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マッカーサーの創った日本/2

2025-07-21 15:33:56 | 戦争
【雀庵の「大戦序章」416/通算847 2025/令和7年7/21 月曜】 マッカーサーの創った日本/2 “シーチン”修一
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プーチン・ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まって以来のここ数年、小生は国際社会の動きを追い駆けるようになったので、重箱の隅をつつくような日本の内政や外交について関心が薄れていたが、今回の参院選で自民党が大敗したので「日本は大丈夫なのか?!」と大いに不安になった。

石破という、免罪符売りの邪教カトリックキリスト教徒が小生の知らぬ間に総理大臣&自民党総裁になったのだから、もっと早くから危機感を持つべきだった。後悔先に立たず・・・

産経2025/7/21社説「主張 参院選で与党大敗『石破自民』は否定された 民意受け首相は直ちに退陣を」から。
≪参院選で自民党、公明党の与党は議席を大きく減らし、大敗を喫した。一方で、新興の参政党が、選挙戦後半で急速に支持を伸ばして躍進した。国民民主党も議席を大幅に伸ばした。

今回参院選は事実上の政権選択選挙とされた。昨年の衆院選で与党が過半数割れし、少数与党政権となっていたからだ。
石破茂首相(自民総裁)は憲政の常道に則(のっと)り、衆院選後に直ちに辞任すべきだったが続投した。だが、有権者は参院選でも厳しい審判を下し、「石破政治」を拒んだといえる。

◎:政権運営を任せられぬ/// それにもかかわらず、石破首相は20日夜、「比較第一党の責任をよく自覚しなければならない」などと述べ、続投の意向を表明した。だが、衆院選で自ら設定した勝敗ラインを割り込み、参院選でも大敗した首相に国のかじ取り役は任せられない。

野党各党も、居座りを決め込む石破首相に協力することはあるまい。求心力を失った首相がトランプ米政権との経済交渉をやり抜くことなど望むべくもない。首相も森山裕自民幹事長も潔く辞任すべきだ。自民は新総裁を選出し、再出発を図るときである。


参院選では、自民を長年支えてきた岩盤支持層が離れ、参政など他の政党へ流れた。背景には、石破首相が外交安全保障で率先して国民を守る姿勢を示さなかったことがある。内政でも、物価高対策が評価されなかったほか、リベラル傾向をみせた点も理由となった。

外交、安全保障をめぐって石破首相は先頭に立って働かなかった。日米関税交渉では、閣僚協議ばかりを重ね、首相自身はトランプ米大統領とのトップ交渉から逃げた印象は否めない。北大西洋条約機構(NATO)首脳会議も欠席した。

対中姿勢もあやふやだった。選挙期間中、東シナ海上空で中国軍機が航空自衛隊機に異常接近したり、中国に不当に拘束されたアステラス製薬の日本人社員に実刑判決が下されたりした。にもかかわらず石破首相は強く抗議しなかった。

片方の親と子の「強制的親子別姓」を意味する選択的夫婦別姓制度をめぐり、首相も自民もその危うさを論じなかった。
憲法改正問題では、自民は衆院憲法審査会会長のポストを改憲に慎重な立憲民主党の枝野幸男元代表に明け渡した。

安定的な皇位継承策をめぐっては男系継承という最重要原則を踏まえた立法府の総意形成が急務であるにもかかわらず、首相がリーダーシップを発揮して調整に動いた形跡はない。
物価高対策では迷走の末、批判も多い給付金に飛びつくという節操のなさを示した。
保守的な支持層に愛想を尽かされるのは当然だ。

◎:参政が保守の受け皿に/// 無党派層とともに、「石破自民」を見限った岩盤保守層の受け皿となったのが、結党わずか5年の参政だ。
参政は選挙戦で外国人対策を前面に打ち出した。在留外国人数が過去最多となる中、外国人をめぐる犯罪や迷惑行為が目立つようになった。
外国人対策が国政選挙で争点になったのは初めてだろう。対策が急務の課題である。参政は「日本人ファースト」を掲げ、「行き過ぎた外国人受け入れ」に反対の姿勢を鮮明にした。
外国人労働者の受け入れ制限や、外国人による土地・不動産購入への制限を訴えた。また、伝統的な家族観を守るため選択的夫婦別姓制度の導入に反対し、LGBT理解増進法の撤回も掲げた。

国民民主は「手取りを増やす」ことを重点的に訴え、議席を大幅に伸ばした。ただし、通常国会後半で選択的夫婦別姓導入の法案を提出するなどして保守層から失望された。保守層への浸透で参政の後塵を拝したかたちだ。

立民に勢いがあったとはいえない。選挙区選挙で勝ったところも、自民や参政などに保守票が分散した結果、相対的に優位に立った側面がある。野党第一党にもかかわらず、与党への不満の最大の受け皿とならなかった。自民に、民主党から立民にいたる野党第一党が対峙する構図が崩れた意味合いは大きい。

