天皇・文武両道・大和魂・豊かな自然が好き
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」369/通算800 2025/令和7年2/26 木曜】 2月23日は第126代徳仁(なるひと)天皇御誕生日だった。日本が日本らしいのはこの「天皇制」によると小生は思っている。初代の神武天皇即位は西暦紀元前660年2月11日、明治6年/1873年に「紀元節」として祝日になったが、敗戦後の昭和22年/1948年7月20日にGHQ(米国占領軍)により紀元節は廃止された。その後、昭和41年/1966年から2月11日は「建国記念の日」として祝日となり、翌年から適用された(WIKIなどによる)。
大正生まれの我が両親によると、小学校時代に代々の天皇を暗記する授業があったらしい。天皇崇拝と同時に歴史≒建国の物語を教えるためだったろう。どういうわけか小生も子供の頃「神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安」あたりを口ずさんでいたから両親の影響に違いない。「第126代天皇の男系(父系)直系祖先 皇統譜」によると――
<神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝靈・孝元・開化・ 崇神・ 垂仁・景行・仲哀・応神・ 継体・欽明・・・> 明治、大正、そして昭和の敗戦まで子供達は遊び感覚、ゲーム感覚で暗記していったのだろう。
高校用歴史教科書「日本人の誇りを伝える最新日本史」 は渡部昇一、小堀桂一郎 、國武 忠彦などそうそうたる識者の共著(明成社、2012/9/22)。巻頭に曰く「その国の歴史は祖国に誇りをもった人にしか語れない」、誠に意気軒高の正論だ。以下ごく一部を紹介する。
◎:日本の建国伝承▼ 日本の統一国家への動きは、中国の歴史書に見える断片的な記事や、国内に散在する考古学的な遺跡・遺物などから明らかにされつつある。それらと合わせて大切な手掛かりになるのは8世紀初頭に編纂された「古事記」「日本書紀」などに見える伝承である。
それらによれば、大和朝廷の始祖は神武天皇(始馭天下之天皇、はつくにしらすすめらみこと)で、軍勢を率いて故地の日向から瀬戸内海を渡り、難波、紀伊、熊野、吉野を経て、ついに大和の地を平定し、橿原(かしはら)の宮で即位したと伝えられている。
弥生時代には北九州から畿内方面へ、稲作の技術や銅鏡などの文物が伝播したが、この伝播は時期を異にして何回もの人間の移動とともにあったと考えられている。神武東遷伝承は、そのまま史実と認めることはできないであろうが、この物語の核には、東方への移動を踏まえた伝承があると思われる(以上)。
世界史によると何処の国でも弱肉強食で部族が縄張り争いをし、やがて強者が部族をまとめて国家統一へ向かっていく――という伝承や物語が多い。孤立を恐れて連帯を求めるのは生きものの初期設定なのだろう。プーチン、習近平、北朝鮮、イラン・・・嫌われ者のヤクザや異端児は群れを成さないと他国や人民に駆除されかねないと戦々恐々のよう。勇武と知性を良しとする文武両道、大和魂の日本は大丈夫、と思いたいが・・・
・・・・・・・・・・・・
話は変わって2月21日は久し振りに隣町の生田緑地にある「かわさき宙と緑の科学館」の動植物エリアを訪ねたが、すっかり綺麗になり展示もビックリするほど充実していた。特に多摩川の歴史を「最初の一滴」から東京湾に流れ込むまでの138キロを紹介した30分ほどのアニメ動画は実に感動的だった。史料がないので残念だったが、ヤマケイオンラインなどによると「多摩川最初の一滴を生み出す『水干(みずひ)』と笠取山」をこう紹介している。
<山梨県・埼玉県の県境にある笠取山(かさとりやま、標高1953m)は多摩川の水源地として守られた原生林に覆われ、山頂から南面に下る「水干」は多摩川源流の地。周辺は広葉樹林が新緑に染まり始める5月中旬以降に楽しめる>
