福祉はやがて国を亡ぼす
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」346/通算777 2024(令和6)年10/29/火】産経の首都圏版新聞にはなかった記事が産経サイトにあったのでびっくりしたが、産経WEST 2024/10/26 安東義隆氏の「日本人として戦った台湾人も英霊 四半世紀続く慰霊訪問団、始めた義憤とつなぐ覚悟」は感動的だった。以下転載する。
<先の大戦で日本統治下の台湾人が日本人として戦い、約3万人が亡くなった。その人たちを「英霊として追悼し、感謝するのは日本人の務め」との信念から台湾への慰霊訪問に生涯をささげた人がいた。令和元年/2019年に71歳で亡くなった福岡市の専門学校経営者、小菅亥三郎さん。小菅さんが結成した訪問団は今年25周年を迎え、11月23日、第26次訪問団が出発する。ただ近年は参加者の高齢化が進み、世代交代が課題だ。後継者たちは小菅さんの遺志を次世代につなぐ覚悟を新たにしている。
台湾は明治28年/1895年、日清戦争で勝利した日本に割譲された。先の大戦では台湾人の軍人・軍属約21万人が動員され、約3万人が戦死、戦病死した。軍人の多くは志願兵だったという。しかし戦後は日本人として扱われず、日本政府は補償の対象から外した。
中国共産党に負けて台湾に逃れた国民党政権が、かつての敵国の軍人を「英霊」として扱うはずはなく、昭和63年/1988年に李登輝総統が登場し、国民党一党独裁が終わるまで戦友や遺族はひっそりと追悼、慰霊するしかなかった。
訪問団事務局によると、小菅さんの父親はフィリピンに出征、復員後は戦友会活動に参加した。小菅さんも同行し、戦没者慰霊の大切さを学んだという。小菅さんは日本統治時代の台湾について知りたいと思い、平成11年/1999年3月、経営していた専門学校で社員の研修旅行を企画、台湾を訪れた。その際に利用したバス会社の社長から台湾人の元日本兵の慰霊祭が、台湾と日本、それぞれの戦友会の協力で毎年11月25日に台中市の宝覚禅寺で行われていることを教えてもらった。帰国後、案内状をもらい、その年の11月、慰霊祭に参加した。
「大東亜戦争で日本兵として亡くなられた台湾人に、日本国民として追悼と感謝の誠をささげ、顕彰すべきではないか」
義憤にかられた小菅さんは「日華(台)親善友好慰霊訪問団」を結成。最初の訪問から今年で25周年を迎え、11月23日に第26次訪問団が出発する。
宣伝・勧誘を兼ねた講演会を毎年6月に開催。10月に結団式、11月に訪台、1月に帰朝報告会と1年を通じて活動する。訪問の意義・目的を理解してもらうためで、行事を通じて参加者の結束が固まっていく。「台湾に行く人だけでなく、それを見送る人、迎える人もみな訪問団」が小菅さんの口癖だった。
慰霊祭は李登輝元総統が「霊安故郷」と揮毫(きごう)した碑前で行われる。参列者全員で「君が代」「海ゆかば」を歌い、戦友、遺族と交流会を開き話を聞く。が、年を追うごとに戦友は亡くなり、遺族も高齢化が進む一方だ。「このままで慰霊碑も朽ち果てるか、開発で壊されてしまう」。そんな危機感から毎回、政治家、行政当局者と懇談、慰霊継承に理解と協力を求めている。
平成30年/2018年から訪問団が慰霊祭の運営を引き継いだ。地元の参列者が戦友、遺族合わせて10人余りになったためだ。が、訪問団も同様の課題を抱える。最高72人が今では20人余と減り、現状維持がやっと。結成20周年を迎えた令和元年/2019年7月、小菅さんが病気で亡くなる。第21次訪問はかなわなかった。以降も団長名義は小菅さんのままとし、2人の団長代行を立てた。
その一人、団長代行の田口俊哉さん(65)は、「訪問団は100%民間主体。民間の意気と活力、使命感でもって遂行されてきた『公的事業』といえる」と自負し、小菅さんの遺志を次世代につないでいく覚悟だ>以上
執筆した安東義隆氏は産経大阪編集局の特別記者。「日華(台)親善友好慰霊訪問団」と産経は平成14年/2002年9月10日に産経新聞に見開広告を掲載したことから交流が始まったようだ。
