goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

亡国前夜の日本をどうする/8

2025-05-31 16:07:19 | 戦争
亡国前夜の日本をどうする/8
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」406/通算837 2025/令和7年5/31 土曜】 スティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)のキモ紹介の続き。敗戦の日本 VS 勝者米国の静かなる場外戦であるが、ソ連の脅威が日米をパートナーにしていくことになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
◎:インテリジェンス・パートナーシップ///// 1945年9月2日の降伏文書調印式のため戦艦ミズーリに乗艦していたのは(中野学校出身の)有末精三中将の部下2人だった。一人は杉田一次大佐で、3年前に「マレーの虎」山下奉文(ともゆき)大将がパーシバル中将を降伏に追い込んだ際に通訳を務めた情報将校であった。もう一人は永井八津次(やつじ)少将で、戦時中は第二部謀略課を率い、プロパガンダ放送を指揮した。

降伏文書調印式から2日後の9月4日、有末は旧知の情報将校であるフレデリック・マンソンから「米陸軍が日本軍の暗号解読やその他の通信情報(COMINT)の能力に関心があり、専門家のヒュー・アースキン中佐と会うように」と命じられた。翌朝、アースキンを訪ねると、「陸軍参謀総長の下でCOMINT作戦を展開していた中央特殊情報部(CSID)について話して欲しい」と言う。有末はその組織を知らないふりをした。すると通訳を介していたアースキンは流暢な日本語で「何について尋ねているのか、あなたはよく知っているはずだ」と問い直した。有末は、アースキンが日本で生まれ育った人物であることを知った。

有末はやや緊張を解き、アースキンの尋問の目的を知りたいと要求した。「戦犯探しのためか、戦史や参考資料にするためか、それとも将来のソ連と中国共産党との戦いに備えるためなのか」と。
アースキンは「帝国陸軍のCOMINT担当将校を戦犯として特定するための情報収集ではない」と断言した。他の二つの可能性については直接言及しなかったが、このような情報が価値を持つときが来るかもしれないとほのめかした。

ほっとした有末は帝国陸軍の中央特殊情報部についてブリーフィングした。アースキンは、日本がフィリピンを征服した際にマニラで押収した米軍の「表計算機」の問題を取り上げた。米陸軍は初期のコンピュータである表計算機を暗号解読に使用していた。アースキンはソビエトの手に渡らないように、この行方不明の計算機の在り処を知りたがっていた。有末は、この計算機は終戦時に川に捨てられたと答えた。会談は友好的な雰囲気で終了し、有末は次の会議で日本のCOMINTについて、さらに詳細を話すこととなった。

会議を終えた有末は上機嫌だった。帝国陸軍中央特殊情報部の要員はCOMINT活動の証拠を隠滅し、占領当局から「戦犯」の烙印を押されるのを恐れて身を隠していた。有末はマッカーサーの情報参謀らが日本の情報を使用してソビエトに対抗しようとしていること、そのために中央特殊情報部長の西村敏雄少将と面談することも知っていた。それに先立ち有末は西村と会い、どう対応するかを話し合った。米ソ間の溝が拡大すれば日本が利益を得られる立場にあることを理解し、「依頼されればソビエトに対するCOMINTについて米国に協力する」ことで一致した。

米国からの依頼はすぐに来た。9月17日に有末がマッカーサーを追って横浜から東京に向かった数日後、情報部長のチャールズ・ウィロビー少将は「米陸軍の補助として活動する日本のCOMINT秘密組織」設立に関する起案を用意するように依頼してきた。有末は部下の永井八津次少将に依頼し、数10人のCOMINTを担当した退役軍人を集め、内容を練り上げ、3か月後のクリスマス近くにウィロビーらに゛プレゼント”した。100万円近い予算を要求する仰々しい提案に対し、ウィロビーは提案書を有末に戻して修正させた。
有末は米軍とのCOMINT(現在のSIGINT、諜報活動のSIGnal INTelligenceの略)パートナーシップ実現に向けた戦後初の日本の歩みを進めることができなかった。しかしその後、日本と米軍はすぐに相互理解に達したことがわかる。