笠取山はハイキングに夢中になっていた若い頃に家族全員で登ったことがあるが、そこが多摩川の源流とは知らなかった。まったくもって無知の涙・・・で、遅ればせながら敗者復活を目指して2/22にはあらためてチャリ散歩で多摩川土手を下流に向けて散策したが、パワーが続かずに第3京浜の橋を前にして引き返せざるを得なかった。まったくもって経年劣化による老いの涙・・・今冬一番の寒さで冷え切って鼻水タラタラ、手足はフラフラだったが、怪我しなかっただけマシである。八百万の神様仏様ご先祖様に感謝! オットーッ! このところ体調が良くなったのは専属ナースのカミサンによるケアが効いていることを忘れてはいけない(♡!)。
体調が改善されつつあること、またビルの営繕作業が一段落したこともあって、このところ我が街界隈をしっかり観察する余裕ができてきたのは想定外の前進。その観察で一番びっくりしたのは、我が街では「3階建てのお洒落な新築の家が急増している」こと。敗戦後に雨後の筍のように生まれ育った「団塊の世代」(1947/昭和22年〜1949/昭和24年生まれ)の家が経年劣化し、1990年あたり以降に生まれた「団塊世代のジュニア」が資産を相続すると、都市部なら「土地」はかなりの高額で、それを担保に銀行などから融資を得て住宅ローンで新築に励むようになったのだ。
しかし、住宅ローンは借金だから、返済できなければ住宅は銀行などに接収される。小生も遺産相続のカネを頭金に、恐いもの知らずでかなりの額の銀行ローンで今のビルを建てたものの、しばらくはテナントが入らず借金返済に追われて四苦八苦、「東名高速で一家が事故死すれば『借金苦での自殺』と言われるんだろうなあ」とカミサンに言うと悲しげにうなずいた。
なぜこんなことになったのか・・・遺産相続でカネが入ってしばらくすると、イケイケドンドンの「バブル経済」が始まったのだ。
<日本では、1974年1月以降の安定成長を経て、1985年9月、「プラザ合意」がバブル景気の直接の引き金となった。日本経済は空前の好景気を迎え、株式市場も日経平均株価30,000円の大台を超えた。バブル後の゛失われた30年”は、日本経済への打撃をそのまま示すものであった>WIKI
日本では経営者を始め国民の多くは、1960年7月からの池田勇人政権による「所得倍増計画」により、自分たちの長年の努力が実を結んだので好景気になったと喜んだ。銀行など金融機関は低金利でそれを煽ったので、企業も個人も恐いもの知らずで事業を拡大していった。
振り返れば敗戦の1945年前後から苦しい日々を日本人は懸命に耐えた。戦前・戦中派から焼け跡・闇市派、戦後生まれの団塊の世代、GHQによる占領統治&朝鮮戦争産まれ・・・皆が必死で生き延びたのだ。そして1960年安保騒動後の所得倍増計画あたりからようやく暮らしが少しづつ上向いていき、政府や有識者は「もはや戦後ではない」と敗戦国日本の民に自信をもたらすようになったのだ。
もっとも゛経済は生もの”で、高度成長期ながら小生が保釈を得て就業した1973年は「オイルショック」で大騒ぎ。日本人は天然資源の少ない国の危うさを知ったのだろう、どの国とも仲良くする、敵を作らない、自衛隊は最低装備だけ、といった「平和主義&商売優先」を進めていった。しかし結果的には戦後復興の高度成長期は1973年で終わり、1973~1985年は「安定成長期」になっていくのだが、小生の゛体感経済”では伸びる業種もあれば不景気な業種もあるという、一進一退の地味でさえない時代だった。
農家や実業家など大きな土地やカネを持っていても、景気がパッとしないので動かない・・・そこに1985年「プラザ合意」により「バブル景気」が始まったのである。
<当時はアメリカの「対日貿易赤字」が大きな問題として扱われていたため、先進5か国間で結ばれたプラザ合意は、実質的に「円高ドル安」へ誘導する合意であった。発表翌日の9月23日の1日24時間で、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落し、1年後には150円台で取引されるようになった>WIKI
