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雀庵の「常在戦場/109「世界は“文明の転換点”に」

2021-11-08 16:04:14 | 日記
雀庵の「常在戦場/109「世界は“文明の転換点”に」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/389(2021/11/8/月】アンドレ・ジッドの作品は『狭き門』『贋金つかい』くらいしか読んでいないが、産経2021/11/6「私の本棚 事実を虚心坦懐に見る ジッド著『ソヴィエト旅行記』 ジャーナリスト 福田ますみさん」を読んでビックリした。ジッドは革命後のロシアを訪れて共産主義思想のインチキ性を喝破した嚆矢の作家のようだ。


<在日朝鮮人やその日本人配偶者が昭和30年代半ばから約25年、「地上の楽園」とうたわれた北朝鮮に渡った「帰国事業」に関心があり、1990年代に取材をしていました。北朝鮮が楽園でなかったことは昔から明らかでしたが、帰国事業の取材で北朝鮮に行った多くのジャーナリストは体制を絶賛していました。


同じころ、『ソヴェト旅行記』(岩波文庫、品切れ)、『ソヴェト旅行記修正』(新潮文庫、品切れ)を読んで、「日本のジャーナリストに比べ、アンドレ・ジッドはすごい」と思いました。


ジッドは1936年、ソ連に行き、その年に旅行記を発表しました。ソ連側は体制にとって都合の良いところばかりを案内しましたが、ジッドは現実をしっかりと見ていました。旅行記では、「ソ連以上に精神が自由でなく、ねじ曲げられ、恐怖に怯(おび)え、隷属させられている国はないのではないか」と指摘します。


当時、ヨーロッパの知識人はファシズムへの警戒心もあって、政治的、イデオロギー的にソ連を称賛していました。旅行記に対しては、仏作家のロマン・ロランたちから猛烈な批判を受けます。すると、ジッドは翌年に刊行した『修正』で、旅行記では出さなかったデータや統計を使ってソ連批判を展開します。


このような作品を発表することによって、自分がいかにバッシングを受けるかジッドには分かっていたでしょう。それでも、出した勇気はすごいと思いますし、真の西欧知識人とはジッドのような人たちなんだなと感じました。


事実を虚心坦懐に見るのは難しく、つい色眼鏡をかけて見がちですが、ジッドを見習い、自分が「ちょっとおかしいんじゃないかな」と思ったときに、発表する勇気を持ちたいと思っています。


◇ふくだ・ますみ 昭和31年、横浜市生まれ。専門誌や編集プロダクション勤務を経て、フリーに。『でっちあげ』で第6回新潮ドキュメント賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア 消されたジャーナリストを追う』などがある>


WIKIで「アンドレ・ジッド」をチェックしたらこうあった。


<ジッドは1930年代に入ってからは、ソヴィエトへの共感を口にし始め、共産主義的傾向を強める。しかし1936年、マクシム・ゴーリキーを見舞うために同国を訪れたジッドは『ソヴィエト紀行』でソ連の実態を明らかにしてスターリン体制に反対する姿勢を鮮明にした。左派から猛バッシングを受けると、ジッドは翌年の『ソヴィエト紀行修正』(1937年)で前著に対する批判に反論している。その後は反ナチ・反ファシズムを貫き、第二次大戦前には反戦・反ファシズム世界青年会議名誉議長を務めた。


1945年にゲーテ賞授与。1947年にオックスフォード大学から名誉博士号、同年ノーベル文学賞受賞。1951年パリで没。その著作は死後、ローマ教皇庁により禁書に認定された>


ドーデモイイ話だが、ジッドが亡くなった日に小生は生まれた。小生が共産主義叩き、アカ絶滅に夢中になっているのはジッドの生まれ変わりだから、という伝説は・・・ムリか。閑話休題。


「ソヴィエト紀行」は日本でも物議をかもした。日共の独裁者、宮本顕治の大スポンサーでもあった奥さんの宮本百合子は「文芸春秋」1937年2月号でソ連に同調してこう寄稿した。


<『中央公論』の新年号に、アンドレ・ジイドのソヴェト旅行記(小松清氏訳)がのっている。未完結のものであるが、あの一文に注目をひかれ、読後、様々の感想を覚えた読者は恐らく私一人にとどまらなかったであろうと思う。


