亡国前夜の日本をどうする/8
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」406/通算837 2025/令和7年5/31 土曜】 スティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)のキモ紹介の続き。敗戦の日本 VS 勝者米国の静かなる場外戦であるが、ソ連の脅威が日米をパートナーにしていくことになる。
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◎:インテリジェンス・パートナーシップ///// 1945年9月2日の降伏文書調印式のため戦艦ミズーリに乗艦していたのは(中野学校出身の)有末精三中将の部下2人だった。一人は杉田一次大佐で、3年前に「マレーの虎」山下奉文(ともゆき)大将がパーシバル中将を降伏に追い込んだ際に通訳を務めた情報将校であった。もう一人は永井八津次(やつじ)少将で、戦時中は第二部謀略課を率い、プロパガンダ放送を指揮した。
降伏文書調印式から2日後の9月4日、有末は旧知の情報将校であるフレデリック・マンソンから「米陸軍が日本軍の暗号解読やその他の通信情報(COMINT)の能力に関心があり、専門家のヒュー・アースキン中佐と会うように」と命じられた。翌朝、アースキンを訪ねると、「陸軍参謀総長の下でCOMINT作戦を展開していた中央特殊情報部(CSID)について話して欲しい」と言う。有末はその組織を知らないふりをした。すると通訳を介していたアースキンは流暢な日本語で「何について尋ねているのか、あなたはよく知っているはずだ」と問い直した。有末は、アースキンが日本で生まれ育った人物であることを知った。
有末はやや緊張を解き、アースキンの尋問の目的を知りたいと要求した。「戦犯探しのためか、戦史や参考資料にするためか、それとも将来のソ連と中国共産党との戦いに備えるためなのか」と。
アースキンは「帝国陸軍のCOMINT担当将校を戦犯として特定するための情報収集ではない」と断言した。他の二つの可能性については直接言及しなかったが、このような情報が価値を持つときが来るかもしれないとほのめかした。
ほっとした有末は帝国陸軍の中央特殊情報部についてブリーフィングした。アースキンは、日本がフィリピンを征服した際にマニラで押収した米軍の「表計算機」の問題を取り上げた。米陸軍は初期のコンピュータである表計算機を暗号解読に使用していた。アースキンはソビエトの手に渡らないように、この行方不明の計算機の在り処を知りたがっていた。有末は、この計算機は終戦時に川に捨てられたと答えた。会談は友好的な雰囲気で終了し、有末は次の会議で日本のCOMINTについて、さらに詳細を話すこととなった。
会議を終えた有末は上機嫌だった。帝国陸軍中央特殊情報部の要員はCOMINT活動の証拠を隠滅し、占領当局から「戦犯」の烙印を押されるのを恐れて身を隠していた。有末はマッカーサーの情報参謀らが日本の情報を使用してソビエトに対抗しようとしていること、そのために中央特殊情報部長の西村敏雄少将と面談することも知っていた。それに先立ち有末は西村と会い、どう対応するかを話し合った。米ソ間の溝が拡大すれば日本が利益を得られる立場にあることを理解し、「依頼されればソビエトに対するCOMINTについて米国に協力する」ことで一致した。
米国からの依頼はすぐに来た。9月17日に有末がマッカーサーを追って横浜から東京に向かった数日後、情報部長のチャールズ・ウィロビー少将は「米陸軍の補助として活動する日本のCOMINT秘密組織」設立に関する起案を用意するように依頼してきた。有末は部下の永井八津次少将に依頼し、数10人のCOMINTを担当した退役軍人を集め、内容を練り上げ、3か月後のクリスマス近くにウィロビーらに゛プレゼント”した。100万円近い予算を要求する仰々しい提案に対し、ウィロビーは提案書を有末に戻して修正させた。
有末は米軍とのCOMINT(現在のSIGINT、諜報活動のSIGnal INTelligenceの略)パートナーシップ実現に向けた戦後初の日本の歩みを進めることができなかった。しかしその後、日本と米軍はすぐに相互理解に達したことがわかる。
米国の国家安全保障局の活動履歴を振り返ると、日本は第二次世界大戦以降、米軍のCOMINTの「優先標的」から「主要な活動拠点」へと変化した。日本本土でソ連に最も近い北海道では、1945年9月に日本のCOMINT拠点である千歳に最初の米軍部隊が到着した。1949年までに、NSA(アメリカ国家安全保障局、National Security Agency)の前身である陸軍秘密保全庁は、ソビエトの信号を監視するために第12軍秘密保全庁(ASA)野戦局を千歳に開局した。詳細は不明だが、ウィロビーと有末がある程度の理解を得たことは明らかなようだ。(以下次号)