1ドル235円だったのが円高で150円になった。例えば23万5000円だったハワイ旅行が15万円に! 小生も年末に家族全員でハワイへ行ったものである。海外旅行業界を始め多くの企業が「強い円」で諸国の安い物品やビルなどをドシドシ買い漁ったものである。結果的には「バブル景気」となってしまったが、短期間であれ「我が世の春、金持の明るい未来」を楽しんだのである。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」369/通算800 2025/令和7年2/26 木曜】 2月23日は第126代徳仁(なるひと)天皇御誕生日だった。日本が日本らしいのはこの「天皇制」によると小生は思っている。初代の神武天皇即位は西暦紀元前660年2月11日、明治6年/1873年に「紀元節」として祝日になったが、敗戦後の昭和22年/1948年7月20日にGHQ(米国占領軍)により紀元節は廃止された。その後、昭和41年/1966年から2月11日は「建国記念の日」として祝日となり、翌年から適用された(WIKIなどによる)。
大正生まれの我が両親によると、小学校時代に代々の天皇を暗記する授業があったらしい。天皇崇拝と同時に歴史≒建国の物語を教えるためだったろう。どういうわけか小生も子供の頃「神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安」あたりを口ずさんでいたから両親の影響に違いない。「第126代天皇の男系(父系)直系祖先 皇統譜」によると――
<神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝靈・孝元・開化・ 崇神・ 垂仁・景行・仲哀・応神・ 継体・欽明・・・> 明治、大正、そして昭和の敗戦まで子供達は遊び感覚、ゲーム感覚で暗記していったのだろう。
高校用歴史教科書「日本人の誇りを伝える最新日本史」 は渡部昇一、小堀桂一郎 、國武 忠彦などそうそうたる識者の共著(明成社、2012/9/22)。巻頭に曰く「その国の歴史は祖国に誇りをもった人にしか語れない」、誠に意気軒高の正論だ。以下ごく一部を紹介する。
◎:日本の建国伝承▼ 日本の統一国家への動きは、中国の歴史書に見える断片的な記事や、国内に散在する考古学的な遺跡・遺物などから明らかにされつつある。それらと合わせて大切な手掛かりになるのは8世紀初頭に編纂された「古事記」「日本書紀」などに見える伝承である。
それらによれば、大和朝廷の始祖は神武天皇(始馭天下之天皇、はつくにしらすすめらみこと)で、軍勢を率いて故地の日向から瀬戸内海を渡り、難波、紀伊、熊野、吉野を経て、ついに大和の地を平定し、橿原(かしはら)の宮で即位したと伝えられている。
弥生時代には北九州から畿内方面へ、稲作の技術や銅鏡などの文物が伝播したが、この伝播は時期を異にして何回もの人間の移動とともにあったと考えられている。神武東遷伝承は、そのまま史実と認めることはできないであろうが、この物語の核には、東方への移動を踏まえた伝承があると思われる(以上)。
世界史によると何処の国でも弱肉強食で部族が縄張り争いをし、やがて強者が部族をまとめて国家統一へ向かっていく――という伝承や物語が多い。孤立を恐れて連帯を求めるのは生きものの初期設定なのだろう。プーチン、習近平、北朝鮮、イラン・・・嫌われ者のヤクザや異端児は群れを成さないと他国や人民に駆除されかねないと戦々恐々のよう。勇武と知性を良しとする文武両道、大和魂の日本は大丈夫、と思いたいが・・・
・・・・・・・・・・・・
話は変わって2月21日は久し振りに隣町の生田緑地にある「かわさき宙と緑の科学館」の動植物エリアを訪ねたが、すっかり綺麗になり展示もビックリするほど充実していた。特に多摩川の歴史を「最初の一滴」から東京湾に流れ込むまでの138キロを紹介した30分ほどのアニメ動画は実に感動的だった。史料がないので残念だったが、ヤマケイオンラインなどによると「多摩川最初の一滴を生み出す『水干(みずひ)』と笠取山」をこう紹介している。
<山梨県・埼玉県の県境にある笠取山(かさとりやま、標高1953m)は多摩川の水源地として守られた原生林に覆われ、山頂から南面に下る「水干」は多摩川源流の地。周辺は広葉樹林が新緑に染まり始める5月中旬以降に楽しめる>
笠取山はハイキングに夢中になっていた若い頃に家族全員で登ったことがあるが、そこが多摩川の源流とは知らなかった。まったくもって無知の涙・・・で、遅ればせながら敗者復活を目指して2/22にはあらためてチャリ散歩で多摩川土手を下流に向けて散策したが、パワーが続かずに第3京浜の橋を前にして引き返せざるを得なかった。まったくもって経年劣化による老いの涙・・・今冬一番の寒さで冷え切って鼻水タラタラ、手足はフラフラだったが、怪我しなかっただけマシである。八百万の神様仏様ご先祖様に感謝! オットーッ! このところ体調が良くなったのは専属ナースのカミサンによるケアが効いていることを忘れてはいけない(♡!)。