米国の国家安全保障局の活動履歴を振り返ると、日本は第二次世界大戦以降、米軍のCOMINTの「優先標的」から「主要な活動拠点」へと変化した。日本本土でソ連に最も近い北海道では、1945年9月に日本のCOMINT拠点である千歳に最初の米軍部隊が到着した。1949年までに、NSA(アメリカ国家安全保障局、National Security Agency)の前身である陸軍秘密保全庁は、ソビエトの信号を監視するために第12軍秘密保全庁(ASA)野戦局を千歳に開局した。詳細は不明だが、ウィロビーと有末がある程度の理解を得たことは明らかなようだ。(以下次号)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https:*//blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp

亡国前夜の日本をどうする/7

2025-05-29 16:01:06 | 戦争
亡国前夜の日本をどうする/7
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」405/通算836 2025/令和7年5/29 木曜】 温故知新、故きを温ねて新しきを知る! スティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)の続き。前回はここまで紹介した。↓
・・・・・・・・・・・・・・・・
(米国の占領政策を懐柔するための)日本の(キリスト教徒を前面に出した)一連の宗教作戦は、公けの場では必ずと言っていいほど神の言葉を引用した米国聖公会信徒のマッカーサーにも確実に効果があった。ジャーナリストのジョン・ガンサーは、かつてマッカーサーがローマ教皇のサイン入り肖像画を受け取ったときの喜びをこう表現している。「マッカーサーは、自身と教皇を今日のキリスト教を代表する二人の人物とまで考えているほどだ。教皇はいわゆる精神面で戦い、マッカーサーは地上で共産主義(邪教?)と戦っている」。以下はその続き。
・・・・・・・・・・・・・
占領軍の精神的な側面を大切にしながらも、日本の政府関係者らは肉体的にも気を配った。1945/昭和20年8月18日、東久邇宮政権は「特殊慰安施設協会(RAA)」を設立した。これは入国してくる米兵のための公式の売春宿制度であった。数百万円という巨額の資金を投じて「慰安所」のチェーン店を設立し、GI(兵士)の「性の防波堤」の役割を果たした。

RAAは「真っ当な」日本人女性を不名誉から救い、その一方で戦場で疲弊した兵士を守った。この組織は隠されたものではなかった。1945年10月1日付のニッポンタイムズ(現ジャパンタイムズ)にRAAの広告が掲載された。そこには「占領軍部隊向けの大規模アミューズメント施設が完成。RAA施設へ前進!」と書かれていた。マッカーサーは基地生活の現実を理解していたベテラン司令官だった。そして、こうした環境下で生活する兵が引き起こした性に関わる事件を見て見ぬふりをしてきた。ウィロビーの情報将校の一人であったフォービアン・バワーズは数年後のインタビューで日本の慰安政策について冗談交じりで高く評価していた、「この政策が日本を゛侵略”から救った」と。

8月28日と30日に行われた厚木のレセプションを過大評価して浮かれていた有末は、すぐに楽観的な考えを持ち始めた。8月31日、マッカーサーが最初の司令部を置いた横浜のグランドホテルからから電話がかかってきた。有末はフレデリック・マンソン大佐の声が聞こえたことを喜んだ。マンソンは日本の軍事情勢に精通し、日本語も堪能であった。マンソンが初めて日本に降り立ったのは1932年、語学生としてだった。1935~36年の冬、彼は半年間、姫路の第10師団野砲兵第10連隊付として配属され、帝国陸軍を視察した。その後、マンソンは華北での日本軍の活動の視察に赴いた。

有末はマンソンを戦前から知っており、日本語が堪能なマンソンとの再会は「砂漠でオアシスを見つけた」または「地獄で仏に出会う」ようだった。有末はマンソンを日本人の心理や日本軍の感情を100%理解してくれる」人物と認識していた。マンソンを日本の良き理解者として迎えたことで、有末の不安は大きく軽減された。実際、占領下の日本で一年間、マンソンは有末のために占領軍の一部の非協力的なメンバーに対し調整を行い、有末と協力して今日も続く二国間の情報関係の基礎を築いた。(次号に続く)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https:*//blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp

亡国前夜の日本をどうする/6

2025-05-27 12:36:10 | 戦争
亡国前夜の日本をどうする/6
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」404/通算835 2025/令和7年5/27 火曜】 5/23は父母の墓参りと墓の後ろの植木の剪定、墓の右隣には幼いころから小生を可愛がってくれた親戚のオジサン&オバサンの墓、さらにちょっと離れたところには父の実家である「本家」(我が街を造った豪族)の墓もあるから、結構ハードな墓参りになった。最低でも1か月に一度は墓参りし掃除しないと大変な作業になってしまう。