小生は1970年に林景明著「知られざる台湾」と王育徳著「台湾 苦悶するその歴史」などを読んで「台湾独立運動」に関心を寄せるようになった。それから50年以上経ても未だに習近平・中共≒漢民族と、毛沢東との内戦に負けて台湾に逃げ込んだ蒋介石軍の残党≒漢民族に、高砂族(たかさごぞく)など先住民族は苦しめられてきた。現在の台湾は総人口2321万人の立派な国だというのに、14億市場の中共の圧力を受けたのだろう、台湾は国連からも追放されてしまった! フリー百科事典ウィキペディアによると――
<1987年に戒厳令解除に踏み切った蔣経国(蒋介石の長男、総統在職:1978年~)は国際的にはアメリカの庇護下で、日本、韓国、フィリピンとともに共産圏封じ込め政策の一端を担っていたが、ベトナム戦争の行き詰まりから米中が国交を樹立すると、台湾は国連から追放され、日本からも断交されるに至った。しかしアメリカは自由陣営保持の観点から台湾関係法(1979年)を制定し台湾防衛を外交テーゼとしている。
1988年の蔣経国の死後、総統・国民党主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の「総統民選」を実施、そこで総統に選出された・・・>
自由民主人権法治国家への大きな前進だが、事は容易ではない。蔣介石とともに大陸から移住して来た「外省人」は普通語(漢族の漢語、北京語とも)教育、中華文化の推奨などを通して「台湾の中華化」を目指し、それ以前から台湾に住んでいた「本省人」との対立は依然として続いている。すでに20年前の2003年の台湾人調査によると10代では100%が「私は台湾人であって、中国人では無い」という意識を持っているという。
日本が敗戦で台湾から撤収すると、毛沢東との内戦に苦労していた蒋介石一派の中国人軍隊軍属、家族などが本土から台湾にどっと押し寄せ、先住民の本省人(台湾人)を蛮族扱いで弾圧し始めた。「犬(日本=番犬)去りて豚来たる」と台湾人は嘆いたが、1947年2月、蒋介石軍が台湾人を容赦なく弾圧した「二・二八の大反乱」は現在でも語り継がれている。産経2024/8/7 金美齢モラロジー道徳教育財団顧問の「二・二八事件、女学校が鎮圧部隊の宿舎に『処理委員会』は狡猾な時間稼ぎだった」によると「3月8日、南京からの鎮圧部隊が基隆、高雄両港から上陸。台湾全土で身の毛もよだつ惨劇が繰り広げられた。犠牲者は少なくとも約2万8千人…」と語り継がれている。
蒋介石一派の残党のような台湾の「中国国民党」はその名称通りに習近平の子分のよう。一方でライバルの民主進歩党(民進党)は中国国民党の嫌がらせに必死で耐えている。産経2024/10/25 「台湾野党主導で可決された立法院権限強化法、主要部分で「違憲」判断 頼政権は大打撃回避」から。
<【台北=西見由章】台湾の憲法裁判所にあたる憲法法廷は25日、野党主導で可決、施行された立法院(国会に相当)の権限を強める関連法について、主要部分を違憲とする判断を示した。頼清徳総統が主席を務める民主進歩党は立法院で少数与党に転落しており、関連法が大筋で合憲と判断された場合に予想された政権運営への大きな打撃は回避した形だ。
関連法案は、最大野党の中国国民党と第2野党、台湾民衆党が与党追及を狙って5月下旬に可決。行政院(内閣)が再審議を求めたが6月に再可決、施行された。頼総統と民進党の立法委員(国会議員)団などが違憲審査と関連法の停止処分を請求し、7月から関連法の一部が停止していた>以上
アカ(≒自由民主を看板に国家を弱体化する共産主義的な勢力)はG7やG20の諸国では珍しくない。山本夏彦翁曰く「金持から貧乏人、乞食までいてこそ国家である」。議員になりたい者は選挙で勝つために「福祉」を唱えて貧乏人、乞食に擦り寄る。一所懸命に努力しなくても食っていけるとなれば誰が必死で頑張るものか。賢者曰く「福祉はやがて国を亡ぼす」。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/
までお願いいたします(従来の ishiifam@minos.ocn.ne.jp はOutlook(new)に消滅されたようで困惑しています)