体調が改善されつつあること、またビルの営繕作業が一段落したこともあって、このところ我が街界隈をしっかり観察する余裕ができてきたのは想定外の前進。その観察で一番びっくりしたのは、我が街では「3階建てのお洒落な新築の家が急増している」こと。敗戦後に雨後の筍のように生まれ育った「団塊の世代」(1947/昭和22年〜1949/昭和24年生まれ)の家が経年劣化し、1990年あたり以降に生まれた「団塊世代のジュニア」が資産を相続すると、都市部なら「土地」はかなりの高額で、それを担保に銀行などから融資を得て住宅ローンで新築に励むようになったのだ。
しかし、住宅ローンは借金だから、返済できなければ住宅は銀行などに接収される。小生も遺産相続のカネを頭金に、恐いもの知らずでかなりの額の銀行ローンで今のビルを建てたものの、しばらくはテナントが入らず借金返済に追われて四苦八苦、「東名高速で一家が事故死すれば『借金苦での自殺』と言われるんだろうなあ」とカミサンに言うと悲しげにうなずいた。
なぜこんなことになったのか・・・遺産相続でカネが入ってしばらくすると、イケイケドンドンの「バブル経済」が始まったのだ。
<日本では、1974年1月以降の安定成長を経て、1985年9月、「プラザ合意」がバブル景気の直接の引き金となった。日本経済は空前の好景気を迎え、株式市場も日経平均株価30,000円の大台を超えた。バブル後の゛失われた30年”は、日本経済への打撃をそのまま示すものであった>WIKI
日本では経営者を始め国民の多くは、1960年7月からの池田勇人政権による「所得倍増計画」により、自分たちの長年の努力が実を結んだので好景気になったと喜んだ。銀行など金融機関は低金利でそれを煽ったので、企業も個人も恐いもの知らずで事業を拡大していった。
振り返れば敗戦の1945年前後から苦しい日々を日本人は懸命に耐えた。戦前・戦中派から焼け跡・闇市派、戦後生まれの団塊の世代、GHQによる占領統治&朝鮮戦争産まれ・・・皆が必死で生き延びたのだ。そして1960年安保騒動後の所得倍増計画あたりからようやく暮らしが少しづつ上向いていき、政府や有識者は「もはや戦後ではない」と敗戦国日本の民に自信をもたらすようになったのだ。
もっとも゛経済は生もの”で、高度成長期ながら小生が保釈を得て就業した1973年は「オイルショック」で大騒ぎ。日本人は天然資源の少ない国の危うさを知ったのだろう、どの国とも仲良くする、敵を作らない、自衛隊は最低装備だけ、といった「平和主義&商売優先」を進めていった。しかし結果的には戦後復興の高度成長期は1973年で終わり、1973~1985年は「安定成長期」になっていくのだが、小生の゛体感経済”では伸びる業種もあれば不景気な業種もあるという、一進一退の地味でさえない時代だった。
農家や実業家など大きな土地やカネを持っていても、景気がパッとしないので動かない・・・そこに1985年「プラザ合意」により「バブル景気」が始まったのである。
<当時はアメリカの「対日貿易赤字」が大きな問題として扱われていたため、先進5か国間で結ばれたプラザ合意は、実質的に「円高ドル安」へ誘導する合意であった。発表翌日の9月23日の1日24時間で、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落し、1年後には150円台で取引されるようになった>WIKI
1ドル235円だったのが円高で150円になった。例えば23万5000円だったハワイ旅行が15万円に! 小生も年末に家族全員でハワイへ行ったものである。海外旅行業界を始め多くの企業が「強い円」で諸国の安い物品やビルなどをドシドシ買い漁ったものである。結果的には「バブル景気」となってしまったが、短期間であれ「我が世の春、金持の明るい未来」を楽しんだのである。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
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