5/24は4階展望台のペンキ塗りに精を出し良い気分になった。その勢いで3階の庭のぼさぼさになっていた植木の剪定と掃除をヒーヒー言いながらも完了したのだが・・・25日の朝から激しい腰痛で苦しんでいる。無理をし過ぎたのだ。がっちりサポーターで腰を保護しているが、痛くても苦しくても小生とスズメの餌を買いにスーパーBig-Aに行ってきた。マンガの「ど根性ガエル」だったか「人間、根性だあ!」というセリフを思い出した・・・と、いうワケで今日は小生の鬱屈晴らし、雑談にお付き合いを!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
近年では物質文明は凄い勢いで拡大している。清貧大好きヂヂイの小生から見れば「買っては捨て、捨てては買う」という物質文明は「奇跡の星地球」の敵、悪党の犯罪のように見える。WIKIにはこうあった。

≪物質文明とは、俗説的な文明の分類である。精神文明の対義語として"批判的"に用いられる。人間集団としての文明において、富や科学技術、巨大建築や兵器の水準のみ高く、個々の成員および共同体全体が精神的に堕落している状態を批判的に指す。特に近代欧米型の文明を批判する時に用いられる言葉である≫

もっとパンチ力のある解説はないものか・・・と探したらありました、およそ100年前、1917年11月の「国士舘設立趣旨」にはこうある。
「物質文明の弊、日に甚(はなは)だしく、人は唯(た)だ科学智を重んじて、徳性涵養を忘る。今日に於て教育とは唯だ化学智の売買たるのみ、此の如きは唯だ物質文明に終る。精神文明なくして国家豈(あに、どうして)一日の安きを得んや。蓋(けだ)し精神文明は物質文明を統一指導するものなり。精巧の武器、万種羅列するも、兵士起つて之運用するに非(あらざる)は、戦場に何の効果なからん。吾人は精神文明と精神敎育とを此際に唱道して国家の柱石たる真知識を養成せん事を期す」

難解だが、要は「一流の技術を目指すだけではなく、その技術を富国強兵にこそ生かさなければ二流三流国家でしかない」ということだろう。戦争、侵略が日常茶飯事の「食うか食われるか」の時代だったのだ。

1917年(大正6年)と言えば、日本では「大正デモクラシー」に火が付いた。当時の世界は弱肉強食の時代で国家が強くなるのは結構だが、「最前線で戦っている我々庶民の暮らしも良くしてほしい」という素朴な願いがあったのだろう。
≪大正デモクラシーは、日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出。何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。

政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立、マルクス主義、アジア主義など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された≫

ロシア革命の影響もあったようだ。≪ロシア革命は、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家(ソビエト社会主義共和国連邦)樹立につながったことに重点を置く場合には「十月革命」のことを意味している。また逆に、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する≫

日本では゛主義者”はソ連を称賛していたらしいが、多くの日本人は天敵として嫌悪していたようだ。「生きるのに精一杯で、それどころではない」という人々も結構多かったのではないか。
『女工哀史』は1925/大正14年、改造社より刊行された、細井和喜蔵著のルポルタージュ。紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録している。小生も読んだが、庶民は生きること、生活すること自体が大変な時代だったのだ。そう、NHKの人気番組「おしん」のように。

食うだけで精一杯、女中や小僧でも奉公に出て食にありつけるだけ幸せだという「おしん」の時代は、大東亜戦争敗戦から復興し始めた1950年あたりで終わったようである。1956年度(昭和31年度)経済白書は「もはや戦後ではない」と復興をアピールした。「戦中と戦後の飢餓を克服したぞ!」という言葉だろう。1960年の「60年安保騒動」で共産主義独裁国家を目指すアカ≒ピンクの連中が大騒ぎをしたものの、徐々にではあれ衣食住が満たされてきた日本国民の支持は減るばかりになった。1964年の東京五輪で日本人は完全に「戦後復興した」と思う。我が街では商店主による重量挙げが盛んになり、高度成長もあって皆が楽しそうだった。