間もなく、去る一月六日から四日間、『報知新聞』の学芸欄に「ジイドの笑いと涙」という題で、『プラウダ』が社説として発表したジイドのソヴェト旅行記批判が、山村房次氏によって訳載された。


ジイドの旅行記と『プラウダ』の批評とは、その性質上、対立的なものとして我々の前に現れているのである。今日の如き世界事情の裡に生きる一人の日本の作家としてジイドの旅行記を読むと、ジイドが自身の作家的特質倒れになって、結局新社会の存在が語っている歴史的現実を客観的につかんでいないことが感じられる、云々>


『ソヴェト旅行記』 はジッドとも懇意にしていた小松清(評論家・フランス文学者)の翻訳で1937年に岩波文庫から刊行されていたが、岩波は戦後に日共に乗っ取られたから絶版になったようだ。今は光文社古典新訳文庫や新潮文庫で入手できる。


新潮社PR誌「波」の「福田ますみ×中野信子・対談 人はなぜ嘘をつくのか」から。


<たった一人の保護者の嘘で、教育現場が破壊されてしまう――悪夢のような実話ノンフィクション『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮文庫)『モンスターマザー 長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い』(新潮社)を書いてきた福田ますみさんと、最新の研究結果から、平気で嘘をついて罪悪感を持たない人の精神構造を分析した『サイコパス』(文春新書)がロングセラーとなっている中野信子さん。ノンフィクションライターと脳科学者という、まったく異なる立場から「嘘」をテーマに語り合ってもらった――


中野 そもそも人間の脳って、あんまり論理的にはできていないんです。ちょっと頑張らないと論理的な考え方ができない。私たちの脳は二つのシステムでできていて、ひとつが論理的に考える「遅いシステム」、もうひとつは論理的に考えず、感情で動く「速いシステム」です。前者は使っていないと鈍りやすい上に、すごくエネルギーも使うので、普段はあまり使いません。


福田 (「速いシステム」の犯罪者は)矢継ぎ早にセンセーショナルな嘘をつくんです・・・>


小生は凄まじく「遅いシステム」で、おしゃべりができない、丁々発止の会話ができない、カミサンに朝、何か聞かれても、即答できずに沈黙、ようやく夕方になって「〇〇の件だけれど・・・」と答えようとすると「えっ、なに? そんなこと、私聞いたっけ?」、文字通りお話にならない。ところが、捨てる神あれば拾う神あり、記者稼業は取材で「聞き出すのが仕事」だからメシが食えた! 


ポリティカル・コレクトネス、通称ポリコレ。リベラル≒アカが価値観を異にする人々を叩く際の錦の御旗、「ええいっ、控えおろう、この赤星御紋が目に入らぬか!」、印籠のようにしてポリコレを振りかざすが、それは「感情で動く『速いシステム』」の一つなのだろう。このポリコレ、元祖は何とロシア共産党らしい。


<ブリタニカ百科事典に依ると、ポリティカル・コレクトネスという用語自体は、1917年のロシア革命後に成立したマルクス・レーニン主義(ML主義)の語彙の中に初めて登場し、当時はソビエト連邦共産党の政策と原則の遵守を求める言葉として使用されていたという。


1934年には、ナチス・ドイツによる弾圧を報告したニューヨーク・タイムズの記事中で「すべてのジャーナリストは活動の許可が必要であり、許可は『政治的に正しい意見』を持つ純粋な『アーリア人』にのみ付与される」(All journalists must have a permit to function and such permits are granted only to pure ‘Aryans’ whose opinions are politically correct. )との用例があり、この時点では「皮肉」として用いられていたことが分かる。


用語の意義に変化が生じたのは1940年代後半で、ML主義が米国内で力を増す中、アメリカ社会党の社会主義者が、アメリカ共産党の共産主義者に対して「『政治的には正しい』が、党路線を遵守する余り、道徳的思想が蹂躙されている」と非難を加える際に利用された>(WIKI)


奇しくも産経2021/11/5の「世界を解くE. ルトワック 環境主義者の真意は“アンチ資本主義”」はポリコレ元祖のナチスへ先祖返りしたようなドイツを危険視している。


