているとみている。首相は夏の参院選に向け得点をかせぎたいと考えている、と彼らは分析しているためだ。

東京電力福島第1原発の処理水はIAEA(国際原子力機関)の追加モニタリングでも安全性が確認されている。だが、何事にも政治を優先させる中国は、本来無関係な台湾問題と結びつけて、禁輸措置を引き延ばす可能性がある。

どんなときも対話のチャンネルを維持する必要があるのは事実である。しかし、間違っても、こちらが善意を示せば、相手も善意を返してくれると考えて中国と対話をしてはならない。とりわけ歴史カードを改めて使い始めた中国側の誘いに応じ「80年談話」なるものを検討しては決してならないと考える。戦略なき外交で安易な期待を抱いて中国と対峙すると痛い目に遭う。政権中枢には、このことを肝に銘じて対中外交を構築していただきたい。(たるみ ひでお)>以上
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さすが駐中国大使を務めていただけに優れた論稿で、小生がひっくり返っても書けないリアリティがある。いやはやプロは凄い、脱帽せざるを得ない・・・古人曰く「学ばざれば暗し」、毎日が勉強だ(ちょっとシンドイが・・・)。

そう言えばここ1年ほど産経の論壇から細谷雄一氏を見なくなったが、どうしているのだろう、と氏のサイト「国際政治学者 細谷雄一の仕事部屋」を覗いてみたら20252/4/12「サロッティ『1インチの攻防』の日経新聞書評の懸念について」があった。要はアカの論客、羽場久美子氏(はばくみこ、1952年8月18日~)との喧嘩(上品に言えば論戦)である。WIKIによると羽場氏は政治学者、左派系言論人。青山学院大学名誉教授、早稲田大学招聘研究員、神奈川大学特任教授。京都大学客員教授。城西国際大学大学院特別栄誉教授。

細谷氏はこう説いている。
<昨年末に、岩波書店から邦訳が刊行された、M・E・サロッティ『1インチの攻防』が、大変にご好評を頂いております。またウクライ戦争の淵源を理解する必読書として広く読まれ、監訳者の一人としてとても嬉しく感じております。主要紙でもこれまで書評を掲載して頂いてきました。

その中で、2025年2月22日の日本経済新聞の書評で、青山学院大学名誉教授の羽場久美子先生が書かれた書評は、確かに上下二巻の浩瀚な書籍をお読みいただき書評を書いて頂いたこと自体が大変に有り難いことではございますが、本書の意図や意義を必ずしも適切にご理解して頂いていないような印象が残りました。
羽場先生は私と近いご専門で、欧州国際関係専門家として私の院生時代から親切にして頂いてきましたので、ここでこのように書くことは心苦しく感じますが、本書の意義が損なわれ誤解を招かぬように、ここに明記したいと考えております、云々>

ややこしい話なので争点を簡単にすれば、プーチン・ロシアは「ウクライナの独立に際して米国、英国、NATOなど西側諸国は自陣営に呼び込むことはしない、距離を置くと約束したのに、事実上はウクライナを西側諸国寄りにしている、裏切りだ」と怒っているわけだ。プーチン支持の共産主義者、羽場久美子氏としては「西側諸国が悪い、ウクライナも悪い、それに乗じている監訳者の細谷雄一氏も悪い」となる。自由民主人権法治を「ブルジョア階級による人民搾取」と呪い、共産主義独裁国家を目指す左派系の政治学者、言論人としては妥当な分析だ。そこそこファンもいるだろうし・・・

世界を見渡せば、露中北以外はマルクス・レーニン・スターリン・毛沢東式共産主義独裁政治はすっかり斜陽になった。それでも「共産主義はこの世の天国」と目指すガチガチのアカは日共のように未だに細々と生き残っている。彼らの妄想的言論に細谷氏が反論したい気持ちは分かるが、馬耳東風だろう。古人曰く「○○につける薬なし」、アカは数年もすれば自滅すると小生は楽しみにしている。
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渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
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