それからわずか6年後、1970年の「70年安保騒動」・・・大学2年の小生は「現代史研究会」を立ち上げていたが、中身は空っぽで、デモの際は「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の緑色のヘルメットをかぶっていた。今から思うとベ平連は共産主義国の北ベトナム(ベトナム民主共和国、1945年の革命によって成立した東南アジア最初のアカ≒ピンク国家)の応援団だったのだ。「バカがヘルメットかぶってやってくる」・・・自業自得ながら無知は恐ろしい。

そう言えばデモや集会の帰路、新宿駅構内で国士舘の学生3人ほどに囲まれたことを思い出した。緑色のヘルメットが災いを招いたのだ。前出の「国士舘設立趣旨」は100年前で格調高いものの難し過ぎたが、現代文の「国士舘 建学の精神と理念」はとても分かりやすい。以下転載する。

≪日本は明治維新後、西洋文明を積極的に受容し、社会の近代化を急速に推進してきました。このため社会は大いに伸張を遂げましたが、あまりに急激な近代化であったため、伝統文化を破壊し、軽視する傾向さえ生じました。日露戦争後には、国内問題が悪化し国民意識が変化するなかで、さまざまな社会問題が発生し、深刻な社会不安を惹起するようになりました。

このような当時の社会状況を憂い、柴田德次郎、阿部秀助、花田大助、喜多悌一、上塚司らの青年有志たちは、「言論」と「教育」をもって国家の繁栄と国民生活の安穏に資することを目指し、日本の「革新」をはかろうと、「社会改良」と「青年指導」を目的として「青年大民団」を組織し、1917(大正6)年、「活学を講ず」の宣言とともに、私塾「國士館」を創立するに至りました。
創立者たちの狙いは、「国士舘設立趣旨」で謳(うた)われているように、吉田松陰の精神を範とし、日々の「実践」のなかから心身の鍛練と人格の陶冶をはかり、国家社会に貢献する智力と胆力を備えた人材「国士」を養成することにありました。

以来、「国士」養成を理念として、学ぶ者みずからが不断の「読書・体験・反省」の三綱領を実践しつつ、「誠意・勤労・見識・気魄」の四徳目を涵養(かんよう)することを教育理念に掲げ、さまざまな分野で活躍する人材を世に輩出してきました。
今日、国士舘は、このような建学の志を大切に継承しながら、新たに発展を遂げた研究教育の諸領域でも、知識と実践の水準を高めつつ、世界の平和と進歩を目指し、現代社会に積極的に貢献する真摯(しんし)な努力を続けています≫以上
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
松陰先生! 小生は1972年の秋に保釈されたが、獄中で「レーニンやトロツキー率いるソ連によるウクライナ侵略」を学び、「共産主義は悪である、絶滅すべし」という反共主義者になった。以来半世紀、いつの間にか「国士舘」になっていたような・・・マキアヴェッリ曰く、
≪人は古代の彫像のかけらを巨額な金を出して購入し、身近に置き、他者に見せびらかし、果ては模造品を作らせたりすることには熱心だが、歴史が我々に知らせてくれる古人の気高い行為についてとなると、同じような敬意を払ってきたであろうか。人々は歴史上の人物が祖国のために尽くした行為に対してはほめたたえて感心はするが、真似しようとはしないのが一般的である。私は、この種の傾向は、それらを真似した場合の利益を考えると残念でならない。
この傾向は、キリスト教の悪影響によると思う。なぜなら、古代人は、それが良くても悪くても「野望」というものに相応の敬意を払ったが、キリスト教では野望をいだくこと自体が悪だったからである≫(政略論)
・・・・・・・・・・・・・・・
産経2025/5/18「新ローマ教皇が就任ミサ バンス米副大統領ら各国要人に『平和築こう』 麻生元首相も参列」から。
≪世界約14億人のカトリック信者の頂点に立つ第267代の新ローマ教皇レオ14世(69)の就任ミサが18日、バチカンのサンピエトロ広場で執り行われた。新教皇の誕生を祝うため、大勢の信者が集結。教皇は参列した各国の要人を前に「平和な世界を築こう」と呼びかけ、カトリック教会が和解の象徴となるように力を尽くすと誓った。
教皇は広場に面したサンピエトロ大聖堂の地下にある初代教皇ペトロの墓で祈りをささげた後、高位聖職者の枢機卿らと共にミサ会場に到着。教皇の権威の象徴である「漁師の指輪」と、十字架の刺しゅうがある白い羊毛のパリウム(肩衣)も初めて身に着け、レオ14世体制が本格始動した。
教皇庁によると、ミサには約150の国・国際機関から代表団が参列。教皇の出身地・米国のバンス副大統領やウクライナのゼレンスキー大統領、イスラエルのヘルツォグ大統領らが出席。日本政府は麻生太郎元首相を派遣した。(共同)≫
ローマ教皇庁(バチカン)の新しいローマ教皇レオ14世の゛野望"は如何に? 露中北を抑え込めるかどうか・・・(以上)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https:*//blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp

亡国前夜の日本をどうする/5

2025-05-22 16:30:37 | 戦争
亡国前夜の日本をどうする/5
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」403/通算834 2025/令和7年5/22 木曜】 スティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)の続き。前回はここまで紹介した。

≪マッカーサーは占領に向けて河辺らと建設的な交渉ができたと思ったのだろう。日本政府が「占領」を代行することで平和的に占領を進められると考えたからだ。マッカーサーは彼の参謀に次のように伝えている。「降伏文書が正式に調印されるまでの間、すべての戦線で休戦状態が保たれ、無血降伏が実現することを私は切に願っている」。当初想定していたものとは大きく異なる占領の舞台が整った。マニラ会談に先立ち、日本の占領について書かれた機密文書「ブラックリス」トでは、日本からの抵抗活動が想定されていた・・・≫以下はその続き。
・・・・・・・・・・・・・・・・
機密文書「ブラックリス」トでは、「このような状況下では一定の制裁を科すか、報復措置を講じる必要があるかも知れない・・・すべての日本人は敵である。妨害工作と地下抵抗活動は、複雑な言語と民族心理のため、二重の脅威である」と指摘。降伏実現のため、「日本の憲兵隊、特務機関要員などの逮捕、情報統制」が含まれていた。
しかしマニラへの河辺使節団派遣後、見通しはかなり明るくなった。

マッカーサーの情報将校であるウィロビーはこう語っている。「ドイツの占領は敵対政府とそのイデオロギーの完全解体を伴うものである。日本の占領は、その国の完全な維持と特定のイデオロギーの行使、すなわち神道を基盤にした世俗的政府を目指すものである」。そして彼はマニラ会談に言及した。
「日本の使節団と公式な会談では、我々の要求と日本側の応諾について、軍やその他の政府筋、関連機関を利用することが具体的に示された。米占領軍部隊と日本の残存する主要部隊との間には、根本的な違いが多くあるため、懲罰的または懲戒的な役割を付与することは現段階では実現不可能であり、早期にこれが実行されると致命的な結果になりかねない」。解決策はウィロビーが主導する「日本軍との連携」であった。

<◎:有末のオアシス/// 1945年8月28日、有末清三はマッカーサーの先遣隊歓迎公式レセプション委員会の長として厚木基地にいた。有末は河辺からマニラ会談について、「米国からの敵対心はもう感じられない」と報告を受け、占領はうまくいくと確信していた。しかし有末は最悪の事態を覚悟していた。
しばらく前に有末は中野学校の最後の校長であった山本敏少将に600万円を渡していたが、山本は8月18日に降伏後の隠密作戦のための資金を得るため有末のところに来ていた。

マッカーサーの先遣隊が到着すると、有末は彼らをテントに案内し軽食を提供した。出されたレモネードを飲むのをためらっている客人を見た有末は、毒を盛るつもりなどないことを示すためにそれを飲み干した。
その直後、東京にあるソビエトの武官事務所の制服を着た二人が現れた。有末は米国人将校にこの二人のロシア人について尋ねた。将校は「ソビエトの二人と米国は何の関係もない」と淡々と答えた。この時、有末は「米国とソ連の同盟はこの先あまり続かないだろう」と確信し、「二つの超大国間の対立により、日本が敗戦の灰の中から立ち上がるために必要な機動力を得ることができる」と予見した。その二日後、有末は再び厚木でマッカーサーと参謀たちに挨拶した。