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読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https:*//blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」406/通算837 2025/令和7年5/31 土曜】 スティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)のキモ紹介の続き。敗戦の日本 VS 勝者米国の静かなる場外戦であるが、ソ連の脅威が日米をパートナーにしていくことになる。
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◎:インテリジェンス・パートナーシップ///// 1945年9月2日の降伏文書調印式のため戦艦ミズーリに乗艦していたのは(中野学校出身の)有末精三中将の部下2人だった。一人は杉田一次大佐で、3年前に「マレーの虎」山下奉文(ともゆき)大将がパーシバル中将を降伏に追い込んだ際に通訳を務めた情報将校であった。もう一人は永井八津次(やつじ)少将で、戦時中は第二部謀略課を率い、プロパガンダ放送を指揮した。
降伏文書調印式から2日後の9月4日、有末は旧知の情報将校であるフレデリック・マンソンから「米陸軍が日本軍の暗号解読やその他の通信情報(COMINT)の能力に関心があり、専門家のヒュー・アースキン中佐と会うように」と命じられた。翌朝、アースキンを訪ねると、「陸軍参謀総長の下でCOMINT作戦を展開していた中央特殊情報部(CSID)について話して欲しい」と言う。有末はその組織を知らないふりをした。すると通訳を介していたアースキンは流暢な日本語で「何について尋ねているのか、あなたはよく知っているはずだ」と問い直した。有末は、アースキンが日本で生まれ育った人物であることを知った。
有末はやや緊張を解き、アースキンの尋問の目的を知りたいと要求した。「戦犯探しのためか、戦史や参考資料にするためか、それとも将来のソ連と中国共産党との戦いに備えるためなのか」と。
アースキンは「帝国陸軍のCOMINT担当将校を戦犯として特定するための情報収集ではない」と断言した。他の二つの可能性については直接言及しなかったが、このような情報が価値を持つときが来るかもしれないとほのめかした。
ほっとした有末は帝国陸軍の中央特殊情報部についてブリーフィングした。アースキンは、日本がフィリピンを征服した際にマニラで押収した米軍の「表計算機」の問題を取り上げた。米陸軍は初期のコンピュータである表計算機を暗号解読に使用していた。アースキンはソビエトの手に渡らないように、この行方不明の計算機の在り処を知りたがっていた。有末は、この計算機は終戦時に川に捨てられたと答えた。会談は友好的な雰囲気で終了し、有末は次の会議で日本のCOMINTについて、さらに詳細を話すこととなった。
会議を終えた有末は上機嫌だった。帝国陸軍中央特殊情報部の要員はCOMINT活動の証拠を隠滅し、占領当局から「戦犯」の烙印を押されるのを恐れて身を隠していた。有末はマッカーサーの情報参謀らが日本の情報を使用してソビエトに対抗しようとしていること、そのために中央特殊情報部長の西村敏雄少将と面談することも知っていた。それに先立ち有末は西村と会い、どう対応するかを話し合った。米ソ間の溝が拡大すれば日本が利益を得られる立場にあることを理解し、「依頼されればソビエトに対するCOMINTについて米国に協力する」ことで一致した。
米国からの依頼はすぐに来た。9月17日に有末がマッカーサーを追って横浜から東京に向かった数日後、情報部長のチャールズ・ウィロビー少将は「米陸軍の補助として活動する日本のCOMINT秘密組織」設立に関する起案を用意するように依頼してきた。有末は部下の永井八津次少将に依頼し、数10人のCOMINTを担当した退役軍人を集め、内容を練り上げ、3か月後のクリスマス近くにウィロビーらに゛プレゼント”した。100万円近い予算を要求する仰々しい提案に対し、ウィロビーは提案書を有末に戻して修正させた。
有末は米軍とのCOMINT(現在のSIGINT、諜報活動のSIGnal INTelligenceの略)パートナーシップ実現に向けた戦後初の日本の歩みを進めることができなかった。しかしその後、日本と米軍はすぐに相互理解に達したことがわかる。
米国の国家安全保障局の活動履歴を振り返ると、日本は第二次世界大戦以降、米軍のCOMINTの「優先標的」から「主要な活動拠点」へと変化した。日本本土でソ連に最も近い北海道では、1945年9月に日本のCOMINT拠点である千歳に最初の米軍部隊が到着した。1949年までに、NSA(アメリカ国家安全保障局、National Security Agency)の前身である陸軍秘密保全庁は、ソビエトの信号を監視するために第12軍秘密保全庁(ASA)野戦局を千歳に開局した。詳細は不明だが、ウィロビーと有末がある程度の理解を得たことは明らかなようだ。(以下次号)
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