<10月末に開かれた20カ国・地域首脳会議(G20サミット)の期間中、開催地のローマに滞在していた。良い機会なので、まずG20の意義について語りたい。


先進7カ国(G7)は高度に発展した民主主義同盟諸国の集まりであり、会合を開けば問題の対処に向けた答えを導き出すことができる。他方、G20も「重要な一等国」の称号を得た国々の集まりと見なされているが、実態は全く違う。


G20の一部の参加国は行政能力を欠いている。自国外に影響力を持たない国や真っ当な司法制度がない国もある。具体的な成果につながる本格的な政策論議は期待すべくもない。


G20参加国のうち、環境分野での「英雄」と位置づけられているのはドイツだ。脱原発政策を推進し、太陽光発電などの再生可能エネルギーを積極的に導入しているためだ。しかしドイツは脱原発に伴う電力不足を補うため、不純物の多いリグナイト(褐炭)の石炭火力発電を2030年以降まで使い続ける方針だ。


褐炭は欧州の大気汚染の主因となってきたが、ドイツが太陽光発電などに熱心であるため大目に見られているのではないか。


しかし、ドイツは日照量が非常に少ないことで知られ、実は太陽光発電には向かない。同時にドイツは風力発電にも力を入れてきたが、環境への悪影響を懸念する住民らの反対で苦境に立たされている(修一:鳥が衝突して死ぬとか景観が悪化するなど)。


環境問題に熱心な勢力に説得されて脱原発と風力・太陽光発電を進めても、結局はドイツのように石炭火力に頼らざるを得なくなる。一連の環境関連の会合は、未熟な発電技術を政治判断で拙速に導入する事態に繋がってはいないか。


環境問題に熱心な勢力の表向きの主張は、気候変動を食い止めるために化石燃料を使うのは止めようというものだ。しかし、その真意は「アンチ資本主義」「アンチ経済成長」だ。ところが、そんな環境保護主義者たちに対して世界各国の政府は「黙れ」という政治的な勇気がない。


温室効果ガスの削減を含む環境保護と経済成長の両立を目指す真の環境保護主義者であれば、原子力(発電)を支持すべきだ。原発を推進するのか、それとも経済成長を諦めるのか。世界は選択を迫られている>


昔ナチス、今環境ナチ、ヒトラーやマルクスを生んだドイツの「私は正義病」は宿痾のよう。頭がいいのだが「多様な言論、思考を容認する=自由民主人権法治」を受け入れられずに再び三度発狂暴走、自滅するか。夏彦翁曰く「正義はやがて国を亡ぼす」。


私見だが、GDP成長率をー1~+2%とかに抑える必要はないのか。1990年代からのアナログからデジタルへの革命的な大イノベーションは、米国が最先端軍事技術を民間、世界に開放することから始まった。今やIT技術は目まぐるしいほどの勢いで進み、まるでスクラップ&ビルドで地球にも生物にも負荷が巨大化しているように見える。


明治維新から1995年あたりまでは、10年間、一所懸命に頑張って技術を身につければ基本的に30年間は食えたのである。今は必死で最先端を追わないと置いてけ堀、それが人類の発展なのか。優秀なリーダーの異常な報酬、一方で生活保護受給者の増加・・・上も下もそこそこ穏やかに暮らせる、かつての日本式の1億総中流社会、それを理想としてはどうか。


国際競争に遅れを取る、それは避けたい・・・という気持ちは分かるが、だからこそ世界が全体として「過度な発展は抑止する」という価値観を共有しなければならないだろう。コロナ禍で各国とも国際往来は激減したが、この際だから気の合う国同士で経済ブロックを組んで、他のブロックとの貿易や交流を抑制した方がいいのではないか。


500年前の大航海時代からの列強による先住民制覇、それに伴う大虐殺、疫病蔓延、文明破壊、植民地化・・・国際往来は多いよりも少ない方が地球にとって健全ではないか。今、世界中の観光地はガラガラだろうが、コロナ禍による旅行制限で落ち着きを取り戻したのではないか。それ以前の観光公害のような状況に戻さないという選択肢もあるだろう。


イケイケドンドンを続けて人間は果たして幸せになるのか、幸せとは何なのか・・・じっくり考える時期、「文明の転換点」に来たような気がする。
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目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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