有末がマッカーサーの到着部隊との最初のリエゾン(違う分野の人たち同士の引き合わせ)を担当することについては、当然ながら意見が分かれた。マッカーサーのG2(側近)が中心となってリエゾンを行うことを考えると、有末が選ばれるのは適切なことであった。それでも東久邇宮首相は、有末とイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニとの関係性が良く知られていることを心配して、有末の任命には躊躇していた。実際、有末のムッソリーニへの憧れとイタリアへの愛は「イタリア人になった将校」と揶揄されるほどだった。

有末が適任か否かを協議する会議で、東久邇宮内閣の一人が有末とファシトとの繋がりを問題にした(ムッソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱した思想やイデオロギー・政治運動、ファシズムとも)。有末は確かにムッソリーニを尊敬していた。しかし有末は「自分はファシストではなく帝国軍人である、伊太利や華北での長年の経験から国際的な礼儀作法を熟知しており、西洋人との付き合い方にも臆することはない」と主張した。
実際、有末は米国人らを相手にすることに長けていた。例えば1945年8月の米国による原爆と、ソビエトの戦車による攻撃のダブルパンチで日本は降伏したが、占領下の日本で敗北の原因について尋問された際、有末はマッカーサーの天才的な指揮や戦果について言及し、それを説明した。有末は占領地の問題についても無知ではなかった。結局、東久邇宮は帝国陸軍の゛イタリア人情報部長”をレセプション委員長に任命することとした。

東久邇宮政権による米国との占領に向けたリエゾン(引き合わせ)は「占領代行」へと役割を切り替えた。まず日本政府は、あらゆる次元で占領施策を志向できるように、多方面で入念な下準備を行った。手始めに、米国での経験を持つ軍人、官僚、実業家を総動員、戦前に知り合った米軍将校との関係を再開できるように動いた。米国では宗教の影響が大きいことを知っていた日本の指導者たちは、著名なキリスト教徒を前線に動員した。東久邇宮首相は日本でもっとも著名なキリスト教活動家の一人である賀川豊彦を内閣に呼び寄せた。
日本の一連の宗教作戦は、公の場で日のキリスト教を代表する二人の人物とまで考えているほどだ。教皇はいわゆる精神面で戦い、マッカーサーは地上で共産主義と戦っは必ずと言っていいほど神の言葉を引用した米国聖公会信徒のマッカーサーにも確実に効果があった。ジャーナリストのジョン・ガンサーは、かつてマッカーサーがローマ教皇のサイン入り肖像画を受け取ったときの喜びをこう表現している。「マッカーサーは、自身と教皇を今ている」。 (以下次号)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https:*//blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp

亡国前夜の日本をどうする/5

2025-05-22 16:26:50 | 戦争
亡国前夜の日本をどうする/5
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」403/通算834 2025/令和7年5/22 木曜】 スティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)の続き。前回はここまで紹介した。

≪マッカーサーは占領に向けて河辺らと建設的な交渉ができたと思ったのだろう。日本政府が「占領」を代行することで平和的に占領を進められると考えたからだ。マッカーサーは彼の参謀に次のように伝えている。「降伏文書が正式に調印されるまでの間、すべての戦線で休戦状態が保たれ、無血降伏が実現することを私は切に願っている」。当初想定していたものとは大きく異なる占領の舞台が整った。マニラ会談に先立ち、日本の占領について書かれた機密文書「ブラックリス」トでは、日本からの抵抗活動が想定されていた・・・≫以下はその続き。
・・・・・・・・・・・・・・・・
機密文書「ブラックリス」トでは、「このような状況下では一定の制裁を科すか、報復措置を講じる必要があるかも知れない・・・すべての日本人は敵である。妨害工作と地下抵抗活動は、複雑な言語と民族心理のため、二重の脅威である」と指摘。降伏実現のため、「日本の憲兵隊、特務機関要員などの逮捕、情報統制」が含まれていた。
しかしマニラへの河辺使節団派遣後、見通しはかなり明るくなった。

マッカーサーの情報将校であるウィロビーはこう語っている。「ドイツの占領は敵対政府とそのイデオロギーの完全解体を伴うものである。日本の占領は、その国の完全な維持と特定のイデオロギーの行使、すなわち神道を基盤にした世俗的政府を目指すものである」。そして彼はマニラ会談に言及した。
「日本の使節団と公式な会談では、我々の要求と日本側の応諾について、軍やその他の政府筋、関連機関を利用することが具体的に示された。米占領軍部隊と日本の残存する主要部隊との間には、根本的な違いが多くあるため、懲罰的または懲戒的な役割を付与することは現段階では実現不可能であり、早期にこれが実行されると致命的な結果になりかねない」。解決策はウィロビーが主導する「日本軍との連携」であった。