公明、共産党は支持層高齢化などで苦戦した。大半の既成政党は激変にさらされている。政治の地殻変動が始まった≫以上。「激変の地殻変動の時代」である。危機意識を高めるべし!
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お待たせしました!? 以下は連載の「マッカーサーの創った日本/2」である。
「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」を読んでいる。版元は芙蓉書房出版で、「1938年~1945年までの7年間、秘密戦の研究開発、整備、運用を行っていた陸軍中野学校の実像を総合的な視点で描く スティーブン・C・マルカード 著、秋塲涼太訳 出版年月日2022/08/04」。内容紹介にはこうあった。
 
≪帝国陸軍の情報機関、特務機関「陸軍中野学校」の誕生から戦後における“戦い”までをまとめた書 The Shadow Warriors of Nakano: A History of The Imperial Japanese Army’s Elite Intelligence Schoolの日本語訳版。

1938年~1945年までの7年間、秘密戦の研究開発、整備、運用を行っていた陸軍中野学校の巧みなプロパガンダや「謀略工作」の実像を客観的、総合的な視点で描くとともに、OBたちの戦後の動静にも注目。とくに「最後の中野学校戦士」末次一郎氏の活躍を詳細に描いている。
◎戦時中の日本のインテリジェンス史を日米双方の視点から再検証
◎世界各地に散っていった中野出身者の工作行動とはどんなものだったのか
◎高度で洗練された情報機関を擁しながら、それを生かせなかったのはなぜか
◎中野学校の遺産(レガシー)とは何か

著者スティーブン・C・マルカードの「日本語版刊行にあたって」より。「陸軍中野学校の創設とその後の要員達の活動を、戦時、平時という国際情勢の文脈の中で描いた私の試みは、インテリジェンスを単なる異常、冒険、悪などとして描いた他の書籍を読んだ日本人読者にとっても興味深いものとなるだろう」≫
以下、同書の第12章「受け継がれるもの 切り裂かれたヨーロッパの植民地支配」から引用する。
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1945年9月20日の朝、戦艦ミズーリの甲板には連合国代表が集まり、日本の降伏を受け入れた。米国代表のチェスター・W・ニミッツ提督に続き、英国のブルース・フレーザー提督、フランスのジャック・ルクレール大将、オランダのコンラート・ヘルフリッヒ中将が降伏文書に署名した。この場面は、英国、フランス、オランダが中断していたアジア地域の支配を再開しようとしていることを示していた。

日本は東南アジアからヨーロッパの植民地列強を追い出し、彼らに屈辱を与えたが、米国派連合国の反撃を主導して日本を打ち負かしたのだった。調印式に参加した立会人の中には、アジアがヨーロッパの覇権により再び安全になったと結論づけた者もいただろう。第2次世界大戦の二面性がこれほど顕著に表れるところは他になかった。例えば、フランスの解放とドイツを打ち負かすために戦ってきたフランスのジャック・ルクレール大将は8月18日、フランスからアジアに向けて飛び立った。今度はインドシナを再び手中に収めるべく遠征部隊を率いることになった。

ヨーロッパの米国同盟国は、彼らの帝国の富を取り戻すことを企図していた。まさしく1942年、英国は戦後のある時期にインドの自治を約束していた。しかしその約束はどのような形で守られるのか、詳細は不明確であった。英国はインドの反乱を回避するための方策として、戦時中の低迷期に交わされた約束を守るのだろうか。ビルマ、マレー、シンガポールに関しては、英国は支配を継続するつもりだった。
マウントバッテン伯爵の東南アジア司令部(SEAC)では、戦時中のインドで勤務していた米情報将校達は、SEACは「Save England's Asia Colonies(英国のアジア植民地を救え)」を真に意味していると辛辣に形容していた。

半年前に日本の収容所に投獄されたインドシナのフランス軍部隊は(1945年9月20日の)降伏調印式の月に解放されたが、すぐに外国支配からの解放を目指すベトナム人と衝突した。8月15日の玉音放送の3日後には、日本の恩恵を受けた指導者たちが独立を宣言したインドネシアに、再び島を支配すべくオランダ兵達が戻ってきた。

しかし、ヨーロッパの植民地軍と警察部隊は、民族主義運動を鎮圧することができなかった。
日本は西欧列強を屈服させることで、戦後にアジアの民族主義者たちが反乱を起こす力を生んだのだ。
インド国民軍将校達の「レッドフォート裁判」の間、インド人水兵が英国に対して暴動を起こしたとき、英国はインド帝国を維持するためのコストが、英国国民全体が疲弊した戦争のそれ以上であることが分かった。独立は1947年、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間で論争が起こり、大英帝国の至宝がインドとパキスタンに分割し成立した。

(同時期にビルマでも英国は追い詰められる。)鈴木大佐の「南機関」の元弟子であったアウン・サンとの武力闘争の恐れに直面した英国は、1947年にビルマの独立要求を受け入れ、翌年1月に共和国が誕生した。また英国はマレーでも譲歩し、1948年までには英国の監督を受けて連邦化を実現した。(以下次号)
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