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小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」346/通算777 2024(令和6)年10/29/火】産経の首都圏版新聞にはなかった記事が産経サイトにあったのでびっくりしたが、産経WEST 2024/10/26 安東義隆氏の「日本人として戦った台湾人も英霊 四半世紀続く慰霊訪問団、始めた義憤とつなぐ覚悟」は感動的だった。以下転載する。
<先の大戦で日本統治下の台湾人が日本人として戦い、約3万人が亡くなった。その人たちを「英霊として追悼し、感謝するのは日本人の務め」との信念から台湾への慰霊訪問に生涯をささげた人がいた。令和元年/2019年に71歳で亡くなった福岡市の専門学校経営者、小菅亥三郎さん。小菅さんが結成した訪問団は今年25周年を迎え、11月23日、第26次訪問団が出発する。ただ近年は参加者の高齢化が進み、世代交代が課題だ。後継者たちは小菅さんの遺志を次世代につなぐ覚悟を新たにしている。
台湾は明治28年/1895年、日清戦争で勝利した日本に割譲された。先の大戦では台湾人の軍人・軍属約21万人が動員され、約3万人が戦死、戦病死した。軍人の多くは志願兵だったという。しかし戦後は日本人として扱われず、日本政府は補償の対象から外した。
中国共産党に負けて台湾に逃れた国民党政権が、かつての敵国の軍人を「英霊」として扱うはずはなく、昭和63年/1988年に李登輝総統が登場し、国民党一党独裁が終わるまで戦友や遺族はひっそりと追悼、慰霊するしかなかった。
訪問団事務局によると、小菅さんの父親はフィリピンに出征、復員後は戦友会活動に参加した。小菅さんも同行し、戦没者慰霊の大切さを学んだという。小菅さんは日本統治時代の台湾について知りたいと思い、平成11年/1999年3月、経営していた専門学校で社員の研修旅行を企画、台湾を訪れた。その際に利用したバス会社の社長から台湾人の元日本兵の慰霊祭が、台湾と日本、それぞれの戦友会の協力で毎年11月25日に台中市の宝覚禅寺で行われていることを教えてもらった。帰国後、案内状をもらい、その年の11月、慰霊祭に参加した。
「大東亜戦争で日本兵として亡くなられた台湾人に、日本国民として追悼と感謝の誠をささげ、顕彰すべきではないか」
義憤にかられた小菅さんは「日華(台)親善友好慰霊訪問団」を結成。最初の訪問から今年で25周年を迎え、11月23日に第26次訪問団が出発する。
宣伝・勧誘を兼ねた講演会を毎年6月に開催。10月に結団式、11月に訪台、1月に帰朝報告会と1年を通じて活動する。訪問の意義・目的を理解してもらうためで、行事を通じて参加者の結束が固まっていく。「台湾に行く人だけでなく、それを見送る人、迎える人もみな訪問団」が小菅さんの口癖だった。
慰霊祭は李登輝元総統が「霊安故郷」と揮毫(きごう)した碑前で行われる。参列者全員で「君が代」「海ゆかば」を歌い、戦友、遺族と交流会を開き話を聞く。が、年を追うごとに戦友は亡くなり、遺族も高齢化が進む一方だ。「このままで慰霊碑も朽ち果てるか、開発で壊されてしまう」。そんな危機感から毎回、政治家、行政当局者と懇談、慰霊継承に理解と協力を求めている。
平成30年/2018年から訪問団が慰霊祭の運営を引き継いだ。地元の参列者が戦友、遺族合わせて10人余りになったためだ。が、訪問団も同様の課題を抱える。最高72人が今では20人余と減り、現状維持がやっと。結成20周年を迎えた令和元年/2019年7月、小菅さんが病気で亡くなる。第21次訪問はかなわなかった。以降も団長名義は小菅さんのままとし、2人の団長代行を立てた。
その一人、団長代行の田口俊哉さん(65)は、「訪問団は100%民間主体。民間の意気と活力、使命感でもって遂行されてきた『公的事業』といえる」と自負し、小菅さんの遺志を次世代につないでいく覚悟だ>以上
執筆した安東義隆氏は産経大阪編集局の特別記者。「日華(台)親善友好慰霊訪問団」と産経は平成14年/2002年9月10日に産経新聞に見開広告を掲載したことから交流が始まったようだ。
小生は1970年に林景明著「知られざる台湾」と王育徳著「台湾 苦悶するその歴史」などを読んで「台湾独立運動」に関心を寄せるようになった。それから50年以上経ても未だに習近平・中共≒漢民族と、毛沢東との内戦に負けて台湾に逃げ込んだ蒋介石軍の残党≒漢民族に、高砂族(たかさごぞく)など先住民族は苦しめられてきた。現在の台湾は総人口2321万人の立派な国だというのに、14億市場の中共の圧力を受けたのだろう、台湾は国連からも追放されてしまった! フリー百科事典ウィキペディアによると――
<1987年に戒厳令解除に踏み切った蔣経国(蒋介石の長男、総統在職:1978年~)は国際的にはアメリカの庇護下で、日本、韓国、フィリピンとともに共産圏封じ込め政策の一端を担っていたが、ベトナム戦争の行き詰まりから米中が国交を樹立すると、台湾は国連から追放され、日本からも断交されるに至った。しかしアメリカは自由陣営保持の観点から台湾関係法(1979年)を制定し台湾防衛を外交テーゼとしている。
1988年の蔣経国の死後、総統・国民党主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の「総統民選」を実施、そこで総統に選出された・・・>
自由民主人権法治国家への大きな前進だが、事は容易ではない。蔣介石とともに大陸から移住して来た「外省人」は普通語(漢族の漢語、北京語とも)教育、中華文化の推奨などを通して「台湾の中華化」を目指し、それ以前から台湾に住んでいた「本省人」との対立は依然として続いている。すでに20年前の2003年の台湾人調査によると10代では100%が「私は台湾人であって、中国人では無い」という意識を持っているという。
日本が敗戦で台湾から撤収すると、毛沢東との内戦に苦労していた蒋介石一派の中国人軍隊軍属、家族などが本土から台湾にどっと押し寄せ、先住民の本省人(台湾人)を蛮族扱いで弾圧し始めた。「犬(日本=番犬)去りて豚来たる」と台湾人は嘆いたが、1947年2月、蒋介石軍が台湾人を容赦なく弾圧した「二・二八の大反乱」は現在でも語り継がれている。産経2024/8/7 金美齢モラロジー道徳教育財団顧問の「二・二八事件、女学校が鎮圧部隊の宿舎に『処理委員会』は狡猾な時間稼ぎだった」によると「3月8日、南京からの鎮圧部隊が基隆、高雄両港から上陸。台湾全土で身の毛もよだつ惨劇が繰り広げられた。犠牲者は少なくとも約2万8千人…」と語り継がれている。
蒋介石一派の残党のような台湾の「中国国民党」はその名称通りに習近平の子分のよう。一方でライバルの民主進歩党(民進党)は中国国民党の嫌がらせに必死で耐えている。産経2024/10/25 「台湾野党主導で可決された立法院権限強化法、主要部分で「違憲」判断 頼政権は大打撃回避」から。
<【台北=西見由章】台湾の憲法裁判所にあたる憲法法廷は25日、野党主導で可決、施行された立法院(国会に相当)の権限を強める関連法について、主要部分を違憲とする判断を示した。頼清徳総統が主席を務める民主進歩党は立法院で少数与党に転落しており、関連法が大筋で合憲と判断された場合に予想された政権運営への大きな打撃は回避した形だ。
関連法案は、最大野党の中国国民党と第2野党、台湾民衆党が与党追及を狙って5月下旬に可決。行政院(内閣)が再審議を求めたが6月に再可決、施行された。頼総統と民進党の立法委員(国会議員)団などが違憲審査と関連法の停止処分を請求し、7月から関連法の一部が停止していた>以上
アカ(≒自由民主を看板に国家を弱体化する共産主義的な勢力)はG7やG20の諸国では珍しくない。山本夏彦翁曰く「金持から貧乏人、乞食までいてこそ国家である」。議員になりたい者は選挙で勝つために「福祉」を唱えて貧乏人、乞食に擦り寄る。一所懸命に努力しなくても食っていけるとなれば誰が必死で頑張るものか。賢者曰く「福祉はやがて国を亡ぼす」。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/
までお願いいたします(従来の ishiifam@minos.ocn.ne.jp はOutlook(new)に消滅されたようで困惑しています)
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