<◎:有末のオアシス/// 1945年8月28日、有末清三はマッカーサーの先遣隊歓迎公式レセプション委員会の長として厚木基地にいた。有末は河辺からマニラ会談について、「米国からの敵対心はもう感じられない」と報告を受け、占領はうまくいくと確信していた。しかし有末は最悪の事態を覚悟していた。
しばらく前に有末は中野学校の最後の校長であった山本敏少将に600万円を渡していたが、山本は8月18日に降伏後の隠密作戦のための資金を得るため有末のところに来ていた。

マッカーサーの先遣隊が到着すると、有末は彼らをテントに案内し軽食を提供した。出されたレモネードを飲むのをためらっている客人を見た有末は、毒を盛るつもりなどないことを示すためにそれを飲み干した。
その直後、東京にあるソビエトの武官事務所の制服を着た二人が現れた。有末は米国人将校にこの二人のロシア人について尋ねた。将校は「ソビエトの二人と米国は何の関係もない」と淡々と答えた。この時、有末は「米国とソ連の同盟はこの先あまり続かないだろう」と確信し、「二つの超大国間の対立により、日本が敗戦の灰の中から立ち上がるために必要な機動力を得ることができる」と予見した。その二日後、有末は再び厚木でマッカーサーと参謀たちに挨拶した。

有末がマッカーサーの到着部隊との最初のリエゾン(違う分野の人たち同士の引き合わせ)を担当することについては、当然ながら意見が分かれた。マッカーサーのG2(側近)が中心となってリエゾンを行うことを考えると、有末が選ばれるのは適切なことであった。それでも東久邇宮首相は、有末とイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニとの関係性が良く知られていることを心配して、有末の任命には躊躇していた。実際、有末のムッソリーニへの憧れとイタリアへの愛は「イタリア人になった将校」と揶揄されるほどだった。

有末が適任か否かを協議する会議で、東久邇宮内閣の一人が有末とファシトとの繋がりを問題にした(ムッソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱した思想やイデオロギー・政治運動、ファシズムとも)。有末は確かにムッソリーニを尊敬していた。しかし有末は「自分はファシストではなく帝国軍人である、伊太利や華北での長年の経験から国際的な礼儀作法を熟知しており、西洋人との付き合い方にも臆することはない」と主張した。
実際、有末は米国人らを相手にすることに長けていた。例えば1945年8月の米国による原爆と、ソビエトの戦車による攻撃のダブルパンチで日本は降伏したが、占領下の日本で敗北の原因について尋問された際、有末はマッカーサーの天才的な指揮や戦果について言及し、それを説明した。有末は占領地の問題についても無知ではなかった。結局、東久邇宮は帝国陸軍の゛イタリア人情報部長”をレセプション委員長に任命することとした。

東久邇宮政権による米国との占領に向けたリエゾン(引き合わせ)は「占領代行」へと役割を切り替えた。まず日本政府は、あらゆる次元で占領施策を志向できるように、多方面で入念な下準備を行った。手始めに、米国での経験を持つ軍人、官僚、実業家を総動員、戦前に知り合った米軍将校との関係を再開できるように動いた。米国では宗教の影響が大きいことを知っていた日本の指導者たちは、著名なキリスト教徒を前線に動員した。東久邇宮首相は日本でもっとも著名なキリスト教活動家の一人である賀川豊彦を内閣に呼び寄せた。
日本の一連の宗教作戦は、公の場で日のキリスト教を代表する二人の人物とまで考えているほどだ。教皇はいわゆる精神面で戦い、マッカーサーは地上で共産主義と戦っは必ずと言っていいほど神の言葉を引用した米国聖公会信徒のマッカーサーにも確実に効果があった。ジャーナリストのジョン・ガンサーは、かつてマッカーサーがローマ教皇のサイン入り肖像画を受け取ったときの喜びをこう表現している。「マッカーサーは、自身と教皇を今ている」。 (以下次号)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https:*//blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp